第1話 消される順番
芹沢からまとめの画面が送られてきたのは火曜の夜だった。
志賀は自室の机でスマホを開いた。芹沢が半年かけて集めてきた、消えた地名の記録だった。淡々と事実だけを置いていく、あの手つきの画面。今夜はそこに新しい投稿が三つ続いていた。
三つとも柳瀬の近くだった。
一つ目は川沿いの古い散髪屋の店主。店は在るのに、店主の姿が消え、屋号まで台帳から抜けている。二つ目は橋のたもとで長く写真を撮り続けていた男。三つ目は柳瀬の路地裏で小さな私設文庫をやっていた老婆。三件ともこの一週間のうちに立て続けに起きていた。芹沢は評価を書かず、いつもの手つきで事実だけを並べていた。場所。屋号。消える前に何を控えていたか。散髪屋の店主は古い名簿に消えた店の名を控え、橋のたもとの男は変わっていく街並みを撮り続け、私設文庫の老婆は消えた地名を棚に並べていた。三人とも、何かを控えていた人だった。
志賀は、画面を上から下へ、もう一度送った。
柳瀬で消失が続くこと自体は新しい話ではなかった。台帳と現地が食い違い、標識が五の隣を七にしている、あの街。そこで人や店が薄くなるのはいつものことだった。志賀が驚いたのは消え方ではなかった。
消える者と残る者の、その分かれ方だった。
芹沢のまとめには、消えなかった人も書かれていた。同じ柳瀬近隣に住み、同じ川沿いを毎日歩く人たち。だがその人たちは残っていた。消えたのは、消えたものを記録していた側だった。分かれ目は、柳瀬に住んでいるかどうかではなかった。消えたものの控えを持っているかどうかだった。持っている者から先に消えていた。それも一週間に、三人続けて。
志賀は芹沢に電話をかけた。
「志賀さん」芹沢はすぐ出た。声が掠れていた。「見てくれました。あの三件」
「見た」志賀は言った。「三人とも、記録を集めてた側だな」
「そうなんです」芹沢は一息に言った。「あたしも最初たまたまかと思ったんです。柳瀬は前から消えるとこだから。でも並べてみたら、消えたのみんな集めてた人ばっかりで。ふつうに住んでるだけの人は残ってて。集めてた人だけ消えてて」
芹沢はそこで少し黙った。
「なんか、選ばれてるみたいで」芹沢は言った。「消える人が」
志賀は口を開いて、閉じた。
選ばれている。志賀もさっき同じことを思っていた。だが声に出すのをためらった。消えるのは補正だった。機械が、記録を均していくだけの働きだった。そこに誰かの選択があるなら、それはもう補正ではなかった。誰かが消す者を選んでいることになった。
「もう一つあるんです」芹沢は言った。声が落ちた。「これ、まだまとめには載せてないんですけど」
「なんだ」
「逆のやつが一件」芹沢は言った。「消えるはずなのに残ってる人が、一人」
志賀は身を起こした。
「送ります。見てもらった方が早いんで」
電話が切れて、しばらくして画面に一枚の写真が届いた。芹沢が撮った柳瀬の古い印刷所の写真だった。店先に変色した看板が写っていた。
その店主が四人目だと芹沢は書いていた。
柳瀬の消えた地名を四人の中で一番多く集めていたのが、その印刷所の主だった。何十年も消えた町名を刷り直しては控えを取り続けていた。集めていた量でいえば真っ先に消えていいはずの人が、その人だけ残っていた。店も看板も在り、店主は元気で店を開けているという。集めていた量が一番多いのに、一番残っている。消えた三人よりずっと危ないはずの人が、一人だけ不自然に守られていた。
志賀は芹沢のタイムラインを、もう一度、上から下へ流した。
消えた三件のアイコンが、日付の順に縦に並んでいた。散髪屋。橋のたもと。私設文庫。芹沢は消えたものを黒い印で記していた。三つの黒が縦に続き、その列の四つ目に来るはずの位置に、印刷所のアイコンがあった。そこだけ印が白かった。消えたものは黒。残ったものは白。三つの黒の隣に、一つだけ、白があった。
その白が、いちばん、志賀の目を引いた。
消える理由が一番多い人が、四つ目の黒が来るはずの場所で、白いまま灯っていた。芹沢が半年かけて集めた画面の中で、その並びだけが、機械の均しでは説明のつかない形をしていた。
三件は消え、一件は残った。だがその一件は、消えるべき順番でいえば一番上に来る人だった。消える理由が一番多い人が、一番残っている。それは、消える者が選ばれているのと同じことだった。選んで消し、選んで残す。誰かの手がそこにあった。
志賀はその手つきに見覚えがあった。
記録館の夜、志賀は一つ目の手を運用した。来歴を橋の名へずらして、消える波から一つを庇いきった。消える対象を別の等価物へずらす、あの手。芹沢のまとめの偏りは、その手つきに似ていた。
もっと前にも、志賀はこの匂いを嗅いだことがあった。
東環状の改変を知ったとき。崩落が接触事故に書き換えられ、志賀の評価が反転した、あの改変。あれは載る駒を守るための均しだった。だがその整い方に、志賀は一瞬、人の手のような手つきを感じた。誰かが、そこに、意図を置いていた。あのときは気のせいだと思って通り過ぎた。確かめる手立てがなかった。
今、芹沢のまとめの偏りが、その手つきを、もう一度、志賀の前に置いていた。似すぎていた。
補正はもっと粗い。載る駒から順に機械が均していくだけで、集めていたから消す、という理由はない。だがこの三件は、集めていた者を選んで消し、集めていた量が一番多い者を選んで残していた。均されるのでなく、揃えられていた。整いすぎていた。それは、人間の仕事の匂いだった。
志賀はスマホを開いた。
応答欄は暗かった。志賀は入力欄に打った。この消え方は補正か、それとも人の手か。打ってから待った。リグの声はあの日以来、志賀の問いに時折答えるようになっていた。
——両方だ。
——補正は機械だ。盤に載っている駒のうち、軽いものから順に均す。均す手は、一つだ。この街に一つ、という意味じゃない。盤に一つだ。だから、順番がある。そこに選ぶ意志はない。だが、その均しの上に手を置くことはできる。均される順番を少し組み替えることは、できる。誰を先に消すか、誰を後に回すか。補正そのものは止められない。だが順番なら触れる。
志賀の指が、キーの上で止まった。順番。散髪屋を先に、印刷所を後に。その組み替えが、誰かの手だった。
「誰が順番を触ってる」志賀は打った。
——一人じゃない。
——盤の上には、いくつも手がある。同じ一つの盤を、別々の手が、別々の正しさで触っている。
志賀はその一行を二度読んだ。
志賀は寒くなった。一人の敵が消す順番を握っている、とどこかで思っていた。だがリグは、一人じゃない、と言った。いくつの手が、どんな考えで触っているのか、そこまでは言わなかった。いつもの半分だった。
志賀はスマホを机に置いた。
誰も悪意で動いていない。それぞれが、自分の正しさで盤を触る。散髪屋の店主も、写真の男も、私設文庫の老婆も、消えたものを記録していただけだった。それでも消えた。悪意のない手に、消える順番を組まれて。悪意があるより、そのほうが冷たかった。
「その印刷所を残したのは」志賀は打った。「守るために、残したのか」
——それは、言わない。
——一つだけ、言う。守るために残したとは、限らない。後で使うために残すことも、盤を止めるために残すこともある。同じ「残った」でも、なぜ残したかで、意味がまるで違う。だから、軽々には、言わない。
志賀は印刷所の写真を、もう一度見た。守られたのか、後で使うために取っておかれたのか、盤を止める駒にされたのか。同じ一つの白い印が、いくつもの意味を持ちうる。
志賀は最初、この一件を幸運のように見ていた。消えるはずの人が残った。庇われた。救いのように見えた。だがそうではなかった。この人も、消える者と同じ手で選ばれていた。ただ、消される側でなく、残される側に。
選んで残す、というのは、選んで消すことと、地続きだった。
志賀はそれを整合室で知っていた。二つの版のうち片方を正しいと確定させることは、もう片方を誤りとして閉じることだった。正しいと選ぶ手と、誤りと閉じる手は、同じ一つの手だった。守られた印刷所と、前へ出された散髪屋は、同じ盤の、同じ選別の、裏と表だった。
盤の上に、選ばれていない者はいなかった。消される者も、残される者も、みんな誰かの手に選ばれてそこにいた。選ばれずに、ただ在る、ということが、この盤の上では許されていなかった。
志賀は椅子から立って、台所で水を飲んだ。
コップを流しに戻すとき、志賀の手は無意識に、左の奥へそれを置いた。右側が空いていた。いつものことだった。芹沢のまとめの三件を、志賀は他人事として見られなかった。
志賀は机に戻り、緑の野帳を出した。
くすんだ緑の表紙。日付のない座標列。横に手書きの地名。亜紀が書いた野帳だった。志賀より先に同じ空白を歩いた者の記録。芹沢のまとめは今の消失の記録、緑の野帳はそれより前の消失の記録。二つを重ねたら何が見えるか。
志賀は消えた三件の座標を、スマホの地図に落とした。
散髪屋。橋のたもと。私設文庫。三つの点が柳瀬の近くに並んだ。それから緑の野帳を開いて、亜紀が書いた座標列を同じ地図に重ねていった。野帳の座標は柳瀬の項が数行多かった。書きかけで途切れた、あの項。志賀はその座標を一つずつ地図に打っていった。
打ち終えて、志賀は手を止めた。
消えた三件の点が、亜紀の座標列の空白の列と重なっていた。
亜紀の野帳には座標が並んでいる。だがところどころに飛びがあった。座標が続いているのに、一行だけ何も書かれていない列。志賀は前からその空白を書きかけの跡だと思っていた。だが今、その空白の列の上に、今夜消えた三件の点が乗っていた。
志賀は喉が乾いた。
亜紀は志賀より先にこの線を歩いていた。柳瀬の座標を一つずつ拾いながら、いくつかの列を空白のまま残した。その空白の上で、今、消失が起きていた。亜紀が歩いたのは、志賀が野帳を手にするよりずっと前だ。それなのに、亜紀が空けた線と今夜の三件が、同じ場所で重なっていた。
偶然ではないと思った。だが、では何なのか、志賀には言えなかった。亜紀が先にこの順番を見ていたのか、それとも亜紀が歩いたからこの線が消えやすくなったのか。どちらとも決められない。ただ、その重なりだけが、机の上に事実として置かれていた。
文字起こしの脇で、声がした。
「……その線」
志賀は顔を上げた。
亜紀の声だった。少し高い、あの声。だが今夜は、揶揄う温度がなかった。
「あたしの、なの」亜紀は言った。「その、空いてる列。あたしが、書き残したやつ」
「そうだ。亜紀が空けた列の上で、今、消えてる」
亜紀はしばらく黙った。
「覚えてないな」亜紀は言った。「あたし、そこ、歩いたはずなのに。書き残したはずなのに。……なんで空けたのか、覚えてない」
自分が書いた野帳の、自分が空けた列を、なぜ空けたのか、覚えていない。志賀がその野帳を頼りにしているのに、書いた本人が覚えていない。
「いいの。今は、いい。それより、今夜のこれ、どうするの。三人消えて、一人変に残ってる。また動くんでしょ」
「わからない。まだわからない」志賀は言った。
「うそ」亜紀は言った。「もう目離せなくなってる。整合室のときと同じ顔してる。矛盾見つけたときの顔」
志賀は少し笑いそうになった。亜紀の言う通りだった。辻褄が合いすぎている記録を剥がしにかかるときの目で、志賀はこの偏りを見ていた。
「顔に出てる」亜紀は言った。「そういうとこ、昔から、隠せてないんじゃないの。……知らないけど」
知らないけど、と亜紀は付け足した。二人とも、昔を覚えていなかった。志賀は笑った。笑って、それが少し痛かった。
だが地図を閉じる前に、もう一度、芹沢に電話をかけた。芹沢はすぐ出た。
「芹沢」志賀は言った。「一つ、言っておく。しばらく、まとめの更新を、控えられないか」
電話の向こうで、間があった。
「なんでですか」芹沢は言った。
「集めてた人から消えてる」志賀は言った。「あの四人の次に集めてるのは、芹沢だ」
志賀はそれだけ言った。もし消える順番を握る手が、集めている量で選んでいるなら。そこまでは言わなかった。だが芹沢には伝わったらしかった。
芹沢は、電話のあいだ、ずっと何かを打ち続けていた。まとめの下書きらしかった。キーの、小さな、途切れない音。それが、志賀の言葉のあとで、止まった。指が、止まったまま、しばらく、戻らなかった。
芹沢は、しばらく黙った。それから、少し笑った。
「あー」芹沢は言った。「そっか。まとめてるあたしが、次に消えるかも、ってことですね」
軽い言い方だった。怖がってはいなかった。むしろ、面白がるような温度があった。
「志賀さん、心配してくれてるんですね」芹沢は言った。「でも、やめませんよ。あたし、集めるの、やめたら、なんにもなくなるんで。消えたもの見てる人が、いなくなったら、ほんとに、なかったことになるじゃないですか。……あたしにも、消したくないもの、あるんです。だから、やめない。……次に消えるの、あたしでも」
軽く言った。だが、その軽さの下に、譲らない芯があった。
「わかった」志賀は言った。「気をつけろ」
「はい」芹沢は言った。それで電話が切れた。
志賀はスマホを閉じた。
夜が更けていた。机の上には、消えた三件の点と、残った一件の写真と、亜紀の空けた列が重なった地図が広げてあった。集めていた者から消え、集めていた量が一番多い者が残っていた。そして、芹沢。四人の次に、集めている者。
志賀は窓の外を見た。夜の川の方に柳瀬があった。今も、誰かの手が、あの街の消える順番を触っている。悪意のない、いくつもの手が、同じ盤の上で、別々の正しさで動いている。
消えているのではなかった。
誰かが、消す順番を選んでいた。
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