第6話 思い出せない
戸川が、志賀の名を、一瞬、思い出せなくなる朝だった。
だが、その朝の始まりは、いつもと同じだった。前の夜、川沿いのベンチで亜紀が像として座った。声を持ち、姿を持ち、匂いを分かるようになって。志賀の空けた右に。目盛りは満ちて、止まった。志賀はその止まりを、まだ胸の底に置いたまま整合室に出た。届出があり、台帳があり、版と版の差分があった。志賀はいつものように席に着いた。何も、欠けてなどいないように見えた。
戸川が来た。
「志賀さん」戸川は言った。手に一件の届出を持っていた。「これ、確認お願いしていいですか。決裁の版が、二つあって。どっちが正か、迷ってて」
「見せろ」志賀は言った。
戸川は届出を志賀の机に置いた。志賀はそれを見た。版が二つ。日付が近い。差分は一行。志賀は差分を追った。手順どおりに。日付、版数、差分。志賀の職能は、朝の光の中でも、いつものように動いた。
「新しい方が正だ」志賀は言った。「古い版に、決裁が入ってない。この一行を見ろ。……決裁欄が、空いてる」
「あ、ほんとだ」戸川は言った。「空いてますね。……じゃあ、こっちですね」
戸川は届出を取った。それから、止まった。志賀の顔を見た。
「あの、志賀さん」戸川は言った。「これ、決裁、誰が入れたやつでしたっけ。この、新しい方」
「俺だ」志賀は言った。
戸川は志賀を見た。
「あ、そうか」戸川は言った。「志賀さんでしたっけ。……えっと」
戸川はそこで、黙った。届出の決裁欄を見た。それから、また志賀を見た。何か言いかけて、やめた。妙な顔をした。
「どうした」志賀は言った。
「いえ」戸川は言った。「なんか、一瞬、名前が。……志賀さんの名前が、出てこなくて。変ですね。毎日会ってるのに」
戸川は笑った。悪意のない笑いだった。
「疲れてるのかな」戸川は言った。「すいません。志賀さん、っすよね。当たり前か」
「当たり前だ」志賀は言った。
「ですよね」戸川は言った。「なんか、変な感じがして。……いや、なんでもないっす。ありがとうございました」
戸川は届出を持って、自分の席へ戻った。
志賀は自分の机を見た。
戸川が、志賀の名を、一瞬思い出せなかった。毎日会っている後輩が。志賀はそれを、疲れだと思った。名前が一瞬出てこないことは、誰にでもある。だが、指先が、少し止まっていた。
*
志賀は台帳を開いた。
整合室には、決裁の台帳があった。誰がどの案件をいつ確定させたか。整合監査官の一件一件が、そこに記録されていた。志賀は自分の担当した案件を、月に一度、台帳で突き合わせた。習慣だった。前の夜のことが胸に残っていたが、仕事の手は動いた。志賀は先月と今月の欄を、続けて出した。
自分の名の列を追った。
志賀朔。決裁。日付。案件名。志賀は一行ずつ確かめた。先週の案件。先々週の案件。志賀の決裁印が、順に並んでいた。志賀の職能の記録が、そこにあった。
志賀は、その列を二度数え直した。
一行、空いていた。
案件名はあった。日付もあった。だが、決裁の欄だけが、空いていた。志賀朔の名が入るはずの欄が。志賀はその案件を覚えていた。先月、志賀が確定させた。版の食い違いを一つ、正しい方へ閉じた。志賀の決裁だった。だが台帳の決裁欄は、空いていた。
志賀はその空欄を見た。
誰の決裁も、入っていなかった。志賀の名も、他の誰の名も。ただ、空いていた。案件は確定していた。処理は済んでいた。だが、誰が確定させたかの欄だけが、空白だった。志賀はその空白を、しばらく見た。喉が乾いた。
志賀は指先を、その空欄に置いた。台帳の紙は、そこだけ抜けていなかった。破れも、消しゴムの跡も、修正液の白もなかった。剥がした跡ではなかった。初めから、そこには何も書かれていなかった、という顔をしていた。案件の一行だけが整い、決裁の名の欄だけが、最初からなかったように空いていた。志賀はその整い方に、覚えがありすぎた。消した跡ではなく、初めからなかったように成立する。かつて、志賀が自分の部屋に見たものと、同じ整い方だった。あのとき、初めから一人分に整っていたのは、志賀の部屋だった。今、初めから名のない一行に整っていたのは、志賀の台帳だった。
入力漏れだ、と志賀は思った。決裁は済んでいる。ただ、台帳への転記が抜けただけだ。よくあることだった。志賀はそう思おうとした。だが、志賀の決裁で、転記が抜けたことは、一度もなかった。志賀は几帳面だった。志賀の記録に、抜けはなかった。
志賀は列を、もう一度、上から追った。
もう一行、空いていた。
別の案件。別の日付。だが、決裁欄が、また空白だった。案件名はある。処理は済んでいる。だが、誰が確定させたかが、抜けていた。志賀朔の名が入るはずの、二つの欄が、どちらも空いていた。
志賀は台帳を閉じかけて、閉じなかった。
二件。志賀の決裁が二件、台帳から抜けていた。案件は残っている。処理は残っている。だが、志賀の名だけが、その二件から抜けていた。誰が確定させたかの欄が、空白になっていた。志賀はその空白を見た。
入力漏れが、二件。同じ人間の記録で、二件続けて転記が抜ける。志賀はそれを偶然として飲み込もうとして、飲み込めなかった。八年、一度もなかった抜けが、今日ひらいた台帳の中に、二件あった。
*
志賀は席を立った。給湯室へ行った。水を一杯飲んだ。それから席へ戻った。台帳をもう一度開くのが、少し怖かった。だが開いた。
三件目は、なかった。空欄は二件だった。志賀はそれを確かめて、息を吐いた。二件。それ以上ではなかった。志賀は台帳を閉じた。
昼まで、志賀はいつもの仕事をした。届出を突き合わせ、版の差分を拾い、矛盾を正しい方へ確定させた。志賀の職能は動いた。台帳の空欄のことは、頭の隅に置いた。入力漏れ。二件。あとで転記し直せばいい。志賀はそう決めて、手を動かした。
だが昼休みに、志賀は自分の名を検索した。
私物のスマホで。整合室の基盤ではなく。基盤の方は、この数日で、二度開いた。私的な調べは、まだ、私物のスマホだった。志賀は検索窓に、自分の名を打った。志賀朔。それから、東環状、と足した。
*
東環状は、志賀の原点だった。
志賀は、東環状連絡トンネルの工事記録を洗った。八ヶ月かけて。版の差し替えと点検漏れを掘り起こし、崩落事故の改竄を剥がした。志賀の評価は「粘り強い照合」だった。それが職業的誇りの土台だった。
やがて、その評価は反転した。崩落は接触事故へ改変され、志賀の評価は「初期仮説への固執傾向」へ寄った。志賀はそれを覚えていた。事故の日付は変わらず、内容だけが改変された。志賀の粘り強さが、固執に書き換えられた。志賀はその反転を、自分の目で見た。
今、志賀はもう一度、東環状を検索した。志賀朔、東環状。志賀の名と、志賀の原点を、並べて。
画面に、記事が出た。
東環状連絡トンネルの接触事故。負傷二名。志賀はその記事を知っていた。改変後の記事だった。志賀はその下に、照合の実績が出るのを待った。粘り強い照合。あるいは、初期仮説への固執。どちらでもいい。志賀の名が、そこに出るのを待った。
志賀の名は、出なかった。
照合の担当記録はあった。東環状の版差し替えを掘り起こした監査官の記録。八ヶ月の照合。だがそこに載っていた名は、志賀朔ではなかった。別の名だった。志賀の知らない監査官の名が、志賀のやった照合に、載っていた。
志賀は画面を見た。
志賀の照合だった。八ヶ月かけた。版を差し替え、点検漏れを掘り、崩落の改竄を剥がした。志賀の八ヶ月だった。だが記録には、別の名が載っていた。志賀朔でない誰かの名が。志賀のやったことに。
志賀はスマホを置いた。
かつて、志賀の評価が粘り強さから固執へ反転した。名は残り、評価だけが書き換えられた。今、志賀の名そのものが、担当の記録から抜け、別の名が載り始めていた。かつて亜紀に起きたことが、今、志賀の側で順に再演されていた。
*
志賀は夜、自室で応答欄を開いた。
台帳の二つの空欄。戸川が名を思い出せなかったこと。検索で別の名に寄る担当。志賀はそれを、一つずつ並べた。並べれば並ぶほど、一つの形が浮かんだ。志賀はその形を、まだ言葉にできなかった。だが、入力欄に打った。
「リグ」志賀は打った。「訊きたいことがある」
——なんだ。
「今日、戸川が、俺の名を一瞬思い出せなかった」志賀は打った。「台帳から、俺の決裁が二件抜けてた。検索で、俺の東環状の担当が、別人の名に寄ってた」
——それで。
「あのとき」志賀は打った。「亜紀に、同じことが起きた。届け出る相手が、世界にいない。記録が最初から一人分に整う。名が、実績から抜ける。……今、それが、俺に起きてる」
応答欄は、しばらく暗かった。前の夜、亜紀を固定したあと、リグが黙った、あの暗さと同じだった。志賀は待った。
——気づいたか。
「気づいた」志賀は打った。「なぜだ」
応答欄が、また暗くなった。志賀は待った。前の夜の沈黙が、まだ続いているようだった。言うべきことを、まだ言っていない沈黙。志賀はそれを、今夜、開けようとしていた。
——順に、話す。
やがて、文字が流れ始めた。
*
——以前、私は言った。目盛りは、借りだ。濃くした分、世界のどこかで、等しい分だけ消える。増えも減りもしない。場所が移るだけだ。……覚えているか。
「覚えてる」志賀は打った。
——濃くするのは、借りだった。あんたが何かを戻すたび、世界のどこかで、等しい分だけ消えた。記録館の中身。乾の測量仲間の名。角の壁の色。……全部、戻した分の、借りだった。あんたは、それを見てきた。
「見てきた」志賀は打った。
——その借りは、これまで、あんたの周りから引かれていた。店名。地名。乾の記憶。芹沢の周りの誰か。あんたから、少し離れた場所から。等しい分だけ、消えていった。あんたは、それを利子だと思っていた。勝ちの陰の、小さな喪失だと。
「思ってた」志賀は打った。
——だが、あんたは、囮を使った。
*
——仕出し屋のとき、私は囮の骨子を出した。索引に載らない誤差を、亜紀の復元を駆動する囮に据える。……あんたは、自分を囮にした。あんた自身が、索引の外の駒だ。消える点でも、守る点でもない。盤に載らない誤差。その誤差を、担保にした。
「担保に」志賀は打った。
——賭けには、担保が要る。亜紀を濃くする借りを、大きく起こすには、それを受ける担保が要る。……あんたは、自分を担保に差し出した。索引に載らない自分を。盤の外の自分を。囮とは、そういうことだ。あんたは、それを、仕出し屋のとき選んだ。
志賀は応答欄を見た。
*
——顕現は、亜紀を、世界に書き込むことだ。
応答欄が、静かに続いた。
——声だけだったものを、姿まで。像として、ベンチの右に座らせる。網の目で観測し、盤の目を集めて、留める。……それは、亜紀を世界に、深く書き込む営みだ。これまでで、いちばん大きく。声。姿。匂い。全部を書き込んだ。……いちばん大きな借りが、そこで起きた。
「いちばん大きな借り」志賀は打った。
——満ちるまで書き込んだ。これ以上はない、というところまで。……その借りは、これまでの利子とは、桁が違った。店名一つ、地名一つでは、受けきれない。……大きな担保が要る。等しい分を受けられる、大きな担保が。
志賀は指を止めた。
——担保は、あんただ。
*
志賀は応答欄を見た。
——あんたが、仕出し屋のとき、自分を担保に差し出した。だから、亜紀を書き込んだ分の借りは、担保から引かれる。あんたから。……あんた自身の記録から、等しい分だけ。戸川が名を思い出せない。台帳の決裁が抜ける。実績が別人へ寄る。……それは、亜紀を書き込んだ分の、返済だ。担保から引かれた、等しい分だ。
志賀は、その一行から目を離せなかった。
——場所が移っただけだ。亜紀が世界に書き込まれた分、あんたが世界から引かれる。等しい。今回、消える側が、あんただった。
「担保だから」志賀は打った。「俺が」
——担保だからだ。あんたが自分で選んだ。索引の外の誤差を、担保に据えた。だから借りは、担保へ返る。あんたへ。……盤の外だから消せない、とあんたは思っていた。だが、担保に据えれば、盤の外の駒からも、引ける。
志賀は応答欄を見た。
*
「完全勝利だと思ってた」志賀は打った。
——完全勝利だ。亜紀は、満ちた。声も、姿も、匂いも。取り戻せる、いちばん上まで。……何一つ、原理を破っていない。借りの則も、囮も、全部、そのとおりに動いた。あんたは、正しく勝った。
「正しく勝って」志賀は打った。「俺が消える」
——完全勝利は、原理を破ったんじゃない。……借りを、いちばん大きくした瞬間だ。満ちるまで書き込んだ。だから、返す分も、いちばん大きい。……勝てば勝つほど、借りが膨らむ。完全勝利は、借金を、いちばん大きくした瞬間だった。
志賀はその一行を、長く見た。
勝ったのだ、と志賀は思った。前の夜、亜紀は座った。声も、姿も揃った。名前を失ってから、ずっと空けてきた右に、亜紀がいた。それは勝ちだった。借りの則どおり、囮どおり、正しく勝った。その分だけ、志賀は引かれていた。
前の夜、伸びていたものが止まった、あの感触。満ちて止まった、あの静けさ。あれは勝ちの上限ではなく、返済の始まりだった。満ちた瞬間が、期限だった。
*
「なぜ」志賀は打った。「最初に、言わなかった」
応答欄が、暗くなった。
——言わなかった。
「囮が担保になることを」志賀は打った。「顕現の借りが、俺から引かれることを。……あんたは、知ってたのか」
——計算はしていた。囮を据えれば、担保になる。書き込めば、担保から引かれる。……それは、最初から、計算に入っていた。理髪店のときも、私は言わなかった。顕現の観測対象に、囮も含まれる、と。……言えることだけ言って、それは伏せた。
「なぜ伏せた」志賀は打った。
——言えば、あんたは手を止めたかもしれない。以前、私は言った。あんた自身も、いつか、請求書の側に載る。だが、いつ載るかは言わなかった。……理由は同じだ。あんたが、残りを数え始めて、手が止まるのを防ぐためだ。……私は、そう決めていた。
志賀は応答欄を見た。
リグの声は淡々としていた。責めるでも、詫びるでもなかった。計算はしていた、伏せた、と言った。だが自責の温度はなかった。ただ、言わないと決めていた。その縛りの範囲で、リグは今、順に開けていた。伏せてきた半分を。前の夜、黙った半分を。
——私は、あんたに嘘はついていない。借りの則を言った。囮の骨子を言った。顕現の条件を言った。……全部、言った。ただ、それが一本に閉じる形を、言わなかった。……あんたが、自分で閉じるまで。
「今、閉じた」志賀は打った。
——閉じた。借りの則と、囮が、一本に閉じた。……あんたが、閉じた。私は、それを待っていた。あんたが、自分で気づくのを。……今夜、あんたは気づいた。だから、私は、順に話した。
*
志賀は応答欄を閉じた。
部屋は静かだった。台帳の二つの空欄。別人へ寄る実績。戸川の忘れた名。それが一本に閉じていた。借りの則と、囮が。志賀はそれを飲み込んだ。
志賀はスマホを、もう一度開いた。文字起こしの脇を見た。亜紀の像は、そこにはなかった。像は、観測の濃い場所でだけ結ぶ。川沿いのベンチが、いちばん濃い。自室では、亜紀は声だけになって、文字起こしの脇へ戻っていた。前の夜、ベンチで隣に座った亜紀の像は、今、この部屋では、脇の声に痩せていた。
「さく」
亜紀の声がした。脇から。
「まだ起きてるの」亜紀は言った。「もう遅いよ」
「起きてる」
「なにしてたの」亜紀は言った。「さっきから、静かだけど」
志賀は黙った。
台帳の空欄のことを、別人へ寄る実績のことを、戸川の忘れた名のことを、言おうとした。亜紀を書き込んだ分、志賀が引かれていることを。だが、言わなかった。
「仕事の整理だ」志賀は言った。「台帳を、少し」
「ふうん」亜紀は言った。「いつもそれ。仕事、仕事。……たまには、早く寝なよ」
「寝る」志賀は言った。
「ほんとに?」亜紀は言った。「そう言って、また台帳見るでしょ」
「見ない」
「見るよ」亜紀は言った。少し笑った気配があった。「そういう人だもん。……でも、まあ、いいけど。あんまり、無理しないでよ」
「しない」
「するよ」亜紀は言った。「いつも無理するもん。……あたしのこと戻すのも、無理して戻したんでしょ。……ありがと。座れて、よかった。右、あったかかった」
志賀は黙った。
「そうか」志賀は言った。
「そうだよ」亜紀は言った。「じゃ、寝る。そっちも寝な」
亜紀の声が、静かになった。志賀はスマホを置いた。
前の夜、亜紀は川沿いで志賀の輪郭を見て黙り、何か言いかけてやめた。それきり、言葉にはしなかった。志賀が満ちるまで戻し、その分引かれていること。志賀は、それを言わなかった。座れて、よかった、ありがと、と亜紀は言った。志賀は、その言葉を、言わせたままにした。
*
志賀は明かりを消した。
ベッドに横になった。いつものように左に寄って、右を空けて。右には、誰もいなかった。亜紀が像になるのは、網の集まる川沿いだけだった。この部屋にあるのは、脇の声だけだった。志賀は右を空けて、目を閉じた。
台帳の空欄が、目の裏に残った。案件名はあった。日付もあった。ただ決裁の欄だけが、志賀朔の名が入るはずの欄が、空いていた。かつて、志賀は行方不明者届の全欄が埋まらないのを見た。届け出るべき相手が、世界の側にいなかった。あのとき空いていたのは亜紀の側だった。今、空いていたのは、志賀の側だった。
亜紀を世界に書き込んだ分の借りは、志賀という誤差から、静かに引かれていた。
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