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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第1巻 声だけの断片
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第1話 一人分の部屋

公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

 十七時を過ぎた統合記録整合室には、もう三人しか残っていなかった。


 あとで、と言ったのかもしれない。


 そのことを思い出すのは、次の夜になってからだった。


 志賀朔(しがさく)は端末の画面に目を落としたまま、報告書の最終確認を続けている。左の画面に旧版、右の画面に現行版。二つのPDFを重ね、差分だけを赤で囲っていく。版と版のあいだで動いた文字を拾うのが、この部屋の仕事だった。


 差分は三行で済んだ。


 日付。版数。差分。


 整合監査官という肩書きは、要するに矛盾を探す係だ。届出と台帳、議事録と報告書、写真の撮影日時と現場の記録。そのどこかに食い違いがあれば、赤で囲い、正しい方を確定させる。ほとんどは事務上のずれで、人の入力ミスか、転記の桁違いで説明がつく。


 説明がつかない矛盾だけが、この部屋に上がってくる。


 デスクの隅には、未処理の雑件が四つ積まれていた。上の三つは、いつもの類だった。


 一つ目は、施設名の表記の食い違い。市の広報と施設台帳で、同じ図書館の名が、片方は「みどり図書館」、もう片方は「緑図書館」と、別々に載っていた。志賀は設置条例の表記を当たり、正式の方を確定して、処理欄に回した。通う人には馴染みの字でも、記録の側から見れば、よくある表記の揺れの一つだった。


 二つ目は、市営バスの停留所看板の色違い。設置台帳では青、現地の写真では緑。塗り直しの記録があれば説明がつく。なければ、撮影日と設置日を突き合わせるところから始める。


 三つ目は、住所台帳から抜けている地番への郵便物。番地はあるのに、台帳の連番でそこだけが飛んでいる。転入の届出漏れなら、よくある話だった。


 四つ目だけが、少し毛色が違った。通報者が「柳瀬(やなせ)」という町名で出した苦情票だ。ゴミ収集の日程が守られていない、という内容だった。だが柳瀬という町名が、台帳のどこにもない。近い読みの地名もない。


 志賀は柳瀬の票を一番下に回した。この字面に、指先が一瞬ひっかかった。読んだことのある字のような気がしたが、どこで、とは出てこない。錯覚だろうと片づけて、束を揃えた。どれも、調べれば事務上の齟齬で片がつく類のものだった。


 マグカップはデスクの左奥に置いた。右利きだから右側のほうが取りやすいはずだが、この位置が落ち着く。右側を空けておく癖があった。誰かの資料を置くための余白のように、そこだけが妙に触りにくい。


 その余白を避けて、雑件の束を左へ寄せた。


「志賀さん、東環状の参考資料、返却棚に戻しておきました」


 声をかけてきたのは、二つ隣の席の戸川だ。入室三年目で、志賀の下で整合確認の実務を覚えている。


「ありがとう。分冊の四はどうだった」


「確認済みです。付箋のところ、企業側の提出日が公式報告と二日ずれてますけど、これは前の監査で既出ですよね」


「そう。企業側の内部決裁日との混同だと確認してある。議事録の二十三ページ」


 戸川が小さくうなずいて席に戻っていく。


 志賀は付箋の角を揃えた。考えなくても、手が順序を並べていく。


 東環状連絡トンネル崩落事故。


 志賀が初めて、大きな改竄を剥がした案件だった。


 あのときも、始まりは今日の雑件と変わらなかった。提出日の二日ずれ。版数の食い違い。工程表と請求書の桁の不一致。一つ一つは、事務上のミスで説明のつく小さな齟齬だった。誰もそれを並べて見ようとはしなかった。並べる理由がなかったからだ。


 志賀は並べた。八ヶ月かけて、矛盾を一つずつ索引に足していった。周りは、志賀が細かすぎると言った。そこまで疑う案件ではない、と。


 八ヶ月目に、工事記録の版が一つだけ差し替えられていたことが見えた。差し替えられた版では、点検の記録が一回分、まるごと消えていた。その一回があれば、崩落は防げたかもしれない、という一回だった。


 誰も気づかなかった。志賀は気づいた。


 責任の所在が動いた。慰霊の日付が、正しい日に戻った。あの八ヶ月で、志賀はこの仕事が何のためにあるのかを、体で理解した。


 あの案件で覚えた順序が、今も手に残っている。指先が、まだそのときの温度を覚えていた。


 報告書を閉じ、志賀は雑件の束を左から一つ引き寄せた。帰る前に、片づく分は片づけておく。バスの停留所看板の色違い。設置台帳は青、現地写真は緑。


 塗り直しの記録を探した。塗装補修の履歴に、三年前の一件があった。だが色番の記載がない。補修業者の提出書類まで辿ると、使用塗料の欄に緑系の品番があった。台帳の側が、塗り直し前の色のまま更新されていなかった。それだけのことだった。


 志賀は台帳の色を現地に合わせて修正し、修正理由に補修履歴の頁を添えた。青が、緑になった。記録は、現実に遅れる。志賀の仕事は、その遅れを詰めることだった。


 処理欄に一件、片がついた。残りは二つ。うち一つが、柳瀬の票だった。それは明日に回した。


「お先に失礼します」


 戸川がコートを羽織りながら声をかけてきた。


「おつかれさま」


 志賀は短く返し、報告書を最後にもう一度通して読んだ。問題ない。端末をロックし、上着を手に取った。十七時四十分。窓の外はもう暗かった。



 整合室の入っているビルを出ると、十一月の夜気が首筋に触れた。


 駅までの道は十分ほどだった。街路樹はほとんど葉を落としていて、歩道に乾いた影を散らしている。商店街のアーケードを抜ける。焼き鳥屋の換気扇から白い湯気が流れていた。八百屋はもうシャッターを半分下ろしていて、店先の蛍光灯が残りの野菜を青白く照らしている。


 駅前のロータリーに出た。バス停のベンチに座っている老人が一人。タクシーの列。信号が黄色から赤に変わる。志賀は横断歩道の手前で立ち止まり、ポケットに手を入れた。右手がスマホに触れ、反射的に画面を見た。


 画面上部にニュースの見出しが流れていた。行政AIの統合運用開始。申請処理から監査補助まで一括で担う新基盤の正式稼働を告げる記事だった。見出しの下には「齟齬の自動検出と記録補正を高度化」とある。AIもここまできたか、とだけ思う。今さら驚くほどでもなかった。


 通知はない。ただ時刻を確認しただけだったが、何か別のものを確認しようとした気がした。何を見ようとしたのかは、わからなかった。


 改札を通り、ホームに降りた。この時間帯の下り線は空いている。いつもの二両目、ドア横の手すりに寄りかかる。向かいの座席には、スーツ姿の男がイヤホンをして目を閉じている。吊り広告がかすかに揺れていた。


 電車が動き出し、窓の外を暗い住宅地が流れていく。


 ふと、妙な感覚があった。


 この車窓を、今日すでに一度見たような気がした。同じ角度で、同じ街灯の並びを、同じ速度で通過した記憶。窓ガラスに映った自分の顔の位置まで同じだった。既視感というにはあまりに具体的で、だが思い出そうとすると輪郭が溶ける。三秒ほどの浮遊感があった。それから電車が次の駅に滑り込んで、ドアが開き、冷たい空気が入ってきて、感覚は消えた。


 志賀は手すりから体を起こした。説明できる項目を探す癖だけが動き、該当なしの空欄で止まった。


 疲れているのだ、と思うことにした。同じ路線を毎日往復していれば、車窓は似てくる。整合室でなら、これを「主観の混同」として処理する。記録に残らない感覚は、記録の側では存在しないのと同じだった。


 だが、記録に残らないものが本当に存在しないのなら、と志賀はふと思った。この浮遊感は、どこにも記録されない。ならばこれは、なかったことになる。誰の帳簿にも載らないまま。


 最寄り駅で降りる。駅から自宅のマンションまでは五分。改札を出て、駅前のコンビニに寄った。缶コーヒーを一本取り、レジに向かう。棚の前を通りすぎるとき、手が自然にもう一本——紅茶の小さなペットボトルを取っていた。


 ——またそれ? 苦いだけじゃない?


 どこかで聞いた声が、棚の前で短く笑った気がした。慣れてる、と自分が答えた覚えがある。慣れなくていいものもあるよ、と返ってきた声の輪郭。誰に答えたのかは、思い出せない。


 二本を持ったままレジに行き、会計を済ませた。


 坂を上る。見慣れた夜道だった。見慣れた外灯。見慣れたフェンス。マンションのエントランスが見えてくると、志賀は無意識に歩幅を少し広げた。いつもの癖だ。早く帰りたいとき——正確には、誰かが待っている場所に急いでいるときの歩き方だった。


 そう思ったことに、自分で驚いた。誰が待っているというのだろう。


 体のどこかが、この坂の先に、明かりのついた窓と、湯気の立つカップと、振り向く誰かを予期している。頭は何も覚えていないのに、足だけが覚えていた。


 志賀は歩幅を、意識して元に戻した。戻すと、少しだけ息が上がっていた。


 エントランスの自動ドアに、自分の姿が映った。左手に缶コーヒー、右手に紅茶。両手がふさがっている。それが妙に自然だった。一本なら、片手が空く。二本だと、そうはいかない。


 鍵を探すために紅茶を持ち替えようとして、手が止まった。飲まないのに、レジで何の迷いもなく取っていた。二本持って帰るのが当たり前の体をしたまま、片方を誰にも渡せない。


 エントランスでオートロックを解除し、エレベーターで五階へ上がった。廊下を歩く。五〇三号室の前に立ち、鍵を出す。



 鍵を回す感触は、いつもと同じだった。


 ドアを引き、玄関に足を踏み入れた瞬間、志賀の手が止まった。


 靴箱が目に入った。中には、自分のスニーカーが一足。それだけ。今履いている革靴を入れれば、二足になる。棚の上段は空だった。


 何かが足りないのではなく、最初からこの数しか入っていなかったような配置だった。棚板の間隔も、一人分の靴にちょうどいい幅で、余白に不自然さがない。


 靴を脱いだ。革靴を棚に戻す手が、左端へ寄った。右側に何かを避けるように。だが指でなぞっても、そこには埃も物の跡もない。何もない場所を、手だけが、何かがあるものとして扱っていた。整合室でなら、こういう手の癖を「身体化した誤り」として処理する。だが頭が空だと言っても、指は覚えている位置へ戻ろうとする。


 廊下を進んだ。


 リビングの照明をつけた。テーブルの上には何もない。食器棚を開けた。皿は四枚、茶碗は一つ、箸は一膳。すべてが端正に、過不足なく収まっている。左奥のマグカップを、手に取った。白地に青い線の入った、見覚えのあるカップだ。


 カップを持ったまま、棚の中を見つめた。この茶碗の隣に、もう一つあった気がする。色は——わからない。形も、サイズも、記憶に残っていない。ただ、一つだけではなかったという感覚がある。食器棚の、この茶碗の右隣の空間を、何かが占めていたはずだという、根拠のない確信。


 棚の右手前には、マグカップがもう一つ、伏せてある。それ自体は、おかしくもなんともない。カップが二つある台所など、どこにでもある。ただ、志賀の手は、いつも左奥の一つにしか伸びない。右手前の一つには、触れた覚えがなかった。捨てる気になった覚えも、なかった。靴棚の右端と、同じだった。


 カップを棚に戻し、部屋を一通り見て回った。


 クローゼットを開けた。ハンガーの間隔は、一人分の服がぴったり収まる幅だった。何かを抜き取ったなら、抜いた分の隙間が残るはずだった。隙間はない。最初から、この本数だったように整っている。


 本棚の並びは独自の秩序を持ち、見覚えはあるが微妙に違う。背表紙の順序が、自分の記憶とわずかにずれている。だが、どこがどうずれているのかを指させない。冷蔵庫の中身は一人暮らしの量として破綻がなく、洗濯機の横の棚に洗剤が一つあるだけだった。


 どこを見ても、一人分の生活が穏やかに完結していた。何かを片づけた跡はない。


 寝室に入った。


 ベッドはシングルだった。


 志賀は寝室の入口に立ったまま、数秒間動けなかった。


 シングルベッド。壁に寄せて置かれ、サイドテーブルにはスタンドライトが一つ。枕は一つ。掛け布団は一人分の幅。部屋の面積に対して、この配置は合理的だった。無駄がない。一人で使う寝室として、何一つ不自然なところがない。


 だが志賀の記憶では、このベッドはダブルだった。


 いや——ダブルだったという確信があるのに、それがいつからの記憶なのかを遡ろうとすると、像が揺らぐ。今朝、目を覚ましたとき、自分は右にいたか、左にいたか。思い出そうとすると真ん中にいた気がするのに、体は、左に寄って眠る癖を覚えていた。右を空けて。


 右を空けて、誰かのために。


 隣に——


 隣に、誰かがいたはずだ。


 自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


 整合室の仕事なら、こういうときの手順は決まっている。感覚を疑い、記録に当たる。記憶が二人だと言うなら、二人だった証拠を探す。証拠がなければ、記憶を誤りとして閉じる。志賀は毎日、他人の記憶をそうやって閉じてきた。より確からしい方を残し、そうでない方を消す。それが監査だった。


 リビングに戻り、もう一度キッチンを確認した。どこも一人分のまま、破綻なく整っていた。冷蔵庫のドアポケットに、ドレッシングが二種類あったのが、唯一気になった。一人にしては多い気もする。片方は、志賀の好みではない甘い系の味だった。だが、それだけでは何の証拠にもならなかった。好みの違うドレッシングを一本、気まぐれに買うことは、誰にでもある。


 証拠は、どこにもなかった。あるのは、体の側の確信だけだった。


 何かが消えたのではない、と志賀は思った。痕跡ごと、最初からなかったように整えられている。引っ越したばかりの部屋のように何もないのではなく、一人の人間が数年暮らした部屋として完璧に成立している。最初から、ここには一人分しかなかった——と、部屋のすべてが主張していた。


 ただ、志賀の記憶だけが、この部屋は二人のものだったと告げている。



 志賀はベッドには入らず、リビングの椅子に座ったまま、何度も立ち上がっては部屋の中を歩いた。


 仕事のやり方で、部屋を洗うことにした。感覚を信じず、物を一つずつ見る。


 台所の引き出しを一つずつ開けた。カトラリーの仕切りに、フォークが二本、スプーンが二本。一人暮らしでも二本ずつあることはある。だが志賀は、そのスプーンの一本を手に取って、しばらく眺めた。柄の先端が少し曲がっている。自分で曲げた記憶はない。二本のうち、片方だけが曲がっている。使う人が違えば、傷み方も違う——そこまで考えて、志賀はスプーンを引き出しに戻した。証拠にはならない。曲がったスプーンなど、どの家にもある。


 下駄箱の奥を確認した。何もない。棚の裏板まで手を伸ばした。指先に触れたのは、埃と、木の乾いた縁だけだった。


 本棚の隙間に指を差し込んだ。何も落ちていない。写真の一枚でも挟まっていれば、と思った。栞でも、走り書きの紙切れでも。人が暮らせば、隙間に何かが落ちる。だが、この部屋の隙間は、どこも清潔に空いていた。


 腰をかがめ、腕を伸ばし、家具の裏の暗がりに手を入れていく。指先の冷たさだけが増えていった。


 何もなかった。どこを見ても、部屋は一人分の生活だけを穏やかに肯定していた。消した跡すらない。最初から、なかった。


 証拠を探すほど、部屋の側が正しくなっていく。物証がない以上、記憶を誤りとして閉じるのが、志賀のやり方だった。だが今夜は、閉じられなかった。


 膝の裏に、立ちっぱなしの疲れがたまっていた。時計を見ると、日付はとうに変わっている。


 残っているのは、洗面所だけだった。


 志賀はそこへ行くのを、先延ばしにしていた。まだ確かめていない一室が残っていることに、かすかな安堵があった。確かめていない場所には、まだ何かが残っているかもしれない。全部を見てしまえば、その余地も閉じる。


 水を一杯飲んで、志賀は洗面所の戸を引いた。


 鏡の前の棚に、歯ブラシが一本立っていた。


 一本。


 歯ブラシ立ては陶器の白い筒で、一本を差すには少し口が広い。だが一本しか入っていないことに、物理的な不自然さはない。元からこのサイズだったと言えば、それまでだ。


 けれどこの一本を見た瞬間、志賀の中で何かが確定した。


 この部屋には、もう一人いた。


 理屈ではなかった。スプーンの本数や、ベッドの幅よりも、この歯ブラシ一本の方が決定的だった。隣にもう一本あった。色も、形も、柄の模様も、像を結ばない。


 あった。確かに、あった。


 その人の顔を思い浮かべようとした。輪郭が立ちかける。髪の長さ。肩の高さ。笑ったときの何か。どれも一瞬だけ浮かんで、すぐに崩れた。


 志賀は鏡に映った自分の顔を見た。三十二歳の、疲れた顔だった。


 鏡の前を離れ、志賀はリビングに戻った。テーブルの上のコーヒーと、開けていない紅茶を見た。飲まないのに、なぜ買ったのか。棚の前で手が伸びたときの、あの短い笑い声。あれは、誰の声だったのだろうか。


 窓の外で、遠くを走る車のヘッドライトが天井に薄い光の筋を引いて消えた。もう二時を回っていた。明日も仕事がある。眠らなければならない。志賀はベッドに横になった。シングルベッドの、真ん中ではなく、左に寄って。右を空けて。


 意識が薄れかけたとき、別のものが混じった。女の声——言葉にならない、音の輪郭だけ。テーブルの向こう側から立ちのぼる湯気。紅茶の匂いだったかもしれない。向かいの席で、誰かがそのカップを両手で包んでいた気がした。顔は見えない。ただ、そこにいた気配が、歯ブラシの像の隣にぼんやり並んで、そのまま溶けた。


 志賀はもう一度、洗面所の白い筒を思い返した。一本しか入っていない、口の広い陶器の筒。


 そしてその広さが、志賀にはちょうど二本分に見えた。


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