第2話 使われておりません
朝の光が、白い筒の輪郭をふつうに戻していた。
志賀は洗面所の鏡の前に立ち、昨夜と同じ歯ブラシで歯を磨いた。一本。口の広い陶器の筒。日の当たる時間に見れば、ただの容器だった。昨夜、この口の広さが歯ブラシ二本分に見えたことが、遠い出来事のように思えた。
消えていなかった。異常が消えたのではなく、異常だと感じた感覚の方が薄れていた。物は昨夜のまま、一つずつ、一人分。変わったのは、志賀の目の温度だけだった。深夜に見えたものは、疲れた目の錯覚だと言えなくもない。言えなくもない、という言い方でしか、自分を落ち着かせられなかった。
顔を洗い、コーヒーを一杯だけ淹れた。紅茶のペットボトルはテーブルの隅に置いたままだった。開けていない。飲むつもりもなかった。ただ捨てる気にもなれず、志賀はそれを視界の端に残したまま、出勤の支度をした。捨ててしまえば、昨夜のことも一緒に片づく気がして、それができなかった。
整合室の一日は、いつも通りに流れた。差分を拾い、赤で囲い、正しい方を確定させる。手が覚えた順序で仕事が進む。戸川が撮影日時の食い違いを一件上げてきて、志賀が元データの頁を返した。
昼のあいだ、志賀はまだ、記録の側の人間でいられた。矛盾を見つけ、閉じる側。見つけられる側ではなく。
窓の外が暗くなり、十七時が過ぎた。
帰り道も、電車も、坂道も、昨日となぞるように同じだった。車窓の景色も、同じ角度で流れた。ただ今日はコンビニに寄らなかった。手が勝手に紅茶を取る前に、その前を通らずに済ませたかった。買わなければ、二本にはならない。二本にならなければ、確かめずに済む。
部屋に戻り、照明をつけた。一人分の部屋は、昨日のまま静かに完結していた。
テーブルに座り、スマホを手に取ったのは、何か確かなものに触れたかったからだった。
記録。数字。日時。人間の記憶は揺らぐが、デジタルの記録は残る。仕事で何百回も確認してきたことだ。矛盾を見つけるとき、志賀はいつも記録の側に立ってきた。今夜も、そちら側に立てば足場が戻ると思った。
通話履歴を開いた。
並んでいる番号は、ほとんどが仕事関係だった。整合室の内線、戸川の携帯、外部の照会先。週に数回、事務的な用件で短い通話をしている履歴が連なっている。
その中に、見覚えのない番号があった。
市外局番から始まる十桁の番号。三日前の夜の、着信。通話時間は、四十二分だった。
履歴の中で、その番号は、その一件だけだった。前日にも、その前にも、ない。短い事務連絡ではない長さの通話が、前後から切り離されて、一件だけ、そこにあった。
この番号を、志賀は知らなかった。
正確に言えば、見覚えがあるような気もするのだが、それが誰のものかを思い出せない。数字の並びを目で追うと、指先にかすかな馴染みがある。履歴の中でこの行に、何度も指を伸ばしていたような感触。だが、伸ばした先の行は、一つしかない。何度も、の感触だけがあって、何度も、の記録がない。その先にいた相手の顔にも声にも、接続しない。
喉が乾いた。
発信ボタンを押した。押す前に、一瞬ためらった。もし相手が出たら、何と言えばいいのか。名前も、関係も、わからない相手に。だが、その心配は要らなかった。
呼び出し音はなかった。呼び出し音が鳴れば、相手はいる。鳴らなかった。短い沈黙のあと、録音された女性の声が告げた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
志賀の指が、画面の上で止まった。
もう一度かけた。同じ声。同じ文言。機械の抑揚のない、事務的な否定だった。三日前、この番号は四十二分ぶん、確かに使われていた。その三日のあいだに、番号は「使われておりません」の側へ移っていた。
通話履歴の、その番号の行を長押しした。詳細画面が開いた。日付、時刻、通話時間。そして一番下に、小さな波形のアイコンがあった。通話が録音されていたことを示す印だった。設定した覚えはない。だが、そこにあった。
再生を押した。
音は出なかった。
波形は表示されているのに、スピーカーからは何も鳴らない。アイコンの下に、文字起こし欄だけが一行残っていた。
「帰ったら、ちゃんと——」
その先は空白だった。
志賀は、その一行を何度も読んだ。約束の言い方ではなかった。読んで分かる種類のことでは、ないはずだった。音は、一度も返ってこなかった。それでも、そう感じた。その感じは、文面から来るのではなく、志賀の側から、来ていた。
何かを切り出す前の声だった。明るくも、怒ってもいない。ずっと棚の奥に置いたままにしていたものを、ようやくテーブルに出そうとするときの、短い息継ぎ。志賀はその先で、自分が「あとで」と答えたような気がした。そう答えたのかもしれない。答えなかったのかもしれない。ただ、話す前に終わったという感触だけが、喉の奥に残った。
もう一度、再生を押した。やはり音は出ない。波形だけが、律儀に山と谷を描いていた。声があったはずの場所に、視覚だけが残り、音が抜けている。空白は、機械が「聞き取れなかった」のではなく、「そこで途切れている」形をしていた。言い終える前に録音が切れたように。あるいは、続きの方だけが、後から消されたように。
文字起こし欄の、ダッシュのすぐ右。何もないはずの余白の端に、一瞬、薄い滲みが差した。返事の起こりのような、半端な字の頭のような。どこか、揶揄うような温度で。読み取ろうと目を凝らすと、もう空白だった。深夜の、疲れた目だ。志賀は、そう流した。
志賀は、その空白を埋めようとした。四十二分のうちのどこかで聞いた、この声の続き。喉の奥まで来ているのに、言葉にならない。思い出そうとするほど、声の主の輪郭が遠ざかる。残っているのは、テーブルの向こうから聞こえたという方向感覚だけだった。
部屋が静かだった。冷蔵庫のコンプレッサーの低い唸りだけが、床を伝って足の裏に触れている。テーブルの上には、昨日買った缶コーヒーと、開けていない紅茶があった。コーヒーには手を伸ばす気になれなかった。画面の中の番号と、その事務的な否定と、途切れた一行の間を、目が何度も往復した。
志賀は立ち上がり、キッチンの引き出しからメモ用紙を一枚取った。買い物のリストを書くための、罫線もない安い紙だった。ペンを探して、引き出しの奥からボールペンを一本引き出す。手が、勝手に動いていた。頭で決める前に、体が「写す」を選んでいた。
ボールペンで、その一行を写した。画面の文字を目で追い、紙の上に、一字ずつ移していく。
帰ったら、ちゃんと——
書きながら、なぜこんなことをしているのか、自分でもわからなかった。証拠を作ろうとしているわけではない。この一行が何かの手続きに乗るとは思えなかった。届出にも、報告書にも、この一行を受け取る欄はない。相手の名前も、番号の所属も書けないのだから、書式のどこにも載らない。
ただ、画面の中だけにあると、いつ消えてもおかしくない気がした。あの波形が、明日には無音のまま文字起こしごと消えていても、志賀は驚かない気がした。番号が消えたように。紙に写せば、少なくともこの紙の上には残る。画面の外へ、一つだけ持ち出せる。
証拠にはならない。だが、見たという事実を、自分の外に一つ置いておく。記録の側にいる人間の、ほとんど反射のような手だった。
書き終えて、メモ用紙をテーブルの真ん中に置いた。
ダッシュのあとの空白に、志賀はしばらく目を落とした。この続きを、自分は聞いたはずだった。四十二分のうちの、どこかで。だが続きは、頭の中のどこにもなかった。写した一行の、その先だけが、白いままだった。
もう一度、椅子に座り直した。ここからは、仕事だった。
職場の端末なら、もっと深くまで見える。整合室の基盤で、私的な喪失を調べる。その一歩を踏み出せば、何かが崩れる気がした。志賀は、私物のスマホで済ませた。
スマホのAIアシスタントに番号を貼り付けた。誰でも使える、公開の番号照会だった。番号一つで、契約者の地域と回線種別くらいはすぐに返してくる。今のこの基盤なら、それが当然だった。ニュースの見出しで見た、あの統合運用の新基盤。齟齬の自動検出と記録補正を高度化した、という触れ込みの。
数秒後、応答が返った。
「この番号に一致する登録情報はありません」
抑揚のない一文だった。皮肉も、戸惑いも、そこにはない。ただ、一致するものがない、とだけ告げていた。
志賀は照会条件を変えて、もう一度試した。過去の割当履歴を含めて検索してほしい、と入力した。
「該当する記録は見つかりませんでした。ご確認ください」
『ご確認ください』という文言だけが、妙に手続き的だった。何を確認しろというのか。番号なら、目の前にある。三日前に四十二分、志賀が話した番号だった。
試しに、通話履歴のスクリーンショットを添付して尋ねた。返ってきたのは、この時刻に対応する接続記録は基盤側に存在しない、という一文だった。志賀の端末には、四十二分の記録が残っている。だが基盤の側には、その通話が起きた痕跡が、一つもなかった。
妙に、踏み込んだ答えでもあった。誰でも使える番号照会が返してよい範囲を、志賀は監査官として知っている。契約者の地域と、回線種別。そこまでだ。接続記録の有無は、その範囲の少し外から来ていた。統合されたばかりの基盤の、線引きの緩みだろう。志賀は、そのときは、そう思った。
道具は、正確だった。嘘はついていない。ただ、志賀が知りたいことには、何一つ答えなかった。あるものをあると言い、ないものをないと言う。その正確さが、志賀の記憶の側だけを、静かに間違いにしていった。答えを一つずつ足していくと、基盤が正しくて志賀が間違っている、という形にしかならなかった。
ブラウザでも試した。電話帳サイトを三つ引いたが、いずれも同じ結果だった。キャリアの番号帯を確認した。この番号が属する範囲は、少なくとも現行の割当表には存在しなかった。番号自体が存在しないか、存在した痕跡ごと消えているか、そのどちらかだった。存在しない番号から、志賀は四十二分の電話を受けていた。一度も存在しなかった番号帯に、四十二分の通話が一件、残っていた。理屈の合わない文が、頭の中で二つ、並んで動かなくなった。
水を一杯飲んだ。コップを置く手が、重かった。
通話履歴を遡った。
同じ番号は、どこにもなかった。一週間、一ヶ月、指でスクロールして、履歴の底まで降りた。仕事の番号が規則正しく並ぶだけの、静かな数字の列だった。あの番号は、三日前の夜に一度だけ現れて、前にも後にも、続いていない。
指の感触と、合わなかった。この行へ何度も伸びた覚えのある指が、一件しか見つけられない。帰り道のどこかで短く話したような、湯を沸かしながら耳と肩で挟んだような——体のあちこちに散らばる電話の記憶の断片が、どの行にも着地しない。あったはずの数字が、根こそぎ無い。残っているのは、四十二分、一件だけだった。
消された、と考えるのが、いちばん筋が通った。そして、消した側が、一件だけ、消し損ねた。
三日前の、夜八時台の、着信。志賀はその夜、この部屋にいた。相手は、外にいた。外から、この部屋の志賀へ、かけてきた。もし、昨夜からの感覚のとおり、この部屋に二人分の暮らしがあったのなら——同じ部屋に住む者同士は、夜、長い電話をしない。あの夜だけ、相手は、この部屋の外のどこかにいたことになる。どこへ行っていたのかは、履歴のどこにも書かれていない。
その相手を、人は何と呼ぶだろう。志賀には、それを言い当てる言葉が見つからなかった。恋人、と言うには自信がない。家族、と言うには根拠がない。ただ、夜の部屋で、上着も脱がずに四十二分、聞き続ける相手だったことだけは、体の側が覚えていた。
昨日の夜、志賀は帰宅の坂道で、無意識に歩幅を広げた。誰かが待っている場所に急ぐ歩き方で。その誰かと、この番号は、同じ人だったのかもしれない。
その相手が、今は存在しない。
番号には登録がなく、検索にも引っかからず、志賀の記憶からも顔と声が抜け落ちている。残っているのは、通話履歴という数字の列と、テーブルの上のメモ用紙一枚だけだった。
部屋を見回した。一人暮らし仕様の部屋。一件だけの、四十二分。部屋の側には広すぎる筒が残り、数字の側には長すぎる一件が残っていた。どちらも、拭き残しの形をしていた。
志賀は、二つを突き合わせた。整合室でなら、迷わずそうする。別々の記録が同じ方向を指すとき、その事実は、確からしさへ一段近づく。
広すぎる筒と、長すぎる一件は、同じ方向を指していた。この部屋には、一人分ではない何かがあった、と。「最初から一人だった」と言い張る側——靴箱も、食器棚も、ベッドの幅も、台帳も、基盤も——は、あちこちに、小さな拭き残しを残していた。触れた覚えのない、右手前のカップ。飲まないのに手が伸びる、紅茶。その中で、この二つは、別々の記録どうしが同じ方向を指す、いちばん強い拭き残しだった。
だが、確からしさは、そこで行き止まりになった。突き合わせの相手が、志賀の外に一つもない。世界の記録は、全部が「一人」の側に立っている。志賀の側にあるのは、体の覚えと、筒の広さと、四十二分だけ。監査なら、数で負けている側だった。それでも、負けている側を、志賀は閉じなかった。
指がスマホの画面を離せなかった。その一行を消せば楽になると知っていて、消す気になれなかった。閉じてしまえば、この相手は本当にいなくなる。世界のどこにも、記録が残らなくなる。志賀の端末の、この一件だけが、その人がいたことを知っている最後の場所だった。
落ち着け、と志賀は自分に言った。声には出さず、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
番号一つが消えることは、ありうる。名義変更、解約、割当の入れ替え。事務上の理由はいくらでも並べられる。整合室で毎日そうしているように、まず筋の通る説明から潰していけばいい。疑うのは、そのあとだ。順序を守れば、感情に足をすくわれずに済む。それが、八ヶ月の案件で身についたやり方だった。異常を疑うのは、平凡な説明が全部尽きたあとだ。
平凡な説明を、順に潰していった。整合室でいつもやっているように、紙の端に候補を書き出し、一つずつ消していく。
解約。ありうる。だが解約されただけなら、過去の登録情報は照会に残る。残っていなかった。線を引いて消した。
名義変更も、入力ミスも、同じだった。名義が変わっても番号帯は生きているし、四十二分という通話時間は、繋がっていなければ生まれない。どちらも、番号帯そのものが割当表から抜けている説明には、ならなかった。消した。
番号の使い回し。前の持ち主が解約し、しばらく寝かせてから再割当を待つ空白期間。それなら一時的に「使われておりません」が返ることはある。だが空白期間の番号でも、番号帯そのものは割当表に載っている。載っていなかった。消した。
どの説明も、途中で足りなくなった。線を引ける候補が、尽きた。
説明を探す癖だけが動いて、空欄で止まった。昨日の電車と、同じだった。異常を疑うのは、平凡な説明が全部尽きたあとだ。それが、尽きた。
志賀はふと、東環状のことを思い出した。あの案件でも、最初は小さな矛盾ばかりだった。提出日の二日ずれ。版数の食い違い。一つ一つは事務上のミスで片がつく類のものだった。それを八ヶ月並べ続けて、初めて大きな改竄が見えた。小さな齟齬は、単独では意味を持たない。並べたときに、初めて形になる。
今、目の前にあるのも、単独の齟齬だった。番号が一つ、消えている。それだけなら、まだ形にならない。だが東環状も、最初はこんな一つきりの、片づけようのない齟齬から始まった。
癖のように、志賀は整合室の共有フォルダに接続した。私物のスマホからでも、職員に貸与された認証キーを通せば、閲覧だけの読取窓口までは入れる決まりだった。あの八ヶ月で積み上げたものに触れれば、自分がまだ記録の側に立てる人間だと確かめられる気がした。番号一つに揺らいでいる自分を、仕事の実感で押し戻したかった。
東環状のフォルダを開いた。
分冊一から分冊四まで。付箋のついた議事録。工事記録の版管理表。志賀が八ヶ月かけて積み上げた、矛盾の索引。すべて、いつも通りそこにあった。見慣れたファイル名の並び。安堵が、胸の底で小さく灯った。ここは、動いていない。
添付の一覧を、上から順に目でなぞった。
指が、止まった。
一件、足りない気がした。
どの資料が、とは言えなかった。件数を数えても、記憶している数と照らし合わせられるほど、正確に覚えているわけではない。ただ、この並びには隙間がある、という感覚だけがあった。食器棚の茶碗の右隣を占めていた何かと、同じ種類の感覚だった。
志賀は一覧を三度、上から下まで確認した。番号は連続していた。欠番はない。日付も飛んでいない。整合室の仕事として見れば、この一覧に不備はなかった。ファイル名の連番も、更新日時も、きれいに揃っている。
不備はない。それでも、足りない気がする。
志賀は、自分が何を探しているのかを言葉にしようとした。ある資料。ある写真。ある証言の音源。だが、その「何か」の名前が、出てこなかった。あったという感覚だけがあって、あったものが、指させない。
断定はできなかった。深夜だった。昨夜からずっと、志賀の目は「足りないもの」を探すように調律されている。今夜のこれも、その延長の錯覚かもしれない。記録の側に立てば足場が戻ると思って開いたフォルダで、また、根拠のない欠落を見ていた。自分の目の方が狂い始めているのかもしれない。そう思う方が、まだ楽だった。
フォルダを閉じた。閉じる前に、添付の一覧をもう一度だけ見た。連番は、隙間なく続いている。欠けているものがあるなら、番号の側が最初に飛ぶはずだった。飛んでいない。ということは、抜かれたのではなく、最初からこの数だったことになる。ちょうど、あの部屋のように。
整っていた。整いすぎている、とは言わなかった。まだ、言えなかった。
スマホの画面に戻ると、あの番号の詳細がまだ開いたままだった。波形のアイコン。文字起こしの一行。テーブルの上には、同じ一行を写したメモ用紙。デジタルの記録と、手書きの一行。今夜、この部屋で「二人だった」と言えるものは、その二つだけになった。
志賀は、二つを並べて見た。だが今夜は、二つとも自分の手の中にしかなかった。基盤にはない。世界の側には、この通話がなかった。証言してくれる記録が、志賀の外に一つもない。
冷蔵庫の唸りが、ひとしきり高くなって、また低く落ちた。時計は、もう二時を回っていた。週が明ければ、志賀はまた記録の側に立つ。矛盾を閉じる側に。そして夜になれば、また一人でこの履歴を開くのだろう。閉じられないまま。
志賀は、その行に指を置いた。三日前の、着信。通話時間、四十二分。四十二分ぶんの声を、志賀は確かにこの部屋で聞いた。相手の顔も、名前も、話した内容も、いまはもう手元にない。残っているのは、この数字と、写した一行だけだった。
その番号を、もう一度だけ押した。指先が、この行の馴染みを覚えている。何度も伸ばした指の、その記憶だけが、まだ確かだった。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
三日前に、四十二分間話した番号が、存在しない。




