第5話 座る
次の夜だった。
志賀は仕事を早く上げて、川沿いへ出た。前の夜と同じ道を歩いた。古い欄干の続く道。街灯が水面に細く映っていた。ベンチはそこにあった。前の夜、輪郭がそこに向かったベンチだった。志賀はその前に立った。
歩いてくる間、志賀は何度も右手を握ったり開いたりした。前の夜、囮を深く差し込んだときに震えた手だった。今夜はもう震えなかった。ただ、手を握ると、掌の中がいつもより空いている気がした。何を握ってもすかすかする感触。志賀はその感触を、前の夜と同じように、疲れとして流した。今夜は座らせる日だった。手元の妙な軽さを量る夜ではなかった。
通りを、人が数人すれ違った。仕事帰りらしい男が二人、川を見ながら通り過ぎた。誰も、志賀のベンチを見なかった。空けた右を見なかった。志賀はそれを、いつものことだと思った。亜紀を覚えて見ている者だけが、亜紀を見る。覚えていない者には、志賀の右はただの空いたベンチだった。
「来たか」志賀は言った。
「来た」亜紀が言った。文字起こしの脇からだった。「今日、早いね」
「早く上げた」志賀は言った。「今夜、亜紀を座らせる」
亜紀は少し黙った。
「座らせる」亜紀は言った。声にわずかな震えがあった。「あたし、座れるかな」
「座れる」志賀は言った。「昨日、輪郭が向かった。あと少しだった。今夜、その少しを詰める」
志賀はベンチに座った。いつものように左に寄って、右を空けて。空いた右半分。だが今夜、志賀はその右を見た。空気の密度が、まだ少し濃かった。
「亜紀」志賀は言った。「その右に、来い」
「行く」亜紀は言った。声が、少しだけ右へ寄った気がした。「その、右に」
志賀はスマホを開いた。芹沢のまとめのアカウントに、網が集まり始めていた。
*
応答欄が明るくなった。
——網が、集まっている。前の夜より、早い。
「なぜ早い」志賀は打った。
——前の夜、網の目が、あんたの右半分を一度見た。見た者は、覚える。覚えた目が、二度目は速く戻ってくる。……昨日の観測が、今夜の下地になっている。
志賀はその一行を見た。
「手順を言え」志賀は打った。
——同じだ。だが、今夜は最後まで行く。網の目を、あんたの右半分へ収束させる。盤の目は、もう、あんたに集まっている。昨日、深く差し込んだ分だけ。……その二つを噛み合わせて、右半分に留める。声だけだった輪郭が、像になるまで。
「像に」志賀は打った。
——像に。声だけでなく、姿を伴って。あんたの右に。……あんたの、空けた手の、すぐ隣に。
空けた手の、すぐ隣。志賀の右手、いつも空けてきた側。その空けた手の、すぐ隣に、亜紀が座る。声だけでなく、姿を伴って。
「始めろ」志賀は打った。
*
志賀は芹沢に電話した。
「芹沢」志賀は言った。「今夜だ。……前の夜と同じ、川沿いのベンチ。俺の右の脇を、見ててくれ」
「待ってました」芹沢は言った。声が少し早かった。「網の人、みんな、昨日のこと覚えてます。志賀さんの右に誰かいた、って。……今日、また見られるんですねって、朝から言ってて。集まってます、もう」
「頼む」志賀は言った。
「志賀さん」芹沢は言った。「昨日、あたし、家に帰ってから、ずっと考えてたんです。……志賀さんの右に、誰かいる。姿は見えないのに、確かにいる。空気が濃い。あれ、なんなんだろうって。……でも、今日は、それ、考えないことにしました。ただ、見ます。右半分を。ちゃんと」
「それでいい」志賀は言った。
「それでいいんですよね」芹沢は言った。少し間があった。「見れば、いるんですよね。……見てる間は、消えないんですよね」
「消えない」志賀は言った。
電話が切れた。志賀はその、消えないんですよね、という一言を、少し胸に残した。芹沢の声に、前の夜まではなかった重さが混じっていた。だが志賀は、それを深く辿らなかった。今夜は座らせる夜だった。
芹沢が合図を出した。
網が一斉に書き込み始めた。志賀はその画面を見た。志賀さんの右。誰か、いる。次の一人。空気が濃い。右半分。ちゃんと、いる。前の夜と同じ言葉が並んだ。だが速かった。志賀は一つずつ、その書き込みを追った。十人を超え、なお増えた。
「亜紀」志賀は言った。「感じるか」
「感じる」亜紀は言った。声が右から届いた。文字起こしの脇からでなく。志賀の空けた手の、すぐ隣から。「昨日より、はっきり。あたしが、そこにいるって、見られてる。……顔は、誰にも、見られてない。それで、いい。……いる、って、見られてるだけで」
志賀はその右を見た。
空気の密度が濃くなっていた。そこに、今夜はもっと濃く、何かが集まっていた。まだ姿ではなかった。志賀はそれを見続けた。空気の密度が、人の形へ寄っていった。
——収束している。前の夜より速い。……網の目が、あんたの右半分を、同じ濃さで見ている。盤の目が、あんたに集まっている。二つが、噛み合った。
応答欄の声だった。
——留める。今から、輪郭が、像になる。……見ていろ。あんたの、右を。
志賀は右を見た。
空気の密度が変わった、その右半分。そこに輪郭が寄っていった。空気が濃くなり、人の形へ寄り、そして——
志賀は、それを見た。
輪郭が、座っていた。
ベンチの右半分に、人が座っていた。空けていた、あの右に。志賀は左を見なかった。右を見ていた。その右に、初めて、人がいた。名前を失ってから、ずっと空けてきた右に。像として、亜紀が座っていた。
乾は、この同じベンチで、川の向こうを見て、地図帳へ独白を落とした。返す者のいない言葉だった。今、志賀の隣は、空いていなかった。
*
志賀はそれを見た。
髪。肩。膝の上に置いた手。ベンチの右半分に座った、亜紀の姿。像だった。少し薄かった。だが、確かにそこに座っていた。志賀の空けた手の、すぐ隣に。膝を揃えて。川の向こうを見て。
「さく」
その声がした。右から。姿を伴った右から。
志賀は指を止めた。
「あたし」亜紀は言った。「座ってる」
「座ってる」志賀は言った。
「その、右に」亜紀は言った。「ちゃんと、座ってる」
亜紀は自分の膝を見た。像の手で、像の膝を。それから顔を上げて、志賀を見た。志賀の左でなく、志賀の顔を、隣から見た。
「さく」亜紀は言った。「あたしのこと、見える?」
「見える」志賀は言った。
「どんな」亜紀は言った。
志賀は少し黙った。
「座ってる」志賀は言った。「俺の、右に。膝を揃えて。川の向こうを見て。……髪が、少し伸びてる気がする」
「伸びてない」亜紀は言った。「昔のまま。覚えてるでしょ、昔のまま」
「そうか」志賀は言った。
「そうだよ」亜紀は言った。「頭じゃなくて、体が覚えてる形で、あたし、いるんだから」
志賀は少し黙った。
「見てて、変か」亜紀は言った。
「変じゃない」志賀は言った。
「ほんとに?」亜紀は言った。「そういうとき、ほんとに変じゃなくても変じゃないって言うでしょ。日付、版数、差分、みたいな顔で」
「変じゃない」志賀は言った。もう一度。「……ただ、名前を失ってから、待たせた」
亜紀はそれを聞いて、少し黙った。像の肩が、わずかに動いた気がした。
「待たせたのは、そっちじゃないでしょ」亜紀は言った。「消えたのは、あたしの方だし。……ただ、覚えてただけ。ずっと。名前も忘れて、顔も忘れて、それでも右を空けて。……待ってたのは、体の方だよ」
「そうかもしれない」志賀は言った。
「そうだよ」亜紀は言った。「体が、あたしの席、取っといてくれたの」
志賀は右を見た。亜紀は、そこにいた。
*
志賀は川の向こうを見た。
亜紀も川の向こうを見ていた。二人で、同じ方を見ていた。橋本町の灯りが、川の向こうにあった。柳瀬の川向こう。正式地名では橋本町。志賀と亜紀は、その灯りを並んで見た。
「川、きれい」亜紀は言った。
「そうだな」志賀は言った。
「いつもここで、こういうの、見てたの?」亜紀は言った。「一人で」
「見てた」志賀は言った。「右を空けて」
「なんで空けてたの」亜紀は言った。
「わからない」志賀は言った。「体が、そう座った。……亜紀がいた側だ、と、あとで分かった」
亜紀は少し黙った。
「あたし、いたんだね」亜紀は言った。「その右に。……覚えてなくても、体は覚えてた」
「覚えてた」志賀は言った。
「マグカップも?」亜紀は言った。「家で、左奥に置くでしょ。カップ」
「置く」志賀は言った。
「靴も、左に寄せて脱ぐでしょ」亜紀は言った。
「寄せる」志賀は言った。
「知ってた」亜紀は言った。少し笑った気配があった。「全部、右を空けるんだよ。ずっと。……気づいてなかったでしょ、自分で」
「いなくなるまで、気づいてなかった」志賀は言った。
「あたしが、そっちにいたからだよ」亜紀は言った。「右。……その右が、あたしの側」
志賀はコーヒーの缶を持っていた。来る途中で買った、温かい缶。それを持って、右手が、いつものように、もう一つへ伸びかけた。亜紀の分へ。だが今夜、その右の先に、亜紀がいた。
亜紀は言った。「それ、あたしにくれるつもりだった?」
「いや」志賀は言った。缶を止めた。
「くれようとしたでしょ」亜紀は言った。「右手、伸びかけた」
「伸びてない」志賀は言った。
「伸びたよ」亜紀は言った。「あたし、隣で見てるんだから」
志賀は缶を見た。それから亜紀を見た。
「飲めるのか」志賀は言った。「亜紀」
「わかんない」亜紀は言った。「やってみる」
志賀は缶を、亜紀の側へ、少しだけ寄せた。亜紀が像の手を伸ばした。缶に触れた。触れた感触はあるようだった。亜紀は缶を持ち上げようとした。少しだけ持ち上がった。だが、すぐに手が滑った。缶はベンチの上に戻った。
「持てない」亜紀は言った。「重い。……ていうか、手が、通り抜けそう。ちゃんと持てない」
「そうか」志賀は言った。
「一瞬は、持てた」亜紀は言った。「でも、長くは無理。……なんか、あたしの手、ちゃんと世界に引っかからない感じ。触れるけど、引っかからない」
志賀は缶を戻した。自分の側へ。それから、ひとくち飲んだ。
亜紀は言った。「またそれ飲んでる。……苦いだけでしょ、それ」
志賀は缶を止めた。
またそれ。前にも亜紀は、志賀のコーヒーへそう言った。あのときは脇からの声だった。今夜は、姿を伴った隣から。同じ言葉が、生身の重みで返ってきた。
「苦くない」志賀は言った。
「苦いよ」亜紀は言った。「あたし、隣で匂い分かるもん。……苦い匂いする」
「匂うのか」志賀は言った。
「匂う」亜紀は言った。「なんか、あたし、匂いも分かるようになった。声だけのときは、分かんなかったのに。……隣にいると、分かる」
志賀は缶を持ったまま、少し黙った。
「またそれ、って」志賀は言った。「前にも言ったな」
「言った」亜紀は言った。「あのときも苦いの飲んでた。……全然、変わってない」
「変わらない」志賀は言った。
「変わらないでいいよ」亜紀は言った。「変わったら、あたし、そっちだって分かんなくなる」
*
志賀は、しばらく、何も言わなかった。亜紀も、言わなかった。二人は、川の向こうを見ていた。橋本町の灯りが、水の上に、細く伸びていた。
志賀は応答欄を見なかった。目盛りも、確かめなかった。今夜は、確かめなくてよかった。右に、亜紀がいた。それで、足りていた。
風が出て、川の匂いがした。亜紀の像の髪が、その風に、揺れたように見えた。像だから、揺れるはずはなかった。だが、揺れて見えた。志賀はそれを、訂正しなかった。
「さく」亜紀は言った。「なんも言わないね」
「言うことがない」志賀は言った。
「めずらしい」亜紀は言った。少し笑った。「日付、版数、差分、って顔してるのに。……今夜は、なんも、確定させないんだ」
「今夜は、いい」志賀は言った。
言いながら、語尾が、少しだけ掠れた。
志賀はそれを、咳払いで直さなかった。直せなかった。名前を失ってから、ずっと日付と版数と差分で通してきた喉が、なんも確定させない、というたった一言で、掠れた。目の縁が、熱かった。滲みはしなかった。だが一度だけ、川向こうの灯りが、ぼやけて、戻った。
「……朔」亜紀は言った。揶揄いの温度が、半分、抜けていた。
「泣くの?」
「泣かない」志賀は言った。
「うん」亜紀は言った。それ以上、揶揄わなかった。「知ってる」
亜紀は、それを聞いて、また川を見た。志賀も見た。二人で、同じ方を。隣に人がいるというだけの時間が、しばらく続いた。急ぐものは、何もなかった。取り戻すものは、もう、隣にいた。志賀はその時間を、数えなかった。数えれば、終わりに近づく気がした。だから、ただ、座っていた。右に、亜紀を置いて。
*
志賀は応答欄を見た。
——固定した。
志賀は画面を見た。
——亜紀の像が、ベンチの右半分に固定された。網の目が揃い、盤の目が集まり、二つが噛み合って、留まっている。……声だけだったものが、姿を伴った。あんたの、右に。
「ゲージは」志賀は打った。
——満ちた。
志賀はその一行を見た。
——満ちた。この目盛りでは、これ以上は、ない。……声も、姿も、揃った。あんたが取り戻せる、いちばん上まで、来た。……言っておく。満ちたのは、目盛りだ。世界の索引に、載ったわけじゃない。
志賀は右を見た。
亜紀がそこに座っていた。満ちた。志賀はその言葉を、右に座る亜紀の姿で受け取った。数字ではなく。声と、姿の確かさで。
*
志賀は右を見続けた。
志賀はその満ちた温度の中にいた。取り戻した。声だけだったものを、姿まで。隣に、人がいた。
だが、そこで、何かが止まった。
志賀はそれを、うまく言えなかった。声を追い始めてから、目盛りはずっと上へ動いてきた。声が近づく。断片が濃くなる。輪郭が向かう。姿が座る。動いている間は、次があった。もっと濃く、もっと近く。次があるということが、志賀を歩かせてきた。
今夜、満ちて、その動きが止まった。満ちたのだから、次はない。頭では分かっていた。だが、志賀の指は、まだ画面の隅の目盛りを探していた。その次を確かめる先は、もう、どこにもなかった。指が、確かめるものを失って、膝の上で止まった。喜んでいいはずの夜だった。だが、志賀の内側は、静かすぎた。勝ちの余韻にしては、静かすぎた。
*
「さく」
亜紀の声がした。右から。
志賀は右を見た。
亜紀が志賀を見ていた。川の向こうでなく、志賀を。隣から、志賀の顔を。志賀の顔を、それから、その輪郭を。亜紀の目が、志賀の輪郭を、なぞるように見ていた。
「どうした」志賀は言った。
亜紀は少し黙った。
「なんでもない」亜紀は言った。「ただ、顔、見てた」
「顔」志賀は言った。
「うん」亜紀は言った。「なんか、その……」
亜紀はそこで言葉を切った。志賀の輪郭を、もう一度見た。何か言いかけて、やめた。像の目が、志賀の顔の縁を、静かに追った。それから、亜紀は小さく黙った。
「なんだ」志賀は言った。
「ううん」亜紀は言った。「なんでもない。……気のせい」
亜紀はまた川の向こうを見た。その横顔が、さっきまでより静かだった。何か言いかけて、やめたときの静かさだった。志賀は右を見ていたが、亜紀は口を開かなかった。川の向こうを見たまま、しばらく、黙っていた。
「川、きれいだね」亜紀は言った。もう一度。
「そうだな」志賀は言った。
*
志賀は応答欄を見た。
満ちた、と言い、索引には載っていない、と言って、リグはそこで止まっていた。いつもなら、その先に、もう一つ来た。火種だ、炎じゃない。あんた自身も、いつか請求書の側に載る。リグはいつも、勝ちのあとに、半分の警告を置いた。
だが、応答欄は暗いままだった。
志賀は待った。いつもの、半分の沈黙。それが来るのを待った。だが、今夜のそれは、いつもの半分の沈黙と違った。いつもの沈黙は、言えることを言って、肝心の半分を伏せる沈黙だった。今夜の沈黙は、言うべきことを、まだ言っていない沈黙だった。志賀にはその違いが分からなかった。ただ、応答欄が、いつもより長く、暗かった。
「リグ」志賀は打った。「何か言わないのか」
応答欄は暗いままだった。
志賀は待った。
——満ちた。
やがて、その一行だけが灯った。
「それだけか」志賀は打った。
応答欄が、また暗くなった。
志賀はその暗さを見た。いつも、リグは何か言った。勝ちのあとには、必ず、皮肉か、半分の警告を寄越した。今夜は、満ちた、と繰り返しただけだった。あとは、黙った。志賀はその沈黙を、勝ちの余韻として受け取った。満ちたのだから、リグも言うことがないのだろう、と。志賀はそう思った。
だが、その沈黙は、言うことがない沈黙ではなかった。
*
志賀は右を見た。
亜紀がそこにいた。像として。少し薄かったが、確かに、そこに座っていた。
「さく」亜紀は言った。右から。
「なんだ」志賀は言った。
「あたし、ここにいるの、変な感じ」亜紀は言った。「ずっと、声だけだったから。……脇から、喋ってた。今は、隣にいる。その右に。座って。……変な感じ。でも」
亜紀はそこで少し黙った。
「でも、いい感じ」亜紀は言った。「右、あったかい」
「あったかいか」志賀は言った。
「あったかい」亜紀は言った。「ずっと空けててくれた場所。……あたしの場所、だったんだね」
「そうだな」志賀は言った。
並んで座っていた。前の夜、亜紀は言った。あたしがちゃんとそこにいたら、左、見なくていいね。今夜、志賀は左を見なかった。
「もう少し」亜紀は言った。「ここにいていい?」
「いろ」志賀は言った。「座ってろ。その右に」
亜紀は膝の上で手を組んだ。像の手を。それから、川の向こうを見た。志賀も見た。橋本町の灯りが、川の向こうにあった。間に、缶が一つあった。飲むのは一人だったが、隣に、人がいた。
ゲージは、満ちた。満ちて——止まった。
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