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文恬武嬉(ぶんてんぶき)

原文は上記と同文のため省略。


「文恬武嬉(ぶんてんぶき)」は、韓愈の「平淮西碑・淮西を平(たい)らぐるの碑文」に出典がある。 元和10年(西暦815年)正月、彰義節度使の呉元済が唐帝国に反乱を起こし、韓愈は宰相の裴度に従ってこの叛乱の平定に向かった。叛乱が鎮圧された後、韓愈は唐の憲宗の詔を受け、この出来事を記録するために「平淮西碑」を建てた。碑文の冒頭では、この反乱が発生した根本的な原因について、次のよう記している。「天もって唐のよくその徳に肖(に)て、聖子神孫、継継承承して、千万年に於て、敬戒して怠らざるを、覆うところを全付する。四海九州、内外有ること罔(な)く、ことごとく主、ことごとく臣たり。高祖・太宗、すでに除きすでに治む。玄宗に至って、報を受け功を収め、極めて熾(さか)んにして豊かに、物多くして地大にして、その間に孽牙(げつが)す。粛宗・代宗、徳祖・順考、もって勤めもって容る、大慝(だいとく)適(たま)たま去る。稂莠(ろうゆう)薅(くさき)らず、相臣将臣、文恬(ぶんてん)武嬉(ぶき)、見聞に習熟して、もって当然と為す。(天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。)」

碑文の冒頭では、唐帝国の歴代の統治者たちを称え、彼らがみな徳と才能を兼ね備え、文治・武功の双方で多大な功績を挙げ、国を立派に治めて内外に何事もなかったと述べている。しかし唐の玄宗の時代になると、帝国の強固な基礎に甘え、ただひたすらに個人の享楽を追い求め、国家の大事を忘れてしまった。その結果、天宝の末年に「安史の乱」が発生してしまった。後に幸運にも叛乱は平息したものの、天下は荒廃し、民衆は貧困に喘ぐこととなった。それにもかかわらず、文臣や武将たちは安逸を貪り享楽にふけることしか頭になく、国家の大事など全く心に留めようとしなかった。このような現象が一つの風潮となり、お互いに見慣れた景色となってしまい、誰もそれを悪いことだとは感じなくなってしまったのである。もしこの風潮が続けば、国家の前途は目も当てられないものになっていたであろう。「恬(てん)」はのんびりと安逸に過ごすこと、「嬉(き)」は遊び戯れることを指します。「文恬武嬉」とは、文官はただ安逸と享楽を貪るばかりで、武官もひたすら酒色や娯楽に溺れ、国家の大事に対して全く無関心である様子を意味する。

毛主席は、日本帝国主義が中国を滅ぼそうと画策していた状況下において、全国民に注意を促し、日本帝国主義の侵略に反対して立ち上がるよう呼びかけた。そして、当時見られた「文恬武嬉」や「飽食終日」といった、国を滅ぼしかねない頽廃的な現象を断固として批判したのである。


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