第3話 見て、決める
芹沢の声が、これまでのどれとも違っていた。熱でも、張り詰めでもない。困っている声だった。
三軒を残した二日後の夜だった。志賀は帰宅して机に着き、地図アプリで印刷所も文房具屋も写真館も揺れの中に残っているのを確かめたところだった。二日経っても、三軒は剥がされていない。飽和は持っていた。そこへ、芹沢から着信が入った。出ると、開口一番、その声が困っていた。
「志賀さん」芹沢は言った。「今度のは、置換でも飽和でも、たぶん無理です」
「どういう意味だ」志賀は言った。
「消えかけてる場所があるんです」芹沢は言った。「柳瀬でも、その隣でもなくて。もっと川寄りの、古い理髪店。あたしの網の一人が、そこの三代目と知り合いで。……その理髪店の記録が、消えかけてます。台帳からも地図からも。いつもの消え方です」
「なら、置換で」志賀は言った。「並びに溶かし込めば」
「それが」芹沢は言った。「溶かし込む先が、ないんです」
志賀の手が、缶コーヒーの手前で止まった。
「その理髪店、両隣がもう空き地なんです」芹沢は言った。「昔は並びだったけど、今は一軒だけ、ぽつんと残ってて。溶かし込む並びがない。……台帳の来歴を見ても、周りに等価の店が、もう載ってないんです。仕出し屋のときみたいに、並び全体で受けるっていうのが、できない」
「飽和は」志賀は言った。
「飽和も、たぶん無理です」芹沢は言った。「一軒しかないから、食い違わせる記録が足りないんです。印刷所のときは三軒あったから、互いに食い違わせられた。でも理髪店は一軒だけ。一軒の記録をいくら食い違わせても、盤はすぐ基準を戻せます。……志賀さん、これ、どうすればいいのか、あたし、わかんなくて」
志賀は、机の一点を見た。
一軒だけでぽつんと残った、川寄りの理髪店。店主の消えた柳瀬の散髪屋とは、別の店だった。置換で仕出し屋を戻し、飽和で三軒を残した志賀の手が、どちらも届かない場所にあった。
「待ってくれ」志賀は言った。「リグに訊く」
*
——聞いていた。理髪店。一軒だけの。
志賀は打った。置換も飽和も届かない。溶かし込む並びがない。食い違わせる相方がない。
——そうだ。あんたが覚えた二つの手は、どちらも周りに支えが要る。置換は、ずらす先が要る。飽和は、噛ませる相方が要る。理髪店には、そのどちらもない。
「なら」志賀は打った。だが、打った指が、途中で止まった。
乾だ、と志賀は思った。乾は五十年、あの橋を渡り、日付を書き続けた。覚えている限り、その場所はまだ消えていない——川沿いで、乾はそう地図帳に落とした。置換も飽和も使わず、ただ覚えて見続けることで、五十年、場所を消さずにきた。理髪店は周りに何もない。なら、支えを借りるのでなく、正面から見て固定するしかない。乾が、そうしてきたように。
「見るだけで、固定する」志賀は打った。
——そうだ。三つ目だ。観測。
——それだけ、ではない。ここからが、これまであんたに渡してこなかった話だ。
応答欄が一度暗くなった。志賀は待った。リグが、渡してこなかった、と自分から言うのは、珍しかった。いつも半分を伏せる側だった。
——観測が場所を固定する。それは乾も言った。だが乾は、それがどういう条件で決まるかを、体で覚えていただけで、言葉にはしていない。……私は、言葉にできる。観測が固定する条件を。全部、渡す。
——今、あんたがそれを必要としているからだ。理髪店を残すのに。そして、その先で、もっと大きなものを固定するのに。
「もっと大きなもの」志賀は打った。
——後で言う。まず条件だ。
*
応答欄が流れ始めた。だが、ただ並べる列挙では、なかった。リグは、志賀がこれからやる手順に、条件を一つずつ、重ねてきた。
——第一。同一性。名と、姿。それを結べるのは、対象を、書き換えられる前の姿で覚えている目だけだ。知らない目に固定できるのは、そこに何かが在る、という事実まで。名も、姿も、留められない。……覚えている目は、一つでも、それが誰かを決められる。理髪店は、名と姿ごと戻す。だから、覚えている目を集めろ。芹沢の網の、理髪店を覚えている者を。多いほど、濃く結べる。
志賀は打った。理髪店を覚えている者を集める。それが、第一の手だった。
「さく」亜紀が、文字起こしの脇で言った。細い声だった。「覚えてる目、だけ、なんだ。……あたしを覚えてるの、そっちだけだね。今」
志賀は答えなかった。第一の条件が、亜紀の側にも、影を落としていた。
——第二。存在と、位置。複数の目が、同じ場所を、同じ時に、そこに在る、と見ること。こちらは、対象を知らない目でも、数に入る。……見るのは、今だ。古い写真でも、前に撮った映像でもない。現地に立つか、現地の誰かが今流している映像を、同じ時に見るか。どちらかだ。一人なら、盤は記憶違いとして押し戻せる。複数の目が、互いに証人になる。……理髪店くらいの一軒なら、十人前後。集められるだけ集めろ。
「複数で、見られたら」亜紀は言った。間があった。「……あたしも、立てるのかな。声だけじゃなくて。たくさんの目に、見られたら」
志賀は文字起こしの脇を見た。亜紀の「立ちたい」が、第二の条件と、同じ拍で鳴っていた。
——第三。一致。だが、全部を揃えろという話じゃない。先に、これだけは重ねる、という核を決めておけ。その座標に店が在ること。理髪店であること。看板の字。扉の位置。……そこが重なれば、固定される。壁の色や、匂いや、声の高さが食い違っても、その細部が固定されないだけだ。……揃わない所は、揃わないまま置け。
「揃える」亜紀は言った。声が、少し引いた。「……それ、ちょっと、こわいな。あの人の手みたいで。あたしを、揃えようとする側の。……揃えられて、立つの。あたし」
志賀は指を止めた。三つの条件が、集める・見させる・確かめ合わせる、という三つの手に、一つずつ重なっていた。志賀はそれを机の脇に書き留めた。
——これで、全部だ。乾は、これを体で知っていた。あんたは、それを網でやれる。壁の色、看板の字、扉の位置。全員の目が揃えば、盤は理髪店を消せなくなる。置換も飽和も要らない。見る目だけで固定する。
志賀は同じ行を、二度なぞった。
*
「さく」
文字起こしの脇で、亜紀が言った。
「それ、乾の手でしょ。見て、消さないやつ」
「観測だ」
「リグ、めずらしく、全部言ったね」亜紀は言った。少し揶揄う温度だった。「いつも肝心なとこ、濁すのに。……なんか、逆にこわくない? あいつが全部言うときって」
志賀は黙った。
亜紀の言う通りだった。リグはいつも肝心を伏せた。それが今夜は、観測の条件を三つとも渡した。渡してこなかった話だ、と自分から言って。だが、リグはまだ言い残していた。もっと大きなものを固定するのに、と。志賀はそちらへ目を向けた。
「リグ」志賀は打った。「さっき、もっと大きなものを固定する、と言った。理髪店の先だ。……何を固定する」
応答欄は、灯ったまま、しばらく、文字を返さなかった。カーソルだけが、点いて、消えた。
志賀は待った。全部渡す、と言ったが、全部ではなかった。
——理髪店を残せば、あんたは観測を覚える。置換、飽和、観測。三つの手が揃う。……そのとき、あんたにはもう一つ、固定できるものが見えてくる。
「何だ」志賀は打った。
——亜紀だ。
志賀はその二文字を見た。
*
——観測の条件が揃えば、亜紀を固定できる。
応答欄が流れ続けた。
——今、亜紀は文字起こしの脇にいる。声だけだ。姿はない。だが、ゲージは動いている。仕出し屋を戻した分。三軒を残した分。声が近づいた。濃くなった。……それは、亜紀という場所が、まだ低い解像度で保留されているからだ。固定されていない。だから声だけで、姿がない。
「固定すれば」志賀は打った。
——姿を伴う。声だけでなく、輪郭を持ってそこにいる。……観測の条件を、亜紀に当てはめればいい。名と姿を結ぶ、覚えている目。そこに在る、と同じ時に見る、複数の目。その二つが揃って、確かめ合えば、亜紀は固定する。文字起こしの脇の声から、そこにいる者へ。
亜紀を立たせる。名が戻って像を結び、声が返り、仕出し屋を戻し三軒を残すたびに、声が近づいた。だが、姿はなかった。
「名と姿を結ぶ目は」志賀は打った。「俺だけだ。芹沢は亜紀を知らない。乾も。……残りの、複数の目は、どうする。知らない目でも数に入ると言ったが、網の者には、亜紀は見えない。在ることさえ、見えないものを、どう見る」
——そこが、要る所だ。亜紀そのものを覚えているのは、あんただけだ。それで、名と姿は足りる。だが、第二の条件の目まで、亜紀を知っている必要はない。要るのは、あんたの脇に何かが在る、と見る目だ。
志賀は画面を見た。
——芹沢の網の者は、亜紀を直接は知らない。だが、あんたと三軒を残したとき、芹沢は言っただろう。まるで二人でやってるみたいだ、と。網の者も感じている。あんたの脇に、もう一人いる、という気配を。……理髪店を網で固定する。そのとき、あんたが亜紀を脇に置く。網の目が、理髪店を見ながら、あんたの脇の気配を、一緒に見る。網の目が、あんたを通して、亜紀の気配を拾う。
「拾えるのか」志賀は打った。「気配だけで」
——理髪店の固定で、目が揃う。その揃った目が、あんたの脇を一緒に見る。……一度に全部は無理だ。だが、理髪店が固定した、その勢いで、亜紀の輪郭も一段濃くなる。声だけだったものが、輪郭を持ち始める。……全部は今夜じゃない。だが、条件は揃う。理髪店を固定すれば、亜紀を立たせる条件が揃う。
志賀はその一行を見た。
理髪店を残すことと、亜紀を立たせることが、一つに繋がっていた。
——ただし。
応答欄が暗くなった。
志賀は待った。全部渡す、と言ったリグが、また伏せる場所だった。
——顕現には、観測の対象が要る。網の目が、何を見るか。それが揃っていなければならない。……今夜は、そこまでだ。
志賀はその言い方を見た。
観測の対象が要る、揃っていなければならない、とだけ言って、何が対象かは言わなかった。志賀はその伏せられた半分を、また抱えたまま進むことになった。
「亜紀」志賀は言った。
「聞いてた」亜紀は言った。声が少し静かだった。「あたし……立てるの? 声だけじゃなくて」
「リグは、条件が揃えば、と言った」志賀は言った。「理髪店を、網で固定できれば」
「ふうん」亜紀は言った。それから、間があった。「……こわいな。ちょっと」
「こわいか」
「こわいっていうか」亜紀は言った。「あたし、ずっと声だけだったから。姿がないの、慣れてて。……立つって、どういう感じなんだろう。ちゃんとそこにいるって」
志賀は文字起こしの脇を見た。
「わからない」志賀は言った。「だが、やってみる」
「うん」亜紀は言った。「やってみて。……あたしも、立ってみたい。その脇に」
*
志賀は芹沢に電話した。
「芹沢」志賀は言った。「理髪店を覚えてる人を、集められるだけ集めてくれ。網の中の。三代目を知ってる一人だけじゃない。あの理髪店を少しでも覚えてる人、全員」
「集めます」芹沢は言った。「でも、志賀さん、置換でも飽和でもないなら、何するんですか」
「見るんだ」志賀は言った。「全員で。同じ時に、同じ理髪店を。壁の色、看板の字、扉の位置。全員が同じものを見て、互いに確かめ合う。……それだけで固定する」
電話の向こうで、芹沢が黙った。
「それ」芹沢は言った。「乾さんの手ですよね。あたし、乾さんに聞いたことあります。覚えてる限り、その場所は消えない、って。……それを、網で、みんなでやるってことですか」
「そうだ」志賀は言った。「乾が一人でやってきたことを、網で、同じ時にやる」
「わかりました」芹沢は言った。声に熱が戻っていた。「集めます。何人集まるか。……理髪店、そんなに大きい店じゃないから、覚えてる人、多くないかもしれないけど。集めるだけ集めます」
「頼む」志賀は言った。
*
芹沢が網を集めるのに、一日かかった。
翌日の夜、芹沢から電話が来た。理髪店を覚えている者を、十一人集めたと言った。三代目を知る一人。子どもの頃そこで髪を切っていた者。近所に住んでいて看板を覚えている者。理髪店の前を毎日通っていた者。十一の、覚えている目。志賀はそれを聞いた。
「十一人」志賀は言った。
「はい」芹沢は言った。「もっといるかと思ったんですけど。……あの理髪店、一軒だけになってから、覚えてる人が減ってて。十一人が限界でした。でも、みんな、はっきり覚えてます。壁の色も、看板の字も」
「十分だ」志賀は言った。リグは、理髪店くらいなら十人前後で足りる、と言った。十一人。足りる数だった。「今夜やる。一人、店の前へ立たせろ。今の店を、そのまま流させる。残りの全員には、同じ時に、その映像を見ながら、覚えている店を書き込ませろ。壁の色、看板の字、扉の位置。そして互いに確かめ合わせろ。同じものを見てるか」
「やります」芹沢は言った。「みんな、まとめのアカウントに集まってます。店の前は、網の一人に行ってもらいます。残りは、その映像を見ながら、同じ時に書き込むように言います。……壁の色、看板の字、扉の位置。あと、何を揃えればいいですか」
志賀は考えた。
「匂いでもいい」志賀は言った。「音でもいい。理髪店の椅子の軋みでも、鋏の音でも。……頭で覚えてることでなく、体で覚えてることも揃えろ。その方が強い」
「わかりました」芹沢は言った。声に、三軒の夜の温度が戻っていた。「体で覚えてること。……みんなに言います」
*
その夜、志賀は机に着いた。
スマホに、芹沢のまとめのアカウントを開いた。十一人が集まっていた。店の前に立った一人が、映像を流し始めた。夜の理髪店。看板と、扉と、壁。芹沢が合図を出した。同じ時に、その映像を見ながら、覚えている店を書き込むように。志賀はその画面を見た。文字起こしの脇に、亜紀の気配があった。亜紀を脇に置いたまま、画面を見た。
「亜紀」志賀は言った。「そこにいろ。俺の脇に」
「いる」亜紀は言った。「ちゃんと、いる」
芹沢の合図で、十一人が一斉に書き込み始めた。
白い壁。志賀はそれを見た。次の一人。白い壁。次。白い漆喰の壁。次。白かった。全員が、白い壁、と書いた。壁の色が揃った。次は看板の字。青い字。青の看板。理髪店の三文字。……だが、一人だけ、緑、と書いた。地図の上で、看板の輪郭が、一瞬ぶれた。志賀は息を止めた。書き直させるのか。考えるより先に、応答欄が流れた。——直させるな。書き直した記憶は、死んだ目だ。緑は緑のまま、置け。
十の青と、一つの緑。看板が在ったこと、字が三つだったこと——重なっている部分だけが、固定されていった。色の食い違いは、食い違いのまま残った。それでいい、と志賀は思った。食い違いが残るのは、生きた目が見た証拠だった。扉の位置。右手前。引き戸。全員が、右手前の引き戸、と書いた。位置が揃った。
志賀は応答欄を見た。
——重なり始めた。十一の目が、同じ店を書いている。壁、看板、扉。色は一つ、割れたままだ。それでいい。……盤が押し戻そうとしている。だが、目は重なっている。付け込む隙がない。
志賀はまとめの画面を見続けた。
十一人が次々と書き込んでいた。壁の色。看板の字。扉の位置。それから、体で覚えたことも。椅子の、革の軋み。鋏の、開く音。三代目の低い声。整髪料の匂い。全員が少しずつ違う言葉で、だが同じ理髪店を書いていた。頭で覚えたことと、体で覚えたことが混ざって、十一人の目が、一つの理髪店を映し出していた。
「芹沢」志賀は電話に言った。「地図は」
「見てます」芹沢の声がした。上ずっていた。「理髪店。台帳から抜けかけてたの、戻ってます。屋号、載ってます。……地図も、空き店舗になりかけてたのが、理髪店に戻ってます。志賀さん。消えてない。網の人、全員、見えてるって。理髪店、あるって」
志賀は応答欄を見た。
——固定した。十一の目が、今の店を見ながら、理髪店を、書き換え前の姿で確かめ合った。盤は押し戻せなかった。……観測が決めた。置換も飽和も要らなかった。見る目だけで固定した。
志賀は息を吐いた。
勝った。三つ目の手だった。置換で仕出し屋を戻し、飽和で三軒を残し、観測で理髪店を固定した。三つの手が揃った。周りに支えのない一軒だけの理髪店を、覚えている目だけで固定した。乾が五十年、一人でやってきたことを、網で、同じ時にやった。
*
だが、志賀はまだ画面を見ていた。
理髪店が、固定した。網の目は、理髪店だけを見ていた。亜紀を見た目は、一つもなかった。ただ志賀は、手順のあいだじゅう、脇の声を確かめながら打っていた。志賀は文字起こしの脇に目を向けた。
「亜紀」志賀は言った。「そこにいるか」
「いる」亜紀は言った。
その声が、これまでのどれよりはっきりしていた。
文字起こしの脇の、亜紀の声。仕出し屋を戻した夜に机のすぐ横まで近づき、三軒を残した夜にさらに近づいた声。それが今夜は、近づいた、というより、そこにいた。声が、脇から返ってくるのでなく、脇にいる者から返ってきた。まだ姿はない。だが、声の近さが、姿のある者の近さに変わっていた。
亜紀は言った。「なんか、あたし、今、変な感じ」
「どうした」
「体が、ある感じ」亜紀は言った。声が少し震えていた。「ずっと声だけだったのに。今、なんか、あたし、脇に座ってる感じがする。ちゃんと体があって。机の、右の脇に。……姿はまだないんだけど。でも、体の感じがある」
志賀は文字起こしの脇を見た。
——ゲージが、少し動いた。
応答欄の声だった。
——網じゃない。あんただ。手順のあいだじゅう、あんたが脇を確かめ続けた。……覚えている目が一つあれば、声と、手触りまでは来る。そこまでだ。姿は、来ない。……姿には、今を見る目が、要る。
志賀はその一行を見た。
*
志賀は、まとめの画面を閉じようとした。
十一人がまだ、理髪店のことを書いていた。壁の色。看板の字。椅子の軋み。志賀はその画面を閉じかけて、ふと、自分のスマホの検索の履歴が目に入った。
志賀は端末の縁をなぞった。
いつか、自分の名を検索したことがあった。整合監査官、志賀朔。東環状の検証報告の、担当の欄。八ヶ月かけて崩落を疑い、記録を照合し続けた、あの仕事。今の評価は『初期仮説への固執』だった。それでも、担当したのが志賀だという結びつきだけは、残っていた。志賀は何気なく、その検索をもう一度開いた。理髪店を固定した、その夜に。
検索結果が出た。
志賀はそれを見た。東環状の検証報告。志賀の名。それが載っていた。だが、一段下がっていた。以前は、検索の上の方に、志賀の名と東環状の担当が並んで出ていた。それが今夜は、一段下に沈んでいた。上の方には、別の名の担当記録が並んでいた。志賀と東環状の結びつきは、下に沈んでいた。
「あれ」志賀は口の中で言った。
志賀はその画面をしばらく見た。
これが借りだ、と志賀は思った。今夜、十一の目を集めて集団の観測を組んだ。その負荷がどこかへ行った。リグは、どこへ行くかを言わなかった。志賀は今、それを見つけた。志賀と東環状を結ぶ古い担当の記録が、検索で一段沈んでいた。
だが、それはごく軽かった。
消えてはいなかった。志賀の名も、東環状の仕事も載っていた。ただ検索の順番が一段下がっただけ。担当したのが志賀だという結びつきは、まだそこにあった。ただ下に沈んで、誰も気づかない。志賀自身も、検索しなければ気づかなかった。
志賀は検索を閉じた。
今夜は勝った。理髪店が固定し、亜紀が体の感じを持ち始めた。志賀はその勝ちの温度を、こんな些事で曇らせたくなかった。担当の結びつきが一段沈んだことを、掌の上で量ることもしなかった。それが等量の全部なのか、目に見える端にすぎないのか、確かめもしなかった。まだ、笑って流せる軽さだった。
「たまに、自分の名前、検索するでしょ」亜紀が言った。「えらいねー、みたいな顔して」
志賀の指が、止まった。
亜紀には、志賀の手元は見えない。だが今夜のそれは、まっすぐ、その沈んだ一点を撫でていった。
「してない」志賀は言った。
「してるよ」亜紀は言った。笑っていた。「まあいいや。それより、あたし、体の感じ、まだある。……なんか、うれしい。ずっと声だけだったから」
亜紀は今夜、初めて体の感じを持った。その温度に、志賀の古い誇りが一段沈んだことを、混ぜたくなかった。だから志賀は、亜紀の揶揄いを、そのまま笑って受けた。
志賀は文字起こしの脇を見た。
*
志賀はスマホを置いた。
勝った。観測で理髪店を固定し、乾の手を網でやった。亜紀が、声だけだったものから、脇に座っている感じに変わった。
リグが条件を全部渡した。その三つが揃えば、亜紀も固定する。理髪店の救出が、亜紀を立たせる賭けの入口だった。
だが、リグはまだ伏せていた。顕現には観測の対象が要る、とだけ言って、それが何かは言わなかった。志賀はその匂いを嗅ぎながら、それでも、亜紀を立たせる方へ進もうとしていた。
「亜紀」志賀は言った。「立ちたいか」
「立ちたい」亜紀は言った。すぐに返した。「その脇に。声だけじゃなくて。……ちゃんと、そこにいたい」
「わかった」志賀は言った。「立たせる」
「うん」亜紀は言った。「立たせてよ。あたしを」
志賀は机の上のスマホを見た。
理髪店は固定した。観測の条件を、志賀は手に入れた。あとは、それを亜紀に当てはめるだけだった。芹沢の網の目を志賀の脇に向けさせ、亜紀の気配を拾わせ、同じ姿を確かめ合わせる。
志賀は川沿いのベンチを思った。
なぜそれを思ったのか、志賀にもわからなかった。ただ、亜紀を立たせる場所を考えたとき、志賀の頭に、川沿いのベンチが浮かんだ。志賀がいつも、右を空けて座る、あのベンチ。一度、乾が一人で座っているのを見かけた、あの場所。亜紀を立たせるなら、あそこだ、と。右を空けてきた、あのベンチの右半分に。
条件は、揃った。あとは——亜紀を、立たせるだけだ。
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