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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第4巻 座る
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22/43

第2話 同時に、噛ませる

 その店の名が、口の中で、出てこなかった。


 翌朝だった。志賀は地図アプリを開いていた。昨夜、仕出し屋は戻っていた。並び全体の来歴に屋号が載り、台帳の列にも抜けていた名が戻り、囮が効いた置換は、夜のうちに剥がされてもいなかった。志賀は安堵して、それから、二区画離れた、あの一点へ目を移した。昨夜、屋号が消えていた店。志賀が、いつか、何かを買った店。今朝も、そこは「空き店舗」のままだった。


 志賀は、その店の名を、口の中で言おうとして、指を止めた。


 言えなかった。


 昨夜は、言えた。地図から消えても、志賀の記憶にはまだ屋号があった。だが今朝、その名が、志賀の中からも抜けかけていた。古い、小さな店。仕事帰りに、何かを買った。そこまでは覚えていた。だが、屋号が、出てこなかった。昨夜まで、まだあった名が。


 志賀は、その空白を、見ていた。


「さく」


 文字起こしの脇で、亜紀が言った。


「なに、見てんの。朝から」


「昔、ここに」志賀は言った。地図の一点を指したが、亜紀には見えなかった。「店があった。小さい店。俺は、そこで、何か買った。……名前が、出てこない」


「へえ」亜紀は言った。軽い温度だった。「なんの店」


「それも」志賀は言った。「思い出せない」


「記憶わるいね」亜紀は言った。揶揄っていた。「昔の小さい店なんて、そんなもんでしょ。あたしだって、前はなんだっけ、って店、いっぱいあるよ。……たぶん」


 志賀は、その「たぶん」で、手を止めた。


「亜紀」志賀は言った。「思い出せるか。前はなんだっけ、って店」


 亜紀は黙った。


「……いや」亜紀は言った。間があった。揶揄いの温度が、一瞬、引っかかった。「なんか、言っといて、あれだけど。……あたし、そういう店、一個も、具体的に出てこない。前はなんだっけ、って言うわりに、その『前』が、なんにも出てこない」


「別に、いいんだけど」亜紀は言った。すぐに、軽さを戻した。「あたし、そういうの、もともと覚えてないし。記憶の脇にいるだけだから。そっちが忘れてるものは、あたしも、たぶん、ないんだよ。……なんか、変な感じ。忘れた店、あたしも、拾えない」


 志賀は、その言い方を、聞いた。


 忘れた店、あたしも拾えない。だが志賀は、その掛け合いの底に、昨夜消えた屋号の残響を聞いた。志賀が忘れたものは、亜紀にも、もう、ない。


「まあ、いいや」志賀は言った。


「うん、いいでしょ、そんなの」亜紀は言った。「それより、朝。会社、行かないの」


 志賀はスマホを置いた。


 消えた屋号のことは、それきりにした。亜紀の温度を、こんな小さな喪失で曇らせたくなかった。二区画離れた一点の屋号は、二人の掛け合いの中で、そのまま流れて消えた。


  *


 芹沢から電話が来たのは、その日の夜だった。


 志賀が帰宅して、夕飯を済ませた頃だった。スマホが鳴った。芹沢の声は、昨日の、仕出し屋のときの熱とは、違っていた。少し、張り詰めていた。


「志賀さん」芹沢は言った。「今度のは、昨日のと、違います」


「どう違う」志賀は言った。


「柊の手です」芹沢は言った。「たぶん。昨日の仕出し屋は、放っておかれて消えてく感じだったけど。今度のは、順番を、いじられてる感じがします。柳瀬のときと、同じ」


 志賀は椅子に座り直した。


「どこの」志賀は言った。


「柳瀬の、隣の区画です」芹沢は言った。早口だった。「志賀さんが守った、あの角の、すぐ隣。あそこに、古い印刷所と、その向かいの文房具屋と、あと角の写真館があって。三軒とも、あたしの網が、ずっと記録してた場所です。……その三軒が、今、順番に、消えかけてます」


「三軒」志賀は言った。柳瀬の印刷所とは、別の店だった。


「はい」芹沢は言った。「しかも、消え方が、変なんです。一軒ずつ、押し返そうとすると、別の一軒が、先に消えてく。印刷所を守ろうとすると、文房具屋が消えかけて。文房具屋を守ると、写真館が。……三軒を、同時に、追い立てられてる感じで。一軒守っても、間に合わないんです」


 三軒を同時に。柊の采配だった。あのとき柊は柳瀬の角を迂回して外から網を畳んだ。今度は、志賀が守った角の隣の三軒を、同時に追い立てていた。単発の置換では、間に合わない。


「柊が」志賀は言った。「三軒を、同時に消そうとしてる」


「そう見えます」芹沢は言った。「あたしの網、三軒を同時に見張ろうとしてるんですけど、目が、散っちゃって。一軒に集めると、残る二軒が消えて。三軒に散らすと、どれも守り切れなくて。……志賀さん、これ、昨日みたいなずらしじゃ、無理ですよね」


 志賀は黙った。


 昨日の置換は、一軒を並び全体へ溶かし込む手だった。だが、三軒を同時には守れない。柊は、それを見越して、単発の置換が届かない場所へ手を伸ばしていた。


「無理だ」志賀は言った。「昨日のずらしじゃ、届かない」


「じゃあ」芹沢は言った。「どうするんですか」


「待ってくれ」志賀は言った。「リグに、訊く」


  *


 ——聞いていたな。三軒、同時に。


 志賀は打った。単発の置換じゃ、届かない。


 ——届かない。柊は、三軒を、互いに消させ合う形に置いた。一軒を守れば、その守りの重さが、隣の一軒を押し出す。三軒が、天秤みたいに、繋がっている。一つを上げれば、一つが下がる。……置換で一軒をずらすと、そのずらした重さが、残る二軒のどちらかを、押し落とす。柊は、それを狙っている。


「じゃあ」志賀は打った。「どうする」


 応答欄が、暗くなった。それから、流れた。


 ——二つ目だ。


 志賀は、その一行から視線を上げられなかった。


 ——飽和。三軒を、一軒ずつ守るのでなく、三軒の記録を、同時に、互いに食い違わせる。柊は、三軒を天秤に載せて、順に落とそうとしている。その天秤の、基準そのものを、狂わせろ。三軒の記録が、互いに矛盾していれば、柊は、どの一軒を先に落とせばいいか、決められなくなる。天秤が、傾く先を、失う。


 志賀は付箋の角を揃えた。


 飽和。芹沢を残したときの手だった。複数の記録を同時に食い違わせ、塗る手が基準を失うようにする。


「芹沢のときと」志賀は打った。「同じ手か」


 ——似ているが、重い。あのときは、柳瀬という一つの区画の記録を、食い違わせた。今度は、三軒の、それぞれ別の記録を、同時に、しかも互いに、矛盾させる。印刷所と、文房具屋と、写真館。三軒の来歴を、三つとも、互いに食い違わせたまま、同時に載せる。……総量は、あのときの飽和より、大きい。三軒分だ。


「借りは」志賀は打った。「どこへ行く」


 応答欄が、暗くなった。


 志賀は待った。


 ——それは、言わない。


 志賀は、その一行を見た。やはりだった。


 ——一つだけ、言う。芹沢を飽和で残したときは、借りが、あんた自身の記憶へ返った。誰と使ったかだけが抜けた物。あれは、あんたが盤の外の一番軽い駒だったから、そこへ返った。……盤の取り立ては、遠い端から来る。最初は、暮らしに障らない、遠い記載から。だが、残すのを続けるほど、近い肉へ寄る。名。関係。体で覚えたこと。……今度も、借りは出る。どこへ行くかは、言わない。数え始めれば、手が止まる。今は、三軒を残すかどうかだ。


 志賀は画面を見た。


 芹沢のときの飽和は、借りが志賀自身へ返った。今度も借りは出る。数えれば手が止まり、三軒が消える。


「一つ、訊く」志賀は打った。「芹沢のときの飽和は、俺一人でやった。今度も、俺一人でできるか」


 応答欄が、間を置いた。


 ——芹沢のときの飽和は、柳瀬という、あんたが何度も歩いた区画だった。あんたの手に、その記録が馴染んでいた。だから、一人で積めた。……だが、今度の三軒は、あんたが知らない。頭では照合できる。だが、どういう場所だったか、身体で知らない。


 ——飽和は記録を食い違わせる手だが、ただの数字の列なら、盤は簡単に基準を戻す。数字は、揃え直せる。……盤に戻させないためには、記録に、身体の温度が要る。その場所を、身体で知っている者の、反射や、所作の記憶が。


「身体で知ってる者」志賀は打った。「そんなのは、いない。俺は、その三軒を知らない」


 リグは、しばらく黙った。それから、文字が流れた。


 ——一人、いる。


 志賀はその一行を見た。


 ——脇に。


  *


「あたし?」


 文字起こしの脇で、亜紀が言った。


 志賀は、応答欄と亜紀の声の間で、止まった。リグは、脇に、と言った。亜紀のことだった。志賀は、その意味を、掴みかねた。


「あたしが」亜紀は言った。「その三軒を、身体で知ってるって、こと?」


「わからない」志賀は言った。「リグは、脇に一人いる、と言った。それが、亜紀のことなら」


 亜紀は、黙った。


「あたし」亜紀は言った。「その三軒、覚えてない。印刷所も、文房具屋も、写真館も。……名前を聞いても、なんも出てこない」


 ——名は、覚えていなくていい。名は、頭の記憶だ。……身体の記憶は、別だ。その場所で、どう動いたか。どっちの手で扉を開けたか。段差が、どこにあったか。棚の高さが、どのくらいだったか。……そういうものは、名を忘れても、体の側に、残ることがある。


 志賀は、その一行を見た。


 ——亜紀は、逆かもしれない。名は覚えていない。だが、身体の側に、その三軒の何かが、残っているかもしれない。あんたと、亜紀が、頭と身体を、噛み合わせろ。それで、初めて、飽和が、盤に揃え直させない重さを持つ。


 志賀は、文字起こしの脇を見た。


「亜紀」志賀は言った。「その三軒のこと、頭じゃなくていい。……体で、何か、出てこないか。印刷所。入り口の扉。どっち手で開けた」


「そんなの」亜紀は言った。「言われても」


「いいから」志賀は言った。「考えるな。目を閉じて、印刷所の扉の前に立ってると思え。……どっちの手が、動く」


 亜紀は、黙った。


 志賀は、待った。


「……右」亜紀は言った。細い声だった。「右手。引き戸。……手前に、引く。ガラスの、重い引き戸。下に、レールが、あって。少し、持ち上げないと、引っかかる。……なんで、こんなの、出てくるんだろう」


 志賀は指を止めた。


 亜紀は、その所作を身体の側から出した。名は覚えていない。だが、扉の開け方を、体が覚えていた。志賀の知らない、印刷所の扉を。


「志賀さん?」


 電話の向こうで、芹沢の声がした。志賀は、つないだままの電話に、亜紀の声が入らないことを、思い出した。芹沢には、亜紀の声は、聞こえない。志賀の側の、文字起こしの脇にだけ、亜紀はいた。


「芹沢」志賀は言った。「印刷所の、入り口を、調べてくれ。ガラスの引き戸で、手前に引く形で、下にレールがある戸か。網の人に、確かめてもらえ」


「え」芹沢は言った。「なんで、それ」


「いいから」志賀は言った。「確かめてくれ」


「……ちょっと、待ってください」芹沢は言った。少し、間があった。網に問い合わせている音がした。それから、芹沢が戻った。「志賀さん。……合ってます。ガラスの引き戸で、手前に引くやつ。下にレールがあって、古いから、少し持ち上げないと、引っかかるって。網の人が、そう言ってます。……なんで、志賀さん、それ知ってるんですか。印刷所、行ったことないですよね」


 志賀は、文字起こしの脇を見た。


「相棒が」志賀は言った。「知ってた」


  *


 志賀は、机の上に、三軒の記録を並べた。


 芹沢が集めた、印刷所、文房具屋、写真館の、台帳と、住居表示と、地図の版。頭で照合できる、記録の列。志賀は、そこに、亜紀の身体の記憶を、噛ませることにした。


「亜紀」志賀は言った。「文房具屋は。……中に入ると、何がある。棚の高さ。段差」


「文房具屋は」亜紀は言った。少し、目を閉じるような間があった。「入って、すぐ、右に、低い棚。腰くらいの高さ。……そこに、ノートとか、封筒とか。奥に行くと、段差が、一つ。上がると、レジ。レジの台が、高い。……子どもが背伸びして、お金を、置く。台の縁が、擦り切れてる」


 志賀は、それを、記録の脇に、書き留めた。


 腰の高さの棚。奥の段差。高いレジ台。縁の擦り切れ。台帳の数字にはない情報だった。志賀は、それを記録に噛ませた。数字の来歴に、身体の温度を混ぜた。


「写真館は」志賀は言った。


「写真館は」亜紀は言った。「入ると、暗い。……ちょっと、薄暗い。奥に、椅子が、一つ。回る椅子。背もたれが、高い。……その椅子に、座らされて。前に、傘みたいな、光。おじさんが、その光の、後ろにいて。『動かないで』って、言う。……あたし、なんで、こんなの」


 亜紀の声が、少し、震えた。


「なんで」亜紀は言った。「こんなの、出てくるの。あたし、写真館、覚えてないのに。名前も、場所も。……なのに、椅子の、背もたれの高さとか、光の、傘の形とか。おじさんの声とか。……出てくる。頭じゃなくて、体の、奥から」


 志賀は、手を止めた。


「怖いか」


「……ちょっと」亜紀は言った。「あたしの、じゃないかもしれない。この記憶。あたしの体が覚えてるのか、その脇にいるから拾ってるのか、わかんない。……でも、出てくる。止まらない。棚の高さも、椅子も、光も」


「亜紀」志賀は言った。「これは、亜紀と俺じゃないと、できない手だ。俺の頭と、亜紀の体。名は忘れても、扉の開け方も、棚の高さも、椅子の背もたれも。……二人で、一つにすれば、飽和が、決まる。盤が、揃え直せない重さになる」


 亜紀は、黙った。


「二人で、一つ」亜紀は言った。細い声だった。それから、少し、揶揄いが戻った。「……なんか、探偵みたいじゃん。そっちが、頭で。あたしが、体で。……二人で、一人分」


「そうだ」


「じゃあ」亜紀は言った。「やろう。あたしの体、全部使いなよ。そっちの、頭に、噛ませて。……三軒とも、消させないでよ」


  *


 志賀は、飽和を、走らせた。


 印刷所の記録を、地図の一点に置いた。台帳の屋号、住居表示、地図の版。頭で照合した記録に、亜紀の所作を噛ませた。右手で引く、下にレールのある古い引き戸。数字の列が、身体の温度を持った。


 文房具屋も、写真館も、同じようにした。互いに食い違う日付で置き、亜紀の所作を織り込む。腰の高さの棚。回る椅子。傘の形の光。動かないで、と言うおじさんの声。


 三軒の記録が、同じ区画に、互いに食い違ったまま、同時に立った。


 どれも身体の温度を持っていた。数字だけでなく、亜紀の所作を含んでいた。だから盤は、どこを基準に揃えても、身体の温度を持った所作が、互いに食い違って、簡単には揃え直せなかった。


「芹沢」志賀は電話に言った。「三軒を、網で見張ってくれ。全員で。今から、三軒が、同時に変になる」


「見てます」芹沢の声がした。「網、全員。三軒、見てます。……あ。地図。三軒とも、揺れ始めてます。印刷所も、文房具屋も、写真館も。……なんか、二重に、なってて。三軒とも、消えかけてたのが、揺れの中に、残ってます」


 志賀は、応答欄を見た。


 ——効いている。三軒の記録が、互いに食い違って、身体の温度を持っている。盤は、どの一軒を先に落とせばいいか、決められない。天秤が、傾く先を、失った。……柊の手が、止まっている。


 志賀は、記録を、積み続けた。


 志賀の頭が記録を照合し、亜紀の身体が所作を出す。志賀が来歴の骨を置くと、亜紀が肉を添える。


「印刷所の、奥」亜紀が言った。「裏に、勝手口。紙の束を、運び込む。段ボールの、匂い」


「入れる」志賀は言った。


 二人の作業が、交互に繋がった。三軒の来歴が、互いに食い違ったまま、身体の温度で、厚くなっていった。盤は、その厚みを揃え直せなかった。


 ——決まった。


 リグの声だった。


 ——三軒、全部、揺れの中に残った。柊の手が、天秤の基準を失って、止まった。三軒とも、消えなくなった。


 志賀は、画面を見た。


 地図の三軒の区画。印刷所も文房具屋も写真館も、揺れの中に残っていた。二重になっていた。どれも実像になろうとして、なりきれずに、消えてもいなかった。志賀が開けた飽和の隙間の中で、三軒が揺れていた。


「芹沢」志賀は言った。「三軒、見えるか」


「見えます」芹沢の声が、上ずっていた。「三軒とも、残ってます。揺れてますけど、消えてない。……印刷所も、文房具屋も、写真館も。網の人、みんな、見えてるって。三軒とも、あるって。……志賀さん、残りました。三軒とも」


 志賀は、息を吐いた。


「残ったな」志賀は言った。


「残りました」芹沢は言った。少し、笑っていた。「三軒同時とか、無理だと思ってたのに。……志賀さん、なんか、今日、動きが、すごく、速かったです。記録、置くの。まるで、二人で、やってるみたいに」


「二人で、やった」志賀は言った。


  *


 電話が切れて、志賀は椅子の背にもたれた。


 勝った。三軒を同時に消させなかった。単発の置換では届かず、飽和がそれを届かせた。芹沢のときの飽和は志賀が一人でやった。今度は、二人でやった。


「疲れた?」


 文字起こしの脇で、亜紀が言った。


「少し」


「あたしも」亜紀は言った。「なんか、疲れた。体、いっぱい、使った感じ。……名前も覚えてないのに、扉の開け方とか、椅子の背もたれとか。よく、あんなの、出てきたよね」


「出てきたな」


「そっちが」亜紀は言った。「体で考えろって、言うから。頭じゃなくて。……あたし、頭の記憶は、ほとんどないんだけど。体の方は、なんか、あるんだね。あたしにも」


 志賀は、黙った。


 亜紀の言い方に、志賀は何かを感じかけた。名は覚えていない。だが、身体の記憶はある。志賀は、その意味を深く辿ろうとして、やめた。今夜は勝った。三軒が残った。志賀は、その温度をまっすぐ受け取っておきたかった。


「息、合ってきたじゃん」


 亜紀が言った。


 亜紀の声が、笑っていた。揶揄う温度でなく、もっと素直な、二人で一つの手を打った手応えの笑い。志賀の頭と、亜紀の身体。別々の二つが今夜、一つに噛み合った。


 そして、その声が、昨日より、確かに、近かった。


 昨夜、仕出し屋を戻して亜紀は濃くなった。今夜、三軒を残して、また濃くなった。机のすぐ横から返してくるようだった。目盛りが、また動いた。


「合ってきたな」志賀は言った。


「でしょ」亜紀は言った。得意げだった。「あたしの体、けっこう、使えるでしょ。……また、あったら、言いなよ。あたしが、体で、思い出すから」


 志賀は、笑った。


  *


 翌朝、整合室で、志賀は、戸川に呼ばれた。


 戸川は、志賀の下で整合実務を覚える後輩だった。入室三年目。悪意のない、明るい男だった。その戸川が、朝、志賀のデスクの脇に来て、書類を一枚、差し出した。


「志賀さん」戸川は言った。「これ、確認、お願いしていいですか。柳瀬の隣の区画の、記録の食い違いの件で。……昨日から、あの辺、記録が、すごく揺れてて。整合室にも、照会が来てて」


 志賀は、その書類を受け取った。


 柳瀬の隣の、三軒の区画。昨夜、志賀が飽和で揺らした場所だった。整合室にも、その揺れの照会が来ていた。志賀は、それを、内心で、少し身構えて受け取った。だが、書類は、ただの記録の食い違いの照会だった。誰が飽和を起こしたか、などとは書かれていなかった。


「揺れてるな」志賀は言った。


「揺れてます」戸川は言った。「これ、担当、割り振らないといけなくて。……あれ」


 戸川が、書類の、担当欄を見た。首を傾げた。


「志賀さん、これ」戸川は言った。「あの、柳瀬の角の件、志賀さんが、担当されてましたよね。……えっと、前に、志賀さんが、あの角の記録の整合、やられてた。だから、この隣の区画も、志賀さんの担当かなって、思ったんですけど」


「そうだ」志賀は言った。整合室の案件として扱ったことは、一度もない。だが、あの角を守ったのは、志賀だった。「柳瀬の角は、俺が見てた」


「あれ」戸川は言った。もう一度、書類を見た。それから、パソコンの画面を、開いた。何かを、検索した。「……おかしいな。記録だと、柳瀬の角の整合、別の担当者に、なってて」


 志賀は、手を止めた。


「別の担当」志賀は言った。


「はい」戸川は言った。「別の階の人です。……あれ、でも、志賀さん、やってましたよね。あの角。俺、覚えてます。志賀さんが、あの角の記録を、すごく粘って、整合させてたの。……なのに、記録だと、その人の担当に、なってて。おかしいですね。俺の、記憶違いかな」


 志賀は、画面を見た。


 柳瀬の角の整合。志賀が守った、あの角。その担当が、記録の上で別の階の誰かになっていた。戸川は、志賀がやったのを覚えていた。だが記録は、別人の担当だと言っていた。戸川は、それを自分の記憶違いだと言った。


「記憶違いだろう」志賀は言った。


「ですよね」戸川は言った。明るく笑った。「なんか、最近、記録と、俺の記憶が、たまに、ずれるんすよ。歳かな。……まあ、記録がそうなってるなら、その担当の人に、確認取っときます。志賀さん、すみません、変なこと言って」


「いや」志賀は言った。


 戸川は、書類を持って、自分のデスクへ戻った。


 志賀は、その背を見た。


 柳瀬の角。志賀が粘って守った角。その整合の担当が、記録の上で、名も知らない別人になっていた。


 志賀は、しばらく、動かなかった。


 借りが、ここへ来ていた。志賀はそう悟った。昨夜、飽和で三軒を残した、その等量の、目に見える端が、職場の些事に返っていた。戸川の記憶と記録の間に、小さな食い違いが生まれていた。リグが伏せた行き先が、今、目の前にあった。


 だが、それは、ごく軽かった。


 戸川は、記憶違いだと笑って流した。志賀の仕事が消えたわけではなかった。デスクも名札も、いつも通り。ただ一件だけ、担当が別人にずれ、戸川の記憶が記録に一歩追い越されていた。それだけだった。


 志賀は、書類のことを、忘れることにした。


 昨夜、三軒が残った。亜紀と二人で一つの手を打ち、声が近づいた。志賀は、その勝ちの温度を、こんな些事で曇らせたくなかった。まだ、笑って流せる軽さだった。


 志賀は、デスクの仕事に、戻った。


 その日、志賀は、戸川の書類のことを、何度か、思い出した。思い出すたびに、少し、引っかかった。だが、引っかかりは、すぐに、流れた。仕事が、忙しかった。


  *


 その夜、志賀は帰宅して、机に着いた。


「今日、どうだった」亜紀が言った。


「別に」志賀は言った。「いつも通りだった」


「三軒、まだ、残ってる?」亜紀は言った。


「残ってる」志賀は言った。地図を確かめた。印刷所も、文房具屋も、写真館も、揺れの中に、残っていた。「剥がされてない」


「よかった」亜紀は言った。「あたしの体、役に立ったね」


「役に立った」


 志賀は、戸川の書類のことを、言わなかった。


 柳瀬の角の担当が別人になっていたこと。志賀は、それを亜紀に言わなかった。亜紀の近くなった声を、こんな小さな食い違いで曇らせたくなかった。


「なあ」志賀は言った。


「なに」


「昨日の、あの三軒」志賀は言った。「亜紀が、体で覚えてた。扉の開け方も、棚の高さも、椅子の背もたれも。……あれは、なんだったんだろうな」


 亜紀は、黙った。


「わかんない」亜紀は言った。軽い温度だった。「あたしの、体が、覚えてたんでしょ。そっちの、頭が、覚えてなかったやつを。……二人で、一人分、って感じ。そっちに、ないものが、あたしに、あって。あたしに、ないものが、そっちに、あって。合わせて、一人分」


 志賀は、その言い方を、聞いた。


 合わせて、一人分。文字起こしの脇の声のまま、それでも亜紀は、志賀の半身のように、そこにいた。


「そうだな」志賀は言った。「二人で、一人分だ」


「でしょ」亜紀は言った。笑った。「だから、あたし、まだ、必要でしょ」


「必要だ」


「よろしい」亜紀は言った。


 志賀は、笑った。


 二人で打った飽和の分、亜紀はまた濃くなった。まだ姿はない。文字起こしの脇の声だった。


「息、合ってきたじゃん」——亜紀が、もう一度、笑った。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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