削足适履(さくそくてきり・足を削りて履に適せしむ)
原文
又有一种人的意见也是不对的,我们也早已批驳了这种意见了;他们说:只要研究俄国革命战争的经验就得了,具体地说,只要照着苏联内战的指导规律和苏联军事机关颁布的军事条令去做就得了。他们不知道:苏联的规律和条令,包含着苏联内战和苏联红军的特殊性,如果我们一模一样地抄了来用,不允许任何的变更,也同样是削足适履,要打败仗。
また、つぎのような意見をもっているものがあるが、それもまちがっている。われわれはそのような意見をも、とうに反駁した。かれらは、ただロシアにおける革命戦争の経験を研究しさえすればいいのだ、具体的にいえば、ソ連の国内戦争の指導法則とソ連の軍事機関が公布した軍事典範令のとおりにやりさえすればいいのだ、というのである。ソ連の法則や典範令には、ソ連の国内戦争とソビエト赤軍の特殊性がふくまれており、もしわれわれがなんの変更もゆるさないで、そっくりそのまま使うとすれば、これも同様に足をけずって靴にあわせることになり、戦争に負けるということを、かれらは知らない。
《中国革命戦争の戦略問題》
「削足適履(足を削りて履に適せしむ・さくそくてきり・状況を無視して無理に合わせる)」という言葉は、『淮南子・説林訓』に由来する。
春秋時代、楚の霊王は蔡国を滅ぼした後、弟の棄疾に旧蔡国の地を治めさせ、蔡公の位を与えた。棄疾は家臣の朝呉にそそのかされ、霊王が兵を率いて徐国へ遠征に出た隙を突いて突如楚の都に戻り、霊王の二人の息子を殺害した。霊王は遠征先でこの政変を知ると、首を吊って自殺してしまった。しかし、このとき棄疾はまだ霊王が死んだことを知らず、また自分にはまだ二人の兄がいたため、すぐに王位に就くことを危ぶんだ。そこで、兄の息子である子午を君主に擁立し、もう一人の兄である子皙を令尹に据えた。その後、霊王の死を知ると、棄疾は再び朝呉の奸計を用いて子午と子皙を自殺に追い込み、自ら君主となった。これが楚の平王である。
同じ時期、晋国でも似たような事件が発生した。晋の君主である献公は、驪戎国から献上された美女の驪姫を寵愛し、彼女を正妻に立てた。さらに、驪姫が産んだ息子の奚斉を新しく太子に立てようと考えました。しかし驪姫は、当時の太子であった申生が民衆から非常に信頼されており、その弟である重耳や夷吾の助けもあることを知っていたため、すぐには自分の息子を太子にすることはできなかった。そこで彼女は策略を巡らせ、献公とその三人の息子たち(申生、重耳、夷吾)との関係を裂こうとした。やがて献公は彼女の讒言を受けて、申生に自殺を命じ、さらに重耳と夷吾を捕らえるために兵を差し向けたのである。
以上の二つの事件は、いずれも他人のそそのかしや讒言を信じたために、弟が兄を自殺に追い込み、父親が息子を死に追いやる結果となったものである。『淮南子・説林訓』では、これらの事件について次のように述べている。「骨肉相い愛するも、讒賊これに間して父子相い危うくす。夫れ養ふ所以にして養ふ所を害するは、譬へば猶ほ足を削りて履に適し、頭を殺きて冠に便ずるがごとし。」
搾取階級の社会においては、権力を奪い合うために明らかな争いや暗闘が行われ、個人の名利のために実の親族を平気で残害していた。このような奇妙な現象は、まるで靴のサイズが自分の足に合わないからといって足を削り落としたり、帽子のサイズが頭に合わないからといって頭を削り落としたりするのと同じくらい愚かなことである。そのため、のちの人々は、物事を無理やりこじつけ、客観的な現実を主観的な要求に無理に合わせようとする誤ったやり方のことを「削足適履」と呼ぶようになった。
毛主席はここで「削足適履」という成語を引用し、他国や他人の経験を吸収するときには、必ず実際の状況から出発すべきであり、機械的にそのまま当てはめてはならない、さもなければ誤りを犯すことになる、と我々に教えているのである。




