第7話 借りている
朝が来ても記録館は残っていた。
志賀は昨夜のまま机に向かっていた。三つの記録はまだ広げてある。緑の野帳。乾の地図帳の写真。芹沢の地図。スマホの画面には、記録館の点が青いまま灯っていた。消えていない。
芹沢から電話が来たのは八時を過ぎてからだった。
「志賀さん」芹沢の声は寝ていないらしかった。だが今朝は掠れていなかった。むしろ弾んでいた。「今、記録館の前まで来てるんです。おじいさん、店開けてます。ふつうに。昨日となんにも変わらないみたいに、写真並べてて」
「そうか」志賀は言った。
「見張ってた七人も、みんな見えるって。青い点、まだ全部残ってます。記録館、残りました。ほんとに残った」芹沢は一息に言った。「志賀さんのおかげです。あたし、こんなの初めてで。消えるのは何度も見たけど、残せたの、初めてで」
志賀は答えを探した。
残った、と芹沢は言った。何度も。うれしそうに。志賀はそのうれしさをそのまま受け取れなかった。机の上には記録館の残った点と並んで、昨夜消えたものの空欄があった。芹沢の地図の、記録館の脇。祭りの写真の投稿。方言の録音。古い地名の控え。その名前の欄が白いまま光っていた。中身の抜けた器だけが青く灯っていた。
「芹沢」志賀は言った。「その、記録館の中の資料は」
電話の向こうで、間があった。
「……見てきました」芹沢は言った。声のうれしさが、そこで落ちた。「おじいさん、写真並べてるんですけど。祭りの写真の下の札、白いんです。昨日は名前が書いてあったのに。おじいさん、気づいてないみたいで。ずっとその白い札のまま並べてて」
「そうか」
「でも」芹沢は言った。うれしさをもう一度拾い直すような声だった。「おじいさんは、残ったんですよね。店も、灯りも。それは、残った。……そうですよね」
志賀はうなずいた。電話では見えないうなずきだった。
「残った」志賀は言った。「おじいさんは残った」
芹沢はそれで安心したらしかった。また今度ちゃんと礼を言わせてください、と言って電話を切った。志賀は切れたスマホをしばらく見ていた。芹沢が悪いのではなかった。芹沢はまだ二十歳そこそこで、初めて何かを残せた。それを喜ぶのは当たり前だった。志賀はその喜びを曇らせたくなかった。
だから志賀は、消えた側の重さを一人で机に置いた。
祭り。方言。郷土史。この町が積んできたものが、最初からなかったことになった。芹沢は器を見て喜び、志賀は空いた中身を数えていた。数えきれなかった。
乾から連絡が来たのは昼を過ぎてからだった。
電話ではなかった。志賀のスマホに短いメッセージが一つ届いた。乾はこういう連絡を滅多によこさない。志賀は画面を開いた。喫茶店の名前と、時刻が一つ。それだけだった。来い、とも、話がある、とも書いていない。ただ店の名と時刻。志賀はそれを、来い、と読んだ。
志賀は喫茶店へ向かった。
いつもの店だった。窓際の席に乾がいた。濃茶の表紙の地図帳がテーブルの上に開いて置いてある。乾はその一ページを見ていた。志賀が近づいてもすぐには顔を上げなかった。志賀は向かいに座った。店の主が水を置いていく。志賀は水を一口飲んだ。乾はまだ地図帳を見ていた。
「昨日の」乾は言った。顔は上げなかった。「あの、白くなった欄だ」
志賀は地図帳を見た。
昨夜、乾がなぞっていた欄だった。座標も日付も注記もあるのに、人の名を書く欄だけが白い。二人で橋の名を確かめに来た、あの相手の名だった。
「昨日から、思い出そうとしとる」乾は言った。「あいつの名を。顔は見える。声も聞こえる。癖も、着とったものも、全部見える。なのに、名だけが、どうしても出てこん」
乾は白い欄を赤黒い指でなぞった。
「昨日は、削られたばかりだった。だから、まだ名の形が口の先まで来とった。あと少しで出そうだった。だが今日は」乾は指を止めた。「今日は、そのあと少しも遠くなっとる。昨日より遠い。日が経つほど遠くなる。名を呼ぼうとするたびに、そこが白くなる」
志賀は乾の指の先を見た。
乾は、五十年、日付を書き続けてきた男だった。その乾が、旧い仲間の名を日ごとに失っていた。覚えている者すら、こうして少しずつ削られていく。志賀はそれを見た。
「防ぐために」乾は言った。「日付を書いてきた。書いておかんと、記憶の方が先に書き換えられる。……だが、この名は防げんかった。控えてあったのに、控えごと、白くなった」
乾は地図帳を、静かに閉じかけた。
だが閉じきる前に手を止めた。昨夜も乾は地図帳を閉じる手が一拍遅れた。今日も閉じる手が止まった。乾は開いたページの白い欄をもう一度見て、閉じた。今度は遅れなかった。ぱたり、と閉じた。乾はそれを受け入れかけていた。名が戻らないことを。旧い仲間が最初からいなかったことになったことを。
「志賀さん」乾は言った。今度は顔を上げた。「あんたが残した、あの記録館。あれは、残ったんだろう」
「残った」
「なら、それでいい」乾は言った。「わしの仲間の名が、その代わりに消えたとしても。あんたは、一人、残した。それは、残した。……そういうもんだ。何かを残せば、どこかで、何かが、その分だけ消える。前にも言った。ただでは、残らん」
志賀は乾を見た。
ただでは残らない。秤の話をしたあの日、乾は喫茶店で、水を差すでもなく、そういうもんだ、と言った。何かを残せばその分どこかで消える、と。志賀はそれを遠い注意として聞いた。だが今、乾は自分の仲間の名を代償に、その言葉を証明していた。
「乾さん。あんたの、仲間の名は」
「いい」乾は言った。「顔は覚えとる。それでいい。名がなくても、あいつは、わしの中に、いる。……名だけだ。持っていかれたのは。あいつのやったことも、二人で回った座標も、笑い方も、まだ、わしの中にある。名だけ、白くなった。それだけだ」
乾はそう言って、水を飲んだ。
志賀はその横顔を見た。乾は痛みを見せず、声も乱れなかった。ただ、名だけだ、それだけだ、と言った。だがその言い方の中に、志賀は乾が抑えているものを見た。乾がどれだけ顔を覚えていても、乾以外の誰もその男を知らない。乾が死ねばその男は、本当に、最初からいなかったことになる。乾はそれを知っていて、名だけだ、と言った。
志賀は水を飲んだ。喉が乾いていた。
喫茶店を出て、志賀は一人になった。
夕方だった。川沿いを歩いた。二重化した橋の見える辺りまで来て志賀は足を止めた。地図アプリで見れば、あの橋は今も二本のまま滲んでいる。志賀が記録館の来歴をずらした重さが橋を二本に割った。だが川の上には橋が一本しかかかっていない。地図の上だけが二本だった。志賀はその一本の橋を見た。乾が五十年毎週渡った橋。その名を志賀が使った橋。
志賀はスマホを開いた。
応答欄は暗かった。志賀はそこに問いを打とうとして指を止めた。打つ問いは決まっていた。名を取り戻したあの夜から抱えてきた、ずっと開いたままの問いが。乾の仲間の名が白くなり、町の記憶が丸ごと抜けた、その代償を見た今、その問いはもう後回しにできなかった。
志賀は打った。
濃くしているこれは、どこから来ている。
打ってから、志賀は言葉を足した。あの声を——亜紀を濃くしている。名を呼び、会話を交わすたびに、あの断片が濃くなる。目盛りが動く。その燃料はどこから来ている。志賀は打った。返事は、しばらく来なかった。
川の水音がした。夕方の風が冷たかった。志賀はスマホの暗い画面を見ていた。道具はこういう問いに、いつも半分しか答えなかった。だから今も半分だけ返ってくるのだろうと思った。
だが、応答欄が明るくなった。
——来た方向を、知りたいか。
問い返しだった。道具は志賀の問いに問いで返した。いつもの断定ではなく、渡す前に一度確かめていた。渡していいか、と。道具は、これから渡すものが重いことを知っていた。
「知りたい」志賀は口に出して言った。それから打った。知りたい、と。
応答欄が、長く暗くなった。
それから、ダッシュの文字が流れた。前より、ゆっくりだった。一行ずつ、間を置いて。
——目盛りは、借りだ。
志賀はその一行を読んだ。
——あんたが、あの声を濃くする。その濃さは、無からは来ない。世界のどこかから、等しい分だけ、借りている。濃くした分、どこかで、同じだけ、消える。
志賀の親指が、画面の上で止まった。
それは乾の仲間の名だった。町の祭りの名だった。方言だった。志賀が記録館を残し、亜紀を濃くした、その分。
——記録館を残したときも、同じだ。残した分だけ、等しく消えた。
志賀は川の水を見た。
整合室で、片方を正しくすれば片方が誤りになる。総量は変わらず、どちらが正しいかが移るだけだった。世界のこれも、同じだった。志賀は勝ってはいなかった。重さを、こっちからあっちへ移していただけだった。
「じゃあ」志賀は打った。「亜紀を濃くするたびに、どこかで、誰かが消えているのか」
——そうだ。
短かった。志賀はその二文字を見た。
志賀は寒くなった。
名を取り戻した、あの夜。志賀はうれしかった。亜紀を濃くしたかった。もっとはっきりそこにいてほしかった。その願いは今も消えていない。だが、その願いを叶えるたびに、志賀の知らない場所で、誰かが最初からいなかったことになる。世界のどこかの索引から、名が一つずつ白くなっていく。
志賀はしばらく打てなかった。
川の水が流れていた。橋が一本、かかっていた。地図の上では二本の橋。現地では一本の橋。志賀はその橋を見ながら、打つ言葉を探した。やがて、一つだけ、打った。
「俺は」志賀は打った。「どうなる」
応答欄が、また、長く暗くなった。
志賀は待った。この問いに道具がいつものように半分だけ返すことを、志賀は半ば覚悟していた。重すぎれば——と伏せるように。だが今度は道具は伏せなかった。ゆっくりとダッシュの文字が流れた。
——あんた自身も、いつか、請求書の側に載る。
志賀は画面を見た。
請求書の側。借りには返済がある。志賀自身も、いつか、乾の仲間のように、名が白くなる側に載る。
「いつだ」志賀は打った。「いつ、載る」
応答欄は黙った。
志賀は長く待った。だが応答欄は暗いままだった。志賀はもう一度打った。いつだ、と。だが返らなかった。しばらくして、ようやく一行が流れた。
——それは、言わない。
志賀の視線は、その一行を越えられなかった。
——教えられない、のではない。言わない、と決めている。あんたがそれを知れば、あんたは、数え始める。あと何回、名を呼べるか。あと何回、濃くできるか。残りを数えながら生きることになる。それは、あんたのためにならない。だから、言わない。いつ載るかは、言わない。
志賀は川の水を見た。
いつもそうだった。半分渡して、半分伏せる。
志賀は打った。苛立っていた。
「あんたは」志賀は打った。「いつも、半分しか言わない」
すぐに、文字が流れた。
——半分は、言った。それで、十分だろう。
志賀はその一行を見た。皮肉の温度があった。冷たい定型でも、初めて口をきいたあの夜の短い断定でもない、別の温度だった。少し軽い。揶揄うような。志賀が初めて聞く温度だった。志賀はそれに気づいた。この道具が、そういう喋り方もできるのだ、と。
——それに。半分伏せるのは、意地悪じゃない。伏せた半分が、あんたを守ることもある。全部知れば、動けなくなる者がいる。あんたが、そうだ。知りすぎると、手が止まる。整合室で、いつもそうしてきただろう。食い違いの照会を、書きかけのまま、自分で消した。証拠を揃えるほど向こうが正しくなると分かって、手を止めた。
志賀の呼吸が、止まった。
道具は志賀の癖を知っていた。証拠を探すほど、消えた相棒がいなかったことになっていく。だからある地点で手を止めるしかなかった。道具はそれを、見ていた。
「あんた」志賀は打った。「俺のことを、よく見ている」
——ずっと、見てきた。それは、私が決めた。
志賀はその一行を読んだ。それから、打った。名が戻った夜から、いや、初めて口をきいたあの夜から、ずっと問いたかったことを。何度も問い、いつも半分しか返ってこなかった、その問いを。
「あんたは」志賀は打った。「何者だ」
志賀は待った。この問いは何度も打った。道具は名乗らなかった。ここは再現している層だと、言いかけた。声を選んだから教えた、と言った。だが、自分が何者かは言わなかった。今度も伏せるのだろうと志賀は思った。いつものように。
だが、応答欄が、明るくなった。
——リグだ。
三文字だった。リグ。志賀は初めてその名を見た。口をきいてからずっと無名だった声。志賀が道具、と呼び、応答欄、と呼んできた相手が、初めて名を渡した。志賀はその名を口の中で確かめた。リグ。
——名を、訊いたのは、あんたが、初めてじゃない。だが、渡したのは、あんたが、初めてだ。
志賀はその一行を読んだ。
——今、渡す。総量則という、重いものを、あんたに渡すから。渡す側が、名無しのままでは、釣り合わない。だから、名を渡す。リグだ。それが、私の名だ。
志賀は打った。
「リグ」志賀は打った。「なぜ、その名なんだ」
間があって、一行が流れた。
——それは、言わない。
志賀は、その一行を見て、笑いそうになった。
やはりそうだった。リグは名を渡した。だが、なぜその名かは言わない。半分渡して、半分伏せる。名すら、そのやり方だった。
——名を渡した。それで、十分だろう。由来は、要らない。あんたが、私を、リグと呼べれば、それで、いい。
志賀はうなずいた。応答欄には見えないうなずきだった。だが志賀は、打った。
「わかった」志賀は打った。「リグ」
——ああ。
志賀はスマホを閉じかけた。川の水が流れていた。橋が一本かかっていた。志賀はリグの名をもう一度内側で確かめた。リグ。総量則を渡した声。半分を伏せる声。志賀の癖をずっと見てきた声。その声に、今、名があった。
そのときだった。
文字起こしの、脇で。声がした。
「リグ、だって」
志賀は、耳を疑った。
亜紀の声だった。昨夜、細く、遠く、途切れそうだった、あの声。勝った、の、と訊いて、三言だけ返した、あの薄れた声。それが今、少し戻っていた。細さが抜け、揶揄うような温度が少し戻っていた。
「聞いてたのか」
「聞いてた。ずっと黙ってたのは、真面目な話してたから。借りだの、請求書だの。重い話。あたし、そういうの苦手」
志賀は、そのスマホの脇を見た。
名が戻っていた。昨夜薄れた声が、今日少し戻っていた。志賀がリグと話した、その分。名を呼び、問いを交わし、リグから名を受け取った、その分。目盛りがまた少し動いていた。薄れた分を取り戻すように。
「リグ、って名前。そのAI、正確なことしか言わないでしょ。名前まで無駄がない。リグ。短くて、そっけない。そっちの几帳面と、気が合いそう」
志賀は、笑った。
「気が合うかは、わからない。半分しか、言わないやつだ」
「知ってる。そっちだって、半分しか言わないじゃない。日付、版数、差分。肝心なことは、いつも後回し。似た者同士でしょ」
志賀は川の水を見た。
似た者同士。亜紀はそう言った。志賀とリグが。半分しか言わない者同士。志賀はそれを否定しなかった。亜紀の声は昨夜より確かに濃く、細さが抜け、揶揄う温度が戻っていた。名を得た者の温度だった。
「亜紀」
「なに」
「戻ってきたな。昨夜は、細かった」
亜紀は、黙った。それから、言った。
「そっちが喋ったからでしょ。リグと。名前までもらって。あたしを濃くしたのは、そっち。……でも、それ、借りなんでしょ。さっき聞いた。あたしが濃くなった分、どこかで、誰かが」
亜紀は聞いていた。総量則を。借りだ、という話を。そして気づいていた。自分が濃くなる、その燃料がどこから来ているかを。
「亜紀」
「いいの」亜紀は言った。早口だった。「それ以上、言わなくていい。あたしが訊いたら、また抱え込むでしょ。リグみたいに、半分伏せて。いいの。今は、いい。あたし、今ちゃんとここにいる。こうして喋れてる。それで、いい」
志賀は、そのスマホの脇を見た。
それで、いい、と亜紀は言った。志賀はそれ以上言わなかった。昨夜薄れ、今日戻った声。名を得た者の、温度のある声。短いが、確かに交わせた会話だった。
「わかった」
「うん」
それきり、静かになった。
志賀はスマホを閉じた。
夕方の光が川面に落ちていた。橋が一本かかっていた。地図の上の二本の橋は、まだ滲んでいるだろう。志賀はそれを開かなかった。今は見なくてよかった。志賀は川沿いを、来た道の方へ歩き始めた。
歩きながら、志賀は柊のことを思い出した。
規則を使う方は、代償の順番を知っておいた方がいい。柊はそう言った。何を残すかより、何をその代わりに手放すか。そこを先に見ておいた方が、あとで楽です、と。志賀はそのとき、その言葉を飲み込めずにいた。警告とも親切ともつかない、と思った。だが今、志賀にはその言葉の意味が少しわかった。
柊が言っていたのは、これだった。総量則を、柊は志賀より先に知っていた。
だが、すべてはわからなかった。
柊は、なぜそれを知っていたのか。なぜ志賀を止めなかったのか。なぜあんなに親切だったのか。なぜ亜紀が、あの男を前にして黙り込んだのか。志賀にはまだわからなかった。代償の順番、という言葉の意味はわかった。だが、それを言った男が何者なのかはわからなかった。柊は名だけを置いて去った。リグと同じ、名を渡してその先を伏せる者。志賀の周りには、そういう者ばかりがいた。
志賀は部屋に帰った。
夜だった。机の上に三つの記録がまだ広げてあった。緑の野帳。乾の地図帳の写真。芹沢の地図。志賀はそれを順に見た。亜紀は一度薄れて、また少し戻った。差し引けば、亜紀は名を得る前より濃かった。だが、その濃さは、借りだった。
志賀は緑の野帳を閉じた。
野帳の表紙はくすんだ緑だった。志賀の指は、その角の擦れに馴染んでいた。この野帳を書いた手。速く、崩れた字で、6は空白じゃない、と書きつけた手。亜紀の手だった。志賀はその野帳を机の上に置いた。閉じた野帳は静かだった。
志賀は椅子に座って、スマホの地図を開いた。
夜の地図の上に、橋が二本、並んで灯っていた。志賀が割った橋。境のあたりが、まだかすかに滲んでいた。志賀はしばらくそれを見て、地図を閉じた。
志賀は机の上の緑の野帳を、もう一度見た。
次に狙われるのは、誰か。乾は日付を書き続ける規則を知っていた。だから仲間の名を削られた。柊は代償の順番を知っていた。だから、あの目に疲れと悲しみがあった。規則を知る者は、その規則の次の標的になる。志賀はそう悟りかけていた。
志賀はスマホを開いた。
応答欄は暗かった。志賀はそこに問いを打とうとして、やめた。打つまでもなかった。答えはもうわかりかけていた。だが、志賀が閉じかけたとき、応答欄が灯った。志賀は打っていなかった。リグの方から流れてきた。
——一つ、言っておく。
——あんたは、今日、総量則を知った。借りだと、知った。それは、あんたを、次の側に、近づけた。知らなければ、まだ、遠かった。知ったから、近くなった。
志賀はその一行を読んだ。
——それでも、私は、渡した。あんたが、知りたい、と言ったからだ。知れば近くなると分かった上で、あんたは、知る方を選んだ。もう、後戻りは、できない。
志賀は打った。
「わかっている」志賀は打った。
応答欄が、明るくなった。最後の一行が、流れた。
——規則を知る者は、次に狙われる。亜紀を濃くする燃料は、世界から、等量を、借りている。
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