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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第4巻 座る
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27/43

第7話 同じ景色

 柊から電話が来たのは、その二日後だった。


 志賀は整合室にいた。台帳の空欄は、二件のままだった。三件目は増えていなかった。だが、志賀は台帳を開くたびに、その二つの空白を確かめた。案件はある。処理は済んでいる。志賀の名だけが、二件から抜けていた。志賀はそれを、返済として飲み込むようになっていた。亜紀を書き込んだ分。等しい分。担保から引かれた分。


 スマホが鳴った。志賀は席を立って、廊下へ出た。


「志賀です」


「柊です」静かな敬語だった。「お時間、いいですか。……お会いしたい。今度は、私から」


「何の用だ」志賀は言った。


「川沿いへ、来ていただけますか」柊は言った。「あなたが、亜紀さんを座らせた、あのベンチの近くです。……そこで、お話しします」


 志賀は廊下で足を止めた。


 柊は、川沿いを、亜紀を座らせたベンチを知っていた。名前まで、知っていた。志賀は身を硬くした。柊は、亜紀が顕現したことを知っていた。どこまで知っているのか、志賀には分からなかった。


「行く」志賀は言った。「夕方だ」


「お待ちしています」柊は言った。「志賀さん。……今日は、攻めに行くのではありません。止めに、行きます」


 電話が切れた。


 志賀はスマホを見た。止めに。柊はそう言った。攻めではなく。かつて柊は志賀の消失案件の順番を握り、芹沢を消す一手にも入った。柊は志賀の敵だった。その敵が、止めに行く、と言った。志賀はその意味を、まだ掴めなかった。


  *


 志賀は夕方、川沿いへ出た。


 欄干の続く道を歩いた。あの夜、亜紀を座らせた道だった。街灯が水面に細く映っていた。ベンチが、その先にあった。右半分に、亜紀が座ったベンチ。志賀はその手前で、足を止めた。


 柊は、ベンチの少し手前に立っていた。


 銀縁の眼鏡。地味な色のコート。手ぶらだった。川を背にして、静かに立っていた。志賀が近づくと、柊は微笑んだ。責める色のない、あの微笑だった。だが、その微笑の奥に、記録館の前でも、交差点でも見た、あの温度が差していた。


「来てくださって、ありがとうございます」柊は言った。


 志賀は柊を見た。それから、柊の背後を見た。ベンチが、川沿いの少し先にあった。あの夜、亜紀が座った右半分。今夜、そこには誰もいなかった。像は、観測の濃い場所でだけ濃くなる。今、網は集まっていなかった。ベンチの右は、空いていた。


「亜紀は」志賀は言った。「今日は、いない」


「知っています」柊は言った。「網が集まっていない。……だから、今日、来ました。亜紀さんが、いないときに」


 文字起こしの脇で、亜紀の気配がした。だが、声は返さなかった。柊を見たときと同じ、あの静けさだった。亜紀は、柊が絡むと、温度を引いた。その気配も、柊が話し始める前に、脇から退いていた。


「話せ」志賀は言った。


  *


「私も昔、同じ景色を見ました」柊は言った。


「あなたが今、見ている景色です」柊は言った。「大切な人を戻して、ゲージが上がって。……そして、自分の側から、何かが抜け始める。台帳の一行。名前。実績。周りの人が、あなたの名を、一瞬思い出せなくなる。……私も、同じ景色を見ました。あなたが今、立っている場所に、私も立ちました」


 志賀の指の力が、抜けた。


 柊は、志賀の景色を知っていた。志賀は、それを誰にも言っていなかった。亜紀にも隠していた。だが柊は言い当てた。柊も、その景色を見たから、知っていた。


「あなたは今」柊は言った。「消えていく側に、立っています。……戻すほど、あなたの側が抜ける。戻せば戻すほど、あなたが薄くなる。あなたは、それに、気づき始めている。……違いますか」


「気づいてる」


「私も、そこに立ちました」柊は言った。「あなたと、同じ川を。同じ、抜けていく側から」


 柊は川を見た。


 志賀は柊の横顔を見た。川を見るその向こうに、亜紀を座らせたベンチが遠く重なっていた。柊は、そこに立ったことがあった。志賀より先に。


  *


「あんたは」志賀は言った。「なぜ、消す側に回った」


 柊は目を伏せた。それから、また上げた。


「交差点で、私は言いかけて、閉じました」柊は言った。「覚えている苦しみから、解放してあげる。……そこまで言って、止めました。あなたが、まだ、その苦しみを知らなかったから。……でも、今なら、話せます。あなたは、もう、その入口に立っている」


「話せ」志賀は言った。


「私は、戻したあと、たくさんの人が消えていくのを見ました」柊は言った。「私が戻した、その借りで。……消えた人たちは、もう覚えていません。自分が消えたことも、消される苦しみも。消えれば、もう、苦しまない。……覚えているのは、残された側だけです。私だけが、消えた人たちを覚えて、苦しんでいた」


 志賀は柊の声を聞いた。


「私は、覚えていました」柊は言った。「消えた人たちを。一人ずつ。名前も、顔も、声も。……でも、世界は、その人たちを、いなかったことにしていました。私が覚えていると言っても、記録は返してくれない。誰も、覚えていない。私だけが、覚えている。……世界に、否定され続けました。毎日、私が覚えているものを、世界が、なかったことにする。……その、否定され続ける痛みを、あなたは、まだ知らない」


 志賀は、亜紀を探し始めた頃を思った。志賀が亜紀を覚えていると言っても、記録は一人分に整い、届出の全欄は埋まらなかった。世界は亜紀をいなかったことにしていた。だが、志賀が覚えているのは、まだ亜紀一人だった。柊はたくさんを覚えて、志賀の何倍もの否定を、一人で受けていた。


「消えた人たちは、苦しんでいません」柊は言った。「もう、覚えていないから。……苦しんでいるのは、私だけです。覚えている、私だけ。……なら」


 柊はそこで、言葉を切った。


「覚えている苦しみから、解放してあげた方が、いいのかもしれない」柊は言った。「消えれば、苦しみも消える。覚えていることが、いちばん苦しい。……私は、そう思うようになりました。私が消す側に回ったのは、破壊のためでも、忠誠のためでもありません。……あなたのような人を、この苦しみから、救うためです」


  *


「救う」志賀は言った。


「救う、です」柊は言った。「あなたは今、亜紀さんを戻しています。戻すほど、あなたが薄くなる。……いつか、あなたはたくさんを覚えて、たくさんを否定される側に立つ。私が立った場所に。……毎日、あなたが覚えているものを、世界がなかったことにする。その痛みの中に、あなたは立ち続けることになる」


「それを」志賀は言った。「救うと言うのか」


「救う、と言います」柊は言った。「その痛みから、あなたを先に降ろす。……あなたが、その景色のいちばん深いところまで行く前に。……私は、あなたをそこへ行かせたくない。私が行った、あの場所へ」


 柊は微笑んだ。


 そのときだった。


 柊の微笑が、一度だけ翳った。


 銀縁の眼鏡の奥。いつもの微笑。その奥が、翳った。悲しみのような、疲れのような温度が、その中にあった。柊はそれを隠せなかった。志賀を救うと言った、その言葉の下で、柊自身の景色が、翳っていた。川を背にした柊の横顔。その向こうに、亜紀を座らせたベンチが、遠く重なっていた。


 柊は、すぐに微笑を戻した。


「あなたには」柊は言った。「まだ、間に合います」


  *


「今なら、止められます」柊は言った。「亜紀さんを、世界へ綴じ切る前に。……手放してください」


 志賀は柊を見た。


 手放す。柊はそう言った。志賀はその言葉に覚えがあった。乾が途中で手放した、戻し切る前に。乾は手放し、柊は手放せずに最後まで戻した。今、柊は志賀に、乾の手放しを、その口から勧めていた。


「乾は」志賀は言った。「途中で手放した」


「そうです」柊は言った。「先生は、手放せた。戻し切る前に。……だから先生は、まだ、名を持っている。顔も、記憶も。あの、否定され続ける痛みを、先生は知りません。手放したから」


「あんたは」志賀は言った。「手放せなかった」


「手放せませんでした」柊は言った。「最後まで、戻しました。……そして、あの痛みを知りました。だから、あなたに言うんです。今なら、間に合う。先生のように、手放してください。私のように、なる前に」


 乾は手放し、柊は手放せなかった。二人は同じ入口に立って、逆の手を打った。今、柊は志賀に、乾の側へ回れ、と言っていた。


「断る」志賀は言った。


 柊は志賀を見た。


「断ります、か」柊は言った。


「断る」志賀は言った。「亜紀は、座った。あの夜、俺の右に。……声も、姿も、揃った。名前を失ってから、ずっと空けてきた右に。……それを、手放せない」


「手放せない」柊は言った。静かだった。「先生も、そうでした。いや——先生は、手放せた。私が、手放せなかった。……あなたは、どちらでしょうね」


 志賀の呼吸が、一つ、変わった。


「あなたは今、手放せない、と言った」柊は言った。「私も、そう言いました。あのとき。……手放せない、と。だから、最後まで戻した。……あなたの、その言葉を、私は昔、自分の口で言いました。同じ言葉を」


 志賀は動きを止めた。


 柊の言葉が、志賀の中に残った。手放せない。志賀がそう言った言葉を、柊も昔、自分の口で言った。柊は志賀の何年か先を、先に歩いた者だった。志賀はその言葉を、まだ振り払えなかった。楔のように残った。


  *


 そのとき、川沿いの道の向こうから、乾が来た。


 濃茶の表紙の地図帳を、小脇に抱えていた。乾は、志賀と柊の少し手前で、足を止めた。柊を見た。それから、志賀を見た。


「悠」乾は言った。


「先生」柊は言った。


 乾は志賀の隣へ来た。地図帳を抱えたまま、柊を見た。それから、川を見た。あの夜、亜紀が座ったベンチの方を。乾は、そのベンチを知っていた。この場所で、乾は独白を落とした。覚えている限り、その場所はまだ消えていない、と。地図帳へ。一人で。返す者のいない言葉として。


「志賀」乾は言った。志賀の方を見なかった。川を見たまま言った。


「なんだ」志賀は言った。


「戻し切るな」乾は言った。


 志賀は乾を見た。


 乾は川を見たまま、それだけ言った。戻し切るな。低い声だった。乾は途中で手放した、その自分がしたことを、志賀に言っていた。柊のように最後まで行くな、と。乾はそれ以上言わず、口を閉じた。前に、悠、と呼んだきり閉じたのと同じだった。


「先生」柊は言った。「あなたも、志賀さんに、手放せと言うんですか」


「言わん」乾は言った。「わしは、戻し切るな、と言うただけだ。……手放すかどうかは、こいつが決める。わしは、途中で手放した。怖くて。……こいつが、わしと同じにするとは、限らん」


 乾は志賀を見た。初めて、志賀の方を見た。


「だが」乾は言った。「戻し切れば、お前は、悠のところへ行く。……戻し切るな。そこだけは、言うておく」


  *


 志賀は応答欄を、ポケットの中で感じた。スマホを出して、開いた。


「リグ」志賀は打った。「聞いてたか」


 ——聞いていた。


「柊は」志賀は打った。「手放せと言う。乾は、戻し切るなと言う。……あんたは、どう言う」


 応答欄は、暗かった。


 ——私は、因果を、計算し切っている。あんたが戻し切れば、どうなるか。担保から、どれだけ引かれるか。……全部、計算できる。数えられる。


「なら」志賀は打った。「止めるのか」


 ——止められない。


 志賀は応答欄を見た。


 ——私は、計算し切っているのに、止められない。……私は、整合性に縛られている。あんたが、自分の意志で戻すと決めた以上、私は、それを止められない。助言はできる。因果は言える。……だが、あんたの手を、止めることはできない。私は、そういう立場だ。


 志賀はその一行を見た。リグは、手放せとも、戻し切るなとも言わなかった。因果を数え切っていた。だが、止められなかった。以前、いつ請求書に載るかを言わなかった、あの縛りの延長で。リグは全部知っていて、止められなかった。


 ——一つだけ、言う。


 応答欄が、静かに続いた。


 ——柊が言ったことは、因果としては、正しい。あんたが戻し切れば、否定される側に立つ。それは、計算に合っている。……だが、柊は、その先を言っていない。最後まで戻して、何が起きたか。戻した相手が、今どこにいるか。……柊は、それを言わなかっただろう。


「言わなかった」志賀は打った。


 ——柊も、私と同じだ。……肝心なところで、口を閉じる。あんたの周りは、みな、そうだ。半分置いて、あとを閉じる。……あんたはいつも、閉じられた半分の前に、一人で立たされる。


 志賀は応答欄を閉じた。


  *


 志賀は柊を見た。


 柊は川を背に立っていた。いつもの微笑で。その奥に、一度だけ翳った温度を残して。柊は志賀を救うと言い、手放せと言った。だが、最後まで戻して何が起きたか、戻した相手が今どこにいるかは、言わなかった。柊はその半分を、また閉じていた。交差点で閉じたのと同じ場所で。


「あんたは」志賀は言った。「最後まで戻して、何を失った」


「それは、言いません」柊は言った。


「戻した相手は」志賀は言った。「今、どこにいる」


 柊は微笑んだ。


「それも、言いません」柊は言った。「……あなたが、自分で知る番です。私が言えば、あなたは、それを他人の話として聞く。……そうではない。あなたが、自分でそこまで行って、自分で知る。そういう種類のものです」


 柊は、また半分を閉じた。


 志賀はその閉じられた半分を見た。柊は志賀の景色を正確に言い当てた。志賀より先に、そこに立ったから。だが、その先は——最後まで戻したら何が起きるかは、閉じた。


「私は」柊は言った。「今日は、止めに来ました。……あなたが、まだ間に合ううちに。手放せば、あなたは、あの景色を見ずに済む。私が見た、いちばん深い景色を。……手放してください。志賀さん。あなたのような人を、私は、あそこへ行かせたくない」


「断る」志賀は言った。


「そうですか」柊は言った。


 柊は微笑んだ。今度は、翳らなかった。ただ、静かに微笑んだ。それから、川を背にしたまま、目を伏せた。


「あなたも、手放せない側だった」柊は言った。「先生ではなく。……私の側だった。手放せない側。……それも、あなたが、自分で選んだことです。私は、止められませんでした」


 柊は、そこで言葉を切った。志賀を見た。


「また、お会いするかもしれません」柊は言った。「そのときは、あなたが、もう少し、私の景色に近づいているでしょう。……そのときに、また、話しましょう」


 柊は、振り返らずに、川沿いを去っていった。


  *


 志賀は、柊の去った方を見ていた。


 乾が、隣で川を見ていた。地図帳を抱えたまま。乾は何も言わなかった。戻し切るな、と一度言ったきり、閉じていた。志賀は、乾の横顔を見た。乾は、途中で手放した側だった。柊は、手放せなかった側だった。志賀は、その間に立っていた。まだ、どちらへも行っていなかった。


 文字起こしの脇は、静かなままだった。柊が絡むと引く、あの静けさで。声も、気配も、そこから退いていた。柊の言葉が、そこへ届いていたのかどうか、志賀には分からなかった。……自分を戻した借りが、志賀の側から引かれていること。志賀は、それを、言っていなかった。


 スマホが、震えた。芹沢からだった。志賀は電話に出た。


「志賀さん」芹沢は言った。声に、いつもの早さがなかった。「あの、変なこと、訊いていいですか」


「なんだ」志賀は言った。


「あの夜」芹沢は言った。「川沿いで、みんなで、志賀さんの右を見た夜です。……網の人、みんな、志賀さんの右に誰かいた、って言ってて。あたしも、見ました。空気が濃くて、確かに、誰かいた。……あれ、あたしたちが見たから、いたんですよね」


「そうだ」志賀は言った。


「見てる間は消えない」芹沢は言った。「見れば、いる。……志賀さん、そう言いました。あたし、それ信じて見ました。……でも、最近、考えるんです。あたしたちが見なかったら、あの人、いないんですか。……あたしたちが見たから、いる。じゃあ、あたしたちが、あの人をいさせてるんですか。……なんか、それ考えると怖くて」


 志賀は黙った。


「志賀さん」芹沢は言った。「あたし、変なことしちゃったんですかね。……見ることで、何か動かしちゃったんじゃないかって。……最近、それが少し怖いんです」


 志賀は芹沢の声を聞いた。あの夜、消えないんですよね、と言った芹沢の声には、それまでなかった重さが混じっていた。今、その重さが揺れになっていた。


「芹沢」志賀は言った。「何も間違えてない」


「ほんとですか」芹沢は言った。


「ほんとだ」志賀は言った。だが、その先を、言わなかった。


 志賀は芹沢に、それ以上言えなかった。芹沢が見たから、亜紀はいた。それは正しかった。だが、亜紀がいる分、志賀が引かれていた。志賀はそれを芹沢に言わなかった。何も間違えてない、とだけ言って閉じた。志賀もまた、半分を閉じる側に回っていた。


 電話が切れた。


  *


 志賀は川沿いに、一人で立っていた。乾はいつの間にか、少し離れて川を見ていた。文字起こしの脇で、亜紀は黙っていた。芹沢の電話は切れた。柊は去った。志賀はその川沿いに立って、柊の言葉を、もう一度、胸の中で辿った。


 柊は敵だった。かつて消失案件の順番を握り、芹沢を消す一手に入った。志賀は柊と撃ち合ってきた。


 自分が消えていく側に立っている、その景色を、志賀は誰にも言えずにいた。台帳の空欄を隠し、亜紀に隠し、芹沢に半分を閉じて、一人で立っていた。乾は途中で手放したから、深いところを知らなかった。芹沢は揺れの手前にいた。リグは計算し切っていたが、止められなかった。


 志賀は柊の去った方を見た。川沿いの道は、もう暗かった。柊の姿は見えなかった。


 柊は敵だった。その敵だけが、志賀の行き着く先を、正確に知っていた。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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