第3話 番地のない街
月曜の朝、整合室のデスクには通報票が一枚増えていた。
週末のうちに市の窓口へ届いたものが、整合の必要ありと判断されて回ってくる。ほとんどは転記の桁違いか、届出の重複だ。志賀は上着を椅子の背に掛け、コーヒーを淹れる前に、その一枚を手に取った。
差出人の欄に、乾恒一、とあった。
覚えのある名前だった。先月も、その前も、同じ差出人の票が回ってきている。町の掲示板の日付が違う。防災無線の放送内容が先週と食い違う。バス停の路線図から一区間が抜けている。どれも本人にとっては重大な食い違いらしく、几帳面な字で、日時と場所と、確認した経緯までが添えられていた。
票の様式そのものは、市のどこの窓口にもある一枚だった。区分の欄には「その他」に丸がつけてある。この差出人の指摘は、いつも既定の区分に収まらない。用意された選択肢のどれにも当てはまらず、最後の「その他」へ落ちる。落ちたものが、整合室へ回ってくる。
処理に困る類だった。指摘の一つ一つは、調べれば事務上のずれで片がつく。だが片がついても、この差出人はまた別の食い違いを見つけてくる。整合室の側からすれば、終わらないノイズ源だ。前任の担当者が「要観察」の付箋をつけたまま、案件は志賀の卓に流れてきていた。自由記述の枠は、いつも枠からはみ出し、書ききれない字が、欄外の余白まで続いていた。
志賀は今回の票に目を通した。
内容は、ゴミ収集の日程についてだった。指定日に収集車が来ない区画がある、という指摘だ。市の収集計画表と照合すれば済む話に見えた。差出人はご丁寧に、該当区画の位置まで書き添えている。川沿いの一区画だった。
その一行で、志賀の指が止まった。
柳瀬。
票の中ほどに、その二文字があった。乾は該当の区画を、柳瀬、と呼んでいた。
先週、志賀の卓に上がってきた雑件の一つがそれだった。柳瀬という町名で出された苦情票。ゴミ収集の日程が守られていない、という同じ内容。台帳のどこにも柳瀬という町名がなく、近い読みの地名もなかったので、明日に回したまま、まだ手をつけていない。
同じ町名。同じ苦情。差出人の欄には、今、乾恒一の名がある。
志賀は先週の束を引き寄せ、下の方から柳瀬の票を抜いた。二枚を並べる。筆跡が違った。先週のものは丸い字で、今日のものは角ばっている。別の人間が、別の窓口から、同じ町名で、同じ苦情を出していた。台帳にない町名で。
柳瀬。
既視感、と呼ぶには足りなかった。景色を見て「一度見た」と思うのとは違う。柳瀬という音そのものが、口の中に馴染みの形を持っている。何度も呼んだ地名の、その口の動きだけが残っていて、いつ、誰に向かって呼んだのかが抜けている。待ち合わせの場所を伝えるときのように。今日はそっちに行く、と告げるときのように。その音を、志賀は確かに、生活の中で何度も口にしていた。柳瀬で、と。柳瀬の、と。相手がいて、通じる相手がいて、初めて地名は口をつく。通じる相手が、いた。
志賀は二枚の票をデスクに伏せた。
整合室の手順で言えば、やることは決まっている。台帳にない町名は、住民の通称か、旧字名の生き残りだ。市史編纂の資料か、古い区画整理の記録に当たれば、たいてい出所が知れる。志賀はその手順を頭の中で並べ、そして、並べ終える前に、もう自分がそれをやらないだろうと知っていた。
資料に当たって出所が知れれば、柳瀬は「昔そう呼ばれた場所」になる。過去の呼称として、記録の側に回収される。それで片はつく。だが片がついた瞬間に、指先のこの馴染みも、一緒に整理されてしまう気がした。
二枚の票を、志賀はもう一度見た。丸い字と、角ばった字。書いた人間は違う。それでも二人は、同じ川沿いを、同じ名前で呼んでいた。台帳が知らない名前で。柳瀬という町名が存在しない以上、その苦情には宛先がない。整合室の仕事は、宛先のない苦情を、正しい宛先へ振り直すことだ。だが今日に限って、正しい宛先が、どこにもなかった。
昼休みに、志賀は自分のスマホで柳瀬を検索した。
仕事の端末ではなく、私物の方だった。先週、番号を照会したときに引いた一線を、今日も守った。整合室の基盤で私的な喪失を調べる。その一歩は、まだ踏み出したくなかった。
検索結果は、市外の同名地区と、無関係な人名が並んだ。地図には、目当ての川沿いは出てこない。ページを送ると、個人の投稿がいくつか混じった。消えた地名を集めている、というまとめアカウントがあった。地図から消えた町、番地の飛んだ住所、案内板の書き換え。そういうものを各地から拾って並べている。柳瀬の名は、その一覧の下の方に、一行だけあった。
投稿主の名前が、画面の隅にあった。芹沢、と読めた。下の名は、スクロールの拍子に流れて、目の端をかすめただけだった。
志賀はその一行を長くは見なかった。誰かが同じものを拾っている。安堵よりも先に、警戒が動いた。自分だけの錯覚ではない、という意味であり、同時に、自分だけの問題では済まない、という意味でもあった。
午後、志賀は乾の票を処理欄に回す前に、収集計画表と照合した。指摘された区画に、収集車が来ない日がある。計画表を開くと、その区画は宮前南三丁目の一部として、ちゃんと収集ルートに組み込まれていた。日程の抜けはない。事務上、乾の指摘は成り立たなかった。
だが計画表の地図をよく見ると、その区画の街区番号が、五から七へ飛んでいた。六番の区画は、収集ルートの上では、五番と七番のあいだに黙って含まれていた。名前を持たないまま、七番の一部として処理されている。乾が「来ない」と言っているのは、たぶんそのことだった。収集車は、七番の道路を通る。だが六番側の集積所だけが、台帳になかった。車はその前を通っても、六番は停車対象として端末に上がらない。区画はある。ゴミも出る。だが、その区画に振られるべき番号だけが、どこにもなかった。
志賀は計画表を閉じた。乾の指摘は、成り立たない。だが、乾が見ているものは、そこにあった。
票を「齟齬なし」で閉じることも、「要確認」で保留することもできた。志賀は、しばらく手を止めてから、どちらにもしなかった。伏せたまま、卓の隅へ置いた。閉じてしまえば、六番はまた台帳の中へ吸い込まれる。保留にすれば、いずれ別の担当者が閉じる。志賀は、まだこれを誰かの正しさで整えたくなかった。
昼のあいだ、志賀はまだ記録の側の人間でいられた。齟齬を見つけ、閉じる側。見つけられる側ではなく。だが卓の隅の柳瀬票が、その境目を、内側から押していた。
画面を閉じた。柳瀬は、今週の土曜に行く。そう決めた。仕事の記録に触れる前に、まず自分の足で、そこに何があるかを見ておきたかった。
土曜の朝は、平日より街の音が少ない。
志賀は七時過ぎに部屋を出た。空は薄く曇っていて、陽は出ているのに輪郭がぼやけている。玄関を出るとき、洗面所の方を見た。歯ブラシは一本のままだった。それを確かめただけで、靴紐を結ぶ指が、少しこわばった。
電車に乗り、二駅先で降りる。そこから先は歩きだった。
地図アプリを開いていれば辿り着ける。頭ではわかっているのに、画面を見続ける気にはなれなかった。志賀はスマホをポケットにしまい、川の方向へ足を向けた。ポケットの中で、番号を照会したときの指の記憶がまだ残っている。あのとき道具は正確に答えた。今日も、開けば正確に答えるだろう。正確な答えは、いつも志賀の記憶の側だけを間違いにした。
だから今日は、道具より先に、足に訊くことにした。
曲がり角に来るたびに、先に体が決めているような感覚があった。右か左か。信号を渡るか、その手前を曲がるか。頭が地図を思い浮かべるより早く、膝の奥が「こっちだ」と傾く。間違えたら戻ればいいと思うのに、体は迷わなかった。角を折れるたびに、次の景色を、体の方が先に用意していた。細い商店街を抜けると、右手に古い煙草屋があるはずだと足が知っていて、実際にあった。歩道橋の脇を通り、古い団地の外れに出る。そこで、不意に視界が開けた。
川だった。
幅は広すぎず、狭すぎない。護岸は低く、歩道との境に古い欄干が続いている。塗装はところどころ剥げ、下地の錆が浮いていた。対岸には三階建ての集合住宅が並び、こちら側には小さな喫茶店とクリーニング店、その先にコンビニが見える。葉の落ちた木がまばらに立ち、枝が川面に影を落としていた。
志賀は足を止めた。
ここだ、と思った。思った、というより、体の底に残っていたぼやけた記憶に、足裏の感覚がやっと追いついた。欄干に手を置いたときの高さ。歩道の幅。右へ少し傾いた舗装の継ぎ目。水の匂いに混じる、喫茶店の排気の苦い香り。どれも初めてではなかった。歩道の傾きも、欄干の高さも、膝が覚えていた歩幅と、今の一歩が重なっている。
欄干に沿って歩き出すと、歩幅が自然に緩んだ。前へ急ぐための緩め方ではない。半歩ぶん遅い誰かの速度に、自分の足を合わせるときの緩め方だった。隣にいたはずの誰かは、その中心だけがきれいに抜け落ちていて、歩く速度と、肩のあたりの高さの気配だけが、体の側に残っていた。
隣にいた誰かの名前は、浮かばない。浮かぶのは、場所の名前の方だった。柳瀬。その二文字だけが、景色より先に頭にあった。問題は、その名前をこの場所のどこにも見つけられないことだった。
喫茶店の前を通りかかると、志賀の足が一度、止まりかけた。
ここで待ったことがある。ガラス扉に営業時間の札が下がっている。その横で、誰かが少しだけ眉を寄せていた気がした。
——あとで、じゃなくて今でもいいんだけど。
言葉の意味までは残らなかった。声の高さも、表情も、すぐにガラスの反射へ溶けた。ただ、先へ延ばされた会話がここにもあった、という感触だけが戻った。待たせたのか、待たされたのかはわからない。ガラスに映る自分の肩の横に、もう一人ぶんの高さがあった気がして、振り向いた。歩道には誰もいない。
店の窓際に、飲み物のメニューが貼ってあった。目が、コーヒーの並びを飛ばして、下の方の紅茶の欄で止まった。自分は紅茶を飲まない。飲まないのに、その一行だけ、読み馴染んだ字のように目が吸い寄せられた。棚の前で手が伸びるときと、同じ動きだった。
志賀はメニューから目を離し、住所表示を探して歩いた。
少し下流に、古い橋が架かっていた。橋のたもとに、市の様式の案内板が立っている。青地に白。川の名と、周辺の案内。志賀はそこにも柳瀬を探した。なかった。板の脇の掲示板に、町会の案内図が配布用に積んであった。志賀は一部だけ抜いて、折り畳んで持った。
クリーニング店の壁に、古い住居表示板が取りつけられていた。青地に白の、市の様式のものだ。そこには別の町名が振られている。柳瀬ではない。歩道の端に立つ細い標識にも、コンビニの前の電柱の番号札にも、見える限り別の名が並んでいた。
川沿いを進むと、街区を区切る標識が立っていた。ブロックごとの番号を示す、簡素なプレートだ。志賀は足を止めて、それを順に読んだ。
三の隣が四。四の隣が五。
五の隣が、七だった。
六がなかった。
志賀はもう一度、標識を辿り直した。三、四、五。そして七。番号の並びは連続していて、ただ六だけが飛んでいる。歩道をその区画の分だけ歩いてみた。距離は他のブロックと変わらない。建物も普通に建っている。喫茶店があり、その隣に古いアパートがある。郵便受けが並び、自転車が停めてある。人の住む区画だった。何も欠けていない。番号だけが、五から七へ跳んでいる。
志賀はしゃがんで、五の標識と七の標識の間隔を目で測った。他のブロックと、間隔は同じだった。数字を一つ飛ばすために区画を詰めた跡はない。六の分の幅は、ちゃんとそこにある。ただ、その幅に振られるはずの番号だけが、抜けていた。
立ち止まった志賀の足元で、舗装の継ぎ目が右へわずかに傾いていた。
整合室でなら、これは処理できる。街区表示の欠番はよくある。区画整理で統合されれば番号が飛ぶし、旧河川や私道の分が初めから欠番になっている街区もある。台帳に当たれば、六がどこへ行ったかは説明がつくはずだった。付け合わせて、事務上のずれとして閉じる。いつもの手順だ。志賀は仕事で、この種の欠番を何度も閉じてきた。番地はあるのに台帳の連番でそこだけが飛んでいる、という照会は、先週も卓の上にあった。
だが今、目の前にあるのは台帳ではなく、五の隣に立つ七だった。
台帳の上の欠番は、紙の上の一つの空欄だ。埋めるか、欠番と確定するか、どちらかで片がつく。だが、ここにあるのは空欄ではない。六番の区画には、建物があり、人が住み、洗濯物が干してある。空いているのは番号だけで、場所は満ちている。埋めるべき空欄ではなく、名前を剥がされた実体だった。
志賀はスマホを出した。地図アプリを開き、現在地にピンを立てる。ラベルの欄を長押しして、名前を入力できる状態にした。柳瀬、と打った。確定を押す。
ピンの名前が、一瞬だけ「柳瀬」になった。
次の瞬間、画面の下に短い通知が出た。
正式地名に基づきラベルを補正しました。
ピンの名は、宮前南三丁目へ戻っていた。
志賀はもう一度、ラベルを「柳瀬」に打ち直した。同じ通知が出て、同じ名前へ戻る。三度目は、指が画面に触れているうちに、もう補正されていた。柳瀬という二文字は、生まれた瞬間に消される。存在できる時間が、一秒に満たない。
道具は正確だった。この場所には正式な地名があり、それは柳瀬ではない。アプリはそれを教えているだけだ。嘘はついていない。ただ、志賀が打ち込んだ二文字を、打ち込むそばから、丁寧に消していった。
補正。整合室で、志賀が毎日使う語だった。古い記録を、現地の正しさに合わせて直す。番地の飛びを、台帳に合わせて閉じる。この道具も、同じことをしている。ずれを見つけて、正しい側へ寄せる。ただ、寄せられているのが、今日は志賀の側だった。
志賀はアプリを閉じた。
今見ているものを、正しい名前に直される前に、覚えておかなければならなかった。覚えている、という一点だけが、この道具の手の届かない場所にある気がした。画面のラベルは補正できても、志賀の膝が覚えた歩幅までは、補正できない。
現地を歩いてわかることには、限りがあった。
志賀は川沿いのコンビニに入った。店の位置が記憶どおりかを確かめるためでもあり、地名を尋ねるためでもあった。飲み物の棚を一通り見てから、何も取らずにレジへ向かう。会計中の客が途切れるのを待って、レジの女性店員に声をかけた。
「このあたり、昔から柳瀬って呼びますか」
店員は首を傾げた。
「柳瀬、ですか」
「通称でもいいんですが」
「この辺は宮前南三丁目ですね。川向こうも、たしか同じか、橋本町です。柳瀬っていうのは、聞いたことないです」
言い方は親切だった。知らないものを知らないと答えただけで、志賀の顔を不審がる気配もない。それがかえって嫌だった。ここに住んでいる人間にとっては、最初から存在しない名前なのだ。ある、と主張しているのは、志賀の足の裏だけだった。
「そこの喫茶店は、昔からありますか」
志賀は川沿いの店を指した。
「ありますよ。十年は経ってるんじゃないですか」
女性は迷わず答えた。店はある。古くからある。志賀が足を止めた場所は、他人の記憶にも同じ形で残っていた。消えているのは店でも道でもない。そこを何という名前で呼ぶか、それだけだった。
礼を言って店を出た。
一件で、十分な気がした。二人目に訊いても、同じ答えが返るだけだろう——店員の何気なさが、そう思わせた。
そのことが、部屋で一本だけ立っていた歯ブラシと、同じ手触りで胸に落ちた。歯ブラシは、あった。口の広さだけが、二本分だった。ここは、ある。名前だけが、抜けていた。欠けているのは物ではなく、それを指し示す言葉の方だった。
志賀は川沿いのベンチまで歩いて、腰を下ろした。座るとき、無意識に右側を空けていた。避けるものは何もないのに、体が半身分だけ、左へ寄っていた。右半分の座面に、日の当たった木の温もりがそのまま残っている。誰も座っていない。誰も座らない席を、志賀の体だけが、律儀に空けていた。
志賀は、誰にともなく、ここだったのか、と口の中で言った。声にならないくらいの声だった。言い終えた半拍あと、右隣の空いた座面のあたりで、空気が、ひとつ返事をした気がした。相槌のような、軽くいなすような。振り向いた。誰もいない。日の温もりだけが、木の座面に残っていた。
膝の上でスマホを開き、もう一度、消えた地名のまとめアカウントを引いた。柳瀬の名は、まだそこにあった。誰かが各地から拾い集めた、記録から抜けた地名の一覧。志賀はその中に、自分が今座っている場所が、一行として載っているのを見た。座標は、添えられていない。ただ、地図から消えた町、という短い分類の下に、柳瀬の二文字が並んでいた。他の土地の名前と一緒に、淡々と。ここだけの話ではなかった。同じことが、各地で起きていた。
投稿は淡々としていた。煽る言葉も、結論もない。ただ、いつ、どこの、何が、地図から消えたかが並んでいる。文面は整いすぎているくらいだった。集めている人間が、これを騒ぎ立てるためでなく、確認するために並べていることが、行間から伝わってきた。志賀が票を処理するときの手つきに、どこか似ていた。感情を挟まず、事実だけを一行ずつ、外に出しておく。いつ消えてもいいように。
芹沢、という名だけが、また画面の隅にあった。
志賀はその名を、今度も長くは見なかった。それがどういう意味を持つのかは、まだ考えないことにした。
スマホをしまい、志賀は川面に目を戻した。
整合室に戻れば、この場所は台帳の上で片がつく。宮前南三丁目。柳瀬という通称の記録はなし。六番区画は欠番として処理済み。乾の通報票は、齟齬なしと確認。すべて、説明のつく形に整えられる。整えるのは志賀の仕事だ。あるいは過去に一度、志賀自身がこの番地を扱って、欠番として閉じたのかもしれない。丸い字と角ばった字。別々の人間が同じ名前を差し出し、二人とも、台帳の側からは間違いとして扱われる。
そう思うと、指先が冷えた。
だが今、志賀の目の前には、五の隣に立つ七があった。欄干があり、喫茶店があり、水の匂いがあった。足の裏は、この歩道を何度も歩いたと言い張っている。
目の前にあるのに、記録の上でだけ、この街は存在しない。




