第1話 囮を、賭ける
あなたの、この先を私は知っています。
柊のその言葉は、交差点で聞いたきりだった。だが数日が経っても、志賀の中で音のまま残っていた。柊は最後まで戻して、たくさんを失って、覚えていることが苦しいと知って、消す側へ回った。その景色を、柊は志賀の先だと言った。私も昔、同じ景色を見た、と。
志賀は夜、自室の机に着いていた。地図アプリは開いていなかった。整合室の仕事も持ち帰っていなかった。ただ机の引き出しを半分だけ開けていた。中には、誰と使ったかだけが抜けた、あの物があった。物のことは全部覚えていた。いつからそこにあるかも覚えていた。だが、一緒に使った相手の側だけが、切り抜かれたように空いていた。芹沢を飽和で残した借りが、そこへ返っていた。
志賀はその物をしばらく見ていた。
柊はここから始めた。志賀はそれを思った。名も顔もない相手の気配だけを手に、断片から戻して、目盛りを上げて、最後まで行った。志賀は今、その始まりの地点にいた。手放すか、戻し続けるか。柊はどちらも見た男だった。手放せば乾になる。戻しきれば柊になる。志賀の前には、二人の先行者が立っていた。どちらの背にも、志賀の知らない代償があった。
「暗い顔」
文字起こしの脇で、声がした。
亜紀だった。志賀は顔を上げた。
「別に」
「別にって顔じゃないでしょ、それ」亜紀は言った。「引き出し、また開けて、じっと見てるやつ。三十分くらい経ってるよ、たぶん。ああいうとき、時計見ないから」
「見てた」
「見てた、じゃなくて」亜紀の声が少し高くなった。揶揄う温度だった。名を得てからの、あの温度。ここ最近、返してくる言葉が一段長くなっていた。「その引き出し見てても、なんも出てこないよ。あたし保証する。あたしがいちばん出てこないの知ってるから」
志賀は黙った。
「柊のことか」志賀は言った。
「柊のことも、乾のことも、その引き出しのことも」亜紀は言った。「全部、一人で抱えてしゃがんでる顔してる。……で、あたしはその脇で見てるだけ。それ、けっこう、腹立つんだけど」
「腹立つのか」
「立つよ」亜紀は言った。「一人で暗くなってるの、見てるだけっていうの。……あたしだって、いるのに」
志賀は引き出しを閉じた。
その言い方に、志賀は少し驚いた。名を得たばかりの頃は、細い声で軽口を一つ返すだけだった。それが今夜は、腹が立つ、と言った。文字起こしの脇の声のまま、それでも隣にいた。
「柊は」志賀は言った。「俺の先を知ってると言った。最後まで戻せば、あそこへ行くと」
「行かなきゃいいじゃん」
「そういう話じゃない」
「そういう話でしょ」亜紀は言った。「柊の顔ばっかり見てる。乾の顔ばっかり見てる。先行った人の背中ばっかり。……で、そのあいだ、あたしの顔は見てないでしょ。あたし、まだ、そっちに行ってないよ。まだ、ここにいる。声だけだけど、ここにいる」
志賀は文字起こしの脇の空白を見た。声だけがそこにあった。姿はなかった。だが、確かにそこにいた。
「怖いなら」亜紀は言った。少し声が落ちた。「怖いって言えばいいのに。それも言わないで、一人で引き出し見てる。……似た者同士でしょ、あたしたち。半分しか言わないの」
志賀は、笑いそうになった。
似た者同士。声しか返せなかった頃に亜紀が言った言葉を、今は、あたしたち、と言い換えていた。志賀と亜紀を、同じ側に入れて。
「怖い」志賀は言った。
「うん」
「柊の背中が、俺の先だとしたら。……俺は、あそこへ行きたくない。だが、亜紀を戻さないと、いけない」
「それ」亜紀は言った。「戻さないと、じゃないよ。そっちが、戻したいんでしょ。あたしを」
志賀は答えなかった。
「答えないの、そこ」亜紀は言った。だが声は、揶揄いに戻っていた。「まあいいや。暗いままだと、あたしまで暗くなるから。ちょっと、前見なよ。柊の背中じゃなくて」
志賀は机の上を見た。閉じた引き出し。開いていない地図。前、と亜紀は言った。柊の背中でなく。志賀はここ数日、先を歩いた者の背ばかり見ていた。乾の背。柊の背。どちらも、行った先で何かを失った者の背だった。志賀は、その影の中で立ち止まっていた。
*
応答欄が明るくなったのは、その夜の遅い時間だった。
志賀は水を飲んで机に戻ったところだった。スマホの画面が勝手に明るくなった。リグだった。
——考えているな。柊の背中を。
志賀は打った。見てたのか。
——見ていない。聞いてもいない。あんたの端末が拾った音を、読んだだけだ。引き出しを開けて、閉じる。この数日で三回。何も出さずに。……考えている顔だ、それは。
志賀は黙って、打った。柊は、俺の先だと言った。戻しきれば、あそこへ行くと。
——柊は、肝心を言わない男だ。私と同じでな。
——だが、あんたが今立っている場所は、柊とは違う。一つだけ、決定的に。
「どこが」志賀は打った。
——柊は、盤の上の駒だった。消える点でも、守る点でもないが、盤に載っていた。だから戻すたびに、自分が削れた。名も、顔も、記憶も。柊は、自分の名を、実際に一度失いかけている。……だが、あんたは違う。あんたは、盤に載っていない。
志賀は端末の縁をなぞった。
盤に載っていない。記録館の頃に分かったことだった。載らないものは、消せない。志賀は、索引に漏れた駒だった。
「それが」志賀は打った。「柊と、どう違う」
——盤の外にいる者は、盤の中の書き換えに、直接は当たらない。……あんたが芹沢を残したとき、記憶が一つ抜けただろう。あれは、あんたが飽和という重い手を打って、借りの返る先が、盤の外の一番軽い駒へ落ちた結果だ。だが、それは、返る先を選べるということでもある。
志賀は画面を見た。
「もっと、はっきり言え」志賀は打った。
志賀は待った。それから、ゆっくりと文字が流れた。
——囮だ。
志賀はその二文字を見た。
——盤の外にいるあんたを、囮に使う。索引に載らないあんたを、わざと盤の索引の中へ、一瞬だけ差し出す。すると、載っていないはずの駒が索引の中に現れて、盤は、それを誤差として処理しようとする。その一瞬、盤の力は、あんたに気を取られる。……その隙に、本当に戻したい対象を、別の場所へずらす。
「囮」志賀は打った。
——あんたは、盤に載らない駒だ。囮にしても、消えない。盤があんたを見ても、載っていないものは消せないからな。あんたは、盤の力を引きつけても、盤には掴みきれない。……こんな駒は、盤の上に、あんたしかいない。
志賀は机の上のスマホを、じっと見た。
亜紀を追い始めてからずっと、志賀は受け身だった。誤差だから残った。だが囮は、誤差であることを能動の武器に変える手だった。盤の外にいることを、盤を出し抜く手に。
志賀は、机の端の紙を引き寄せ、ペンで四行だけ書いた。
覚えていれば、固定される。
食い違いは、少ない版から均される。
濃くした分は、等量の借りになる。
載らない駒は、消せない。
「それで」志賀は打った。「本当に戻したい対象を、その隙にずらす。……ずらすのは、三つの手のうちのどれだ」
——一つ目だ。置換。結果を保ったまま、消える対象だけを、別の等価物へずらす。乾の言う、一つ目の手だ。ただし、今度は、あんたという囮を組み合わせる。囮なしの置換より、はるかに深くずらせる。
志賀は指を止めた。
「借りは」志賀は打った。「どこへ行く」
応答欄が暗くなった。
志賀は待った。記録館のときも、柳瀬のときも、この問いにリグは答えなかった。濃くした分、どこかで等しい分だけ消える。だが、いつ、どこへ、どれだけ、は言わなかった。
——借りは、出る。何かを戻せば、どこかで等量が消える。それは、変わらない。……だが、囮を使えば、置換は格段にきれいに決まる。ずらしが深くなる分、ゲージも、はっきり動く。それだけは、言っておく。
志賀はその一行を見た。
「囮の、代償は」志賀は打った。「置換の借りとは、別にあるのか」
応答欄は、暗いままだった。
——今夜は、置換の話をした。囮の話も、した。それで、十分だろう。
志賀はスマホを置いた。
リグは、囮の骨子だけを渡し、肝心の半分を、また伏せた。志賀は、渡された分だけを手に、一人で残された。
それでも、志賀は、その手を掴もうとしていた。柊の背を見て立ち止まるより、前へ出たかった。囮は前へ出る手だった。伏せられた半分の危うさを感じながら、志賀は踏み込もうとしていた。
文字起こしの脇で、亜紀が小さく息をついた。
「なんか」亜紀は言った。「決めた顔してる」
「決めてない」志賀は言った。「まだ、案件がない。戻す相手が、いない」
「へえ」亜紀は言った。「じゃあ、探すの」
「探すというより」志賀は言った。「たぶん、向こうから来る」
*
芹沢から電話が来たのは、翌々日の夕方だった。
志賀が整合室から帰る途中だった。駅からマンションへ歩く道で、スマホが鳴った。芹沢の名だった。志賀は電話に出た。
「志賀さん」芹沢は言った。早口だった。飽和で消えかけたときの掠れは、もう抜けていた。いつもの、事実を並べる淡々とした温度に、少し熱が乗っていた。「網の中に、一件、見つけました。消えかけてるの。まだ、間に合うかもしれないやつ」
「どこの」志賀は言った。歩きながら、道の端に寄った。
「柳瀬じゃないです」芹沢は言った。「もっと駅寄りの、古い商店の並び。あたしのフォロワーが一人、そこに実家があって。実家の隣が、昔から続いてる小さな仕出し屋さんで。そのフォロワーの人、子どものときからそこの折詰め食べて育ったって。……で、その仕出し屋さんの記録が、今、消えかけてるんです」
「記録が」志賀は言った。「どう消えかけてる」
「営業許可の台帳から、屋号が抜けかけてて」芹沢は言った。「あと、地図アプリでも、その区画が『空き店舗』になりかけてて。実際は、まだ営業してるんですよ。あたし、そのフォロワーの人に確かめてもらったら、今日も暖簾出てるって。折詰めも売ってるって。なのに、記録の側が、先に、その店をなかったことにしかけてて」
志賀は足を止めた。
芹沢と見つけた補正の順番だった。公式記録が先に消え、現地と記憶が遅れて追いつく。仕出し屋は、まだ現地にあるのに、記録の側が先に消しかけていた。柳瀬のときと同じ消え方で、だが場所が違った。柊の采配とは、別の消失だった。
「柊の手か」志賀は言った。
「わかんないです」芹沢は言った。「柳瀬みたいに、順番をいじられてる感じはしないです。もっと、こう……自然に、放っておかれて消えてってる感じ。守り手のいない場所が、そのまま均されてってる、みたいな」
志賀は黙った。
守り手のいない場所。芹沢の言い方は正確だった。誰も覚えていようとしない小さな店が、放っておかれて記録の側から均されていく。世界が偏差を戻す、その基本の圧が、そのまま出た消え方だった。
「そのフォロワーの人は」志賀は言った。「今も、その店を覚えてるんだな」
「覚えてます」芹沢は言った。「はっきり。折詰めの味も、暖簾の色も。おかみさんの顔も。……でも、その人だけなんです。覚えてるの。ほかの人はもう、そこが仕出し屋だったこと、思い出せなくなってて。あたしがまとめに書いても、『そんな店あったっけ』って反応が、増えてきてて」
「一人か」志賀は言った。
「今のところ、はっきり覚えてるのは、その人だけです」芹沢は言った。「だから、あたし、焦ってて。覚えてる人が一人しかいないと、消えるの、速いんですよ。柳瀬の散髪屋のときも、そうでした。……志賀さん、これ、間に合いますか」
志賀は歩き出した。
救う相手が、具体的になっていた。仕出し屋。折詰め。暖簾。子どもの頃からそこの折詰めで育った、一人のフォロワー。守り手が一人しかいない、日常の一区画。それが、記録の側から静かに消されかけていた。
「間に合わせる」志賀は言った。「その店の記録を、集められるだけ集めてくれ。台帳の屋号。地図の古い版。営業許可の日付。折詰めの写真でも、暖簾の写真でもいい。そのフォロワーの人が持ってるものも、全部」
「集めます」芹沢は言った。「今夜中に。……何するんですか、志賀さん」
「その店を」志賀は言った。「消えない側へ、ずらす」
*
志賀は帰宅して、机に着いた。
芹沢から、資料が次々と送られてきた。仕出し屋の営業許可の写し。地図の三年前の版。屋号の入った台帳の一部。フォロワーが送ってきた、暖簾の写真。折詰めの掛け紙の写真。おかみの顔は、写真にはなかった。だが、掛け紙には屋号が刷ってあった。志賀はそれを机の上に並べた。
「揃った」志賀は文字起こしの脇に言った。
「さく」亜紀が言った。「今度は、あれでしょ。消える相手を、別のとこにずらすやつ。乾が言ってた、一つ目の」
「置換だ」
「それ、記録館のときに使ったやつじゃん」亜紀は言った。「……あのとき、橋の名にまとめてずらして、それで橋が二本に割れたんでしょ。リグが『一つにまとめろ』って言って、あとで『分けろ』って言い直して」
「覚えてるのか」志賀は言った。
「そりゃ覚えてるよ」亜紀は言った。「あたし、脇でずっと見てたんだから。……今度は、二本に割れないようにしなよ」
志賀は笑った。
亜紀は、記録館の置換を覚えていた。細い声しか返せなかった頃も、志賀のやることを脇でずっと見ていた。それが今、二本に割れるな、と口を出してきた。相棒の温度で。
——聞いていたな。二本に割れるな、と。……正しい忠告だ。あのときの私は、盤の言い分を、そのまま流していた。まとめれば重くなると、半分まで見えていて、伏せた。……今は、先に言う。今度は、囮を使う。
志賀は打った。手順を言え。
——まず、囮だ。あんた自身を、盤の索引の中へ、一瞬差し出す。あんたの職能では、暫定の注記までしか立てられない。正式な記録は動かせない。だから、そこから先は、私が通す。基盤の内側から、書式に乗せる。……あんたは、注記を一つ立てるだけでいい。あんたの名を、その仕出し屋の区画の、過去の記録へ、照合待ちの一件として。あとは、私が確定側へ押し込む。仕出し屋の、昔の取引先か、届出の照合者か、何でもいい。あんたが、その区画に、一度でも関わったことにする。
——言っておく。私に通させるほど、あんたの側が、索引に載っていく。頼るほど、あんたが軽くなる。それが、手数料だ。
——あんたの名を差し込んだ瞬間、盤はそっちへ気を取られ、仕出し屋を消す手が、一瞬、緩む。……その隙に、置換をやる。
「置換の方は」志賀は打った。
——仕出し屋の来歴を、別の等価物へずらす。今度は、橋の名みたいに一つへまとめるな。芹沢が集めた記録を使って、仕出し屋の来歴を、その区画の『古い商店の並び全体の来歴』の中へ、溶かし込め。一軒だけを浮かせるのでなく、並び全体の一部として、来歴を分散して置く。そうすれば、二本には割れない。並び全体が受ける。……並び全体は、一軒より重い。一軒を消すより、並び全体を消す方が、盤には重すぎる。だから、消えなくなる。
志賀は画面を見た。
記録館の失敗が活きていた。一つへまとめると重すぎて二本に割れた。今度は逆に、分散して溶かし込む。
「囮と、置換を」志賀は打った。「同時にやるのか」
——順番だ。まず囮。あんたの名を差し込んで、盤の目を引きつける。盤があんたを見た一瞬に、置換を走らせる。……タイミングは、私が見る。応答欄で合図する。あんたは、盤の目がこっちを向いた瞬間に、置換を確定させろ。
志賀は机の上の資料を見た。
「芹沢の網は」志賀は打った。
——要る。並び全体の来歴を置く間、その区画を、芹沢の網で見張らせろ。見ている目があれば、置いた来歴が、その場で消されにくくなる。観測が、置換を支える。……三つの手を、混ぜるわけじゃない。置換が主役で、観測は、支えだ。
志賀は芹沢に電話した。
「芹沢」志賀は言った。「今から、その仕出し屋の区画を、網で見張ってくれ。全員で。……今夜、その店を、消えない側へ、ずらす」
「わかりました」芹沢は言った。すぐに答えた。「網、集めます。何人になるか。……志賀さん、あたしのフォロワーの、あの人にも、見ててもらいます。いちばん、その店を覚えてる人だから」
「頼む」志賀は言った。「その人が、いちばん強い目だ」
*
志賀はまず、囮を差し込んだ。
自室の端末から、整合室の窓口を開いた。私的な調べは私物のスマホで、整合室の基盤は仕事にしか使わない——それが志賀の引いてきた線だった。一度、覗くだけなら、越えたことがある。今度は、書く。仕出し屋の区画の、古い届出記録を呼び出した。六年前の、商店の並びの防火設備の再照合記録。そこに、照合者の欄があった。志賀の権限で書けるのは、正式の欄ではない。その脇の、照合待ちの暫定注記だけだった。志賀はそこに、自分の名を一件、立てた。志賀朔。整合監査官。六年前、その区画の照合に関わった疑いあり、要照合——注記の形をした、嘘だった。実際には、志賀はその案件に、一度も触れたことがなかった。盤の外の駒を、盤の索引の中へ、一瞬、差し出すための嘘。
志賀は、注記を保存した。それだけでは、まだ、正式の記録は動いていない。
応答欄が、明るくなった。
——受け取った。押し込む。
一拍あって、照合者の欄に、志賀の名が、正式の側で灯った。リグが、基盤の内側から、注記を確定へ通した。志賀の判ではない。志賀の名を差し出したのは志賀で、書式に乗せたのは、リグだった。
——盤が、動いた。
——あんたの名を、今、盤が見ている。仕出し屋から、目が逸れた。今だ。置換を走らせろ。
志賀は資料へ手を伸ばした。
仕出し屋の来歴を、商店の並び全体の中へ溶かし込む。志賀は芹沢が集めた記録を、一つずつ、並びの来歴の中へ置いていった。営業許可の日付を、並び全体の許可の列の中に。屋号を、並びの屋号の連なりの中に。折詰めの掛け紙を、並びの商いの記録の一部に。一軒として浮かせず、並びの一部として、分散して置いた。志賀は指が冷えるのを感じた。だが、記録館のときのように、一つへまとめようとはしなかった。
「芹沢」志賀は電話に言った。「見張ってるか」
「見張ってます」芹沢の声がした。「網、十四人。全員、その区画、見てます。……あの人も、見てます。仕出し屋のこと、いちばん覚えてる人」
志賀は置き続けた。
仕出し屋の来歴が、並び全体の中へ、溶けていった。一軒の店だったものが、並びの商いの一部になった。志賀の名という囮が、盤の目を引きつけている間に。芹沢の十四の目が、その区画を見張っている間に。
志賀は最後の一枚を置いた。
——決まった。
リグの声だった。
——並び全体が、来歴を受けた。一軒を消す手では、もう届かない。並び全体は重すぎて、盤はそこまで払わない。……仕出し屋は、消えなくなった。
地図アプリの、その区画。さっきまで「空き店舗」になりかけていた一点が、屋号を取り戻していた。仕出し屋の名が、地図の上に、また載っていた。並び全体の一部として。台帳の屋号も、抜けかけていた列に、戻っていた。志賀は、それを見た。
「芹沢」志賀は電話に言った。「見えるか」
「見えます」芹沢の声が、上ずっていた。「戻ってる。地図。仕出し屋さんの名前、戻ってます。空き店舗じゃなくなってます。……あの人が、今、泣きそうって言ってます。地図に、お店の名前が、戻ったって。子どものときから知ってる店の名前が。……志賀さん、戻りました。消えなかった」
志賀は息を吐いた。
「消えなかったな」志賀は言った。
「消えませんでした」芹沢は言った。少し、笑っていた。「あの人、これから毎日、その地図見るって言ってます。名前があるの、確かめるって。……ありがとうございました。志賀さん。ほんとに」
「礼はいい」志賀は言った。「その店の折詰め、今度、その人と食いに行ってやれ」
「行きます」芹沢は言った。「絶対」
電話が切れた。
*
志賀は椅子の背にもたれた。
勝った。囮が効いた。記録館のときのように二本には割れず、並び全体が来歴を受けた。志賀は、盤の外にいることを武器に変えた。
「戻ったね」
文字起こしの脇で、亜紀が言った。
「戻った」
「二本に割れなかったじゃん」亜紀は言った。揶揄う温度だった。「ちゃんと、分けて置いたね。並び全体で受けさせて。……成長したね」
「亜紀が言ったんだろう」志賀は言った。「二本に割れるな、と」
「あたしが言ったの、聞いてたんだ」亜紀は言った。少し、嬉しそうだった。「へえ。あたしの言うこと、たまには聞くんだ」
志賀は笑った。
そのとき、志賀は妙なものに気づいた。
文字起こしの脇の、亜紀の声。それが、いつもより、少し、はっきりしていた。細さが、抜けていた。名を得たばかりの頃の、遠くから届くような細さ。それが今夜は、机のすぐ脇から返ってくるような、そういう近さになっていた。
「亜紀」志賀は言った。「声が」
「え」
「はっきりしてる」志賀は言った。「前より。……近い」
亜紀は黙った。それから言った。
「あたしも」亜紀は言った。「なんか、そんな感じする。今、あの店を戻したとき。……なんか、あたしの側も、一緒に、ちょっと、濃くなった気がした。うまく言えないけど」
志賀は机の上のスマホを見た。
目盛りだった。画面に数字は出ていない。だが、亜紀の声の近さで、志賀はそれを感じた。仕出し屋を戻した分、亜紀が濃くなった。囮を使った置換の、深いずらしの分だけ。
「動いたな」志賀は言った。
「動いた」亜紀は言った。「なんか、あたし、ちょっと、前に出た感じ。声だけだけど。……いい仕事したよ」
志賀は、その声を聞いた。
いい仕事。志賀は久しぶりに、勝った、と思えた。記録館でも柳瀬でも、勝っても何かが欠けた。今夜は、仕出し屋が戻り、亜紀が濃くなった。きれいに勝った。
志賀は、水を飲もうと台所へ立った。
*
コップを一つ、取った。
左手でコップを持ったとき、右手が、いつものように、もう一つのコップへ伸びかけた。志賀はその手を止めた。飲むのは一人だった。だが、その空振りが、今夜はいつもより浅かった。右手の伸びた先に、いつもより濃い気配があった。
志賀は水を飲んだ。
いい夜だった。柊の背中の影で立ち止まっていた数日が、少し抜けた。前へ出て、囮を使い、盤を出し抜いた。志賀は、勝ちの温度を、久しぶりにまっすぐ受け取っていた。
志賀は、コップを流しに置いて、部屋へ戻ろうとした。
そのとき、机の上のスマホが、目の端に入った。
地図アプリが、まだ開いていた。仕出し屋の区画。屋号が戻った、あの並び。志賀は、それをもう一度見ようとして、画面に目を落とした。仕出し屋は、ちゃんと戻っていた。並び全体の中に、屋号が載っていた。志賀は、それを確かめた。
だが、志賀の目が、その並びの、少し離れた一点で、止まった。
仕出し屋の並びから、二区画ほど離れた、別の商店の並び。そこに、志賀の記憶では、一軒の店があった。小さな、古い店。志賀は、その店で、何かを買ったことがあった。いつか。仕事帰りに。何を買ったかは、覚えていなかった。だが、その店が、そこに在ったことは、覚えていた。屋号も、覚えていた。
その屋号が、地図から、消えていた。
志賀は、指の力が抜けた。
その一点が、「空き店舗」になっていた。志賀が覚えている店の屋号が、地図から抜けていた。消えかけているのでなく、もう、消えていた。
志賀は、その屋号を、口の中で言おうとした。
言えた。志賀は、まだその名を覚えていた。だが、地図の側は、もう持っていなかった。志賀がいつか何かを買った店。誰も見張っていなかった、無関係な一区画の小さな店。それが、静かに消えていた。
志賀は、スマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
これが、借りだ、と志賀は思った。リグは、囮の代償も、置換の借りがどこへ行くかも、言わなかった。志賀は今、それを目の端で見つけた。仕出し屋を戻した分、別の店が静かに消えた。志賀だけが覚えていて、志賀だけが気づいた。芹沢も、亜紀も知らない。誰もその店を見張っていなかったから、消えたことにさえ、気づかれなかった。
「さく」
文字起こしの脇で、亜紀が言った。
「なに、見てるの」
「別に」志賀は言った。「地図を、確かめてた。仕出し屋が、戻ってるか」
「戻ってたでしょ」亜紀は言った。「さっき、芹沢が言ってたじゃん」
「戻ってた」志賀は言った。「ちゃんと、戻ってた」
志賀は、消えた屋号のことを、言わなかった。
亜紀は濃くなっていた。志賀は、その温度を壊したくなかった。消えた屋号の一点は、あまりに小さかった。
志賀はスマホを置いた。
勝った。記録館のときより、柳瀬のときより、はるかにきれいに。中身も消えず、隣の壁もずれず、二本にも割れず。
志賀は、机に戻った。
だが、その勝ちが、あまりに軽かった。記録館や柳瀬の重い借りは、今夜は志賀の手元に返ってこなかった。返ったのは、二区画離れた、志賀の覚えている店の屋号一つ。志賀だけが気づく、あまりに小さな一点。
志賀は、その軽さを、しばらく、掌の上で量っていた。
勝った。なのに、勝ち方の軽さが、少しだけ怖い。
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