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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第3巻 二重露光の街
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第5話 肩入れする手

 抜けた記憶は、次の日も戻らなかった。


 志賀は朝の机に着いて、引き出しをもう一度開けた。中の物は昨夜と同じだった。古いペン。使わない印鑑。入館証の予備。そして、誰と使ったかだけが抜けた、あの一本のスプーン。志賀はそれを手に取り、机の上に置いた。切り抜かれた形を、正面から見ておきたかった。


 応答欄を開いた。


「これを辿れるか」志賀は打った。「抜けた記憶の、外形だけでいい」


 しばらく間が空いた。それから流れた。


 ——中身は、辿れない。抜けたものは、あんたの中から抜けた。私にも、それは見えない。……だが、外形なら、辿れる。抜けた記憶が、どこに触れていたか。それは、まだ残っている。


「どういうことだ」志賀は打った。


 ——記憶は、一つで閉じていない。あんたのこの物の記憶は、日付や、場所や、他の記憶に、糸で繋がっていた。中身が抜けても、繋がっていた糸の跡は、残る。糸の跡を辿れば、抜けた記憶が、いつごろの、どこの記憶だったか、外形だけは掴める。中身は、戻らない。


「やってくれ」志賀は打った。


 ——一つずつ聞く。答えられなければ、それでいい。……この物を、あんたは、いつごろから持っている。


「三年前だ」志賀は打った。「この部屋に越してきた頃だ。それは覚えてる」


 ——三年前。この部屋。……その頃、あんたは、一人で暮らしていたか。


 志賀は指を止めた。記録の上では、志賀はずっと一人だった。契約は単身。同居人の届出はない。保証人は母親。全部が一人分に整っていた。だが体の癖は違うことを覚えていた。右を空ける。左に寄せる。記録は一人と言い、体は二人だったと言った。


「わからない」志賀は打った。「記録では一人だ。だが、体は、違うと言う」


 ——それで、いい。……この物を使ったとき、あんたの右手は、どこにあった。


 志賀は目を閉じた。左手で物を持つ。そのとき、右手は何かへ伸びていた。もう一つの、同じ物へ。二つで使っていた。志賀の左手の物と、右手の先の物。二つが同じ場所にあった。


「二つ、あった」志賀は打った。指が冷えた。「俺のと、もう一つ。右手の先に、同じ物が、もう一つあった」


 ——それが、外形だ。この物は、二つで使われていた。あんたのと、もう一人のと。……相手が誰かは、抜けた。だが、二つで使われていた、という外形は、残っている。あんたの右手が、それを覚えている。


 机の上にスプーンが一本だけあった。だが志賀の右手は、もう一本の、柄の曲がったスプーンをまだ探していた。名も顔もない。それだけが、手に残っていた。


「誰だったのか」志賀は打った。「それは、言えないのか」


 ——言えない。私にも、抜けたものの中身は、見えない。あんたが自分で抜いたのでない。世界の側が、借りの請求として、抜いた。抜いた側は、中身を持っていかない。ただ、繋がりを、断つ。中身は、どこにも、行っていない。ただ、あんたと、それを繋ぐ糸が、切られた。だから、辿れるのは、糸の跡までだ。


 総量則では、何かを残せば、どこかで何かがその分だけ消える。だが今度は、場所が移ったのではなかった。繋がりが、断たれただけだった。相手はまだ、どこかにいるのかもしれなかった。志賀がそれを、繋げなくなっただけで。


 志賀はスプーンを引き出しに戻した。今度は、閉じた。閉じても、右手の空振りは、消えなかった。


  *


 昼、志賀は整合室で仕事をした。


 版と版の差分を拾う。片方の版を正しくすれば、片方が誤りになる。志賀は毎日それをしていた。柊がやっているのと同じ手つきだった。誰を残し、誰を閉じるか。志賀は記録の上でそれをやり、柊は人の上でそれをやっていた。戸川の届けた書類にも悪意はなかった。柊にも悪意はなかった。どちらも、自分の正しさで手を動かしていた。


 夜、志賀は自室の机に着いた。


 地図アプリを開いた。柳瀬の一帯は、まだ揺れていた。志賀が飽和で食い違わせたまま、いくつもの町名が重なっていた。柳瀬。宮前南。橋本町。芹沢の座標は、その揺れの中に残っていた。


 だが、揺れは収まりかけていた。


 志賀は画面を拡大した。揺れの端の方から、町名が一つずつ定まり始めていた。宮前南。宮前南。柳瀬の重なりが、外側から宮前南へ寄せられていた。柊がまた塗り始めていた。志賀が食い違わせた固定点を、一つずつ宮前南で締め直していた。


 応答欄が灯った。


 ——向こうが、締め直してる。


 リグの声だった。


 ——あんたが食い違わせた固定点を、向こうは台帳から順に、一つずつ締め直してる。隙間が、外から閉じてる。このままだと、揺れが収まって、また芹沢の座標が、盤に出る。


「もう一度、食い違わせるか」志賀は打った。


 ——無理だ。一度使った飽和の借りが、まだ返し切れてない。あんたの記憶が一つ抜けた分だ。今もう一度同じ総量を積めば、また抜ける。次はもっと大きく抜ける。今のあんたには、それを受ける余裕がない。


 志賀は、次に抜けるものを想像するのをやめた。


「じゃあ、どうする」志賀は打った。


 ——待て。締め直しには、順番がある。向こうは固定点を一つずつ締めてる。その順番を、読め。どの固定点を、どの順で締めているか。それが分かれば、向こうの采配の全体が、見える。


 志賀は締め直しの順番を追った。柊はまず台帳を締めた。次に住居表示。次に正式地名。志賀が同時に矛盾させたものを、台帳から順に、宮前南で固定し直していた。迷いのない、整いすぎた手つきだった。自分の采配で、誰を先に消すかを決めていた。


「わかった」志賀は打った。「柊の采配の全体が、見えた。……こいつは、操られてない。三つの固定点を、自分の手で、順に締めてる」


 ——そうだ。


 リグの声は、いつもより短かった。


 ——陰謀じゃない。誰かが糸を引いてるんじゃない。柊は、自分で選んでる。……それが、いちばん、面倒な相手だ。


 締め直しは、進んでいた。宮前南が、外から、柳瀬の重なりを締めていた。野帳、壁、網。志賀が積める物は、角一つ分しかなかった。だが柊が締めているのは、面だった。角一つを守る手では、締め直しの面に間に合わない。芹沢の座標が、揺れの端で、宮前南の側へ、寄せられかけていた。志賀は、詰みかけていた。


 そのときだった。


  *


 締め直しの順番が、一つ、狂った。


 志賀は画面の上に、それを見た。柊は台帳、住居表示、正式地名の順で締めていた。次に締めるのは、四つ目の固定点のはずだった。志賀が飽和で最後に積んだ、乾の地図帳の控えの位置。柊はそこを締めれば、面が完成するはずだった。だが、その四つ目の固定点が、締まらなかった。


 志賀は画面を拡大した。


 乾の控えた位置。二十二年前の五月。五年おきの五回の日付。その固定点が宮前南へ寄せられかけて、途中で止まっていた。柊の締め直しがそこで乗り切らなかった。柊が締めようとするのを、内側から一つ緩めている手があった。


「これは」志賀は打った。「あんたか」


 応答欄が、しばらく、暗かった。それから流れた。


 ——これは、私の助言じゃない。


 数えかけた固定点の上で、指が止まった。


 ——私は、待て、としか言っていない。この固定点を緩めろ、とは言っていない。だが、緩んでいる。盤の固定点を直接緩める権限は、私にはない。これは、私の上の手だ。


 誰かが、志賀の作った矛盾だけを、閉じさせずにいた。柊が最後に締めようとする四つ目の固定点——志賀が飽和で食い違わせた、その一点だけが、緩んだまま残っていた。志賀が積んだのでない手で。リグが助言したのでない手で。志賀が詰むはずの局面で、誰かが、それを一つ、緩めていた。


「なぜ、俺を助ける」志賀は打った。


 志賀は待った。長く待った。


 ——それは、言わない。私も、知らない。……あんたを助けるためなのかも、わからん。あんたが詰む一点と、あの側が緩めた一点が、たまたま重なった。それだけかもしれん。理由も、名も、置いていかない。……次も緩んでくれる保証は、ない。


 志賀は椅子の背にもたれた。助かった。芹沢は残った。だが志賀が助けたのではなかった。名も知らない手が、志賀の詰みを一つ緩めた。志賀は、その肩入れの上に、辛うじて立っていた。それが味方なのか、味方だとしてなぜなのか、志賀にはわからなかった。


 その同じ夜、志賀の知らない遠い町で、一人の老人が店の戸を下ろしていた。柳瀬とも、芹沢とも、何のつながりもない土地だった。老人は帳場に戻り、四十年つけてきた売上帳に、その日の日付を書いた。店の名を書き、番地を書いた。ペンが、番地の数字の一つを、いつもと違えて書いた。老人は気づかなかった。書き終えて、帳面を閉じ、灯りを消した。誰も見ていなかった。志賀も、知らなかった。ただ、その一冊の中で、店の建っている場所が、静かに一つ、ずれた。肩入れも、ただでは、なかった。


  *


 芹沢から電話が来たのは、その夜遅くだった。


「志賀さん」芹沢は言った。声が、いつもより高かった。だが、怯えではなかった。「あたし、残ってます。地図、まだぐちゃぐちゃなんですけど。あたしの座標、消えてないです」


「知ってる」志賀は言った。「見てた」


「それで」芹沢は言った。早口だった。「あの、聞いてほしいことがあって。網の人、増えたんです。この騒ぎで。地図が変になってるの、みんな気づいて。柳瀬が四つくらいの名前で重なってるの、面白がって見に来る人が、増えて。今、二十人くらいいるんです。前は七人だったのに」


 志賀は身を起こした。


「二十人」志賀は言った。


「はい」芹沢は言った。「それで、みんな、同じ角を見てるんです。バラバラじゃなくて。あたしがまとめアカウントで、今日はここ見てください、って言うと、二十人が、いっぺんに、同じ角を開くんです。同じ時間に。同じ場所を。……なんか、前と違うんですよ。前は、みんな勝手に、自分の見たいとこ見てただけで。今は、あたしが言うと、いっぺんに、同じとこ見る。目が、揃うんです」


 目が、揃う。前に記録館を残したときは、芹沢が集めた七人だった。同じ建物を、七人が同時に見た。だが今、芹沢の網はそれより先へ行きかけていた。二十人が芹沢の一声で、いっぺんに同じ角を見る。


「それ」志賀は言った。「続けられるか」


「続けられます」芹沢は言った。「みんな、面白がってるんで。地図が壊れてる街を、いっぺんに見に行くの。ゲームみたいで。……でも、志賀さん、あたし、思うんですけど。これ、ただの面白がりじゃなくて。二十人が同じとこ見ると、そこ、消えにくくなるんですよね。前に志賀さんが言ってた、見てると消えない、ってやつ。……人数が増えたら、もっと、消えにくくなるんじゃないですか」


 芹沢は、自分でそこへ辿り着きかけていた。乾が五十年かけて掴んだ手を、芹沢は、二十人の網で、別の形にしようとしていた。集めるだけの人間の網が、揃った目の網に変わりかけていた。


「たぶん、そうだ」志賀は言った。「人数が増えて、目が揃えば、消えにくくなる。……芹沢の網は、集めるだけの網じゃなくなってる」


「そうですかね」芹沢は言った。少し照れたような声だった。「あたし、集めるしか、できないと思ってたんですけど。……見てるの、揃えると、けっこう、力になるみたいで」


「なる」志賀は言った。「ありがとう。続けてくれ」


「はい」芹沢は言った。「あの、志賀さん」


「なんだ」


「柳瀬、いつまでこのままなんですか」芹沢は言った。「ぐちゃぐちゃのまま。町名、四つ重なったまま」


「わからない」志賀は言った。「今は、このままにしておく。基準を戻せば、また塗られる。ぐちゃぐちゃのまま、置いておく。それで、芹沢が、残る」


「わかりました」芹沢は言った。「じゃあ、見ときます。二十人で」


 電話が切れた。志賀はスマホを机に置いた。


「二十人だって」亜紀の声が、脇でした。「あの子、増やしたね」


「増えた」


「へえ」亜紀は言った。「そっちより、人望あるんじゃないの」


「あるだろうな」


 志賀は否定しなかった。亜紀が、ふ、と笑ったようだった。


  *


 文字起こしの脇で、声がした。


「あの人」


 亜紀の声だった。だが、いつもの軽さがなかった。揶揄う温度が、引いていた。


「あの人が」亜紀は言った。「順番、握ってるんでしょ。消す順番」


「そうだ」


「操られてないって、そっち、言ってた」亜紀は言った。「誰かに命じられてるんじゃなくて、自分で選んでるって」


「言った」


 亜紀はしばらく黙った。


「それ」亜紀は言った。声が低かった。「陰謀より、こわいね」


「陰謀なら」亜紀は言った。「誰かが糸引いてて、その誰かを止めれば、終わるでしょ。悪いやつを倒せば、みんな助かる。……でも、そうじゃない。あの人、自分で選んでる。誰も、悪くないの。みんな、自分で選んでるだけ。それで、誰かが消える」


「そうだな」志賀は言った。「陰謀なら、まだ、よかった」


 亜紀は答えなかった。


 スマホが鳴った。着信だった。志賀は電話に出た。


「志賀さん」


 柊の声だった。静かな敬語。あの、責める色のない声。喫茶店で向かい合ったときと、同じ温度だった。


「この番号を、どこで」志賀は言った。


「整合室の緊急連絡網に、載っています」柊は言った。「ああいう欄は、私の側からは、よく見えるんです」


 問い詰める場所が、そこにはなかった。台帳の側に立つ者に、台帳の欄は隠せない。


「夜分に、失礼します」柊は言った。「今、柳瀬を、締め直させていただいています。お気づきかと思いますが」


「知ってる」志賀は言った。


「一つ、締まらないところがありました」柊は言った。「乾先生の控えた位置です。私が締めようとして、締まらなかった。……あなたが、緩めたのではありませんね」


「俺じゃない」志賀は言った。


「でしょうね」柊は言った。「あなたには、あれを緩める手はない。……別の手が、触れています。私にも、それが誰かは、分かりません。あなたを、助けている手が。理由も、名乗らない手が」


 柊は、それを知っていた。志賀は電話を握った。


「あなたに、お伝えしておきたいことがあります」柊は言った。「その手のことではありません。私自身のことです。……次に、お会いするときに、私の話をします。私が、なぜ、消す側にいるのか。私が、昔、何をしたのか。あなたには、それを、聞いていただいた方がいい」


「なぜ」志賀は言った。


「あなたが」柊は言った。少し、間を置いた。「戻す側だからです。私も、昔、戻す側でした。……あなたは今、記憶を一つ、奪われましたね。それが、始まりです。戻す側の人は、あそこから、始まる。私も、あそこから始めました」


 志賀は、息を止めた。


「次で、私の話をします」柊は言った。「今日は、これで。……おやすみなさい」


 電話が切れた。志賀はスマホを机に置いた。


 柊は次に、自分の話をすると言った。柳瀬の喫茶店で、戻す側でした、それだけです、と半分置いて閉じた、あの続きを。


 志賀は画面を見た。柳瀬は、まだ揺れていた。緩んだ固定点の上で、芹沢の座標が、残っていた。名も知らない手の肩入れの上で。


 陰謀ならまだよかった。これは、全員が自分で選んだ結果だった。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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