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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第3巻 二重露光の街
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18/43

第4話 思い出せない引き出し

 柊は、待たなかった。


 志賀が川沿いの角を守った、その翌日だった。芹沢から電話が来たのは朝のまだ早い時間だった。志賀が整合室へ向かう支度をしているときにスマホが鳴った。芹沢の声は、いつもの淡々とした温度でなかった。


「志賀さん」芹沢は言った。「あたし、消えるかもしれません」


 志賀は手を止めた。


「網が」芹沢は言った。早口だった。「今朝から地図で崩れてて。あたしが起点にしてる座標が、片っ端から宮前南に塗り替わってて。網の目が、一個ずつ剥がれてってるんです。柳瀬の角、志賀さんが守ってくれたとこ、あそこはまだ柳瀬なんですけど、その周りが全部、宮前南になってって。網が、端から畳まれてってて。……真ん中まで、あと少しで」


「真ん中」志賀は言った。


「あたしです」芹沢は言った。声が掠れた。「網の真ん中、あたしなんで。あたしのアカウントの座標が今、消えかけてて。まとめてた投稿が、順番に見えなくなってってるんです。半年分。……あたし、次かも」


 志賀はスマホを握った。柊は角の守りを迂回していた。志賀が守った一区画はそのままに、その周りを塗り、網を外から畳んでいた。柊が敬語で来た日に言った通りだった。網を守れば、網の中心にいる者が次に来る。


「動かないでいろ」志賀は言った。「そこにいろ。網の人にも、芹沢を見ててくれと言え。全員で芹沢を見ろ」


「もう言いました」芹沢は言った。「でも追いつかなくて。塗る方が速くて。……見てる目より、塗る方が速いんです」


 電話が切れかけて、志賀は言った。


「切るな。つないだままにしろ」


 志賀は机に着いた。整合室へは行かなかった。行けば、その間に芹沢が消える。志賀はスマホを机に置いて地図アプリを開いた。柳瀬の一帯が宮前南に塗られていく途中だった。志賀が守った角だけが柳瀬のまま、島のように残り、その周りが宮前南で埋まっていた。柊は今、宮前南という一つの版で、柳瀬という版を上から塗り潰そうとしていた。その塗りの真ん中に、芹沢がいた。


 応答欄が明るくなった。


 ——一区画では、止まらない。


 リグの声だった。志賀は打った。分かってる。


 ——向こうは、角を迂回した。あんたが守った角はそのままに、周りを塗って、網を外から畳んでいる。真ん中の芹沢まで、あと少しだ。角を一つ守る手では、間に合わない。塗る面の方が、広い。


「じゃあ、どうする」志賀は打った。


 ——柊が芹沢を消すのに、何を頼りにしているか。塗り替えは、一つの固定点だけでは効かない。台帳、住居表示、正式地名、いくつもの固定点を、同時にそろえて、初めて面が塗れる。その固定点を、一つずつ押し返しても、間に合わない。……全部を、いっぺんに、食い違わせろ。


 志賀は指を止めた。角一つを押し返すのでなく、柊が頼りにしている固定点を同時に全部、矛盾させる。それらが互いに食い違えば、塗る手がどこを基準に塗ればいいかわからなくなる。


「それは」志賀は打った。「三つの手のうちの、どれだ」


 ——二つ目だ。乾は、名を出さなかったはずだ。複数の記録を同時に食い違わせて、直す手が追いつかない隙間を作る。こっちでは、飽和と呼ぶ。ずらす方の一つ目は、置換だ。……飽和は、角一つを守る観測とは違う。総量が大きい。押す物の量が、桁違いに要る。


 角一つを守るのに、志賀は野帳と壁と七つの目を積んだ。それでも借りが出て、隣の角の壁が一色ずれた。今度は複数の固定点を同時に食い違わせる。その総量は角一つの比ではなかった。借りも、その分、大きくなる。


「借りは」志賀は打った。「どこへ行く」


 志賀は待った。


 ——それは、言わない。……一つだけ、言う。角一つのときは、借りが隣の壁の色で済んだ。索引に載らない、誰も見ていない角へ行った。だが、この総量は、その辺の壁一つでは受け切れない。もっと軽くて、もっと索引に載らない駒へ行く。それがどこかは言わない。今は、芹沢を残すかどうかだ。数え始めれば、手が止まる。


 地図の上で、宮前南が芹沢の座標へ迫っていた。網の真ん中が消えかけていた。電話の向こうで、芹沢の息の音がした。つないだままの電話。芹沢はまだそこにいた。志賀は借りの行き先を数えようとして、やめた。数えれば手が止まる。手が止まれば芹沢が消える。


「芹沢」志賀は電話に言った。「これから、俺が柳瀬の記録をいっぺんに食い違わせる。台帳も、住居表示も、正式地名も、全部、互いに矛盾させる。そうすれば塗る手が基準を失う。芹沢を消す一手が止まる」


「……できるんですか、そんなこと」芹沢は言った。


「やる」志賀は言った。「見ててくれ。網の人、全員で。今から柳瀬が変になる。町名がいくつも、いっぺんに食い違う。それを全部、見ててくれ。見てる目が多いほど、隙間が長く保つ」


「わかりました」芹沢は言った。声が戻っていた。「見ます。全員で。……志賀さん」


「なんだ」


「ありがとう」芹沢は言った。「あたしのために、そんなこと」


「礼はいい」志賀は言った。「まだ、残ってない」


 志賀は机の上に物を並べた。緑の野帳。乾の地図帳の写真。志賀が現地で撮った角の写真。芹沢のまとめの座標。角一つを守ったときは、これを全部、柳瀬という一つの名を支えるために同じ方向へ積んだ。今度は違った。同じ物を、互いに食い違う方向へ積む。どの名にも定まらせないために。


 志賀は野帳を地図の一点に固定した。同じ座標へ、白い外壁の写真を、野帳とは別の来歴で積む。芹沢のまとめの投稿の日付を、その順番が野帳とも写真とも食い違うように積む。乾の地図帳の二十二年前からの控えを、写真とも投稿とも少しずつずれた位置へ積む。一つの点が、四つの違う来歴と時間と位置を、同時に持った。


 どれも正しく、どれも食い違っていた。整合室でなら、四つの版が食い違えば、出どころを辿って、どれか一つを正しいと確定させる。だが今日は、逆をやった。四つとも、閉じずに、開けたまま、載せておいた。確定を、させなかった。


 地図が、揺れ始めた。


 柳瀬の一帯で、町名がいくつもいっぺんに揺れた。柳瀬。宮前南。橋本町。また柳瀬。座標の一つ一つが、複数の名を同時に主張し始めた。宮前南で塗ろうとすると野帳の柳瀬が食い違い、柳瀬に戻そうとすると写真の来歴が食い違う。どこにも確定した基準がなくなっていた。


 ——効いてる。


 リグの声だった。


 ——固定点が全部、食い違ってる。塗る手が止まった。基準がないから塗れない。芹沢の座標も、揺れの中に紛れて消せなくなってる。今のうちだ。この隙間を保て。


 志賀は物を積み続けた。野帳、写真、日付、控え。柳瀬の記録を全部、互いに矛盾させたまま地図の上に載せておいた。塗る手は基準を失って止まっていた。指先が冷えていた。これだけの物を、互いに殺し合うように積み続けるのは、角一つを守るのとはまるで違う重さだった。志賀は歯を食いしばって、揺れを保った。


 地図の上で、芹沢の座標が、揺れの中に残った。


 消えかけていた芹沢の投稿が、消えるのを止めた。半年分のまとめが、揺れの中で宙づりになった。塗る手が基準を失ったから、芹沢を消す一手も載せられなくなっていた。


「芹沢」志賀は電話に言った。「見えるか。芹沢の座標」


「見えます」芹沢の声が、震えていた。「残ってる。あたしの投稿、消えかけてたの、止まってます。柳瀬、めちゃくちゃになってますけど。町名が、いっぱい、重なってて。でも、あたし、残ってる。……残った」


 志賀は息を吐いた。


「残ったな」志賀は言った。


「残りました」芹沢は言った。泣きそうな声だった。それから、掠れた笑い。「志賀さん、柳瀬、ぐちゃぐちゃですよ。町名、四つくらい、重なってて。地図、壊れたみたいになってます」


「しばらく、そのままだ」志賀は言った。「基準を戻したら、また塗られる。ぐちゃぐちゃのまま、置いておく。それで、芹沢が、残る」


「はい」芹沢は言った。「ありがとうございました。ほんとに。……あたし、消えるかと思った」


 芹沢は、黙った。


「あたし、消えるものを集めてるの」芹沢は言った。「……亡くなった祖母の、店の匂いを、忘れたくないからなんです。店も、祖母も、もうないけど。あの匂いだけは、消えてほしくなくて。……この前、干した椎茸を買って、嗅いでみたんです。こんな、だったかな、って。もう、本物は出てこないから。……だから、消えるものを、一つずつ、書き留めてる」


「そうか」志賀は言った。


「もう、大丈夫だ」志賀は言った。「休め」


 電話が切れた。


 志賀は椅子の背にもたれた。窓の外は、いつのまにか暮れていた。地図の柳瀬はまだ揺れていた。町名がいくつも重なって、どれも実像になろうとしてなりきれずにいた。その隙間の中に、芹沢が残っていた。志賀は勝った。芹沢を消させなかった。


 文字起こしの脇で、声がした。


「勝ったのに」亜紀は言った。「勝った顔、してない」


「疲れた」


「でしょうね」亜紀は言った。笑ったようだった。


 志賀は目を閉じた。勝ったのに、疲れが角一つのときの比ではなかった。体の芯が抜けたように重かった。リグの言った、総量が大きい、という言葉が体で分かった。角一つの何倍もの物を積んだ。その分の借りが、どこかへ行った。志賀はそれを数えようとした。


 だが、数えるものが見つからなかった。


 志賀は目を開けた。何か、いつもと違う感じがした。うまく言えなかった。机も椅子もいつも通り。マグカップは左奥にあった。靴は左寄せに揃えてあった。だが、何か一つ、抜けている感じがした。


 志賀は台所へ立った。水を飲もうとしてコップを取った。左手でコップを持ったとき、右手が無意識に、もう一つのコップへ伸びかけた。志賀はその手を止めた。もう一つを取る理由はなかった。飲むのは志賀一人だった。いつもの癖だった。だが今夜は、その癖の空振りが、いつもより深く感じられた。右手が伸びた先に、いつもは、ぼんやりとした誰かの気配があった。名も顔もない、体の癖だけの気配。それが今夜は、その気配ごと、少し薄くなっているようだった。


 志賀はコップを一つだけ持って、水を飲んだ。何が薄くなったのか、言えなかった。もともと、ぼんやりとしたものだった。ただ、いつもの空振りが、今夜だけ、少し空しかった。


 志賀は机に戻り、引き出しに手を伸ばした。なぜそこに手を伸ばしたのか、自分にもわからなかった。ただ、そこに何か確かめておきたいものがあるような気がした。志賀は引き出しを開けた。


 中身はいつも通りだった。


 古いペン。使わない印鑑。整合室の入館証の予備。私物と仕事の物が雑に混じって入っていた。どのペンも、どの印鑑も、いつからそこにあるか覚えていた。何もなくなっていなかった。


 だが、志賀の手が止まった。


 引き出しの隅の、一本のスプーンに目が行った。もとは台所のカトラリーの仕切りにあった一本だった。いつからか、志賀はそれを、仕事の物と一緒にこの引き出しへ移していた。理由は、覚えていない。志賀はそれを手に取った。ステンレスの、何の変哲もないスプーンだった。三年前から家にあることは、分かっていた。だが、それを誰と使ったのか、志賀は思い出せなかった。


 そのスプーンには、使った記憶があった。志賀のこれと、もう一本。右手の先にあったもう一本は、柄の先が曲がっていた。固い瓶の蓋でもこじ開けたのか、曲がった経緯は志賀の中にない。ただ、誰か別の手が、その曲がりを直しもせずに、何度も握って使い続けていた。今も、志賀の右手が、その曲がった柄を探して、卓の上をなぞりかけた。だが、二本目はなかった。握った相手の側だけが、ぽっかりと抜けていた。


 志賀は、その相手が誰だったか思い出そうとした。


 思い出せなかった。


 名前も顔も出てこない。それが誰かとの記憶なのか、自分一人のものなのかさえ、決められなかった。空白の形だけが、手に残っていた。


 志賀は喉が乾いた。


 これは失った記憶だった。整合室で改竄を見抜いてきた目が、それを見抜いた。何かが抜けている。だが、抜けたものが何かは、指させなかった。


 志賀は、引き出しを閉じられなかった。整合室でなら、抜けた記録は控えを辿れば埋められた。だが今、辿る控えごと、抜けていた。


「さく」


 亜紀の声がした。


 志賀は顔を上げた。亜紀の声が、いつもと違った。揶揄う温度も、軽さも、なかった。何か、怯えたような、細い声だった。


「今」亜紀は言った。「何か、なくした?」


「わからない」志賀は言った。「なくした。それは、わかる。でも、何をなくしたのか思い出せない。手がかりが、ない」


 亜紀はしばらく黙った。


「……それ」亜紀は言った。声が震えていた。「それ、あたしと同じかも」


 志賀は、息を詰めた。


「あたしも、覚えてない」亜紀は言った。細い声だった。「あたしが、どうやって消されたのか。何をなくしたのか。……そっちが今、何かなくして、それが何かわからないみたいに。あたしも消されたとき、こうだったのかも。何が起きたかわからないまま、確かめようもなくて。……そういうふうに、消えたのかも」


 志賀はそのスプーンを握った。


 亜紀の欠落と、志賀の欠損が、初めて同じ場所に重なった。二人とも、失ったものの輪郭だけが分かって、中身が出てこなかった。二人とも、確かめる手がかりごと失っていた。


 だが、その重なりの意味を、志賀は測りかねた。亜紀の言い方は二つに読めた。記憶を辿る者は誰でもこうなるのだ、という一般の話にも読めた。だがもう一つ、亜紀が自分固有の何かを言いかけているようにも読めた。その「あたし」の消え方が、志賀のそれと本当に同じものなのか。志賀には決められなかった。


「わからないな」志賀は言った。「亜紀が消えたのと、俺が今なくしたのが、同じものなのか。俺には決められない」


「あたしにも」亜紀は言った。「わからない。覚えてないから」


 志賀は何か言おうとした。大丈夫だ、とか、そんなことはない、とか。だが言えなかった。志賀自身が今、同じ穴を、手に持っていた。二人とも、暗がりの同じ側にいた。片方は残り、片方は消えかけている。それでも、見ているものは、同じ暗がりだった。


「怖いな」志賀は言った。それだけ言った。


「うん」亜紀は言った。少し高い、いつもの声が、細く戻りかけた。「……怖い」


 二人はしばらく黙った。


 文字起こしの脇の声が、静かになった。志賀は、そのスプーンを、引き出しに戻した。戻したが、閉じられなかった。


 スマホが鳴った。


 リグの応答欄ではなかった。着信だった。志賀は電話に出た。


「戻すほど」


 低い声だった。いつもより遠く、掠れていた。電波の遠さではなかった。乾自身が、どこか遠いところから、やっと声を送っているようだった。だが、その声を、志賀は知っていた。


 乾だった。


「戻すほど」乾は電話の向こうで言った。「自分が薄くなる。何かを残せば、その分、どこかが消える。それは聞いたな」


「聞いた」志賀は言った。


 志賀は引き出しの中のスプーンを見た。今日、角一つの何倍も積んだ。その借りが、いちばん軽い、索引の外の駒へ行った。盤に載らない駒。志賀自身が、その駒だった。借りは、志賀の記憶の一つへ返っていた。


 志賀は、借りの行き先を数えるのをやめた。


「わしは」乾は言った。声が少し遠くなった。「ひとつ抜けたときに、手放した。戻すのをやめた。戻し続ければ、いつか自分の側が抜ける。名も、顔も、記憶も。……わしは、それが怖かった。だから、戻しきる前に手放した」


「お前は」乾は言った。「まだ、戻す側にいる」


 声が、そこで途切れた。通話が切れていた。


 志賀は、乾が引き返した線の、まだ手前にいるのか、もう先へ踏み込んでいるのか、それさえわからなかった。


 志賀はそのスプーンをもう一度手に取った。相手を思い出そうとした。名前を。顔を。声を。何も出てこなかった。空白の形だけが、手の中にあった。


 何かを失った。何を失ったのかを、確かめる手がかりごと、失った。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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