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先发制人,后发制人(先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人に制せらる)

原文

敌人进攻时,对付的办法是“御敌于国门之外”,“先发制人”,“不打烂坛坛罐罐”,“不丧失寸土”,・・・谁不承认这些,就给以惩办,加之以机会主义的头衔,如此等等。无疑地,这全部的理论和实际都是错了的。

楚汉成皋之战、新汉昆阳之战、袁曹官渡之战、吴魏赤壁之战、吴蜀彝陵之战、秦晋淝水之战等等有名的大战,都是双方强弱不同,弱者先让一步,后发制人,因而战胜的。

敵が進攻したときに対処する方法は、「敵を国門の外でふせぎ」、「先んじて相手を制し」、「家財道具をぶちこわされないようにし」、「一寸の土地をも失わず」、・・・これらのことを承認しない者には、懲罰をくわえ、日和見主義というレッテルをはる、等々である。疑いもなく、これらすべての理論と実際は、みなあやまったものである。

楚と漢の成皐の戦い、新と漢の昆陽の戦い、袁紹と曹操の官渡の戦い、呉と魏の赤壁の戦い、呉と蜀の彝陵の戦い、秦と晋の淝水の戦いなど有名な大戦は、いずれも双方に強弱のちがいがあるばあい、弱者が先に一歩をゆずり、あとからうってでて相手を制したために、戦いに勝ったものである。

《中国革命戦争の戦略問題》

注:昔の成皐の城は、いまの河南省成皐県の西北部にあり、古代の軍事的要地であった。紀元前二〇三年、漢王劉邦と楚王項羽がこの一帯で戦った。当時項羽は滎陽、成皐をあいついで攻略し、劉邦軍はちりぢりになるまで撃破された。しかし、のちに劉邦は楚軍が氾水をなかばわたる時機をまちかまえて、ついに楚軍を大いにやぶり、成皐を奪回した。

*昔の昆陽の城は、いまの河南省葉県にある。西暦二三年、劉秀(東漢光武帝)がここで王莽の軍隊をうちやぶった。この戦いでは、双方の兵力の差がはなはだしく、劉秀の軍隊はわずか八、九千人しかなかったのに、王莽の軍隊は四十余万であった。しかし、劉秀は王莽の将軍王尋、王邑が敵をみくびって、ゆるんでいた弱点を利用して、精兵三千人をひきいて、王莽の軍隊の中堅を突破し、勢いに乗じて進撃し、敵軍を大いにやぶった。

*官渡はいまの河南省中牟県の東北部にある。西暦二〇〇年、曹操の軍隊と袁紹の軍隊がこの一帯で戦った。当時袁紹は十万の兵をもっていたが、曹操は兵もすくなく糧秣もつきはてていた。しかし曹操は、袁軍が敵をみくびって防備をしていないのに乗じて、軽装備の軍隊で奇襲をおこない袁軍の輜重に火をはなった。袁軍があわてふためくところを曹軍か出撃し、その主力を殲滅した。

呉とは孫権の側をいい、魏とは曹操の側をいう。赤壁はいまの湖北省嘉魚県の東北の長江南岸にある。西暦二〇八年、曹操は五十余万の兵をひきい八十万と称して孫権を攻撃した。孫権は曹操の敵である劉備と連合し、兵三万をくりだし、曹軍に伝染病があることと水戦に不慣れなことを利用して、火攻めで曹軍の軍船を焼きはらい、これを大いにやぶった。

*彝陵はいまの湖北省宜昌県の東にある。西暦二二二年、呉の将軍陸遜はここで蜀漢の劉備を大いにやぶった。この戦いの初期には、劉備軍は連戦連勝して、彝陵まですすみ、呉の国境内に五、六百華里もはいった。陸遜は七、八ヵ月ものあいだたてこもって戦わず、劉備軍の「兵が疲れ、士気がくじけ、うつ手がなくなる」まで侍って、追い風を利用して火をはなち、大いに蜀軍をやぶった。

*西紀三八三年、東晋の将軍謝玄は、秦の君主苻堅を安徽省の淝水で大いにやぶった。当時、苻堅は歩兵六十余万、騎兵二十七万、親衛隊三万余騎をもっていたのにたいし、東晋は水陸軍あわせてわずか八万しかなかった。両軍が淝水をへだてて対峙していたとき、晋軍の将領は、敵軍がおごり高ぶっているのを利用して、秦軍にたいし、晋軍が淝水をわたって決戦できるよう、淝水北岸に戦場をあけてほしいと申しいれた。秦軍はその予期したとおり承諾したが、軍隊かびとたび後退しだすととどまらなくなったので、晋軍はその機に乗じて淝水をわたって攻撃し、大いに秦軍をやぶった。


「先発制人(先んずれば人を制す)」と「後発制人(後るれば則ち人に制せらる)」という二つの成語は、「史記・項羽本紀」に由来する。秦の時代の末期、すなわち紀元前209年7月、中国の歴史上最初の大規模な農民起義である「陳勝・呉広の乱」が勃発した。この蜂起の影響は他の地域にも波及します。会稽郡の長官であった殷通という人物は、普段から項梁(項羽の叔父)と親しくしていた。その年の9月のある日、殷通は重要な相談があるとして項梁を呼び出した。

やって来た項梁に対し、殷通はこう言った。 「長江の北西一帯はことごとく反旗を翻した。これは天が秦を滅ぼす時が来たのだ。私は「先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人に制せらる(先手を取れば相手を制圧できるが、後手に回れば相手に制圧されてしまう)と聞いている」続けて殷通は、「我々も兵を起こすべきだ。今すぐあなたと桓楚に軍を率いてもらいたい……」と告げた。

しかし、実際には項羽と項梁はかねてより挙兵の準備を進めていた。彼らはこの機に乗じて会稽郡守の殷通を殺害し、会稽郡に属する兵8,000人余りを集めて一気に蜂起したのである。

また、班固が著した「漢書・項籍伝」においても、上記の歴史的経緯を描写する中で、「先発制人、後発制於人(先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人に制せらる)」と記されている。これらが「先発制人」「後発制人」という二つの成語の由来となっている。「先発制人」は、主導権を握り、先手を打って優位に立つことを意味する。

一方、毛沢東主席は「後発制人」という成語を運用するにあたり、創造的な発展をもたらした。もともと「後れて発すれば人に制せらる」という言葉は、受動的な立場に立たされ、自分にとって不利になることを意味していた。しかし、毛主席は中国の歴史における数多くの史実に基づき、さらに中国革命の経験を総括した上で、「後発制人」に新たな解釈を与えたのである。

毛主席は次のように述べている。 「聡明な拳闘士は往々にして一歩退いて譲るものだが、愚者は勢い込んで最初から全力を出し切り、結果として退いて譲った者に打ち倒されることが多い」

したがって、ここで言う「後発制人」とは、「弱者が強者に対して闘う状況下において、あえて相手に一歩を譲り、機を見て強者に打ち勝つこと」を意味している。


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