第4話 届け出られない
日曜の朝は、昨日よりさらに静かだった。
志賀は八時に目を覚ました。ベッドではなく、リビングの椅子だった。首は痛まなかったが、背中の右側がこわばっている。窓の外は曇っていて、部屋の中に朝の色が薄い。テーブルの上には、昨日、川沿いの掲示板から持ち帰った町会の案内図が、開いたまま置いてあった。
顔を洗い、コーヒーを一杯だけ淹れた。手に取ったマグカップは一つ。棚の中の茶碗も、先週の木曜の夜からずっと同じ位置にある。
昨日は、場所の方を確かめた。今日は、自分の側を確かめる番だった。
整合室の人間なら、順序は決まっている。感覚を疑い、記録に当たる。記憶が「二人だった」と言うなら、二人だった証拠を探す。証拠がなければ、記憶を誤りとして閉じる。志賀は毎日、他人の記憶をそうやって閉じてきた。今日は、自分の記憶に同じ手続きを回すつもりだった。うまくいけば、これは全部、疲れた頭が作った像だったと片がつく。片がついてほしかった。
志賀は、記録を持っている先へ、一つずつ当たることにした。
最初に開いたのは、マンションの管理会社の契約者ポータルだった。
日曜でも、契約者向けの画面から入居情報は確認できる。本人確認を済ませ、契約内容の表示を開いた。
契約者、志賀朔。入居開始、三年前の十月。入居区分、単身。同居人の届出、なし。保証人の欄に、母親の氏名と続柄。
変更履歴の欄をタップした。三年間、契約変更の履歴はゼロ件と表示された。入居者数の変更も、同居人追加の届出も、一件も残っていない。
母親の名前は合っていた。だが「同居人の届出なし」の一行が、予想どおりであっても、喉の奥に引っかかった。
志賀は画面を閉じ、ファイルボックスから契約書の控えを引き出した。三年前の十月。入居者数の欄に「1」と印字されている。同居人欄は空白。書式の余白にも、何の不自然さもなかった。
三年間、ずっと一人で暮らしていた。紙はそう言っている。
「1」という数字を、志賀はしばらく見つめた。2と書いてあった記憶はない。だが1であることに、体の方が首を傾げていた。正しいはずの数字なのに、どこか足りない。指先が、その1の上をなぞった。数字は動かない。動かないことが、答えだった。
契約書は、三年前に志賀自身が署名した紙だった。入居者数の欄に「1」と書いたのも、たぶん志賀だ。反論できる相手が、志賀自身だった。三年前の自分が「1」と書き、今の自分が、それに首を傾げている。どちらの自分を信じればいいのか、もう決められなかった。整合室でなら、新しい記録より署名のある原本を採る。原本は「1」だった。
次に、スマホのカメラロールを開いた。
古い方から順にスクロールする。風景写真が何枚か。駅前の工事現場。整合室の案件で使ったらしい書類の接写。人物が写っている写真は、一枚もなかった。自撮りもない。誰かとの集合写真もない。二年分が、仕事のメモと、通りすがりの風景だけでできていた。
川沿いの写真が三枚あった。撮影日は四ヶ月前。一枚は橋のたもとから、もう一枚は歩道の途中で撮ったものだ。昨日歩いた付近だった。
構図が気になった。橋の写真は画面の左半分だけを使っている。右に余白があるのではなく、右側を避けて左へ寄せたような構図だった。歩道の写真も同じだ。フレームの右端に、誰かが立っていたら切れる位置に、カメラが向けられている。写っているのは欄干と水面と植え込みだけだった。
三枚目は、喫茶店の前で撮ったものだった。ガラス扉と、営業時間の札。テーブルの上に、紙カップが二つ写っている。向かい合わせに置かれた、二つのカップ。だが椅子は一脚しか写っていない。もう一つのカップに伸びていたはずの手は、フレームの外で切れていた。カップは二つ。手は一つ分だけ。残りの一つは、画角の外にいた。
偏った構図の証拠にはなっても、そこに誰かがいた証拠にはならない。撮り損ねたのではない。最初から、写す相手がいなかった写真として、きれいに保存されている。二つのカップだけが、志賀の記憶の側に、わずかに味方していた。
メッセージアプリを開いた。志賀は検索窓に、思いつく限りの語を入れてみた。今日。帰り。ごはん。おかえり。夕方に交わすような、短い言葉。どれも、仕事相手とのやり取りしか拾わなかった。会議は何時から。資料は共有済み。折り返します。二年分の履歴は、業務連絡だけで隙間なく埋まっていた。戸川との連絡。整合室の内線の確認。外部照会先とのやり取り。週末の予定を聞く相手も、夜に雑談する相手も、どこにもいなかった。
通話履歴には、登録のない番号が、一件だけある。四十二分。だがメッセージアプリには、その番号とのやり取りが一行も残っていなかった。一緒に暮らしていたはずの相手と、数字の上の接点が、四十二分しかない。残りの全部が、先に抜かれていた。
志賀は画面を閉じた。
三十二歳。仕事のメッセージだけが並ぶ二年間。人物写真はゼロ。記録が描き出す自分の姿は、志賀が思っていたよりも、はるかに孤立した人間だった。
自分は、こんなに一人だったのか。
そう思った瞬間、内側から別の声が返ってきた。違う。こんなに一人ではなかったはずだ。だが、その「はず」を裏づける記録が、どこにもない。
整合室の人間なら、ここで結論は出ていた。
これだけ証拠がないなら、疑うべきは世界ではなく、自分の頭の方だ。記憶障害。過労による解離。ストレスが作った虚偽記憶。体が覚えているという感覚も、脳の錯覚として説明がつく。部屋も、写真も、契約書も、すべてが一人の人間の生活を指している。例外は、志賀の頭だけだ。
志賀は、自分の記憶を閉じにかかった。
だが、閉じきれない一点があった。あの番号だ。
登録のない番号は、志賀の記憶の中にだけあるのではない。端末の通話履歴に、四十二分という時間が刻まれている。繋がっていなければ、この時間は生まれない。記憶がまるごと壊れているだけなら、なぜ数字の側にまで痕跡が残るのか。頭の中の像は閉じられても、あの四十二分だけは、記録の側に一つ、居残っていた。
その一点が、「自分がおかしい」という結論を、完全には閉じさせなかった。
志賀はコーヒーに口をつけた。いつのまにか冷めていた。
昼を過ぎた。
志賀は、行方不明者届のことを考えていた。
もし自分の記憶が正しいのなら、手順の最後に残る出口はそれだった。人がいて、いなくなったのなら、届け出る。それが唯一の、常識の側の解決だった。警察という記録の機関に、この不在を一件、正式に載せる。載れば、志賀の記憶は、志賀の外に一つの居場所を持つ。
AIアシスタントに「行方不明者届 届出に必要な情報」と入力した。
数秒後、応答が返った。届け出には所轄の警察署への来署が必要であること、続いて、受付時に確認される情報の一覧。道具は、正確に、必要な項目を並べてきた。氏名。生年月日。性別。身長。体重。顔の特徴。髪型。最後に目撃された日時。目撃された場所。そのときの服装。届出人との関係。写真。十二項目あった。
整合室で見慣れた種類の様式だった。人を、十二の項目に分解して、記録に載せる。身長何センチ、髪型はどうか、最後に見たのはいつか。そうやって粒度をそろえて初めて、人は書類の上で「探せる対象」になる。粒度に落ちない情報は、書式が受け取らない。志賀は仕事で、その粒度に人を落とす側にいた。届出と台帳を突き合わせ、粒度のそろわない記述を、赤で囲ってきた。
今日は、自分がその様式の前に立っていた。
志賀は、一番上の欄から埋めようとした。
氏名。
カーソルが、その欄の先頭で点滅していた。
名前が、浮かびかけた。喉の奥まで来ているのに、音にならない。口の形になりかけて、崩れる。二音か、三音か。それすらも確かではなかった。何度も呼んだはずの名前だった。帰宅して、玄関で、ただいまより先に呼んだかもしれない名前。それが、カーソルの前で、輪郭を結ばない。
カーソルは、氏名の欄で点滅を続けていた。
次の欄へは進めなかった。氏名が埋まらなければ、その下の十一項目は、誰についての情報なのかが定まらない。身長も、服装も、最後に見た場所も、「誰の」がなければ、宙に浮く。すべての項目が、最初の一つにぶら下がっていた。そして最初の一つが、埋まらない。
志賀は、それでも下の欄を見ていった。生年月日、性別、身長。わからない。数字にならない。書きかけて、書けないと気づく。
顔の特徴。輪郭が立ちかけた。髪の長さ。目のあたりの印象。笑ったときの、口元の何か。どれも一瞬だけ浮かんで、水面の反射のように崩れた。書類に書ける粒度ではなかった。
最後に目撃された日時。場所。服装。どれも、不明だった。
届出人との関係。
その欄の前で、志賀は一番長く止まった。恋人、と書けるほどの確信はない。家族、と書ける根拠もない。ただ、鍵を開ける前から、部屋の中の音を探してしまう相手だった、とは書けない。書式にそんな粒度はない。関係を一語で言い当てる言葉が、志賀の側になかった。
体は、覚えていた。歩幅。紅茶。靴の位置。歯ブラシ立ての口の広さ。右を空けて座る癖。川沿いを歩いたときの、膝の速度。どれも確かに、体の中に残っている。だが、そのどれも、書類の欄には落ちてこない。
名前のない人を探してください。顔はわかりません。年齢も、性別も、最後にどこにいたかも知りません。ただ、隣にいたことだけは確かです。
そう言って窓口に立つ自分を想像した。対応する係員の顔が浮かんだ。困惑ではなく、静かな心配を向けられる。大丈夫ですか、と聞かれる。その問いに、今の自分は何と答えるのか。
志賀は、AIアシスタントの画面を閉じた。
十二の欄は、一つも埋まらなかった。カーソルは、氏名の先頭で、点滅だけを続けていた。この一本の線の手前に、埋められない十二項目が、全部ぶら下がっている。線が動けば、下も動く。線が、動かなかった。
届け出るには、誰を、が要る。志賀には、その「誰を」がなかった。名前を奪われたのではない。名前が、初めから世界の索引に載っていなかった。
消えたのではなかった。届け出は、そこに以前は在った、という「前」を証言する手続きだ。だが志賀には、その「前」が、記録として一つも残っていない。前がなければ、不明もない。失踪するには、まず存在していなければならない。存在の記録が世界の側に一行も残っていない相手を、届け出る様式は、この国のどこにもなかった。
テーブルの上のコーヒーに手を伸ばした。冷え切っていた。それでも飲んだ。苦味だけが、舌の上に残った。
夕方になっていた。
窓の外は曇ったまま、部屋の中が早くから暗くなった。照明をつける。やわらかい光が、テーブルの上を照らした。
志賀は椅子にもたれ、目を閉じた。届け出のリストの、埋まらない十二の欄が、まぶたの裏にまだ並んでいた。一つも埋まらない欄を、いつまでも見ていたせいで、目の奥が乾いている。眠るつもりはなかった。ただ、椅子に体を預けたまま、意識が浅く沈んだ。
沈んだ意識の底で、湯気が立っていた。二つ分の、湯気。誰かの笑い声の輪郭が、言葉にならないまま、耳のうしろを撫でた。志賀の手元の飲み物を、その誰かが、可笑しそうに笑ったという、体の側の記憶。何を言われたかは残らない。ただ、苦い、という揶揄いの温度だけが、舌ではなく、耳の奥に残った。
……さく。
女の声が、頭の奥で一度だけ触れた。
言葉ではなかった。名前を呼ぶ音だけが、輪郭になって届いた。低くもなく、高くもない。咎める色もない。ただ、こちらへ向けられていた。誰かが、志賀を、そう呼んだ。テーブルの向こう側から。湯気の立つカップを、両手で包みながら。
志賀は目を開けた。
部屋は静かだった。冷めたコーヒーの匂いしかしない。振り向いても、誰もいない。聞き間違いだ、と考える方が自然だった。夢の断片だ、と。だが今の一語は、これまでの夢より少しだけ近く、確かに自分へ向けられていた。
さく。
自分の名だった。志賀朔。その下の名を、あの声は、確かに呼んでいた。呼んだ声の主の顔は、やはり浮かばない。声の温度だけが、耳のうしろにしばらく残って、それから消えた。
届け出の欄には、書けない声だった。名前を呼ばれた、とは書ける。だが、誰に、が書けない。志賀の名を呼び捨てにできる距離にいた誰か。その距離だけが、耳の奥に残っていた。声の温度も、呼ばれ方の親しさも、十二の項目のどこにも落ちない。落ちないものだけが、志賀の側に残っていた。
志賀は水を一杯飲んだ。
テーブルに戻ろうとして、鞄が目に入った。
昨日、川沿いから帰って、椅子の脇に置いたままだった。中身は一度出したはずだ。財布、社員証、ボールペン、町会の案内図。整合室の案件メモ。どれも、自分が持っていて不自然ではないものばかりだった。
それでも志賀は、もう一度、鞄の中に手を入れた。今日見てきた記録に対抗できる何かを、まだ探していた。記録の側のどこかへ食い込める、一つの物を。
鞄の底で、指先が紙の角に触れた。
薄い冊子だった。メモ帳にしては硬く、封筒にしては小さい。引き抜くと、掌に収まるくらいの縦長のノートが出てきた。表紙はくすんだ緑色で、端が擦れている。指で撫でると、雨に濡れても傷みにくそうな、つるりとした紙の質感があった。
志賀は、それを見下ろした。
自分のものではなかった。少なくとも、買った記憶がない。整合室で使う案件ノートは、もっと大きい。こんな色でもない。普段の鞄の底に、こんな冊子が入っているはずがなかった。
昨日まで、こんなものはなかったはずだ。
鞄をひっくり返しても、同じものは出てこない。緑の冊子だけが、テーブルの上で、妙に落ち着いて見えた。そこに最初から置いてあったような顔をしている。あの部屋の靴箱や、食器棚と、同じ顔だった。前からそこにあった、と言い張る顔。
見覚えは、なかった。ないはずだった。
だが、表紙の擦れた角に指を当てたとき、指の腹の方が、その擦れ具合を知っている気がした。何度も鞄に入れて、出して、また入れた冊子の、角の丸まり方。志賀の指は、その手触りに馴染んでいた。見たことはないのに、触ったことはある。そういう冊子だった。
開くのを、志賀は一度ためらった。
今日一日で、記録の側は十分すぎるほど志賀を否定した。これを開けば、そこに書かれた何かまで、自分の記憶と噛み合わない可能性がある。あるいは、噛み合ってしまう可能性が。どちらも、こわかった。
それでも、指が先に、表紙をめくっていた。
最初のページに、手書きの数字が並んでいた。
座標らしき数列だった。緯度と経度の書式に近い。一行ごとに、数字の横へ、短い地名らしきメモが添えてある。筆圧は均一で、字は小さいが読みやすい。市内のどこかを、順に記録しているように見えた。
整合室でなら、これがどういう種類の記録か、志賀にはすぐ見当がついた。現地を歩いて、位置を控えていく手つきだった。座標を記し、地名を添え、次の行へ移る。調査の記録だ。誰かが、足で回って、一地点ずつ書き留めている。日付は、どこにもなかった。いつ書かれたのかを、この冊子は明かさない。座標と地名だけが、日付のない時間の中に、整然と積み上がっていた。
筆跡に、目が留まった。
この字を、見たことがある気がした。どこで、とは浮かばない。ただ、数字の3の上の弧を閉じない書き方に、かすかな馴染みがあった。何度も、近い距離で見た字のような。同じテーブルの、向かいではなく、隣で書かれるのを見ていたような。誰の字だったのかは、出てこなかった。
数ページめくった。座標の列は、ページごとに位置が変わっている。地名のメモの中に、「柳瀬」の二文字があった。
志賀の指が、そのページで止まった。
柳瀬。台帳にない町名。志賀の口の中にだけ馴染みの残る音。それが、この見知らぬ冊子の中に、当たり前のように書かれていた。書いた人間は、柳瀬という名前を、疑わずに使っていた。志賀と同じように。
これ以上は、今日は読み込めなかった。確認作業で、限界に来ていた。もう一つ何かを見つけても、受け止められる余裕がなかった。
最後のページだけ、開いた。
余白に、走り書きが一行あった。
本文の座標列とは、字の速さが違った。急いで書いたような字だった。インクの乗りが薄く、ペン先を押しつけた跡が、紙にわずかに凹んでいる。整った座標の列とは、温度が違った。
6は空白じゃない
志賀は、その一行を見つめた。
何の6か。何が、空白なのか。
昨日、川沿いで見た標識が浮かんだ。五の隣が、七だった。六がなかった。案内板にも、住居表示にも、六番に相当する区画の名前はなかった。区画はあった。建物も、人も、洗濯物もあった。ただ、番号だけが抜けていた。
6は空白じゃない。この一行を書いた人間は、それを知っていた。六番の区画が、空欄ではなく、名前を剥がされた実体だということを。志賀が昨日、しゃがんで標識の間隔を測って、ようやく気づいたことを。この字を書いた誰かは、先に知っていた。
空白じゃない、という否定の書き方が、志賀の目を引いた。誰かに、それは空白ではない、と言い返しているような。あるいは、自分に言い聞かせているような。静かに事実を積み上げる座標の列を、最後の一行だけが突き破って割り込んでいた。記録では収まらない何かが、一行だけ、こぼれている。乾の通報票の、枠からはみ出した字と、どこか似ていた。
それ以上のことは、まだわからなかった。
志賀は冊子を閉じた。表紙を上にして、テーブルの中央に置いた。
この冊子が誰のものかは、わからない。筆跡に覚えはあるが、それだけでは何も証明できない。名前がない。持ち主の情報が、どこにもない。さっきの届け出と、同じだった。手元に確かにあるのに、それが何であるかを説明する言葉が、足りない。
今日一日、志賀は自分の側の記録を、全部調べた。契約書、写真、メッセージ、届け出の書式。すべてが、一人分の人間を描いていた。その果てに残ったのが、この緑の冊子だけだった。記録の側に一つも味方がいない部屋で、ただ一つ、記録に載っていない物だった。
洗面所で水を飲んだ。歯ブラシは一本のまま、白い筒の中に立っている。鏡の中の自分は、先週の木曜の夜より、少しだけ痩せて見えた。
テーブルに戻り、椅子に座る。緑の冊子と、冷めたコーヒーのマグカップ。あの一行を写したメモ用紙も、置いたままそこにあった。自分の字で写した紙は、何日経っても、志賀が書いたという以上のものにならなかった。
消えたのではなかった。届け出るための「誰か」が、初めから、世界の側にいなかった。




