第3話 二重露光
夜、自室の机で、志賀は地図アプリの中の一つの角を見ていた。
散髪屋のあった通りと、橋のたもとへ抜ける道が交わる、柳瀬の交差点。芹沢のまとめで消えた三件の座標が、その角の周りに集まっていた。芹沢の網は、その角を起点に張られている。スマホの画面を、志賀はその角へ寄せていた。柊と会った日の、遅い時刻だった。
その角の町名が、揺れていた。
志賀は画面を指で押さえた。地図の表記が定まらなかった。ラベルが「柳瀬」と出て、次の瞬間には「宮前南三丁目」に戻る。また「柳瀬」に振れて、また戻る。点滅ではなく、どちらかへ落ち着こうとして落ち着ききらない揺れだった。何度読み込み直しても、読み込むたびに町名が入れ替わった。
「柊だ」志賀は口に出した。
誰かがこの角を宮前南へ塗り直そうとしていた。芹沢の網の起点を、名ごと消しにかかっていた。柊は交渉の席で言った通り、自分のやり方で順番を整えていた。網が乱すなら、網の張られた角を先に均す。
応答欄が明るくなった。
——始まったな。
リグの声だった。志賀は打った。何が始まった。
——押し合いだ。あの角を、向こうは宮前南で塗ろうとしている。あんたが何もしなければ、朝までに塗り終わる。角の名が宮前南に定まれば、芹沢の網は起点を失う。
志賀は画面の角を見た。町名がまた揺れた。柳瀬。宮前南。柳瀬。
「止められるのか」志賀は打った。
打ってから、志賀は自分で答えを見ていた。乾の手だった。乾は五十年、覚えている者が見ればその場所は消えない、と言い続けてきた。向こうが宮前南で塗るなら、こちらは柳瀬で置き直せばいい。塗りを止めるのでなく、観測で固定して、押し返す。
——そうだ。
リグの声は短かった。——あんたが柳瀬をここに置く。それだけだ。ただし、名前だけじゃ足りん。
町名は宮前南の側へ、少しずつ寄っていた。柳瀬の点滅が、前より短くなっていた。
「どうやって固定する」志賀は打った。
——物を出せ。あんたの手元に、その角が柳瀬だと言い張れる物がいくつあるか、数えろ。台帳の名前で押されたら、台帳より強い物を積むしかない。
志賀は机の上に手を伸ばした。
緑の野帳。亜紀の座標列。志賀はそれを開いて、柳瀬の項を探した。書きかけで途切れた、数行多い項。座標の脇に、亜紀の手で「柳瀬」と控えてあった。日付はない。だがその角の座標が、確かにそこに書かれていた。もう一つ、記憶を辿った。柳瀬の古アパートの外壁。野帳では薄茶、現地は白。塗装のめくれの一番下まで白だった、あの壁。志賀は現地でそれを見ていた。
それから、芹沢の網があった。
志賀は芹沢に電話をかけた。芹沢はすぐ出た。
「志賀さん」
「芹沢」志賀は言った。「今、川沿いの角を、誰か見てるか。散髪屋の通りと橋の道が交わる、あの角」
「見てますよ」芹沢は言った。「網の人が、何人か。あそこ、みんなで見張ってる起点だから。……なんか、変ですよね。あの角。地図で名前が、ちらちらして」
「見えてるか」志賀は前に乗り出した。
「見えてます」芹沢は言った。「あたしも今、開いてて。柳瀬になったり、宮前南になったり。他の人も、あれ何ですかって、さっきから」
網の目が、その角を見ていた。芹沢と、芹沢の網の人たちが、何人も、同じ角を柳瀬という名で覚えている。台帳の名前でなく、覚えている目の数。それも手元に積める物の一つだった。
「芹沢」志賀は言った。「そのまま見ててくれ。目を離すな。何人か知らないが、全員、あの角を、柳瀬だと思って見ていてくれ」
「え」芹沢は言った。「いいですけど。……何かするんですか、志賀さん」
「する」志賀は言った。「あの角を、柳瀬のまま、残す」
電話の向こうで、芹沢が黙った。
「わかりました」芹沢は言った。声が掠れていた。「見てます。網の人にも、そのまま見ててって言います。あたしたち、集めてるだけの人間だけど。……見てるくらいは、できるんで」
電話が切れた。
志賀は机の上に物を並べた。整合室で版を確定させるのと同じ手つきで、それを地図アプリの角へ向けて、一つずつ置いていった。
志賀は地図アプリのその角に、指でラベルを打った。
柳瀬。
いつもなら、すぐに戻る。正式地名に基づきラベルを補正しました、と出て、宮前南三丁目へ弾かれる。だが今夜は、ラベルと同時に、名前を支える物ごと、そこへ置いた。
補正のメッセージが出かけて、止まった。
角の上に、二つの名が重なっていた。柳瀬と、宮前南三丁目。片方が薄れて片方が濃くなるのでなく、二つとも同じ濃さで、同じ角の上に載っていた。志賀が野帳と壁と網で押した分、柳瀬が残った。柊が台帳で押した分、宮前南も残った。二つの名が、同じ一区画で、半分ずつ実像になろうとしていた。
志賀は地図を拡大した。
角の風景まで二重になっていた。片方の面には、志賀が現地で見た、層の底まで白い外壁。もう片方の面には、塗り直されたばかりの顔をした、痕のない外壁。二つの壁が、同じ一つの角に、半透明で重なっていた。街区標識も二重だった。片方は五の隣が七で、六が欠番の、柳瀬の顔。もう片方には六が戻っていた。五、六、七。同じポールの上に、二枚重なって写っていた。
その二重の角の店先に、人がいた。
静止した地図の写真ではなかった。芹沢の網の一人が、その角から流している同時映像に、地図が繋がっていた。網の目の映像、と芹沢は呼んだ。この数日で、急ごしらえに組んだのだという。撮って残すのではない。今そこにあるものを、同じ時に、別の目へ渡すだけ。写しは作らない。だから消されない。見張りたい角に、覚えている者が立ち、映像ごと地図の座標へ結びつける。画面の隅に、その映像が小さく開いていた。重なった外壁の下に、前掛けをした一人の老人が映っていた。自分の店の前に立ち、軒の看板を少し首をかしげて見上げている。二つの町名に挟まれて揺れる看板の、長く掛けてきた自分の店の名が、今日はどこか違って見える、とでもいうように。通りがかりの誰かが、宮前南の——と聞こえる名で、老人に声をかけた。老人は訂正しなかった。曖昧にうなずいて、また看板を見上げた。
志賀は、画面をなぞる指を止めた。押し合っているのは町名だった。だがその名の下で揺れているのは、この老人の店の名だった。角が宮前南に定まれば、この店は初めから宮前南にあったことになり、老人が自分の店を何と呼んできたかは、どこにも残らない。
志賀は画面を動かした。角度を変えて、その角をもう一度、映し直した。映し直した瞬間、柳瀬の側が、少しだけ濃くなった。志賀が見たことで、そちらが実像に近づいた。もう一度映し直すと、今度は宮前南の側が濃くなった。
撃ち合いだった。だが銃でも術でもなかった。積むのは物だった。重い方へ、角が寄っていく。盤が、現地の街だった。
志賀は乾に電話をかけた。三度鳴って、乾が出た。
「乾さん」志賀は言った。「柳瀬の川沿いの角を、今、誰かが宮前南で塗ろうとしている。押し合いになってる。あんたの地図帳に、あの角の日付は」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。しばらく音が続いた。
「ある」乾が言った。低い声だった。「五年おきに、五回、控えとる。柳瀬の、あの角だ。いちばん古いのが、二十二年前の五月だ。全部、柳瀬と書いてある。宮前南などと、書いた日は、一度もない」
「その日付を、そこに置いといてくれ」志賀は言った。「あんたが二十二年、柳瀬だと書き続けた角だ。それも、物になる」
「わしの字が、物になるのか」乾は言った。
「なる」志賀は言った。「日付のある控えだ。あんたの側は、それがある」
乾は答えなかった。だが電話は切れなかった。紙をめくる音だけが、しばらく続いた。乾は柳瀬の項を開いたまま、その角を見ているらしかった。志賀はその音を、角へ積んだ。乾の二十二年の日付が、台帳の紙の重みに、少しだけ拮抗した。
角の柳瀬の側が、また濃くなった。
「向こうは何を積んでる」志賀は打った。
——台帳だ。公式の地名。住居表示。役所の紙に載っている物が、向こうの弾だ。あんたの側は、索引に載らない物ばかりだ。日付のない野帳。現地の壁。集めているだけの人間の目。
志賀は指を握った。数で言えば台帳の方が重かった。だが現地の壁は嘘をつかない。何十年も白かった、という顔をした壁は、台帳が何と言おうとそこに在った。芹沢の網の目も、そこに在った。
志賀は画面の角へ、白い外壁の記憶をもう一度重ねた。あの白は、盤が薄茶を塗り潰して置き直した色だ。だが壁は、層の底まで白いという不自然を、隠さずに着ていた。壁は嘘をつかない——つかされた嘘の痕を、そのまま見せる。その痕の前に立って、めくれの奥まで見たのは、志賀だった。台帳が宮前南と言おうと、その一つだけは、志賀が自分の目で持っていた。その観測を角へ落とすと、柳瀬が、宮前南より、濃くなった。
地図の角で、五の隣を七にした標識が、実像になった。
志賀は息を吐いた。だがそのとき、宮前南の側が押し返してきた。
角の上で、住居表示の板が濃くなった。志賀の積んだ壁と網の上に、台帳の重みが乗ってきた。宮前南の正式な板が、また濃く戻り、六が、標識に戻ってきた。五、六、七。
志賀の指先が、冷えていた。
——重いぞ、向こうは。
リグの声だった。——台帳一枚は、あんたの野帳より重い。物を三つ積んでも、向こうは紙一枚で返してくる。
だが、と志賀は思った。向こうにない物が一つ、志賀の側にあった。芹沢の網だ。台帳が一枚の紙に一つの名前を書くのに対し、芹沢の網は、いくつもの目だった。同じ角を、何人もが同時に見ている。一枚の紙より、いくつもの目の方が、重くなるかもしれない。全員が、同じ名で見ている間だけ。
「使えるか」志賀は打った。
——そうだ。
リグの声は、それだけだった。
志賀は芹沢に、もう一度、電話をかけた。
「芹沢」志賀は言った。「まだ見てるか。あの角」
「見てます」芹沢は言った。息が上がっていた。「網の人、今、七人。全員、あの角を開いてます。柳瀬の角を。みんな、あそこが柳瀬だって、知ってるから」
「そのまま見ててくれ」志賀は言った。「全員で。同じ角を。柳瀬のまま」
「はい」芹沢は言った。
志賀は電話を握ったまま地図の角を見た。芹沢の七つの目が、同じ角を柳瀬だと思って見ていた。志賀はその目の数を、台帳の紙の上へ積み直した。
角が、柳瀬の側へ、傾いた。
白い外壁が濃くなり、宮前南の板が薄れた。柊の台帳一枚が、七つの目に押し戻されていた。
志賀は息を止めて、それを見ていた。
柳瀬が、実像になった。
角の上の二重が、一つに定まりかけた。整合室でなら勝てない勝負だった。紙に載っていない物は証拠にならない。だがこの一区画の上では、見ている目の方が、書かれた名前より、重かった。
そのときだった。
応答欄が、また灯った。
——一つ、言っておく。
柳瀬が定まりかけていた。あと少しで、この角は柳瀬に戻る。志賀はそう思っていた。
——押し勝てる。あんたの積んだ物の方が、今は重い。この角は柳瀬に戻る。……だが、勝った分の重さは、どこかから借りている。ただでは、載らない。
志賀は打つ手を止めた。総量則だった。何かを残せば、どこかで、何かがその分だけ消える。志賀は角を守りかけていた。その分の重さを、どこかから借りて。
「どこから借りてる」志賀は打った。
——それは、言わない。今は、この角に集中しろ。手を止めれば、向こうがまた押してくる。あんたが借りの行き先を数え始めれば、手が止まる。手が止まれば、七つの目が押している間に、台帳が戻ってくる。今は、勝ち切れ。借りの話は、勝ってからだ。
志賀は借りのことを、頭の隅へ押しやった。画面の角は待ってくれなかった。柳瀬が定まりかけて、宮前南がまだ薄く残っていた。
志賀は最後の物を積んだ。
志賀は自分の目を、角へ落とした。野帳を頼りにここまで来た、志賀自身の観測。それを、七つの目に足した。八つ目の観測として。
角が、柳瀬に定まった。
地図アプリの上で、その一区画が、柳瀬で止まった。もう揺れなかった。街区標識は、五の隣が七。六は、欠番のまま。宮前南の板は、薄れて、画面から抜けた。志賀が守った、柳瀬の側へ。
志賀は椅子の背にもたれた。小さな勝ちだった。一区画。ただの角一つ。だが台帳の重みに勝って、守り切った。芹沢の網の起点は、名を失わずに残った。
「芹沢」志賀は電話に言った。「戻った。角は、柳瀬だ」
「……ほんとですか」芹沢の声が、震えていた。「戻った。ほんとに。今、地図、柳瀬になってます。宮前南、消えてる。……あたしたち、見てただけなのに」
「見てただけじゃない」志賀は言った。「見てたから、戻った。七つの目が、台帳を押し返したんだ」
電話の向こうで、芹沢が、少し笑った。掠れた声で。
「そっか」芹沢は言った。「見てるくらい、って言ったけど。……見てるの、けっこう、力あるんですね」
「ある」志賀は言った。「ありがとう。もう、休め」
電話が切れた。
志賀はスマホを机に置いた。夜が更けていた。机の上には、緑の野帳が開いたままだった。柳瀬の項。書きかけで途切れた数行。亜紀が控えた座標が、今夜、一区画を守る物になった。志賀は野帳をそっと閉じた。
文字起こしの脇で、声がした。
「守ったの」
亜紀の声だった。少し高い、あの声。だが今夜は、揶揄う温度が薄かった。
「守った」志賀は言った。「亜紀の書いた座標が、効いた」
「そう」亜紀は言った。「……また、疲れた顔してる」
「疲れた」
「勝ったのに?」
勝った。角は柳瀬に戻った。芹沢の網は残った。だが志賀の中に、勝った、という感じが薄かった。リグの言った、借りている、という一行が、頭の隅に残っていた。
「勝った」志賀は言った。「けど、借りだ、とリグが言った。守った分を、どこかから借りてる、と」
「どこから」
「言わなかった」
「またそれ」亜紀は少し笑った。「あいつ、いつも半分しか言わない」
志賀も笑った。
「笑った。珍しい」
「うるさい」志賀は言った。
珍しく、志賀は言い返した。亜紀が、ふ、と息だけで笑ったようだった。
志賀はスマホをもう一度開いた。守り切った角を、もう一度、確かめておきたかった。柳瀬の角。五の隣が七の標識。地図をそこへ動かした。角は柳瀬だった。標識も、そのままだった。志賀は画面を閉じかけた。
閉じる前に、志賀の指が、地図を、横へ流した。
柳瀬の角から、一区画。橋のたもとへ抜ける道の、別の角。志賀が今夜、触っていない角だった。守ってもいない、押してもいない、ただそこに在るだけの角。志賀の目が、なんとなく、そこで止まった。
その角の外壁の色が、志賀の覚えているものと、違っていた。
橋のたもとへ抜ける道の角。志賀はそこを現地で何度か通っていた。外壁は、くすんだ灰色だった。だが今、地図の写真では、その壁が薄い青になっていた。灰色でなく、青。志賀は画面を拡大した。間違いなく、薄い青の壁だった。
志賀は野帳を開き直した。だが、その角の座標は野帳になかった。亜紀が控えていない角だった。芹沢のまとめにもなかった。志賀が現地で灰色だと見た、それだけの角。誰も控えていない、ただの角。その壁の色が、志賀の知らない間に一つ、ずれていた。
「さく」亜紀の声がした。「なんか、また、変な顔してる」
「壁の色が」志賀は言った。「違う。俺が触ってない角なのに」
「守った角のこと?」
「いや」志賀は言った。「守ったのは、川沿いの角だ。これは、その隣。俺は何もしてない。今夜は、見てもいない。それなのに、色が、一つ、ずれてる」
亜紀はしばらく黙った。
「……それが、借りたやつ?」亜紀は言った。声が低かった。
志賀は答えられなかった。リグは行き先を言わなかった。だが守った一区画のすぐ隣の壁が、灰色から青へ、一色ずれていた。誰も見ていない角で。志賀が勝った分だけ。守った重さを、どこかから借りている。その行き先を、志賀は今、地図の隅に見ていた。
勝った一区画の裏で、世界のどこかが一つ、静かにずれた。
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