第2話 敬語で来る人
柊は、志賀の側から探すより先に、向こうから来た。
翌日の夕方だった。志賀は柳瀬の近くを歩いていた。消えた三件の座標を現地で確かめておきたかった。散髪屋のあった通り。橋のたもと。私設文庫のあった路地。地図の上の点を足で踏み直しておきたかった。私設文庫の路地に入ったとき、その奥に男が立っていた。
銀縁の眼鏡をかけていた。
柊だった。地味な色のコートを着て手ぶらで、路地の奥に静かに立っていた。志賀を見て柊は微笑んだ。責める色のない、あの微笑だった。記録館の前で見たそのままの顔だった。
「また、お会いしましたね」柊は言った。「お仕事ですか。この路地に、何かありましたか」
柊はちょうど、私設文庫のあった場所に立っていた。老婆が消えた地名を集めていた、その場所に。
「あんたこそ」志賀は言った。「ここで何をしている」
「私も確かめに来たんです。ここに何があったかを。あなたと同じものを、見に」
同じもの。あの路地でもそう言った。だが今度は違う重さで聞いた。この男が、盤を触るいくつもの手の一つなら、同じものを見に来た、というのは志賀とは逆の意味かもしれなかった。
「話をしませんか」柊は言った。「立ち話も何ですから。喫茶店でも」
柊は逃げる素振りを見せなかった。追い詰められた者の顔ではなく、話す機会を待っていた、という顔だった。志賀はこの男から話を聞く機会を逃したくなかった。
「いいだろう」志賀は言った。
店へ向かう途中、志賀は乾に短く打った。店の名と、時刻。それだけ。二人のあいだで決まっていた形だった。
二人は柳瀬から一区画離れた喫茶店に入った。窓際の席に向かい合って座った。志賀がいつも乾と会う店ではない、造りの似た古い喫茶店だった。柊は水を一口飲んで、静かに切り出した。
「単刀直入に言います。あの消え方は、私が順番を整えています」
柊はそれを隠さなかった。言い訳もしなかった。ただ事実を置くように言った。
「散髪屋を消したのは、あんたか」志賀は言った。
「順番を後ろから前へ動かしました」柊は言った。「あの人はもう少し後で消えるはずでした。私が少し前へ出した。橋のたもとの方も、私設文庫の方も同じです。動かしたのは順番です。消すこと自体は私がしたのではありません。それは補正がします。私は順番だけを触っています」
志賀は指を握った。順番だけを触る。リグが言っていたのと同じ言葉だった。誰を先に消すか、誰を後にするか。それをこの男が選んでいた。
「なぜ、集めてた人から消す」志賀は言った。
「逆です」柊は言った。「私は集めていた人を消したいのではありません。私は一人でも多く残したい。だから順番を整えるんです」
志賀は柊を見た。意味がつかめなかった。
「聞いてください」柊は言った。声は穏やかなままだった。「補正は止まりません。あの街区はいずれ丸ごと均されます。全部が載らない側です。そうなれば全員が等しく薄くなって消える。誰も残らない。それが放っておいたときの結末です」
柊は水のグラスを回した。
「そこで選ぶんです。全員は救えません。なら誰を残すかを選ぶ。残す者に補正が来ないよう順番を後ろへ回し、その代わり別の誰かを前へ出す。誰かを残すには、誰かを先に手放すしかない。だが選ばなければ、全員が等しく均されて消える」
柊は志賀を見た。微笑は変わらなかった。
「選ばない、という選び方も、あります」柊は言った。「手を引いて、補正に任せる。私の手は汚れない。でも、その結果、全員が消える。何もしないことが、いちばん多くを消す。私は、それを、しない」
志賀の呼吸が、止まった。柊はその論理を迷わずに置いた。汚れる方を、自分で選んでいた。
「あんたは」志賀は言った。「その選別を、一人で背負ってるのか」
「背負う、とは考えていません」柊は言った。「誰かがやらないと、全員が消える。だから、私がやる。重く考えれば、手が止まる。手が止まれば、また、誰かが消える。だから、淡々とやる方がいい」
志賀はグラスを握った。淡々とやる方がいい。整合室で、志賀も同じことを自分に言い聞かせてきた。矛盾を確定させるとき、片方を正しくすれば片方が誤りになる。志賀はそれを記録の上でやってきた。柊は、それを、人の上で、街区の規模でやっていた。
「あんたが、残す者を決めているのか」志賀は言った。
「決めています。私が選んでいます」柊は言った。「印刷所の人は残しました。あの人はこの街の記録を一番多く持っている。あの人が消えれば失われるものが一番大きい。だから残した。散髪屋の人は——」
柊はそこで言葉を止めた。
「残せませんでした。順番には限りがあります。全部は後ろへ回せない。誰かを残せば、誰かを前へ出すしかない。私はあの人を前へ出しました。残す人を選んだから」
志賀はグラスの水を見た。柊はそれを悪びれずに、事実として置いた。
「なぜ、あんたがそこまでする」志賀は言った。
「では、あなたに訊きます」柊は言った。「あなたも選びましたね。記録館を残した。その代わり町の記憶を手放した。あなたは一つを残すために等量を手放した。私と同じことです。規模が違うだけで」
柊は志賀が記録館を残した一手を知っていた。どこまで知っているのか志賀にはわからなかった。
「あなたは一つを選んだ」柊は言った。「私は街区を選んでいる。それだけの違いです。あなたが一つの記録館を残したいと思ったのと同じ気持ちで、私はこの街区で残せるものを、できるだけ多く残したい。だから順番を整えている」
柊はそこで初めて本題を出した。
「一つ、取引をしませんか」
志賀は柊の目を見た。
「あなたの周りに、若い方がいますね。消えた地名を集めている方。あの方の集める網。あの網が柳瀬の消える順番を乱しています。網が消えかけたものを見張るたびに、私の整えた順番が狂う。網が私の選別を押し戻すんです」
柊は静かに続けた。
「あの網を畳んでいただけませんか。あの方に集めるのをやめてもらう。網が乱さなければ、私は今消えかけている人たちを、後ろへ回せる。柳瀬の消失は、止まります」
志賀は動きを止めた。
「その代わり」柊は言った。声は変わらず穏やかだった。「あなたは、あの声をもう濃くできなくなります」
「あなたがあの声を濃くする燃料は、世界からの借りです。もうご存じでしょう。その借りを引けるのは、網が順番を狂わせて、隙間ができているからです。私が順番を整えきれば、その隙間が閉じる。あの声のゲージは、そこで止まります」
志賀はグラスを握った。柳瀬の消失を止める。その代わり亜紀の目盛りが止まる。柊はその二つを天秤に置いた。名を呼び会話を交わすたびに動いていた、あの目盛りが止まる。志賀の手の中で二つが釣り合っていた。
「あなたにとって、悪い取引ではないはずです」柊は言った。「柳瀬で何人も救われる。あなたは消される人を見なくて済む。その代わり失うのは、一人の声のこれから、だけです。私はあなたに損をさせようとはしていません」
柊の言い方は正確だった。数で言えば確かに柳瀬の方が多かった。柊はそれを志賀の得になる取引として、静かに差し出していた。
そのときだった。
喫茶店の入り口の戸が開いた。
乾が入ってきた。濃茶の表紙の地図帳を小脇に抱えて、いつものゆっくりした足取りで。乾は店の中を見回して志賀を見つけた。それから、志賀の向かいに座っている男を見た。
乾の足が止まった。
記録館の前で柊を見たときと同じ、言葉を失った顔だった。だが今日はそのときより、乾の顔が動いていた。乾は柊を見て、口を開きかけた。
柊の顔と、あの路地に置いていかれた名が、乾の中で重なったらしかった。開きかけた口が、途中で止まり、それから、別の形に動いた。飲み込んだままだった名が、口の形になるのを、志賀は、乾の顔の動きで見た。
「……悠」
乾が低く言った。
悠。柊が記録館の前で名乗った、あの下の名。だが乾の呼び方は、名乗りを聞いて覚えた呼び方ではなかった。もっと前からその名で呼び慣れた者の呼び方だった。
柊の顔が動いた。
微笑が一瞬、剥がれた。志賀が記録館の前からずっと見てきた、あの穏やかな微笑。それが崩れて、柊は乾を見て目をわずかに見開いた。
「先生」
柊が言った。
それまで柊の言葉は全部、誰に対しても静かで丁寧な敬語だった。だがその一語だけ違った。先生。整った敬語の文の外から、呼び慣れた呼び方だけが、先に漏れた。言葉を選ぶ間がなかった、素の声だった。
乾は立ったまま柊を見ていた。柊は座ったまま乾を見上げていた。二人は初対面ではなかった。旧知でもなかった。もっと近い、何かだった。
乾はしばらく動かなかった。それから志賀の隣の椅子に静かに座り、地図帳をテーブルに置いた。柊はその間にもう微笑を戻して、また静かな敬語の顔に戻っていた。
「先生」柊は言った。今度は敬語だった。「お久しぶりです」
乾は答えなかった。
乾はテーブルの上の地図帳を開いた。濃茶の表紙をめくり、赤黒いインクの座標が並ぶページを繰っていった。柳瀬の項を探していた。乾は柊と話す代わりに地図を開いた。言葉にできないものを地図に落とすように。
「見せてくれ」乾は志賀にでも柊にでもなく、地図帳に言った。「今、どこを動かした」
柊は間を置いた。それからテーブルの上の乾の地図帳へ指を伸ばした。柳瀬の区画の一点を指した。散髪屋のあった、その区画を。
「ここです。ここを前へ出しました」
乾も同じ区画へ指を伸ばした。
だが二人の指先は同じ場所を指していなかった。柊の指は区画の右の側にあった。乾の指は区画の左の側にあった。半区画、ずれていた。同じ「ここ」を指しながら、二人の指先は半区画分、離れていた。
「先生」柊は言った。静かだった。「そこはもう動きました。先生の覚えているその区画は、半分ずれています」
「ずれておらん」乾は言った。低かった。「わしはここを五十年見とる。ここはここだ。動いたのは、お前の側だ」
乾は五十年見てきた記憶で、柊は自分が動かした後で、同じ「柳瀬のここ」を別々の場所として指していた。どちらが正しいのか志賀には言えなかった。
志賀は身を乗り出して、その一区画を覗き込んだ。乾の赤黒いインクは、区画の左の側に屋号を控えていた。だが柊の指は、その屋号のない右の側を指していた。柊の側では、区画がすでに右へ半分、滑っていた。乾の字が控えたままの位置と、柊が動かした後の位置が、同じ一マスの中で、半分だけ、ずれていた。
整合室でなら、これは単純な作業だった。二つの版が食い違えば、出どころを辿って、どちらが正本の側かを確定させる。志賀はそれを何百回とやってきた。だが今、この一区画は、どちらも正しかった。乾の側の「ここ」は五十年の観測で、柊の側の「ここ」は動かした後の位置として、二つとも実像になろうとしていた。
「先生」柊は言った。「先生が控えたのは、動く前の位置です。私が動かしたのは、動いた後です。どちらも、嘘ではない。ただ、時が、違う。先生は、五十年前の位置を、今も見ている。私は、この一週間で動かした位置を、見ている」
「わしの見とるものが」乾は言った。「五十年前だと言うのか」
「そうは言っていません」柊は言った。「先生が見ているものは、確かにそこにあった。ただ、今の地図は、そこを、動かしてしまった。先生の記憶と、今の地図が、半分、ずれている。それだけです」
乾は答えなかった。
乾は指を引いた。口を開きかけた。だが、続かなかった。記録館の前で、あんた、と言ったきり閉じたのと同じだった。乾は柊に言いたいことがあった。だが言えなかった。
「先生は」柊は言った。静かだった。「昔のままですね」
それだけだった。柊はそれ以上言わなかった。乾も言わなかった。二人の間の何かは、名で呼ばれ、半区画のずれで示され、それきりまた閉じた。
志賀は柊の取引に答えを出していた。
「断る」志賀は言った。
柊は志賀を見た。微笑は崩れなかった。
「網は畳まない」志賀は言った。「芹沢の網は、あいつが半年かけて一人で作ったものだ。あいつが消えたものを見ようとして作ったものだ。それを俺が畳ませはしない」
「柳瀬の人が消えても、ですか」柊は言った。
「あんたの言う通りだ。数で言えば柳瀬の方が多い。あんたの論理は正しい。全員は救えない。俺にはそれに返す言葉がない。……だが、それでも断る」志賀は言った。「芹沢の網を畳めば、俺は消えたものを見る目を一つ、潰すことになる。あんたは残す者を選ぶ、と言った。俺は見る者を潰さない方を選ぶ」
柊はしばらく志賀を見ていた。
「そうですか。では、あなたはあの若い方を賭けるんですね」
志賀の指から、力が抜けた。
「あなたが網を畳まなければ、私は順番を整えきれません。整えきれなければ、次に前へ出るのは、あの網の真ん中にいる人です。網を張っている、その中心。あの若い方が次の順番に来ます。あなたはそれを賭けたことになります」
網を畳めば、芹沢は退き、柳瀬の消失は止まる。だが亜紀の目盛りも止まる。網を守れば、柳瀬は消え続け、次の順番に芹沢が来る。志賀は芹沢を賭けることになった。
「わかっている」志賀は言った。
声は乾いていた。網を畳まない、と言ったとき、志賀はもうそれを選んでいた。芹沢が次に来る、と柊に言われる前から。
柊は静かに立ち上がった。
「わかりました。あなたは断った。なら私は、私のやり方で順番を整えます。あなたはあなたのやり方で賭ける。それでいい。私はあなたを潰しには来ません。私はただ、残せるものを残すだけです」
柊はコートの襟を直した。それから乾を見た。乾は地図帳を閉じかけていた。柊は乾に浅く一礼した。記録館の前で見た、あの丁寧な会釈だった。
「先生。またお会いできて、よかった」
乾は答えなかった。
柊は志賀に向き直った。去り際の顔が、記録館の前とは少し違った。柊は静かに言った。
「あなたは、戻す側の人ですね」
「消えたものを戻したい。薄くなった声を濃くしたい。あなたはそういう側です」柊は言った。「私も昔、そうでした」
柊はそこで、言葉を切った。微笑の奥に、記録館の前で見た、あの温度がまた差した。悲しみのような、疲れのような。柊はそれを隠さなかった。
「昔、そうでした」柊は繰り返した。「戻す側でした。……それだけです。今日は失礼します」
何を戻したのか、なぜ戻さなくなったのか、柊は言わなかった。また半分だけ置いて、あとを閉じた。
柊は店を出た。一度も振り返らなかった。足取りは来たときと同じ、静かなものだった。戸が閉まって柊の姿が見えなくなった。
店に志賀と乾が残った。乾は閉じた地図帳を抱えて、柊の出た戸を見ていた。志賀は訊きたいことがいくつもあった。悠、と呼んだのはなぜか。先生、と呼ばれたのはどういうことか。半区画のずれは何だったのか。だが乾の横顔はまた言葉を失っていて、志賀はそれを飲み込んだ。
柊は昔、戻す側だった。今は消す側の、順番を握る側にいた。戻す側から消す側へ、この男は渡った。何があって渡ったのか、柊は言わなかった。
この男は脅しも、追い詰められた顔もしなかった。志賀に選ばせ、断られても、それでいい、と言った。この男を操る何かがいる、とどこかで思っていた。だが違った。悪意で動いているのなら、誰かに操られているのなら、その相手を止めればよかった。柊は、そのどちらでもなく、全部、自分で選んでいた。それは、机の上のどんな偏りよりも、冷たかった。
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