第6話 最後まで戻した人
柊が話をしたいと言ってきたのは、週の終わりだった。
場所は柊が指定した。柳瀬の交差点。志賀が守った角と、飽和で揺らした一帯の、その真ん中だった。散髪屋のあった通りと橋のたもとへ抜ける道が交わる、あの角。柊はそこで待っていると電話越しに言った。静かな敬語だった。
志賀は夕方その交差点へ行った。
*
文字起こしの脇で、声がした。
「さく」
亜紀の声だった。だが、いつもの軽さがなかった。名を得てからの亜紀は軽口を返す温度を持っていた。だが柊が絡むと、その温度が引いた。鏡を覗いたときのような沈黙が、亜紀の声に戻った。
「あの人に会いに行くの」亜紀は言った。
「行く」志賀は言った。「あいつが、自分の話をすると言った」
亜紀はしばらく黙った。それから細く言った。
「気をつけて」
それだけだった。志賀はポケットの中の物に触れた。誰と使ったかだけが抜けた、あの物。引き出しから出して、持ってきていた。なぜ持ってきたのか、自分でもわからなかった。抜けた記憶の形を手の中に確かめながら、あの男の話を聞きたかった。
柊は前に言った。あなたは記憶を一つ、奪われましたね、それが始まりです、と。柊はそこから始めて、志賀の知らないどこかへ行った。志賀は今、その始まりの地点に立っていた。手の中に、切り抜かれた形を持って。
志賀は交差点へ入った。
*
二重露光の街だった。地図の上で何度も見ていたが、肉眼で見るのは初めてだった。交差点の一区画が二重になっていた。同じ角に二つの町名の案内板が半透明に重なっていた。柳瀬。宮前南。同じポールの上で、二つの街区標識が半分ずつ実像になろうとして重なっていた。片方は五の隣が七で、もう片方は六が戻っていた。
志賀は交差点の真ん中で立ち止まった。目の前の外壁が、二つの顔を同時に持っていた。層の底まで白い壁と、塗り直されたばかりの壁。志賀が右へ首を振ると古い白が濃くなり、左へ振ると塗り直しの側が濃くなった。飽和で揺らした一帯が、まだ二つの実像の間で定まりきらずにいた。志賀が開けた隙間の中に、志賀は今、立っていた。
柊はその交差点に立っていた。銀縁の眼鏡。地味な色のコート。手ぶらだった。志賀が近づくと柊は微笑んだ。責める色のない、あの微笑だった。
「来てくださって、ありがとうございます」柊は言った。「ここが、いいと思いました。……あなたが、守った角です」
志賀は柊の周りを見て、妙なことに気づいた。
柊の背後の街だけが二重でなかった。志賀の立っている側は、まだ二重に揺れていた。二つの町名。二つの標識。だが柊の背後は揺れていなかった。町名は一つ。標識も一つ。柊の後ろだけ、街が静かに定まっていた。
「私の話をします」柊は言った。「聞いていただけますか」
「聞く」志賀は言った。
柊は間を置いた。それから静かに切り出した。
「私にも昔、大切な人がいました」柊は言った。「あなたと同じです。ある日、消えました。記録から、名も顔も声も抜けました。残ったのは体の癖だけでした。……あなたにも、あるでしょう。物の置き場所が、片側に寄る癖が。私にも、そういう癖が残りました」
志賀はポケットの中の物に触れた。名も顔もない相手の気配だけが残った、そういう物が柊にもあったのだろう。志賀の右手が、今も、もう一つの物を探していた。柊の右手も、昔、そうだったのだろう。
「あの人は」柊は言った。「湯呑みを、二度すすぐ人でした。一度で足りるのに、いつも、二度。……記録から名も顔も抜けても、私は、その手つきだけは、覚えていました」
「私は戻そうとしました。あなたと同じです。断片を集めて、名を取り戻して、声を濃くして。……三つの手を使いました。置換も、飽和も。全部使いました。あなたが今始めたことを、私はあのとき、やりました」
ポケットの中のスプーンを握る手が、止まった。
「私は戻しました」柊は言った。「断片から、少しずつ。名が戻り、声が戻り、会話が戻り。……ゲージが上がっていきました。あなたのゲージが今、上がっているように。私のゲージも、確かに上がりました」
柊は志賀を見た。
「私は、目盛りを、最後まで満たしました」柊は言った。「声も、姿も、会話も。戻せる、いちばん上まで」
最後まで。志賀の目盛りは、まだ火種だった。声だけが返る、小さな目盛り。だが柊はそれを、志賀の知らない、満ちるところまで上げきったと言った。志賀は柊の背後の、一つに定まった街を見た。目盛りを満たした先に何があるのか。柊の背後の静けさが、その答えなのか。志賀は問おうとして、飲み込んだ。
「それで」志賀は言った。「どうなった」
柊は微笑んだ。責める色のない微笑だった。だがその奥に、記録館の前でも喫茶店でも見た、あの温度が差していた。悲しみのような、疲れのような温度。
「それは」柊は言った。「言いません」
志賀は動きを止めた。
「最後まで戻すと、どうなるか。それは、私が言うことではありません。……あなたが、自分で知る番です」柊は言った。「私が今それを言えば、あなたはそれを、私の話として聞くでしょう。他人の話として。……でも、そうではない。あなたが自分でそこまで行って、自分で知る。そういう種類のものです」
柊はそれ以上言わなかった。入口だけを志賀の前に置いて、中身を閉じた。
「なぜ言わない」志賀は言った。
「言えば」柊は言った。「あなたは、戻すのをやめるかもしれない。私が何を失ったかを聞けば、怖くなって手を止めるかもしれない。……でも、それは違う。あなたはあなたの理由で戻す。私が何を失ったかは関係ない。あなたにはあなたの声がある。それを戻したいと思う限り、あなたは戻す。私が止めることではありません。私はただ、こう言うだけです。——最後まで戻すと、どうなるか。あなたはいつか、それを知る」
志賀は答えなかった。柊の言葉は、警告なのか、予言なのか、区別がつかなかった。乾も、リグも、柊も、肝心なところで口を閉じた。志賀はいつも、閉じられた半分の前に、一人で立たされた。
*
「なぜ」志賀は言った。「あんたは、消す側に回った」
柊は少し目を伏せた。それからまた上げた。
「戻したあとで」柊は言った。「私は、たくさんの人が消えていくのを見ました。私が戻した、その借りで。あなたが今、記憶を一つ、奪われたように。私も、奪われました。私の借りは、私の周りのたくさんの人へ行きました。私が一人を戻すために、たくさんが消えました。……私は、それを見ました」
総量則が、体で分かった。志賀が芹沢を残した借りは志賀自身の記憶へ返ったが、柊の借りは、柊の周りの人へ行った。柊は、たくさんを失った側にいた。
「そのとき私は思ったんです。消えた人たちは、もう覚えていない。自分が消えたことも、消される苦しみも。覚えているのは、残された側だけです。私だけが、消えた人たちのことを覚えて、苦しんでいる」
柊は微笑んだ。
「なら」柊は言った。「覚えている苦しみから、解放してあげた方がいいのかもしれない。……そう思ったんです。消えれば、苦しみも消える。覚えていることが、いちばん苦しい。だから——」
柊はそこで言葉を止めた。歪んだ慈悲の入口だけを、志賀の前に置いた。柊は消すことを救いだと思い始めていた。覚えていることが苦しみなら、消すことはそこからの解放だと。
「それで」志賀は言った。「あんたは、消す側に回ったのか」
「消す側、という言い方はあなたのものです」柊は言った。「私は順番を整えているだけです。均されるくらいなら、残す者を選ぶ。……そして残せない者は、苦しみから解放してあげる。私はそう思っています。今は」
今は。柊はそう言った。まるでそれが、確かなことでないように。その言い方に、まだ迷いのようなものが残っていた。柊の中で、消すことを救いとする論理は、まだ固まりきっていなかった。
亜紀が細く息を吐いた気配がした。だが言葉にはならなかった。
*
そのときだった。交差点の向こうから、ゆっくりした足取りで乾が来た。
濃茶の表紙の地図帳を小脇に抱えていた。乾は交差点の手前で足を止め、柊を見た。それから柊の背後の、一つに定まった街を見た。乾の顔が動いた。乾は、柊の背後の街が定まっていることに気づいた。
「悠」乾は言った。
柊は乾を見た。微笑を少しだけ崩した。かつて喫茶店で見たのと同じだった。
「先生」柊は言った。
乾は交差点に立った。志賀の隣でも柊の正面でもなく、二人の間の少し離れた位置に。地図帳を抱えたまま柊を見た。
「お前」乾は言った。低い声だった。「最後まで、戻したな」
「戻しました」柊は言った。
「わしは途中で手放した。戻しきる前に」乾は言った。「……お前は、戻しきった。わしが怖くてできなかったことを」
「先生は、手放せた。それが違いです」柊は言った。
「わしは怖かった」乾は言った。「戻し続ければ、自分の側が抜ける。名も、顔も、記憶も。……だから手放した。戻したかった相手を、途中で諦めた。だからわしは、まだ名を持っている」
乾は地図帳を抱え直した。
「お前は」乾は言った。「あの時、戻しきる前に、手放せなかった」
「先生は、手放せてしまった」柊は言った。静かだった。「それが違いです。先生は途中で手を止められた。大切な人を諦めることができた。私は、できなかった。最後まで行ってしまった。……それだけの違いです」
柊はそこで一度、言葉を切った。それから続けた。
「先生は、私を止めに来たんですか」柊は言った。「それとも、私が最後まで行ったのを、確かめに来たんですか」
乾は答えなかった。
志賀は二人を見た。二人は同じ入口に立って、片方は怖くて手放し、片方は手放せずに戻しきった。志賀はそこに、整合室の手を重ねた。乾は途中で閉じ、柊は閉じずに最後まで載せた。どちらが正しかったのかは、盤の上には書いていなかった。
乾は柊に言いたいことがあった。だが言わなかった。柊も言わなかった。師と弟子の、その決着はつかなかった。
「悠」乾は言った。最後にそれだけ言った。「お前が戻したかった相手は、今、どこにおる」
柊は答えなかった。
柊は乾を見て微笑んだ。だがその微笑の奥の温度が、濃くなった。乾もそれ以上訊かなかった。訊いても答えが返らないことを、乾は知っているようだった。
志賀はその問いの重さを、遅れて感じた。相手を最後まで戻したなら、相手は今、いるはずだった。名を得て、声を得て、会話を得て。だが柊は、いる、とも、いない、とも言わなかった。最後まで戻すとどうなるか、その答えと、戻した相手が今どこにいるかの答えは、同じ場所で閉じられていた。志賀はそれに気づいた。だが、それ以上は、進めなかった。
乾は地図帳を抱え直し、柊の背後の一つに定まった街を、もう一度見た。それから目を伏せ、何も言わずに志賀の隣へ半歩下がった。師と弟子の間に、乾は立っていた。だがその間を、乾は埋められなかった。
志賀はふと思った。乾は、途中で手放したことを後悔しているのだろうか。それとも、辛うじて名を持っている自分を、良かったと思っているのだろうか。乾の横顔からは、どちらとも読めなかった。二人は互いの中に、選ばなかった方の自分を見ていた。
*
志賀は自分の側の街を見た。
志賀の背後は、まだ二重にぶれていた。二つの町名。二つの標識。柊の背後は、一つに定まっていた。
志賀はポケットからあの物を出した。手のひらに載せて見た。物のことは全部覚えていた。だがそれを誰と使ったかだけが抜けていた。志賀の右手が、もう一つの物を、まだ探していた。この交差点で見ても、その物は答えを返さなかった。抜けた記憶は、どこにも戻っていなかった。糸だけが切られていた。
志賀はその物を見て、柊を見た。柊も昔、あそこから始めたのだ、と思った。志賀が今立っている、まだ二重にぶれている側から。
柊の背後の、一つに定まった街。戻し終えた者の静けさ。柊はその先まで行った。このまま戻し続ければ、志賀も記憶を一つずつ失いながら、あそこへ近づいていく。柊は志賀の何年か先を、先に歩いた者だった。
柊が消す側に回ったのも、あの場所からだった。だが志賀の背後は、まだ揺れていた。志賀は、まだ、あの静けさも、それが何を差し出させるのかも、知らなかった。
亜紀は何も言わなかった。志賀は、亜紀がその沈黙の中で、同じものを聞いていることに気づいた。柊の声。その静けさ。亜紀はそれを、脇で聞いて、黙っていた。
志賀はあの物を握った。
「あんたが」志賀は言った。「昔、戻した相手は。……最後まで戻して、どうなった」
柊は微笑んだ。
「それは言いません」柊は言った。「……あなたが、自分で知る番です」
柊はその定まった街を背に、静かに立っていた。志賀の背後は、まだ二重にぶれていた。乾は志賀の隣で、二つの街を見比べていた。手放した者だけが、その両方を見ていられた。志賀の今と、志賀のあり得る先が、一枚に重なっていた。二重露光だった。街だけでなく、志賀自身が、今と先の間で、ぶれていた。
亜紀は動く気配がしたが、声は返さなかった。亜紀は、志賀と同じ、揺れの側にいた。あの静けさの中に亜紀の像がどう写るのか、志賀にも亜紀にもわからなかった。二人とも、まだ、あの静けさの手前にいた。
柊は志賀を見て、微笑んだ。
「あなたの、この先を私は知っています。私も昔、最後まで戻したんです」
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