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毛沢東選集第三巻で出てくる「中国成語」

この文章は

成語とその発音もしくは意味

その成語が出てきた毛主席の著作原文

その成語の解説

の順につくられています。

不求甚解(甚だしく解せんことを求めず・大体を知るだけで満足して深い理解を求めようとしない)

原文

现在我们很多同志,还保存着一种粗枝大叶、不求甚解的作风,甚至全然不了解下情,却在那里担负指导工作,这是异常危险的现象。

 現在、多くの同志たちは、おおざっぱでふかく理解しようとしない作風をまだもっており、ひどいばあいには下部の事情が全然わからないままに指導にあたっているが、これはたいへん危険な現象である。

《『農村調査』のはしがきとあとがき》


 「不求甚解(甚だしく解せんことを求めず)」という言葉は、晋代の詩人である陶潜の『五柳先生伝』に由来する。陶潜(名は淵明、五柳先生と号す)の伝記の冒頭には、「先生はいづれの人なるかを知らざるなり、……書を好み、甚だしくは解せんことを求めず、会意する有る毎に、便ち欣然として食を忘る」と記されている。本来の意味は、この先生は大変読書を好むが、文字や句句の細かい解釈にこだわりすぎず、要旨を理解すれば十分とし、新たな納得や気づきがあるたびに、嬉しさのあまり食事も忘れてしまうほどであった、ということである。後世、人々は「不求甚解」という言葉を用いて、問題や事物に対して緻密で深い理解を追求せず、表面的な部分だけで大雑把に済ませてしまういい加減な態度を表すようになった。

毛主席は日頃から我々に対し、どんな仕事であれ必ず現場の実際から出発しなければならないと教えている。対象について十分な調査研究を行い、そこから得られた資料をもとに内部の本質と法則性を見出すことで、はじめて成果のある仕事を進めることができるのである。


道听途说(どうちょうとせつ・道で聞いたことをすぐ道で人に話す)

原文

  东张西望,道听途说,决然得不到什么完全的知识。

 あっちをみたりこっちをみたり、通りすがりに聞きかじるようなことでは、けっして完全な知識などえられはしない。

《『農村調査』のはしがきとあとがき》


「道聴途説(道聴塗説)」という言葉は、『論語・陽貨篇』にある孔子の言葉「子曰わく、道に聴きて(みち)に説くは、徳をこれ()つるなり。」に由来する。これは、路上で耳にした噂話をその場で言いふらすのは、修養を積んだ人物が改めるべき作風であるという意味である。道聴途説に関して、歴史上に次のような故事がある。戦国時代、艾子という人物と毛空という人物がいた。ある時、毛空が艾子に向かって「一羽のアヒルが一度に百個の卵を産んだ」と語った。艾子が信じないでいると、毛空は「では二羽のアヒルが産んだのかもしれない」と言い改めた。艾子がなおも信じないと、毛空はさらに「では三羽のアヒルが産んだのだろう」と改め、こうして最終的に十羽まで増やしたが、艾子はやはり信じなかった。しばらくして毛空は再び「先月、空から長さ三十丈、幅十丈の肉の塊が落ちてきた」と言った。艾子が信じないと、毛空は「長さ二十丈だった」と言い改め、それでも信じないと「長さ十丈だった」と言い改めた。最後に艾子が「先ほどのお前のアヒルは誰の家のものだ?肉はどこに落ちてきたのだ?」と尋ねると、毛空は「すべて他人が言っていたのを聞いただけだ」と答えた。そこで艾子は弟子たちに向かって、「お前たちは彼のように道聴途説してはならないぞ」と教え諭したのだった。後世、人々はこの故事に基づき、事実無根の噂話を言いふらすことを「道聴途説」と呼ぶようになった。

毛主席は我々に対し、単なる「道聴途説」に頼っていては良い仕事などできないと教えている。良い仕事をするためには、現場や群众の中に深く入り込んで真実の状況を把握し、そこから事物の発展における客観的法則を見出して、正しい指導を行わなければならないのである。


一知半解いっちはんかい

原文

  我现在还痛感有周密研究中国事情和国际事情的必要,这是和我自己对于中国事情和国际事情依然还只是一知半解这种事实相关联的,并非说我是什么都懂得了,只是人家不懂得。

 わたしはいまでも、中国事情と国際事情の綿密な研究の必要を痛感しているが、それはわたし自身が中国事情と国際事情について、やはりまだ、なまはんかな知識しかもっていないという事実と関連している。自分はなにもかもわかっていて、他人がわかっていないだけだなどというのではけっしてない。

《『農村調査』のはしがきとあとがき》


 「一知半解いっちはんかい」という言葉は、『唐宋詩醇』に見られる。同書において蘇軾の詩を評する際、「淘(陶)乎として独立千古、非一代一人の詩なり。而るに陳師道顧みて其の初め劉禹錫に学び、晩に李太白に学ぶと謂うは、毋乃なんぞ一知半解にして敗るるか」と記されている。これは、宋代の大詩人である蘇東坡の詩は千古にわたって独立した傑作であり、単に一つの時代や個人の枠に収まるようなものではないにもかかわらず、陳師道(宋代の詩人)が「蘇軾の詩は初期に劉禹錫を学び、晩年には李太白を学んだ」と述べたのは、蘇軾の詩に対する理解が極めて不十分な見解ではないか、という意味である。「一知半解」は、問題に対する理解が浅くて不十分であることや、知識が極めて少ないことを意味している。


流离失所ろとうにまよう

原文

  在土地政策方面,对于十年内战前期和中期所采取的、也分配给地主一份和农民同样的土地、使他们从事耕种、以免流离失所或上山为匪破坏社会秩序,这样的正确的政策,加以否定,也是错误的。

 土地政策の面では、十年の内戦の前期と中期にとった政策、すなわち地主が流浪の生活をしたり、山にはいって匪賊となり社会秩序をみだすことのないよう、かれらにも農民とおなじだけの土地を分配して耕作させる、という正しい政策を否定したのもあやまりであった。

《『農村調査』のはしがきとあとがき》

注:ここにいわれている十年の内戦の前期とは、一九二七年末から一九二八年末までの時期をさし、通常、井岡山の時期ともいわれている。中期とは、一九二九年のはじめから一九三一年の秋までの時期、すなわち中央赤色根拠地の樹立から三回目の反「包囲討伐」の戦いが勝利をもって終わったときまでの時期をさす。後期とは、一九三一年末から一九三四年末までの時期、すなわち三回目の反「包囲討伐」の戦いが勝利をもって終わったときから、党中央が貴州省の遵義で政治局拡大会議をひらいたときまでの時期をさす。一九三五年一月の遵義会議では、一九三一年から一九三四年までの、「左」翼日和見主義路線の党内における支配に終止符をうち、党を正しい路線にたちもどらせた。


 「流離失所(流浪して居場所を失う)」という言葉は、『漢書・薛広徳伝』に由来する。薛広徳は漢の元帝の時代に御史大夫を務めた人物であり、あるとき皇帝の狩猟に同行した。数日後、彼は皇帝に速やかに宮殿へ戻るよう促すため上書を提出したが、その冒頭に「窃かに見れば関東困極し、人民流離す……」と記されていた。これは、関東(函谷関以東)の一帯で人民の生活が非常に貧しく苦しく、多くが他郷へ流落しているのを目にしている……という意味である。「流離失所」という言葉はここから変化して生まれたものであり、他郷へ落ちぶれて着るものや食べるもの、身を寄せる場所を失うことを意味している。



闭塞眼睛捉麻雀(目をつむってスズメを捕らえる・盲目的に行動する)

原文

“闭塞眼睛捉麻雀”,“瞎子摸鱼”,粗枝大叶,夸夸其谈,满足于一知半解,这种极坏的作风,这种完全违反马克思列宁主义基本精神的作风,还在我党许多同志中继续存在着。

「目をつぶってすずめをつかまえ」、「めくらが魚を手さぐり」するような、おおざっばで、長広舌を振るい、なまはんかな知識に満足するというこうした非常に悪い作風、マルクス・レーニン主義の基本精神にまったくそむいたこうした作風は、わが党の多くの同志のあいだに、なおひきつづき存在している。

《われわれの学習を改革しよう》

「閉塞眼睛捉麻雀(目を閉じて雀を捕らえる)」という言葉は、『三国志・陳琳伝』に見られる。三国時代、陳琳は大将軍・何進の主簿を務めていた。当時、宦官が権力を握り朝政を左右していたため、何進は宦官を抹殺しようとしたが、太后がこれを聞き入れなかった。そこでお供の何進は四方の猛将を呼び寄せ、兵を率いて京城へと向かい、太后を威圧しようとした。この状況を不妙と見た主簿の陳琳は何進を諌め、「諺に『目を覆いて雀を捕う』とあり。夫れ微物すら尚お欺きて志を得べからず、況んや国家の大事、それ詐を以て立たんや」と述べた。これは、雀のような小さな生き物でさえ目を閉じて捕まえることはできないのに、まして国家の大事を胡麻化しや不当な手段で成功させられるはずがないではないか、という意味である。 

 毛主席は『我々の学習を改造しよう』という文章の中でこの諺を引用し、調査研究を怠り、現実から出発しようとしない主観主義的な作風を皮肉った。主観主義者は一知半解や大雑把な対応を能事とし、事に直面しても調査研究を行わないため、事物の本質や真相を見失ってしまう。このような作風で仕事に当たれば必ず失敗し、革命を指導すれば必ず被害をもたらすことになるのである。




想当然(当然のことと勝手に決めてかかる)

原文

现在我们队伍中确有许多同志被这种作风带坏了。对于国内外、省内外、县内外、区内外的具体情况,不愿作系统的周密的调查和研究,仅仅根据一知半解,根据“想当然”,就在那里发号施令,这种主观主义的作风,不是还在许多同志中间存在着吗?

 たしかに、いま、われわれの隊列内には、こうした悪い作風にそまった同志がたくさんいる。国の内外、省の内外、県の内外、区の内外の具体的な状況について、系統的で綿密な調査と研究をしようとはせず、なまはんかな知識や「しかじかであるにちがいない」ということだけをよりどころにして命令をだす、こうした主観主義の作風は、まだ多くの同志のあいだに存在しているのではないか。

《われわれの学習を改革しよう》

「想当然(思い込み、そうに違いないと決めつけること)」という言葉は、『後漢書・孔融伝』の故事に由来する。「初め、曹操が鄴城を攻めて虐殺した際、袁氏の婦女子の多くが乱暴を受けた。そして曹操の子の曹丕は袁熙の妻であった甄氏を我が物とした。孔融は曹操に書簡を送り、武王が紂王を伐った際、妲己を周公に与えたと称した。曹操は悟らず、後日に何の出典に基づくものかと尋ねたところ、(孔融は)『今の情況をもってこれを推し量るに、想うに当然なるのみ』と答えた」三国時代、曹操が袁紹を攻撃して鄴城を攻略した際、袁紹の息子の嫁であった甄氏を奪い、自分の息子(曹丕)の妻とした。孔融(建安七子の一人であり、曹操を度々批判した末に彼に殺害された人物)はこの状況を見て強い不満を抱き、曹操へ手紙を送った。その中で彼は曹操を諌めるため、武王が紂王を伐った際に妲己を奪って周公の妻にしたという架空の物語を創作した。しかし曹操はその意図を理解できず、孔融に対してこの話はどの典籍に出ているのかと尋ねた。孔融は「今の状況から推測すれば、当然そうであっただろうと思っただけだ」と答えたのである。後世、人々はこの故事に基づき、根拠のないことや主観によって勝手に思い描く事柄を「想当然」と呼ぶようになった。

 毛主席はこの典故を用いて、現実から出発せず調査研究を経ない主観主義的作風の本質を深刻に解き明かした。そして我々に対し、「想当然」という悪しき作風を捨て去り、事に直面した際には真面目に調査研究を行い、すべてを実際の状況から出発させねばならないと教え諭したのである。



华而不实(花は咲くが実はならない・外見は立派だが中身はない)

原文

  这两种人都凭主观,忽视客观实际事物的存在。・・・无实事求是之意,有哗众取宠之心。华而不实,脆而不坚。自以为是,老子天下第一,“钦差大臣”满天飞。这就是我们队伍中若干同志的作风。

 このふたとおりの人びとは、どちらも主観にたより、客観的な実際の事物の存在を無視する。・・・派手に立ちまわって人気をえようとする気持ちはあっても、事実にもとづいて法則性をもとめる考えはない。見ばえだけで中味がなく、もろくて芯がない。ひとりよがりで、われこそは天下第一とうぬぼれ、「勅使」然としていたるところをとびまわる。これがわれわれの隊列内の一部の同志の作風である。

《われわれの学習を改革しよう》


 「華而不実(華やかで実がない、外見ばかりで中身が伴わないこと)」という言葉は、『左伝・文公五年』に由来する。「晋の陽處父、衛に聘し、反りて甯(晉の邑)を過ぐ。甯の嬴(杜注:嬴は 逆旅(旅館)の大夫、之に從い、温に及びて還る。其の妻之を問う。嬴曰く、「以 (はなはだ、楊注:「以」は「太」なり)だ剛なり。・・・且つ華にして實ならざるは、怨みの聚まる所なり。以て身を定む可からず。余、其の利を獲ずして 其の難に離るを懼る。是を以て之を去る。」春秋時代(紀元前622年)、晋の大夫である陽処父が衛国を訪問した後、晋へ戻る途中で魯国の寧という地に立ち寄った。彼が出発する際、寧嬴(旅館の大夫)が同行したが、温という地に到達したところで寧嬴は引き返してきた。彼の妻がなぜ途中で戻ってきたのかと尋ねると、寧嬴はこう答えた。「陽処父は性格が強情すぎる上、大言壮語して実が伴わない。これでは人々の怨みを買うばかりであり、大衆の怨みを集めては身を立てることなどできない。彼の恩恵を得るどころか災難に巻き込まれることを恐れたため、立ち去ったのだ」。また『国語・晋語四』にも「華にして実無きは、恥なり」と見られる。

 「華而不実」という成語の意味は、言動が不相応に大袈裟であり、話す言葉が虚飾に満ちていて誠実さに欠けることである。後世、人々は言論が大言壮語であったり、文章の修辞ばかりが華やかで内容が空疎である様子を形容する際によく用いるようになった。



哗众取宠(派手に立ち回って大衆の歓心を買う)

原文は同上のため省略。


「嘩衆取寵(派手に立ち回って大衆の歓心を買う)」という言葉は、『漢書・芸文志』に見られる。同書は我が国古代における学術思想の源流、学派、そしてその是非や得失を講究した文献である。諸子百家や儒家の得失について論じた際、「然れども惑者は既に精微を失い、辟者はまた時に随いて抑揚し、道本を違離し、苟も以て衆を嘩し寵を取る。後進これに循い、ここを以て五経離析し、儒学漸く衰う、これ辟儒の患いなり」と述べている。儒家の学説は本来孔子を宗とし、封建社会において歴史的な検証を経たことで統治者から称賛された。しかし儒家思想に対する理解が不十分な一部の者たちは、その精微な本質を見失い、難解な箇所に対して勝手な解釈を加えて庶民の機嫌をとり、儒家本来の道統から離れてしまった。その結果、後進もこれに従ったため五経は解体・分裂し、儒学は次第に衰退していった。これこそが曲学阿世の徒(辟儒)がもたらした禍根である。「嘩衆取寵」という言葉はここに由来し、大衆の前で浮ついた言葉を弄し、人々の受けや高評価を獲得しようとすることを意味している。

 毛主席が「嘩衆取寵」という言葉を用いた意図は、主観主義者たちの悪しき作風を批判し暴露することにあった。彼らは理論に対して誠実な態度をとらず、大衆の前で大言壮語を吐き、人気を取りに行こうとする。毛主席はこの作風を「党性」の高さにまで引き上げて捉え、「党性が不純であることの一表現」であると指摘した。これらを打倒してはじめて党性は強固となり、革命は勝利へと向かうのである。同志の一人ひとりが毛主席の指示に従い、自らの思想方法や思想作風を点検しなければならない。


实事求是(じつじきゅうぜ)

原文

  这种态度,就是实事求是的态度。“实事”就是客观存在着的一切事物,“是”就是客观事物的内部联系,即规律性,“求”就是我们去研究。

 このような態度が実事求是の態度である。「実事」とは客観的に存在するすべての事物のことであり、「是」とは客観的な事物の内部的なつながり、すなわち法則性のことであり、「求」とはわれわれがこれを研究することである。

《われわれの学習を改革しよう》


 「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉は、『漢書・河間献王伝』に由来する。前漢の時代、景帝の三男である劉徳が河間献王に封じられた。劉徳は学問の研究を好むことで知られ、先秦時代の古書を常に閲覧・収集していた。豊富な研究資料を網羅し、真面目に学術研究や歴史の考証作業に従事した。彼のこうした真摯で責任感があり、厳格かつ刻苦に満ちた治学の態度は、多くの人々から称賛を受けた。そのため、班固が『漢書』を撰述する際、劉徳のために『河間献王伝』を立てたのである。その伝記の中で、彼の学問に対する姿勢を「学を修め古を好み、実事に就きて是を求む(修学好古、実事求是)」と称讃した。後に唐代の大学者である顔師古は、この言葉を「務めて事実を得、つねに其の是を求むるなり」と注釈した。これは、学問を研究するにあたっては必ず十分な事実の根拠を把握し、その事実の中から正しい結論を見出さねばならないという意味である。

 毛主席は長年にわたる革命指導の経験に基づき、「実事求是」に対して科学的かつ革命的な新たな解釈を与えた。いわゆる実事求是とは、我々が実際の対象から出発し、その発展における法則性を探求して事物の本質を認識し、主観的能動性を正しく発揮して仕事をしっかりとやり遂げることを求めているのである。



中流砥柱ちゅうりゅうのしちゅう

原文

共产党领导的武力和民众已成了抗日战争中的中流砥柱。一切对于共产党的污蔑,其目的都在使抗战失败,以利投降。

 共産党の指導する武装力と民衆は、すでに抗日戦争での柱石となっている。共産党にたいするすべての中傷は、抗戦を失敗させ、投降するのに都合のよいようにするのが目的である。

《極東ミュンヘンの陰謀を暴露せよ》


 「中流砥柱(中流の砥柱・ちゅうりゅうのしちゅう)」という言葉は、最初に『水経注』に見られる。「再び山を破りて以て河を通ず、河水分流し、山を包みて過ぐ、山の中に見ゆること柱のごと然り。故に砥柱と曰うなり」伝説によれば、古代の大禹が治水を行った際、河南と山西の間に大山が聳え立ち、水の流れを遮っていた。そこでおおいに山を切り開いて河水を山の周囲へと流した。切り開かれた山は水中に屹然としてそびえ立ち、あたかも柱石のように見えた。後にこの山は「砥柱山(ある文書では潰柱山)」と呼ばれるようになった。また元代の詩人・丁鶴年の『自詠詩』の中にも、「長淮横潰して禍軽きに非ず、そぞろに見る中流の砥柱傾くを」という一節が見られる。「中流砥柱」は、ある勢力や力量が激流の中に聳え立つ柱石のように極めて強固であり、決して動揺しない様子を形容する言葉である。


熟视无睹(よく見ているのにまるで見えないのと同じである・目の前にある事物に目をつむり全く無関心である)

原文

如果我们身为中国共产党员,却对于中国问题熟视无睹,只能记诵马克思主义书本上的个别的结论和个别的原理,那末,我们在理论战线上的成绩就未免太坏了。

 われわれが中国共産党員でありながら、中国問題は目にはいらず、マルクス主義の書物にある個々の結論や個々の原理を暗唱することしかできないとしたら、理論戦線でのわれわれの成果はひどく悪いものになってしまう。

《党の作風を整えよう》


 「熟視無睹(よく見ているのにまるで見えないのと同じである・目の前にある事物に目をつむり全く無関心である)」という言葉は、唐代の韓愈による『科目を応ずる時人に与うる書』に由来する。これは貞元九年、韓愈が宏詞科の試験を受験した際に記した書簡である。この手紙の中で彼は、物事に寄託する比喩を用いて自らの志を表現した。天池のほとりに一頭の怪物がおり、もし水を得れば風雨を巻き起こして天地を上下できるが、水を得られなければごく僅かな範囲でしか活動できない。これは別段高い山や険しい障壁があるからではなく、ただ怪物自身が水を求めることに専念できないためである。もし力ある者がこれを哀れみ、ほんのわずかな手を差し伸べるだけで、怪物を水の中へと運んでやることができる。しかしこの怪物は己が人とは異なることを誇りとし、「泥沙の中で腐り果てようとも本望であるが、頭を垂れ耳を伏せ、尾を振って乞い願うような真似は私の志すところではない」と述べた。それゆえ「是を以て力有る者これに逢うも、熟視して無睹ざるが若きなり」と結ばれている。

これは、この怪物(韓愈自身の比喩)の志が非常に強固であり、決して尾を振って他人に乞い乞わぬ姿勢をとるため、権力や力のある者が遭遇しても、十分に見ていながら、まるで見ていないかのように無視してしまうという意味である。「熟視無睹」という言葉はここに由来し、今日では事物や問題に対して無関心な態度をとる者を批判する際によく用いられる。こうした人々は、ある事物に対して表面上は何度目にしていても、実際にはまるで見ていないかのように何一つ捉えることができないのである。

毛主席は我々に対し、事物に対しては必ず具体的かつ科学的な分析の態度をとるべきであり、事物に関心を持ち、その発展の法則と本質を見出すべきであって、問題に対して「熟視無睹」であっては決してならないと教えている。



学而时习之,不亦说乎(子曰く、学て時に之を習う、亦た説ばしからずや)

原文

我幼年没有进过马克思列宁主义的学校,学的是“子曰学而时习之,不亦说乎”一套,这种学习的内容虽然陈旧了,但是对我也有好处,因为我识字便是从这里学来的。

 わたしは幼年時代にはマルケス・レーニン主義の学校にはいったことがなく、学んだのは、「子曰く、学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」といったようなものであった。このような学習の内容はふるくさいものではあったが、ここから字をおぼえたので、わたしにとってはためになるところもあった。

《党の作風を整えよう》


 「学而时习之,不亦说乎(子曰く、学て時に之を習う、亦た説ばしからずや)」という言葉は、『論語・学而篇』に由来する。これは、学んだことをしかるべき時に復習するのは、実に喜ばしいことではないか、という意味である。孔子の思想には一定の唯物論的な観点が含まれており、とりわけ学習方法においては「実習(実践と復習)」の役割を重視し、姿勢としては現実から出発して真実を求める実事求是の態度(「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす」)を強調した。人間はみな「学んでこれを知る」のであり、「生まながらにしてこれを知る」者など存在しない。それゆえ、彼は常々弟子たちに対し、懸命に学び、定期的に復習するよう教育したのである。

毛主席がこの言葉を引用したことは、今日の我々の学習にとってもなお積極的な意義を持っている。むろん、現代の革命幹部や青年学生は、もはや過去の回り道をたどって「学んで時にこれを習う」といった古書から学び始める必要はない。我々が学ぶべきなのは科学知識の教科書であり、マルクス・レーニン主義の理論である。しかし、学習を鼓舞し、意欲的に向上を目指すその姿勢自体は、今なお我々が吸収すべき価値を十分に備えている。



取长补短(長を採り短を補う・他人の長所をとり入れて、自身の短所を補う)

原文

外来干部和本地干部各有长处,也各有短处,必须互相取长补短,才能有进步。

外来の幹部と地元の幹部には、それぞれ長所もあれば短所もあって、たがいに長所をとりいれ、短所をおぎなわなければ、進歩はありえない。

《党の作風を整えよう》


 「取長補短(長所を採り入れ短所を補う)」という言葉は、『孟子・滕文公』に見られる。滕の文公がまだ太子であった頃、楚国から戻る途中で宋国に立ち寄り、孟子に謁見した。孟子はその際、国家統治の理を数多く語るとともに、彼に次のように告げた。「今滕長を絕ち短を補はば、將に五十里ならんとす。猶ほ以て善を為す可き国なり。」。これは、現在の滕国であっても、仮にその土地の長い部分を切り取って短い部分に補い、整えれば一辺が五十里ほどになり、十分に優れた国家として治めることができるという意味である。「取長補短」という成語は、ここにある「絶長補短」というフレーズから変化して生まれたものである。

毛主席はここで「取長補短」という言葉を用い、我々の党員や幹部に対し、他者の優れている点(長所)を学び、自らの不十分な点(短所)を補うべきであると教え諭しているのである。


以邻为壑(隣国を自国の洪水のはけ口にする・自分の利益を図るために災いを人に押しつける)

原文

必须反对只顾自己不顾别人的本位主义的倾向。谁要是对别人的困难不管,别人要调他所属的干部不给,或以坏的送人,“以邻为壑”,全不为别部、别地、别人想一想,这样的人就叫做本位主义者,这就是完全失掉了共产主义的精神。

 自分のほうのことばかり考えていて、他のもののことを考えない本位主義の傾向に反対しなければならない。他のものの困難には目もくれず、よそから自分のところの幹部をもとめられても、それを手ばなさなかったり、わるい幹部をまわしたりして、「隣を以ってがくとなし」、他の部門、他の地方、他の人のことをすこしも考えないような、こうした人びとを本位主義者とよぶのであり、これはまったく共産主義の精神をうしなったものである。

《党の作風を整えよう》


「以隣為壑(隣国を自国の洪水のはけ口にする・自分の利益を図るために災いを人に押しつける)」という言葉は、『孟子・告子下』の故事に由来する。

戦国時代、白圭という人物がおり、堤防を築く方法で治水を行うことに長け、大きな成果を上げていた。ある日、彼は孟子に謁見し、「白圭曰く、丹の水をるや、禹より愈れり。」と自慢した。孟子はこれに対し、「孟子曰く、子過てり。禹の水を治むるは水の道なり。是の故に禹は四海を以て壑となす。今吾子は鄰国を以てがくと為す。・・・仁人のにくむ所なり。吾子過てり」と反駁した。これは、白圭が自らの治水の手腕は古代の禹を上回ると主張したのに対し、孟子が「大禹の治水は水流の自然な法則に従って四海へと注がせたが、あなたは隣国へ流し込んで遊水地代わりにしている。そのようなやり方は徳のある人物が憎むものであり、間違っている」と諭した内容である。後世、人々はこの故事に基づき、自らの利益のために他者に損害を与えるような悪しき作風を形容する際、よく「以隣為壑」と用いるようになった。

毛主席はこの「以隣為壑」の典故を用い、自分のことだけを考え他者を省みず、自らの部門や立場のみを優先して全体の利益を顧みない「本位主義セクショナリズム」の思想を深刻に暴露・批判した。我々に対し、革命幹部の一人ひとりが事業に害を及ぼすこのような誤った思想作風を投げ捨て、常に大局に立ち、全体を思いやる高い共産主義的風規範を発揚すべきであると教え諭しているのである。



妄自尊大(みだりに尊大ぶる・思い上がってうぬぼれる)

原文

我们的许多同志,喜欢对党外人员妄自尊大,看人家不起,藐视人家,而不愿尊重人家,不愿了解人家的长处。这就是宗派主义的倾向。

 われわれの多くの同志は、党外の人びとにたいして尊大にふるまいたがり、人を軽視し蔑視して、人を尊敬しようとせず、人の長所を理解しようとしない。

《党の作風を整えよう》


「妄自尊大(みだりに尊大ぶる・思い上がってうぬぼれる)」という言葉は、『後漢書・馬援伝』に由来する。後漢の初め、劉秀は勝利を収めて東方に政権を打ち立て、皇帝(光武帝)となった。しかし全国が統一されたわけではなく、各派の勢力が群雄割拠し、軍閥が混戦して割拠していた。四川の一帯では公孫述の勢力が急速に拡大し、まもなく皇帝を自称するに至った。一方、馬援という人物がいた。彼は当初王莽に仕えていたが、王莽の敗北後は隗囂から極めて手厚く敬重され、「援を以て綏徳将軍となし、ともに籌策(ちゅうさく:計略)を決す」という立場にあった。当時、隗囂は甘粛の一帯で活動し、自ら西州上将軍と称していたが、四川における公孫述の状況を探り出路を見出そうと、馬援を四川へと派遣した。馬援と公孫述はもともと仲が良く、かつて隣同士で暮らしていたこともあったため、馬援は旧友として「手を握り合って昔通りの親交を温め合えるだろう」と考えていた。しかし四川に入ると、公孫述は帝王の姿で高所に鎮座し、階段の下に多くの護衛を居並ばせた上で、馬援を臣下の礼で接見させた。このため馬援は公孫述に対して非常に不満を抱いた。公孫述の部下や客分たちは馬援を四川に留め、侯に封じて大将軍の地位を与えようとしたが、馬援は公孫述が天下の人材を繋ぎ止めるに足る人物ではないと見抜き、ついに辞して帰還した。戻った後、馬援は隗囂に対して「子陽(公孫述の字)は井の底の蛙なるのみにして、妄自尊大す。東方に意を夷(平)にするに如かず」と慨嘆した。これは、「公孫述は井の中の蛙のように見識が浅く、根拠もなく自分を尊大に見せかけているだけだ。我々は素直に東方(光武帝)へ赴いて出路を探るほうがよい」という意味である。「妄自尊大」という成語はここに由来し、無批判に自分を偉いと思い込んで威張る様子を意味している。



藏垢纳污(垢をしまい込み,汚れを取り込む・悪人や悪事をかくまう)

原文

  党八股是藏垢纳污的东西,是主观主义和宗派主义的一种表现形式。它是害人的,不利于革命的,我们必须肃清它。

 党八股は、ちりあくたをつつみかくすものであり、主観主義とセクト主義の一つの表現形態である。それは人をそこない、革命を不利にするものであり、われわれはそれを一掃しなければならない。

《党の作風を整えよう》


 「藏垢纳污(垢をしまい込み,汚れを取り込む・悪人や悪事をかくまう)」という言葉は、『左伝・宣公十五年』に由来する。春秋時代である紀元前594年、強大な楚国は言いがかりをつけて宋国を辱めようとした。楚は斉へ向かう使者を派遣した際、宋の領内を通過することとなった。当時の外交儀礼では、諸侯が他国の領土を通る際には公に通行許可を求めなければならなかった。しかし、楚は意図的に宋を挑発し、通行許可を求めなかった。これに激怒した宋は、楚の使者を殺害した。使者が殺された報せを受けた楚は、ただちに宋への侵攻を決定した。楚軍に包囲された宋は、晋国へ使者を送って救援を求めた。当初、晋侯は出兵して救出を図ろうとしたが、晋の大夫である伯宗が強く反対した。伯宗は次のように語った。「「古人言える有り、曰く、『鞭の長きと雖も、馬腹に及ばず。』天方に楚に授けんとす。未だ與に争う可からず。晉の強きと雖も、能く天に違わんや。諺に曰く、『高下心に在り(事の宜しきを制するのは心に在り)。』河澤、 汚を納れ、山藪、疾を藏し(「疾」は害毒を及ぼす草木や生き物など)、瑾瑜(美しい玉)、瑕を匿し、国君、はじを含むは、天の道なり。」」

これは「馬鞭がいくら長くとも馬の腹を打つべきではない」という意味であり、いかに晋が強大であろうとも楚を攻撃すべきではないことを示している。楚は天命を得て日に日に強大化しており、天命に逆らって楚と強さを競うわけにはいかないからだ。また諺が示す通り、事に臨んでは柔軟に対応し、状況を冷静に把握せねばならない。川や湖が汚れた水を受け入れ、草むらに有害な虫が潜み、美玉にも欠点があるように、晋もまた一時的な屈辱に耐えるべきであり、宋を救わないことを恥とすべきではないという論理である。晋侯は伯宗のこの道理を聞き入れ、宋への救助を取りやめた。

後世の人々は、この歴史的経緯と伯宗の言葉に基づいて「藏垢纳污」という成語をまとめた。現在では、悪いものや不正なものを包み隠し、容認することを比喩する言葉として用いられている。



惩前毖后(前の誤りを後の戒めとする)

原文

我们反对主观主义、宗派主义、党八股,有两条宗旨是必须注意的:第一是“惩前毖后”,第二是“治病救人”。对以前的错误一定要揭发,不讲情面,要以科学的态度来分析批判过去的坏东西,以便使后来的工作慎重些,做得好些。这就是“惩前毖后”的意思。

 われわれが主観主義、セクト主義、党八股に反対するにあたって、注意すべき二つのたてまえがある。第一に、「前のあやまりを後のいましめとする」こと、第二に、「病をなおして人を救う」ことである。後の活動をもっと慎重に、もっとりっぱなものにするため、前のあやまりにたいしては、情実にとらわれず、かならずこれを指摘し、科学的な態度で、過去のわるいものを分析し批判しなければならない。これが、「前のあやまりを後のいましめとする」という意味である。

《党の作風を整えよう》


 「懲前毖後(前悪を懲らしめて後患を慎む)」という言葉は、『詩経・周頌・敬之』に見られる。この篇の冒頭には「予れ其れ懲りて、後の患えをつつしまん。」という一文がある。「懲」は戒めを受けること、「毖」は慎むことを意味する。すなわち「過去の過ちから戒めを受け、今後の禍いが生じないよう謹む」という意味である。これに基づき、後世の人々は「懲前毖後」という言葉を、自我修養や相互批判の方法・原則として用いるようになった。 

毛主席は、中国革命の長きにわたる闘争から得た豊かな経験に基づき、マルクス・レーニン主義政党建設の学説を総括・発展させた。そして「懲前毖後」「治病救人(病を治して人を救う)」が党の整風運動、ならびに批判と自我批判の目的であることを指摘し、これらに対してマルクス・レーニン主義的な科学的解釈を与えた。

社会主義革命と建設の時期において、毛主席は「懲前毖後」「治病救人」、および「団結—批判—団結」のプロセスが、党の整風運動の原則と方法であるのみならず、あらゆる人民内部の矛盾を解決するための原則と方法でもあると改めて提起した。したがって、我々が革命運動の内部において同志間で批判と自我批判を行う際には、毛主席のこの指示に従わなければならない。

对牛弹琴(牛に向かって琴を弾く・馬の耳に念仏)

原文

许多人常常以为自己写的讲的人家都看得很懂,听得很懂,其实完全不是那么一回事,因为他写的和讲的是党八股,人家哪里会懂呢?“对牛弹琴”这句话,含有讥笑对象的意思。如果我们除去这个意思,放进尊重对象的意思去,那就只剩下讥笑弹琴者这个意思了。为什么不看对象乱弹一顿呢?何况这是党八股,简直是老鸦声调,却偏要向人民群众哇哇地叫。射箭要看靶子,弹琴要看听众,写文章做演说倒可以不看读者不看听众吗?

 多くの人はしばしば、自分の書くこと話すことはだれが見てもよくわかりだれが聞いてもよくわかるものとおもいこんでいるが、実はまったくそうではない。その人の書くこと、話すことが党八股なのだから、人にわかるはずがない。「牛を相手に琴をひく」ということばには、相手を嘲笑する意味がふくまれている。もしその意味をとりさって、相手を尊重する意味をもりこめば、琴のひき手を嘲笑する意味しかのこらなくなる。なぜ相手を見ないでやたらに琴をひくのか。まして、これが党八股で、それこそからすの鳴き声なのに、わざわざ人民大衆にむかってがあがあとわめきたてようとする。矢をはなつには的を見さだめ、琴をひくには聴衆を見なければならないのに、文章を書き演説をするときは読者や聴衆を見なくてもよいのだろうか。

《党八股に反対しよう》


 「対牛弾琴(牛に対して琴を弾く/馬耳東風)」という言葉は、『弘明集』に収められた故事に由来する。古代中国に公明儀という名の優れた音楽家がおり、彼は琴を弾くのを得意としていた。ある時、彼が一人で佇んでいると、一頭の牛が頭を低くして草を食んでいた。彼は喜んで「牛のために清角の操(曲)を弾いた」。しかし牛はといえば、琴の音がどれほど優雅であろうとも「伏して食すること故のごとし」で、相変わらず草を食み続けていた。牛は琴の音が聞こえなかったわけではなく、その高尚な曲調を理解できなかったに過ぎないのである。後世の人々はこの話に基づき、道理の分からぬ者に道理を説くことを「対牛弾琴」と皮肉を込めて例えるようになった。

毛主席は『党八股に反対しよう』という文章の中で、「対牛弾琴」に新たな解釈を与えた。対象を見ず、現実から離れ、民衆から遊離して空論を吐く八股文章や、的外れな(的に向かって矢を射ない)傾向を「対牛弾琴」に例えたのである。これにより「党八股」の文章の本質を鮮明に暴き出すとともに、我々に対して「古を今に活かす(古為今用)」の素晴らしい模範を示したのである。



量体裁衣りょうたいさいい

原文

俗话说:“到什么山上唱什么歌。”又说:“看菜吃饭,量体裁衣。”我们无论做什么事都要看情形办理,文章和演说也是这样。我们反对的是空话连篇言之无物的八股调,不是说任何东西都以短为好。

 ことわざにも「あの山に登ればあの歌、この山に登ればこの歌」といい、「おかずにあわせて飯を食い、からだにあわせて服を裁つ」という。なにごとをするにも、その状況におうじて処置する必要があり、文章や演説もそうである。われわれが反対するのは、全編これ空論、いささかも中味なし、という八股調であって、なんでも短いほうがよいというのではない。

《党八股に反対しよう》


 「量体裁衣りょうたいさいい」という言葉は、『南斉書・張融伝』にある故事に由来する。南斉の時代に張融という人物がおり、若い頃から優れた才能を示していた。後に司徒左長史の官職に就き、斉の太祖(蕭道成)から深く重用された。太祖はかつて「この人物は一人として欠けてはならないが、二人といてはならない」と称賛したほどである。ある時、太祖は張融に衣類を贈る際、一通の詔書を添えた。そこには「今、一領の古着を贈る。古着とはいえ新調したものより勝るという思いからである。これは私が着用していたものだが、すでにあなたの身体に合うよう裁断・縫製を命じてある」と記されていた。

後世の人々はこの話に基づき、どのような事を行う場合でも状況を見極め、具体的な実情から出発することを「称体裁衣」または「量体裁衣」と例えるようになった。



再思・行成于思(さいし・行いは思うに成り)

原文

孔夫子提倡“再思”,韩愈也说“行成于思”,那是古代的事情。现在的事情,问题很复杂,有些事情甚至想三四回还不够。鲁迅说“至少看两遍”,至多呢?他没有说,我看重要的文章不妨看它十多遍,认真地加以删改,然后发表。文章是客观事物的反映,而事物是曲折复杂的,必须反复研究,才能反映恰当;在这里粗心大意,就是不懂得做文章的起码知识。

 孔子は「再思」を提唱し、韓愈も「行は思に成る」とのべているが、それは昔のことである。こんにちのことがらはきわめて複雑な問題をふくんでおり、なかには三、四回考えてもまだたりないことさえある。魯迅は「少なくとも二へんは読みかえす」といっているが、では多いときは何べんか。かれはそれにはふれていないが、わたしの考えでは、重要な文章なら十回以上読みかえしてもさしつかえなく、しんけんに添削をくわえたうえで発表したほうがよい。文章は客観的事物の反映であり、事物は曲折した複雑なものであって、それを適切に反映するにはくりかえし研究しなければならない。この点をおろそかにするのでは、文章を書く最低限の知識もわきまえないということになる。

《党八股に反対しよう》


 「再思さいし」という言葉は、『論語・公冶長』に由来する。「季文子きぶんし、. 三たび思いて而る後に行う。 子、これを聞きて曰く、再び思えばれ可なり。」とある。春秋時代、魯国の大夫である季文子は、問題について繰り返し考えることを良しとし、何事においても何度も考慮した上で行動していた。孔子はこれを聞き、二度考えればそれで十分であると述べたのである。

また「行成于思(行いは思うに成り)」は、唐代の大散文家である韓愈の『進学解』に由来する。「業は勤むるにくわしく、たわむるに荒る。行いは思うに成り、ただのむにほろぶ」とあり、学業が上達するのは勤勉さによるものであり、遊興にふければ荒廃する、行動の成功は事前の入念な思考によって決まり、失敗は怠惰によって生じるという意味である。

毛主席は日頃から我々に対し、学習、仕事、あるいは執筆のいずれにおいても、思考を巡らせてよく考えなければならないと指導された。考えを深めれば深めるほど物事は成熟し、過ちも少なくなるからである。



锦上添花きんじょうてんか

原文

现在工农兵面前的问题,是他们正在和敌人作残酷的流血斗争,而他们由于长时期的封建阶级和资产阶级的统治,不识字,无文化,所以他们迫切要求一个普遍的启蒙运动,迫切要求得到他们所急需的和容易接受的文化知识和文艺作品,・・・对于他们,第一步需要还不是“锦上添花”,而是“雪中送炭”。所以在目前条件下,普及工作的任务更为迫切。

いま労働者、農民、兵士の直面している問題は、かれらが敵と苛烈な流血の闘争をおこなっており、しかも、長期にわたる封建階級とブルジョア階級の支配のために、文字も知らず、基礎教育も身につけていないこと、したがって、かれらは自分たちが闘争意欲と勝利の確信をたかめ、団結をつよめ、心を一つにして敵とたたかえるよう、普遍的な啓蒙運動を切実にもとめており、さしせまって必要な、うけいれやすい基礎知識と文学・芸術作品を切実にもとめているということである。かれらにとってまっさきに必要なくとは、まだ「錦上に花をそえる」ことではなく、「雪中に炭をおくる」ことである。だから、現在の条件のもとでは、普及活動の任務がいっそうさしせまっている。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


 「錦上添花きんじょうてんか」という言葉は、宋代の王安石による『即事』詩の一節「麗唱)はなお錦上に花を添う」に見られる。また『水滸伝・第十九回』には、「林冲曰く『今日山寨、天の幸いにして多くの豪傑のここに到りて相扶け相助くるを得たり、錦上に花を添うるが似とく、早苗の雨を得るが如し』」とある。ここでの「錦上添花」はいずれも美の上にさらに美を加えること、すなわち元々十分に良いものへ、さらに素晴らしいものを重ねることを表している。

毛主席は、文芸工作における普及と向上の関係を説明する際、この成語を引用して普及を主とすべきであると指摘した。中国人民は長年にわたる抑圧の結果として文化基盤が非常に乏しく、それ故に「錦上添花」を論じる段階にはなかったからである。毛主席がこの成語を引用した意図は、当時の文芸工作者にとっての主な任務が普及、すなわち「雪中送炭(雪中に炭を送る/困窮している者を支援する)」であり、「錦上添花」ではないことを示す点にあった。



空中楼阁くうちゅうろうかく

原文

一切这些同志都应该和在群众中做文艺普及工作的同志们发生密切的联系,一方面帮助他们,指导他们,一方面又向他们学习,从他们吸收由群众中来的养料,把自己充实起来,丰富起来,使自己的专门不致成为脱离群众、脱离实际、毫无内容、毫无生气的空中楼阁。

 これらすべての同志は、大衆のなかで文学・芸術の普及活動をおこなっている同志たちと緊密に結びつき、一方ではかれらをたすけ、かれらをみちびくとともに、他方ではかれらに学び、かれらをつうじて、大衆からの養分を吸収し、自己を充実させ、豊富にし、自己の専門が、大衆からも実際からも遊離した、すこしも内容や生気のない空中楼閣にならないようにすべきである。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


 「空中楼閣くうちゅうろうかく」という言葉は、『百喩経・三重楼喩』にある故事に由来する。昔、ある富豪が華やかで壮観な三階建ての楼閣を建てたいと考え、左官(大工)を呼んで施工させた。その左官は基礎を固めることから始め、泥をこね、レンガを積み上げて、下から上へと第一階部分から順に建築を進めた。富豪はそれを見て煩わしく思い、腹を立てて左官を呼び出し、「お前はどんな家を建てているのだ?」と問いただした。左官が「三階建ての楼閣を建てております」と答えると、富豪は愚かにも「私はいちいち第一階や第二階など要らない。今すぐ第三階だけを建ててくれ!」と言い放った。この時、左官はようやく、富豪が望んでいたのは一番上の第三階部分だけなのだと悟った。しかし、土台となる第一階や第二階がなければ、どうして第三階を建てることができようか。

後世の人々は、このように基礎から切り離された建築や、現実にそぐわない主観的な空想を指して「空中楼閣」と呼ぶようになった。



自知之明(人は己を知る)

原文

  某种作品,只为少数人所偏爱,而为多数人所不需要,甚至对多数人有害,硬要拿来上市,拿来向群众宣传,以求其个人的或狭隘集团的功利,还要责备群众的功利主义,这就不但侮辱群众,也太无自知之明了。

 ある種の作品が、少数の人から偏愛されるだけで多数の人からは必要とされず、また多数の人に有害でさえあるのに、個人やせまい集団の功利をはかろうとして、これを無理に市場にもちこみ、大衆に宣伝し、そのうえ大衆を功利主義だと非難するなら、それは大衆を侮辱するばかりでなく、あまりにも身のほど知らずである。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


 「自知之明(自己を客観的に認識する賢明さ)」は、『老子・三十三章』の「人を知るものは智にして、自らを知るものは明なり。人に勝つ者は力ありて、自らに勝つ者は强なり。」という名言に由来する。これは「他人を理解できる者は智慧があるが、自分自身を理解できる者こそ真の聡明である。他人を打ち負かす者は力があるが、自らの欠点を克服できる者こそ真の強者である」という意味である。「自知之明」は、この「自知者明」から派生してできた成語である。老子の思想には一定の弁証法的な側面が含まれており、自己を認識することや相手を理解することに関するこれらの言葉にも、それが十分に表れている。

「自知之明」に関して、『戦国策・斉策』には鄒忌(斉人)という自知之明を備えた人物についての記録がある。鄒忌はもともと体格が良く容姿端麗な人物であった。ある朝、彼は着物を整えて鏡に向かい、妻に「私は城北の徐公と比べてどちらが美しいか?」と尋ねた。妻は「あなた様は大変美しく、徐公などがどうしてあなた様に及びましょうか」と答えた。しかし実際には、徐公は斉国でも評判の美男子であったため、鄒忌自身も自分が彼より勝っているとは信じられず、翌日、今度は妾に「私と徐公とではどちらが美しいか?」と尋ねた。妾も「徐公がどうしてあなた様の美しさに及びましょうか」と答えた。さらにその翌日、客人が訪れたため、再び「私と徐公とではどちらが美しいか?」と尋ねると、客人もやはり「徐公はあなた様には及びません」と答えた。

さらに一日が過ぎ、徐公本人が訪ねてきた。鄒忌は徐公をじっくりと観察し、その後自身も鏡の中で詳細に自分を見比べた結果、やはり徐公の方が自分よりはるかに美しいと確信した。この出来事について鄒忌は繰り返し考えた。「もとより私は徐公ほど美しくないのに、なぜ彼らは口を揃えて私が美しいと言うのだろうか。妻が私を美しいと言ったのは、私を偏愛しているからだ。妾が私を美しいと言ったのは、私を恐れているからだ。そして客人が私を美しいと言ったのは、私に頼み事があるからなのだ」と。この故事に基づき、鄒忌は歴史上「自知之明」を持った人物として語り継がれることとなった。



“阳春白雪”和“下里巴人”(ようしゅんはくせつとかりばじん・高尚な音楽と卑俗な音楽)

原文

就算你的是“阳春白雪”吧,这暂时既然是少数人享用的东西,群众还是在那里唱“下里巴人”,那末,你不去提高它,只顾骂人,那就怎样骂也是空的。现在是“阳春白雪”和“下里巴人”统一的问题,是提高和普及统一的问题。

かりに諸君のものが「陽春白雪」であるとしよう、いまのところそれが少数の人から楽しまれるだけで、大衆はあいかわらず「下里巴人」をうたっているのに、諸君がこれを向上させずに文句ばかりつけているとしたら、どんなに文句をつけたところでむだである。現在の問題は、「陽春白雪」と「下里巴人」を統一することであり、向上と普及を統一することである。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


 「陽春白雪ようしゅんはくせつ」および「下里巴人かりばじん」という言葉は、『文選』に収められた宋玉の『対楚王問』に由来する。戦国時代、楚の襄王は讒言を信じ込み、ある日宋玉(楚の大夫であり、屈原の弟子)を責めて「先生には宜しくない行いがあるのではないか。なぜ皆は先生に対して不満を抱いているのか?」と詰問した。宋玉は次のように答えた。「そのようなこともございます。・・・かつて都のえいで歌をうたう者がおりました。彼が最初に『下里巴人』を歌うと、国中で唱和する者は数千人に上りました。・・・しかし彼が『陽春白雪』を歌うと、唱和する者はわずか数十人に過ぎませんでした。・・・これは曲が高尚になればなるほど、和す(ついて歌える)者が少なくなったということです。・・・市井の平凡な民に、どうして私の行いが理解できましょうか」と。これは、かつて楚の都で歌を歌った者がおり、始めに通俗的な「下里巴人」を歌うと唱和できる者が数千人いたが、後に高尚な「陽春白雪」を歌うと唱和できる者はわずか数十人に減ってしまったという話である。曲が高深であればあるほど歌える者が少なくなるため、平凡な人々には自分の高潔な行いが理解できるはずがないという主張である。上記の「陽春白雪」と「下里巴人」はいずれも我が国の戦国時代における歌曲である。「陽春白雪」はより格調高く高尚な音楽に属し、「下里巴人」はより通俗的で親しみやすい音楽に属する。

毛主席は、文芸の普及と向上の関係について論じた際、「陽春白雪」を少数の者しか享受できない高尚で奥深い文芸作品に例え、「下里巴人」を大衆に好まれる通俗的な文芸作品に例えた。そして毛主席は我々に対し、普及と向上の問題を統一させなければならないと指導した。「統一がなければ、どのような専門家の最高級の芸術も、もっとも狭隣な功利主義となるほかはない。」からである。


横眉冷对千夫指,俯首甘为孺子牛(眉をよこたえて、ひややかに千天の指にたいし、こうべをたれて、あまんじて孺子の牛とならん)

原文

既然必须和新的群众的时代相结合,就必须彻底解决个人和群众的关系问题。鲁迅的两句诗,“横眉冷对千夫指,俯首甘为孺子牛”,应该成为我们的座右铭。

 新しい大衆の時代と結びつかなければならない以上、個人と大衆との関係の問題を徹底的に解決しなければならない。魯迅の詩のつぎの二句、すなわち、「眉をよこたえて、ひややかに千天の指にたいし、こうべをたれて、あまんじて孺子の牛とならん」をわれわれの座右の銘としなければならない。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


 「横眉冷对千夫指,俯首甘为孺子牛(眉を怒らせて千夫の指さすところを冷視し、首を垂れて甘んじて孺子の牛とならん)」は、魯迅の『自嘲』と題する詩の一文である。

『自嘲』の全文は以下の通りである。

華蓋かがいに交わりて何をか求めん

未だ翻身ほんしんを敢えてせざるに既に頭をぶつ

破帽 顏を遮りて鬧市とうしを過ぎ

漏船 酒を載せて中流にかか

眉を横たえて冷ややかに千夫の指にむか

首をれて甘んじて孺子じゅしの牛と為らん

小楼にかくれ進みて一統を成し

彼の冬夏と春秋とをかかわらんや。

「孺子牛」という句は、もともと『左伝・哀公六年』にある故事に由来する。斉の悼公は自分の子供を大変可愛がっており、ある時自ら牛に扮し、口に縄を咥えて地にはいつくばり、子供を背中に乗せて遊ばせた。その際、子供がうっかり転倒したため、景公は歯を折ってしまった。後に鮑子が「汝、君の、孺子の牛と為りて其の歯を折きしを忘れたるか(あなたは君主が我が子のために牛となり、歯を折られたことをお忘れか)」と語ったという逸話である。

毛主席はここで、我々が全心全意人民に奉仕すべきであり、鮮明で愛憎の分かれた階級的立場を持つべきだと指導された。ここでの「千夫」とは敵を指し、「孺子牛」とは甘んじてプロレタリアートと人民大衆のために牛馬となって働くことを意味している。敵に対しては決していっさい屈服せず、人民大衆に対しては牛のように誠心誠意でなければならないのである。



鞠躬尽瘁,死而后已(鞠躬尽力し、死してのちむ)

原文

一切共产党员,一切革命家,一切革命的文艺工作者,都应该学鲁迅的榜样,做无产阶级和人民大众的“牛”,鞠躬尽瘁,死而后已。

 すべての共産党員、すべての革命家、すべての革命的な文学・芸術活動家は、魯迅を手本にして、プロレタリア階級と人民大衆の「牛」となり、命のあるかぎり献身的につくさなければならない。

《延安の文学・芸術座談会における講話》


「鞠躬尽瘁,死而后已(鞠躬して尽力し、死して後已まん)」という言葉は、諸葛亮の『後出師表』に由来する。三国時代、魏・蜀・呉の三国の天下が三分され、長年にわたり争戦が続いていた。劉備は天下統一を果たすため、多くの名将や賢才を登用した。その中でも最も忠義に厚く、最も才能に恵まれていたのが諸葛亮である。しかし、劉備は自らの志を実現することなく世を去り、その死後は劉禅が位を継いだ。諸葛亮は劉禅を助けて先帝の業を引き継ぎ、魏を打ち破り呉を攻めて天下を統一するため、二度にわたって出師表を上呈した。『後出師表』において諸葛亮は、主に魏の内部が虚に乗じられる今こそ攻撃すべきであるという道理を陳述し、最後に先主・劉備の恩に報いるべく、忠誠を尽くして劉禅を補佐する決意を示した。その結びの一文が「凡事はかくの如く、逆見すべきこと難し。臣、鞠躬して尽力し、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所にあらざるなり。(すべての事はかくのごとく、あらかじめ見通すことは難しい。臣は身をかがめて力の限りを尽くし、死に至るまで止まない所存である。成敗や利鈍に至っては、臣の明の察し得るところではない)」である。

「鞠躬尽瘁,死而后已」という言葉は、ある物事や事業に対して苦労を厭わず、最大限の力を捧げて死ぬまでやり抜く様を形容している。我々すべての革命幹部、革命青年は毛主席の指導に従い、人民や革命事業に対して「鞠躬尽瘁,死而后已」の姿勢で臨まなければならない。



下车伊始(新任の官吏が着任したばかりである)

原文

我仍然坚持没有调查是不可能有发言权的。有许多人,“下车伊始”,就哇喇哇喇地发议论,提意见,这也批评,那也指责,其实这种人十个有十个要失败。因为这种议论或批评,没有经过周密调查,不过是无知妄说。

わたしはあいかわらず、調査がなければ発言権はありえないという考えを堅持するものである。「お着きになるやさっそく」、なんだかんだと論議をし、意見をだし、これも批判しあれも非難するといった人がたくさんいるが、実はこういう人は十人が十人までみな失敗する。なぜなら、こうした論議や批判は綿密な調査をへておらず、無知なでまかせをいっているにすぎないからである。

《『農村調査』のはしがきとあとがき》


 「下車伊始(着任するやいなや・着任早々)」という言葉は、「下車」と「伊始」という2つの語が発展・変化して生まれたものである。「下車」は『礼記・楽記』に見られる。そこには「武王、殷に克商に反び、未だ車を下る に及ばずして、黄帝の後を薊に封じ、帝堯の後を祝に封じ、帝舜の後を陳に封じ、車を下りて夏后氏の後を杞に封ず。」と記されている。これは「武王が殷国を征服して商の地に戻った際、車から降りる間もないほど素早く諸侯を分封した」という意味である。古代中国において、領地や官職を授けられた官吏はみな駅車に乗って着任し、赴任地に到着すると駅車から降りた。    そのため、古代では官吏が出向して着任することを「下車」と呼んだのである。

一方、「伊始」は『詩経』の「今に至るもれ始め、としそれ有らん」に見られる。「伊始」とは「開始はじまり」という意味である。

毛主席がここで用いた「下車伊始」は、新しい場所に到着したばかりで状況を把握していないにもかかわらず、高慢に大風呂敷を広げ、実情にそぐわない空論を吐く様子を指している。


竭泽而渔(池をさらえて魚を取る・権力者が人民に対し徹底した搾取を行なう)

原文

另外的错误观点,就是不顾人民困难,只顾政府和军队的需要,竭泽而渔,诛求无已。这是国民党的思想,我们决不能承袭。

 もう一つのあやまった観点は、人民の困難を考えないで、政府と軍隊の必要だけを考え、まるで池を干して魚でもとるように、際限なく人民から取りたてようとすることである。これは国民党の思想であり、われわれはけっしてそれをうけついではならない。

《抗日時期の経済問題と財政問題》


 「竭澤而漁(池の水を干して魚を捕る/目先の利益にとらわれて将来を考慮しないこと)」という言葉は、『呂氏春秋・義賞』にある故事に由来する。「昔、晋の文公、楚人と城濮に戦わんとす。咎犯(きゅうはん:狐偃のこと)を召して問うて曰く『楚は多く我は少なし、これを奈何いかにすれば可ならん』と。咎犯答えて曰く『臣聞く、繁礼の君は文に不足し、繁戦の君は詐に不足すと。君もまた詐らんのみ』と。文公、咎犯の言を以て雍季に告ぐ。雍季曰く『沢をくして魚をとらば、あに獲得せざらんや、而るに明年魚無からん。くさむらを焚きてかりせば、豈獲得せざらんや、而るに明年獣無からん。詐偽の道は、今立ちまちには可なるを許すとも、後には将復また無からん。非常に術ならざるなり』と」春秋時代、楚が強く晋が弱かった頃、僖公二十七年(紀元前633年)に楚と晋による城濮の戦いが起こった。晋の文公は狐偃こえんに「楚は強く我が方は弱い。いかにして戦うべきか」と問うた。狐偃は「礼節を重んじる君主には信義が不足しがちですが、戦いを繰り返す君主は詐術を厭いません。欺瞞の策をお使いなさい」と答えた。その後、文公は雍季にも相談した。雍季は文公に「池の水を干して魚をとれば、捕れないはずがありましょうか。しかし翌年には魚がいなくなります。山林を焼き払って狩りをすれば、獲物が捕れないはずがありましょうか。しかし翌年には野獣がいなくなります。このように欺瞞の策は一時的には使えても、将来的には二度と通用せず、永続的な策略とは言えません」と告げた。

文公は最終的に狐偃の詐術を用いて楚を破った。しかし手柄を査定して恩賞を与える際、文公は雍季を最上位に置いた。側近たちがその真意を解かねずにいると、文公は「雍季の言葉は百世の利益であり、狐偃の言葉は一時の便宜に過ぎない。一時の便宜を百世の利益より優先させることなどできようか」と語った。「竭澤而漁」とは「池の水を干して魚をとる」という意味であり、後世の人々は、後先を考えず目先のわずかな利益ばかりを追求して将来のことを考慮しない様を例える言葉として用いるようになった。

毛主席は1942年、陝甘寧辺区が経済的困難に直面した際、「生産を発展させて供給を保障する」という正しい方法で困難を解決することを提起した。そして、政府や軍の必要ばかりを優先して人民の困窮を顧みない誤った思想を批判された。毛主席はここで我々に対し、「竭澤而漁、誅求無已(池を干して魚を捕り、際限なく取り立てる)」ような手法を用いてはならないと論じ、党の方針や政策の基礎が人民大衆の根本的利益にあることを示されたのである。



黔户之技けんろのぎ

原文

  何以对付敌人的庞大机构呢?那就有孙行者对付铁扇公主为例。・・・柳宗元曾经描写过的“黔驴之技”,也是一个很好的教训。

 敵の膨大な機構にどのようにして対処するのかというなら、それには孫悟空が鉄扇姫にたちむかった例がある。・・・柳宗元が書いている「貴州の驢馬の技」もひじょうによい教訓である。

《きわめて重要な政策》


黔驢之技けんろのぎ」は、唐代の傑出した文学者である柳宗元が書いた寓言集『三戒』に由来する。いわゆる「三戒」とは戒めるべき三つの事柄という意味であり、『黔之驢』はその中のひとつの寓言である。「黔」とは黔州のことで、現在の貴州一帯を指す。「黔驢之技」の寓言は次のようなものだ。黔州にはもともとロバがいなかったため、おせっかいな男が船で一頭のロバを運んできた。しかし、当面は使い道がなかったため、山の麓に繋いでおいた。間もなく、そこに住む虎がこれを発見した。ロバの体が大きかったため、虎はとても不思議に思い、いつも森の中に隠れて様子を伺っていた。時には少し近付きつつも、それが一体何者なのか分からず、恭しい態度をとっていた。ある日、虎がいつものように観察していると、ロバが突然大きな声で鳴いた。虎は噛みつかれるのではないかと恐れをなし、遠くへ逃げ去った。しかし長い時間をかけて観察するうちに、虎はロバに特別な能力がないことを見抜き、その鳴き声にも次第に慣れていった。そこで虎は一層大胆になり、ロバの身近に寄っては小突いたり体をぶつけたりして挑発した。この挑発に激怒したロバは、蹄で虎を蹴り飛ばした。これを見た虎はロバの限界を悟り、「技止此耳(技はこれに止まるのみ=この巨大なロバの能力もたかが知れている)」と大喜びした。虎は大声で吼えると踊りかかってロバに飛びつき、まずその喉笛を噛み切り、最後にはすべて喰らい尽くしてしまった。

毛主席はかつて次のように語っている。 「われわれ八路軍、新四軍は孫悟空であり、小さい虎であって、日本という妖怪や日本という驢馬にたちむかう方法はいくらでもある。いまこそ、われわれは姿を変えて、自分のからだをもっと小さく、だが、もっとがっしりしたものにしなければならない。 そうすれば、われわれは無敵となる。」(『毛沢東選集』第3巻)。ここで毛主席は、ロバを一見強そうに見えながらも最終的には敗北する敵になぞらえ、小虎を必ず勝利を収める新しい革命勢力になぞらえているのである。



再衰三竭(力が尽き士気が衰える)

原文

目前红军在斯大林格勒和高加索两方面,实际上均已停止了德军的进攻,希特勒已到再衰三竭之时,他对斯大林格勒、高加索两处的进攻已经失败。

 いまでは、赤軍はスターリングラードとカフカズとの両方面で、実際上すでにドイツ軍の進攻をくいとめている。ヒトラーはもはや精根つきはて、スターリングラードとカフカズの両地点への進攻はすでに失敗した。

《第二次世界大戦の転換点》


  「再衰三竭」は、『左伝』庄公十年に見られる言葉である。春秋時代の紀元前684年、斉国は魯国と結んだ同盟を破り、大軍を率いて弱小な魯国へ侵攻して「斉魯長勺ちょうしゃくの戦い」が勃発した。魯の庄公は最初、斉軍が疲弊するのを待たずに応戦しようとしたが、曹刿に引き止められ、「敵の疲弊に乗じて打撃を与える」という方針を採ることで斉軍を破った。戦争が始まった当初、庄公はまさに太鼓を鳴らして敵へ進撃を命じようとしたが、曹刿は「まだいけません」と止めた。続いて斉軍が連続して三度太鼓を鳴らした時、曹刿は初めて「今こそ太鼓を鳴らすべきです」と言った。魯軍は太鼓の音を聞くや勇猛に敵へ躍りかかり、斉軍を打ち破ってその侵略を退けた。庄公は勝利を収めたものの、なぜ敵が三度太鼓を鳴らしてから攻撃に移ったのかを曹刿に尋ねた。曹刿はこう答えた。「夫れ戰いは、勇気なり。一たび鼓して気を作し、再びして衰え、三たびして竭く。彼は竭きて我は盈つ。故に之に克つ。」。つまり、戦いは士気の高さが頼りであり、最初に太鼓が鳴った時は敵も気勢を上げているが、二度目には士気が衰え、三度目には使い果たされてしまう。敵の力が尽き、こちらが充分な戦闘力を保っているからこそ勝てるのだ、という意味である。

「再衰三竭」とは「再びして衰え、三たびして竭く」の縮小形であり、ある物事や力量が衰退し、破滅に近づいている様子を形容する成語である。毛主席はここでこの成語を用いて、ヒトラー・ファシストの質を鋭く暴露した。侵略開始当初のあの「凶気」はすでに消え去り、今や敗北と死へと近づいているのだと見抜いていたのである。



肆无忌惮なんらはばかるところがない

原文

许多国民党人肆无忌惮地天天宣传共产党“破坏抗战”、“破坏团结”,难道尽撤河防主力,倒叫做增强抗战吗?难道进攻边区,倒叫做增强团结吗?

 国民党の多くの人びとは、毎日、共産党は「抗戦を破壊している」「団結を破壊している」と、なにはばかることなく宣伝している。では、黄河防備の主力をみな撤退させるのが抗戦の強化だとでもいえるのだろうか。辺区に進攻するのが団結の強化だとでもいえるのだろうか。

《国民党にただす》


 「肆無忌憚しむきたん」という言葉は、『礼記・中庸』に由来する。中庸の道とは反動的な封建道徳であり、いわゆる「中庸」とは偏りがないことを意味する。「君子の中庸や、君子にして時に中す。小人の中庸や、小人にして忌憚無きなり。」とは、君子が中庸であるのは時と場合に応じて常に中正を保つからであり、小人が中庸に反するのは欲望のままに行動して何のはばかりもないからだ、という意味である。「肆無忌憚」という言葉はここから派生したもので、少しも遠慮せず、非常に奔放で勝手気ままに振る舞うことを表す。

毛主席はここで「肆無忌憚」という言葉を用い、国民党反動派が抗戦や団結を破壊し、反共・投敵へと走った卑劣な悪事を鋭く、かつ形象的に暴いたのである。



鹬蚌相持,渔人得利(シギとハマグリが争って、漁夫に利を占められる)

原文

你们不应该打边区,你们不可以打边区。“鹬蚌相持,渔人得利”,“螳螂捕蝉,黄雀在后”,这两个故事,是有道理的。

 諸君は辺区を攻撃すべきではないし、また攻撃してはならない。「シギとハマグリが争えば、漁夫の利となる」「カマキリはセミをとろうとするが、うしろにはスズメがいる」という二つの寓話には、道理がある。

《国民党にただす》


 「鷸蚌相持、漁人得利(シギとハマグリが争って、漁夫に利を占められる)」は、『戦国策・燕策』が出典である。戦国時代、趙が燕を討伐しようとした際、それを知った蘇代は攻勢を阻止するため、趙の恵文王に一つの物語を語った。「本日、ここへ来る途中に易水を通りかかったところ、水から上がってきた一匹のドブガイ(蚌)が殻を開いて日光浴をしておりました。そこへ突然一羽のシギ(鷸)が飛んで来て、ガイの肉を突きました。そこでガイは慌てて殻を閉じ、シギのくちばしを挟み込んだのです。シギがと「今日雨らず、明日雨らずんば、蚌、将に脯と為らんとす。』言えば、ガイも負けじと『今日出ださず、明日出 ださずんば、即ち死鷸有らん。』と言い返しました。両者がいつまでも譲らずに争っていると、通りかかった一人の漁師が、苦もなく二匹まとめて連れ去ってしまいました」。蘇代は、もし趙が燕を撃てば両者は互いに疲弊し、恐らくその時は「強大な秦が漁夫となるでしょう」と主張した。恵文王はこの話を聞いて理があると認め、燕への侵攻を取りやめた。後世の人々はこの典故に基づき、両者が争う間に第三者が利益をかすめ取る様子を「鷸蚌相争、漁人得利」という成語で表現するようになった。

毛主席は『国民党にただす』という文章の中でこの成語を引用し、抗戦の重大な局面に際して国民党反動派が反共の波を起こして辺区を攻撃した結果は、ただ中華民族の利益を損ない、帝国主義に漁夫の利を与えて民族の災難を深めるだけだと暴いた。また毛主席は『ソ連の利益と人類の利益の一致』という文章の中でも、米・英・仏などの帝国主義者が独ソ戦を挑発して利益を得ようと企てた画策を暴露する際にこの成語を用い、次のように述べている。「これらの陰謀家は、スペイン問題でも、・・・侵略を阻止する意思がすこしもなかったばかりか、逆に、侵略を容認し、戦争を挑発し、他人をシギとハマグリにして、自分は漁夫になろうとしたのであり、それをいかにも聞こえよく「不干渉」といっているのであるが、実際には「山上に坐して相うつ虎の倒るるを待つ」ものであった。」(『毛沢東選集』第2巻)。



螳螂捕蝉,黄雀在后(カマキリがヒワにねらわれているのも知らずに,セミを捕らえようとしている)

原文は同上なので省略


 「螳螂捕蝉、黄雀在后(カマキリがセミを捕らえようと狙う時、スズメがその背後に控えている)」の典故は、『説苑・正諫』が出典である。春秋時代(紀元前594年頃)、呉王が楚国への侵攻を計画した。呉王は側近たちに向かって「諫言する者は死罪に処す」と告げた。この時、王の近侍である一人の若者が呉王を諌めたいと考えたが、咎められるのを恐れていた。そこで彼は懐にパチンコ(弾弓)と玉を忍ばせ、三朝続けて後園を逍遥し、朝露で着物をびしょ濡れにした。これを見た呉王は不思議に思い、彼を呼び寄せて「なぜ自ら苦労を買って出て、そのように着物を濡らしているのか」と尋ねた。若者はこう答えた。「園の中に木があり、木の上には露を吸って鳴く一匹のセミがおりますが、己の背後でカマキリが狙っていることに気づいておりません。またカマキリも己の傍らでスズメが狙っていることに気づいておらず、さらにスズメもまた、地面にいる私が懐に弾丸を忍ばせて待っていることに気づいておらぬのです。この三者はみな眼前の利益を得ようとするばかりで、後ろに潜む災いに目を向けておりません」。呉王はこれを聞いて「よし」と言い、楚への討伐を中止した。後世の人々はこの物語から「螳螂捕蝉、黄雀在后」と呼ぶようになり、眼前の利益ばかりに目がくらみ、後方の禍に気づかない愚かな者を風刺する際によく用いるようになった。

毛主席は『国民党にただす』という文章の中でこの典故を用い、国民党反動派による卑劣な反共・投降の本質を暴露した。利益に目がくらんで解放区を攻撃し、日本帝国主義に投降する国民党反動派に対し、そのような行動がどれほど深刻な後患をもたらすかを自覚していないのだと警告したのである。


物以类聚(物は類をもって集まる・類は友を呼ぶ)

原文

这也是国民党人说的话儿呢!我们常常觉得,这一类(物以类聚)国民党人的嘴里,是什么东西也放得出来的,果不其然,于今又放出了一通好家伙!

 これも国民党の人びとの言いぐさなのである。われわれは日ごろから、こうしたたぐい(物は類をもって集まる)の国民党の人びとの口からはどんなことばでもとびだしてくるものだとおもっていた。はたせるかな、今度もまたとんでもないしろものがとびだしてきた。

《国民党にただす》


 「物以類聚(物は類をもって集まる)」という言葉は、『周易・系辞上』の「方は類をもって集まり、物は群をもって分かる」に由来する。後世の人々はこれを発展させて「物以類聚、人以群分(物は類をもって集まり、人は群をもって分かれる)」という成語とし、同類のものが集まり、志を同じくする者が一堂に会することを意味するようになった。「物以類聚」に関しては、『戦国策・斉策』に次のような物語がある。戦国時代、斉の宣王は賢人を好んで招いていた。「淳于惈、一日にして、七人を宣王に見えしむ。王曰く、「子來れ、寡人之を聞く、 千里にして一士あるも、是れ肩をならべるべて立ち、百世にして一聖あ るも、踵に隨いて至るが若きなり、と。今、子、一朝にして七士を見えしむ。 則ち士亦た衆からずや。」淳于惈曰く、「然らず。夫れ鳥は翼を同じうする者に して聚り居る、獸は足を同じうする者にして俱に行く。今、柴葫(サイ・コ、野生の芹)・桔梗を沮澤(湿地)に求めむれば、則ち累世にして一をも得ざれども、睪黍コウ・ショ・梁父のきたに之くに及べば、則ち車をあおぐぎて載するのみ。夫れ物は各々たぐい有り。今、惈は賢者の疇なり。 王、士を惈に求むるは、譬えば水を河にくむみ、火を燧(スイ、たいま つ)に取るが若きなり。惈、將に復た之を見えしめんとす。豈に特だ七士のみならんや。」(ある時、斉の大夫であり有名な弁士でもある淳于髡じゅんうくんが、一日のうちに七人もの賢士を宣王に推薦した。宣王は大変不思議に思い、彼にこう尋ねた。『千里四方に一人の賢士がいれば、彼らは肩を並べて立っているほど多く、百代に一人の聖人が出れば、足跡を接してやって来るほど絶え間ない』と聞く。今、お前が一朝にして七人もの賢士を連れてきたが、賢士とはそれほど多いものなのか」。淳于髡はこう答えた。「そうではありません。同じ羽を持つ鳥は集まって暮らし、同じ足を持つ獣は揃って歩みます。今、柴胡さいこ桔梗ききょうといった薬草を湿地で探そうとすれば、何年かかっても一株すら得られません。しかし澤黍たくしょ梁文りょうぶんという山の陰へ探しに行けば、車に積みきれぬほど採ることができます。あらゆる物事にはそれぞれのたぐいがあるのです。私は賢者の類でございますから、王が私に賢士を求められるのは、川で水を汲み、火石から火をとるのと同じくらい容易なことに過ぎません。私はこれからさらに推薦しようとしているところであり、どうして七人にとどまりましょうか」。)」

毛主席は『国民党にただす』という文章の中で、国民党による団結の破壊と抗戦の妨害という卑劣な行為を厳しく指弾し、彼らが起こした反共運動の根本的な本質は抗戦への反対であり、「中華民族に反対し、中国人民に反対するものだ」と指摘した。毛主席はこの文章において、「物以類聚」という言葉を、抗戦や団結を専ら妨害し、共産党人に反対する同じ穴のむじなである国民党の要人たちを指すものとして用いたのである。



食言而肥(自分の一方的な都合でしばしば約束をほごにする)

原文

陕甘宁边区是一九三七年六、七月间共产党代表周恩来同志和蒋介石先生在庐山会见时,经蒋先生允许发布命令、委任官吏、作为国民政府行政院直辖行政区域的。蒋先生不但食言而肥,而且派遣四五十万军队包围边区,实行军事封锁和经济封锁,必欲置边区人民和八路军后方留守机关于死地而后快。

 陝西・甘粛・寧夏辺区については、一九三七年の六、七月、共産党代表周恩来同志が蒋介石氏と廬山で会見したとき、蒋氏は、これを国民政府行政院の直轄行政区域とする命令をだし、そこの官吏を任命するということを承諾したが、蒋氏は、前言をひるがえして恥じないばかりでなく、四、五十万の軍隊を派遣して辺区を包囲し、軍事封鎖と経済封鎖をおこない、是が非でも辺区人民と八路軍の後方留守機関を死地に追いやらなければ気がすまないのである。

《国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す》


 「食言而肥(言葉を食うて肥える)」という言葉は、『左伝』哀公二十五年の一節、「公、呉梧に宴す。武伯、祝 を為す。郭重を惡みて曰く、「何ぞ肥えたる(郭重に対して皮肉を言っている)。」 ・・・公 曰く、「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや。」酒を飲めども樂 しまず。」に由来する。春秋時代の紀元前470年、魯の哀公が五梧という場所で宴を開いた。その宴席で、魯の太夫である孟武伯が哀公に祝杯を挙げた際、哀公の寵臣であった郭重を嫌って「お前はなぜそんなに太っているのだ」と言った。これに対して哀公は、孟武伯を皮肉って「言葉をたくさん食べているのだから、太らないわけがあろうか」と返したのである。結果としてこの宴会は皆が気まずくなり、お開きとなってしまった。これ以降、「食言而肥」は人々によく使われる成語となった。「食言而肥」とは、自分の私利私欲のために過去の発言を否定すること、つまり「前言を撤回して約束を守らないこと」を意味する。

毛主席はここで「食言而肥」という言葉を用い、蒋介石が反動グループの利益のために自らの発言を否定した事実を鮮やかに暴露した。蒋介石は辺区(革命根拠地)の合法的な地位を偽って認める一方で、同時に辺区を封鎖・攻撃し、不抵抗主義を貫いて日本帝国主義に降伏するという卑劣な目的を達しようとしたのである。



连篇累牍(おびただしい紙幅を使って長々と述べ立てる)

原文

日本帝国主义不敢向共产党说出半句诱降的话,对于国民党则敢于连篇累牍,呶呶不休,劝其降顺。国民党只在共产党和人民面前还有一股凶气,在日本面前则一点儿也凶不起来了。

 日本帝国主義は共産党にたいしては、一言半句も投降への誘いをかける勇気はないが、国民党にたいしては、あえてながながと書き、くどくどとのべたてて、しきりに帰順をすすめている。国民党は、共産党と人民のまえでは、まだひとかどのすごみをきかせているが、日本のまえでは、みじんもすごむことができなくなった。

《国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す》


 「連篇累牘れんぺんるいとく」という言葉は、『隋書』李顎伝にある「連篇累牘、月露の形を出でず(篇を連ね牘を重ねても、風月や露を詠む過度に華美で内容のない表現の域を出ない)」に由来する。また『宋史』選挙志にも見られる。宋の時代の試験の規定では、賦は360字、論は500字と定められていた。しかし当時は、経義や論策で1題につき3,000言に達するものがあり、賦も1篇で600言に及ぶものがあった。「唯だ多くを貪るを務め、累牘連篇、何ぞ精妙なることあらんや(ただ量を多くすることばかりに執着し、文章を冗長に連ねているが、どこに優れた点があるというのか)」とあるように、彼らは量を多くすることだけに心血を注ぎ、退屈な長文を書くだけで、内容の真髄を捉えられていなかったのである。現在では、文章がダラダラと長く、内容が空疎で退屈であることを表す表現として「連篇累牘」がよく用いられている。



无敌于天下(天下無敵・天下に敵なし)

原文

只要我们全体英勇善战的八路军新四军,人人个个不但会打仗,会作群众工作,又会生产,我们就不怕任何困难,就会是孟夫子说过的:“无敌于天下。”

勇敢でよく戦うわが八路軍、新四軍の全部隊の一人ひとりが、戦争をすることもでき、大衆活動をすることもできるばかりでなく、さらに生産もできるようになりさえすれば、われわれはどんな困難をもおそれることはなくなり、孟子がいったように「天下無敵」となるであろう。

《組織せよ》


「無敵於天下(天下に敵なし)」という言葉は、『孟子』公孫丑上に由来する。孟子は戦国時代の偉大な思想家であり、社会観においては王道政治を主張した。彼は「士」に対して「賢者を尊び能者を遣う」、「商」に対して「てんして徴せず、法として廛せず(店舗スペースを提供しても課税せず、滞貨があれば買い取る)」、「旅」に対して「関して徴せず(通行検査のみで関税をとらない)」、「農」に対して「助して税せず(公田の共同耕作のみを求め、個別に別税をとらない)」、「民」に対して「夫里の布なし(人頭税や宅地税をとらない)」とすることを求めた。「信に能く此五者を行はば、則ち鄰國の民は之を仰ぐこと父母の若けん。・・・此の如くんば、則ち天下に敵なし。天下に敵なき者は天吏なり。然して王たらざる者は未だ之れ有らざるなり。」この一節は、孟子が上述の5点を実践しさえすれば天下無敵となると主張したものである。「無敵於天下」とは、まさに「天下に敵がいない」という意味である。

毛主席は、陝甘寧辺区の労働英雄大会での演説『組織せよ』の中で孟子の「無敵於天下」という言葉を引用した。これは同志たちを鼓舞し、生産に励み、積極的に民衆を組織して経済的困難を克服させ、前進の道にあるすべての障害を乗り越えて、抗日戦争と人民大革命の偉大な勝利を迎えるためのものであった。


丰衣足食ほういそくしょく

原文

我们用自己动手的方法,达到了丰衣足食的目的。每个战士,一年中只需花三个月工夫从事生产,其余九个月时间都可以从事训练和作战。

 われわれは、自分で労働するという方法で、衣食の充足という目的をたっしたのである。一人ひとりの兵士は、一年のうち三ヵ月間生産に従事すればよく、あとの九ヵ月の時間は訓練と戦闘に従事することができる。

《組織せよ》


 「丰衣足食ほういそくしょく」という言葉は『塩鉄論』に由来する。この書物は主に、西漢時代に昭帝が賢良や文学士60余人と御史大夫の桑弘羊およびその部下を招集し、塩・鉄の官営や酒類の専売といった経済政策について討論させた経緯を記載したものである。その中には「税を減らせば民は富み足る。暖かくして食べ、満ちて着る。古いものを蓄え新しいものを出す」という主張が見られる。これは、民衆を労働生産に参加させ、国家が減税を行えば、人民は食べ物に困らず暖かい服を着られるようになり、生活が改善するという考えに基づく。

その後、『携言』の中にも「堂頭官人、豊衣足食、所注無不克(堂頭の官人は衣食に不自由なく、関与することですべて成功する)」と見られる。「丰衣足食」という言葉はこれらに由来しており、食べるものが非常に豊かで、着るものも十分に満ちていることを意味し、社会の様子や人民の生活が極めて良好であることを表している。



心之官则思(心の官はすなわち思う)

原文

所谓开动机器,就是说,要善于使用思想器官。・・・脑筋这个机器的作用,是专门思想的。孟子说:“心之官则思。”他对脑筋的作用下了正确的定义。

 機械をうごかすというのは、思考の器官をじょうずにつかうことである。・・・頭という機械の作用は、もっぱら思考することにある。孟子は「心の官はすなわち思なり」といったが、かれは頭の作用について正しい定義をくだしたのである。

《学習と時局》


 「心之官則思(心の官は則ち思う)」という言葉は『孟子』告子上の一節に由来する。「心の官は則ち思ふ。思へば則ち之を得、思はざれば則ち得ざるなり。天の我に與ふる所の者を比す。」とあり、その意味は、脳の機能とは思考することであり、思考すれば物事を得られ、思考しなければ得られない、これはまさに天が我々人類に与えた機能である、ということを示している。

毛主席がこの言葉を引用した意図は、「何事も脳を使ってしっかり考えるべきである」と我々に教え導く点にある。仕事や学習において、問題を巧みに分析して熟考することを学び、分析する良い習慣を養い、盲目性を排除することを求めているのである。



人固有一死,或重于泰山,或轻于鸿毛(人固もとより一死有り、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し。)

原文

人总是要死的,但死的意义有不同。中国古时候有个文学家叫做司马迁的说过:“人固有一死,或重于泰山,或轻于鸿毛。”为人民利益而死,就比泰山还重;替法西斯卖力,替剥削人民和压迫人民的人去死,就比鸿毛还轻。

 人はいずれ死ぬものだが、死の意義にはちがいがある。むかし、中国に司馬遷という文学者がいて、「人はもとより一死あれども、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」といった。人民の利益のために死ぬのは、泰山よりも重い。ファシストのために力をつくし、人民を搾取し人民を抑圧するもののために死ぬのは、鴻毛よりも軽い。

《人民に奉仕する》


 「人固有一死,或重于泰山,或軽于鸿毛(人は固より一死有り、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し)」という言葉は、司馬遷の『報任少卿書』に由来する。西漢時代、李陵が匈奴に敗降した際、中国の傑出した史家である司馬遷が彼をかばい弁護したことで漢武帝の怒りに触れ、捕らわれて下獄した。そして最も残酷な宮刑に処されたのである。ただ、彼の巨著『史記』がまだ完成していなかったため、執筆を全うするという強い意志が彼を支え、50歳で出獄するまで耐え抜いた。出獄後も発憤して『史記』の執筆を続け、概ね脱稿した頃(紀元前93年)、友人の任安へ自伝的な長文の手紙を送った。その手紙の中で自身の経験した境遇と思想の軌跡を振り返り、「人固有一死、或重于泰山、或軽于鸿毛、用之所趣異也(人は固より一死有り、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し。用いられる向きを異にするなり)」と述べたのである。これは、人は誰しも必ず一度は死ぬものだが、死の目的が異なるため、ある者の死は非常に意義深く(泰山よりも重く)、ある者の死は全く価値がない(鴻毛よりも軽い)という意味である。

毛主席がこの言葉を引用した意義は、すべての革命家が革命のため、そして共産主義事業のために犠牲となり奮闘する精神を確固として確立すべきだと教え導く点にある。共産主義の戦士たる者は「生は偉大であり、死は光栄である」べきなのである。



欲速则不达(速やかならんと欲すればすなはち達せず)

原文

凡是需要群众参加的工作,如果没有群众的自觉和自愿,就会流于徒有形式而失败。“欲速则不达”,这不是说不要速,而是说不要犯盲动主义,盲动主义是必然要失败的。在一切工作中都是如此;・・・。

 すべて大衆の参加を必要とする活動は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するだろう。「速やかならんことを欲すれば則ち達せず」というのは、速やかなることを必要としないという意味ではなく、盲動主義になってはならず、盲動主義はかならず失敗するという意味である。あらゆる活動においてすべてそうであり、・・・・

《文化活動における統一戦線》


  「欲速則不達(速やかならんと欲せば則ち達せず)」という言葉は『論語』子路篇に由来する。かつて孔子の弟子である子夏が魯国の莒父きょほという地で官吏となった際、孔子の元を訪れて政治の要諦を尋ねた。これに対し孔子は、「速やかならんと欲することかれ。小利を見ること母かれ。速やかならんと欲すればすなはち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。」と諭したのである。これは子夏に対し、どのような事柄であれ焦って速さを求めてはならず、目の前の小さな利益にとらわれてはならないと教えたものである。条件を考慮せずただ速さばかりを求めれば目的を果たすことはできず、目先の小利にばかり目を奪われて長期的利益が見えなくなれば、かえって大事を成し遂げられないということである。「欲速則不達」に関しては『韓非子』にも一つの逸話が残されている。戦国時代、斉の景公が渤海の海辺を遊覧していた際、突然使者が現れ「丞相の晏嬰が重病に陥り、危機に瀕しております」と報告した。これを聞いた景公は非常にもどかしく思い、御者に長けた田驟と韓枢にすぐさま馬車を駆らせて見舞いに行かせた。しかし車が数百歩ほど進んだところで、景公は彼らの御すが遅いと感じ、自ら鞭を手にして車を駆った。しばらく進んでもなお馬の足が遅く感じられた景公は、挙句の果てに車から飛び降り、車を捨てて自らの足で走り出した。彼が車を下りたことで目的地への到着はさらに遅れることとなった。景公は本来、車をより速く進めたいと望んでいたのだが、ただ主観的な思い込みのみに基づいて行動した結果、かえって遅くなってしまうという「欲速則不達」の滑稽な事態を引き起こしたのである。

我々はこの「欲速則不達」という言葉を機械的に理解してはならない。客観的条件ばかりを機械的に強調して速度を考慮しなかったり、反対に客観的条件を無視して単に速度のみを追求したりしてはならないのである。すべては実際の状況から出発すべきなのである。

毛主席が孔子のこの言葉を引用した意図は、どのような仕事を行うにしても客観的条件から出発し、民衆の覚悟の程度や実際の可能性を考慮すべきだと我々に教え導く点にある。こうした状況を考慮せず、ただ主観的な願望に頼って成果を急ぎ、単に速度のみを追求するならば、目的を達成することは困難であり、仕事は容易に失敗してしまうのである。



民生凋敝(人民の生活が困窮する)

原文

国民党内的主要统治集团,坚持独裁统治,实行了消极的抗日政策和反人民的国内政策。这样,・・・使得它自己和广大人民之间发生了深刻的裂痕,造成了民生凋敝、民怨沸腾、民变蜂起的严重危机;・・・。

 国民党内の主要な支配集団は、専制支配を固持し、消極的な抗日政策と反人民的な国内政策とを実行してきた。このため、・・・このため、かれら自身と広範な人民とのあいだには深い裂け目が生じて、人民の生活の疲弊、不満の沸騰、蜂起の続発という重大な危機がもたらされている。

《連合政府について》


 「民生凋敝(民生凋敝=民の暮らしが困窮し衰退すること)」という言葉は『漢書』循吏伝に見られる「民用雕敝」に由来する。『循吏伝』は、漢代の清廉で優れた才能を持つ官吏たちについて記録した書物である。秦末の社会はすでにかなり貧困していたが、連年の戦乱の結果、生産は空前の破壊を被り、人口は大幅に減少した。そのため漢の立ち上げ当初、統治階級は人民の要求に適応し、階級矛盾を緩和して生産を発展させる政策を実施した。同時に少数の清廉な官吏も現れたため、生産の発展と人口の増加に支えられた。しかし、こうした状況は文帝、とりわけ武帝の時代になると大きく変貌した。班固は『循吏伝』の中で「孝武の世、外は四夷をはらい、内は法度を改め、民用は凋敝し、奸軌(かんき=犯罪行為)を禁ずること能わず、時に能く化治(教化と治績)を以ていよいよ著しき者は少なし」と記している。ここでいう「民用」とは民生(民衆の暮らし)を意味し、「雕」は「凋」と同字である。漢武帝は連年対外的に用兵し、周囲の民族を侵略・奪取した。この需要に適応するため、対内的に搾取を強め軍費調達を拡大する一連の手立てを講じた。これが生産を著しく阻害し、人民の生活を極度に困窮させ、病苦や貧困を増大させ、社会を衰退させて犯罪行為を急増させたのである。この時期には、教化や治績に優れた官吏もほとんど存在しなくなった。

「民生凋敝」は、この「民用雕敝」から転じたものであり、社会の貧困と経済の衰退により、人民の生活が落ち込んで維持しがたい状態にあることを意味している。



一意孤行いちいいこう

原文

不顾广大人民和一切民主党派的要求,一意孤行地召开一个由国民党反人民集团一手包办的所谓“国民大会”,在这个会上通过一个实际上维持独裁反对民主的所谓“宪法”,・・・中国人民是坚决反对这个方针的。

 それは広範な人民やあらゆる民主政党の要求をかえりみずに、国民党反人民集団お手盛りのいわゆる「国民大会」を独断的に招集し、その会議で、実際には専制を維持し民主に反対するいわゆる「憲法」を採択し、・・・中国人民は断固としてこの方針に反対している。

《連合政府について》


 「一意孤行いちいいこう」という言葉は『史記』酷吏列伝に由来する。「禹(趙禹)、人となり廉倨、吏となりて以来、舎に食客毋く、公卿相造りて禹に請うも、禹終に報謝せず、務めて知友賓客の請を絶つに在り、孤立して一意を行ふのみ」とある。

漢武帝の時代、趙禹は刀筆吏(下級法務官吏)であったが、非常に苦労を重ねて御史中大夫へと昇進した。彼は普段から廉潔で物静かな人柄であり、官吏となって以来、その門下に食客を置くことはなく、公卿たちからの個人的な依頼や頼み事を断固として断り続けた。ここにある「孤立行一意」とは、元来、他者にねじ曲げられることなく独立不屈の精神で自己の意志を貫徹することを指していた。後世、人々は「一意孤行」という言葉を、他人の意見を考慮せず独断専行するという意味で用いるようになったのである。



流水不腐,户枢不蠹(りゅうすいくさらずこすうむしばまず・流水腐らず戸枢蝕まず)

原文

我们同志的思想,我们党的工作,也会沾染灰尘的,也应该打扫和洗涤。“流水不腐,户枢不蠹”,是说它们在不停的运动中抵抗了微生物或其它生物的侵蚀。对于我们,经常地检讨工作,・・・正是抵抗各种政治灰尘和政治微生物侵蚀我们同志的思想和我们党的肌体的唯一有效的方法。

 わが同志の思想、わが党の活動にもほこりがかかるので、やはり掃除をし、洗いおとすべきである。「流れる水は腐らず、扉の心棒は虫がくわない」というのは、それらがたえず運動していて、微生物やその他の生物からの侵食に抵抗しているためである。われわれにとっては、つねに活動を点検し、・・・わが同志の思想やわが党のからだにたいする各種の政治のほこりや政治の微生物の侵食に抵抗する唯一の効果的な方法である。

《連合政府について》


 「流水不腐,戸枢不蠹(りゅうすいくさらずこすうむしばまず・流水腐らず戸枢蝕まず)」という言葉は『呂氏春秋』尽数篇に由来する。「流水は腐らず、戸枢は蠹まれざるは、動けばなり」とあり、その意味は、流れる水が腐敗せず、門の軸が虫に喰われないのは、それらが絶えず動いているからである、ということである。後に人々は、この言葉を「常に動いているものは外部からの侵食を受けにくい」ということの例えとしてよく用いるようになった。

毛主席がこの言葉を引用した意図は、仕事や生活において常に批判と自己批判を行わなければならないと我々に教え導く点にある。そのようにして初めて、欠点や誤りを絶えず克服することができ、絶え間なく進歩することができるのである。


有则改之,无则加勉(過ちがあれば改め,なければいっそう努力する)

原文

对于我们,经常地检讨工作,在检讨中推广民主作风,不惧怕批评和自我批评,实行“知无不言,言无不尽”,“言者无罪,闻者足戒”,“有则改之,无则加勉”这些中国人民的有益的格言,正是抵抗各种政治灰尘和政治微生物侵蚀我们同志的思想和我们党的肌体的唯一有效的方法。

 われわれにとっては、つねに活動を点検し、点検のなかで民主的作風をおしひるめ、批判と自己批判をおそれず、「気づいたことは何でもいい、いうことは残さずにいう」、「いうものはとがめられず、聞くものはいましめとする」、「あやまりがあればあらため、なければいっそう努力する」という中国人民の有益な格言を実行することこそ、わが同志の思想やわが党のからだにたいする各種の政治のほこりや政治の微生物の侵食に抵抗する唯一の効果的な方法である。

《連合政府について》


 「有則改之,無則加勉(過ちがあれば改め,なければいっそう努力する)」という言葉は『論語』学而篇の一節に由来する。「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す、人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と。」とあり、朱熹の注釈には「曾子この三者を以てその身を省み、有れば則ちこれを改め、無ければ則ち加勉す」と記されている。その意味は、曾子は常にこれら3つの観点から自身を点検し、欠点があれば改め、無ければさらに身を戒めて自らを励ました、ということである。

毛主席は常にこの「有則改之、無則加勉」という格言を用いて、我々がこのような正しい態度で批判と自己批判に臨むべきであると教え導いているのである。



瞎子摸鱼(盲人が手探りで魚を捜す)

古代にこのような物語がある。2人の盲人が鍋で魚を煮ていた。いざ食べようとして2人が鍋の中に手を伸ばして探したが、しばらく探しても一向に見つからず、やがて喧嘩を始めてしまった。甲は乙に「お前が魚を食べたのだろう」と言い、乙は甲に「お前こそ食べたのだろう」と言って互いに譲らなかった。そこへ隣人が駆けつけて中を確かめたところ、なんと魚はまだ鍋の脇の台の上に置かれたままだったのである。毛主席は『我々の学習を改造しよう』という論文の中でこの故事を引用し、次のように述べている。「「目をつぶってすずめをつかまえ」、「めくらが魚を手さぐり」するような、おおざっばで、長広舌を振るい、なまはんかな知識に満足するというこうした非常に悪い作風、マルクス・レーニン主義の基本精神にまったくそむいたこうした作風は、わが党の多くの同志のあいだに、なおひきつづき存在している。」(『毛沢東選集』第3巻)。

毛主席がこの「瞎子摸魚(盲人が魚を探ぐる)」の物語を引用した意図は、仕事を行うにあたっては真の状況を把握し、実際から出発すべきだと我々に教え導く点にある。客観的な実情を考慮せず、綿密な調査研究も行わずに単なる主観的な願望のみから出発するならば、まさにこの「盲人が魚を探ぐる」といった類の滑稽な事態を引き起こしてしまうのである。



行成于思(行いは思うに成り)

上述の文と内容がかぶっているが一応原文にあるので載せておく。

毛主席は『党八股に反対しよう』という論文の中で、「行成于思(行いは思うに成り)」という故事を引用した。唐代の大文学者である韓愈は『進学解』の中で「業は勤むるに精しく、たわむれるに荒る。行いは思うに成り、おこたるにこぼる」と述べている。その意味は、学業の精進は勤勉から得られ、学業の荒廃は遊び戯れることから生じる。事を行うにあたって成功を収めるには絶えず心を配り思考することが不可欠であり、失敗するのは思想的な怠惰が原因である、ということである。これは韓愈が学生を教え導くための格言であった。

毛主席は次のように述べている。「孔子は「再思」を提唱し、韓愈も「行は思に成る」とのべているが、それは昔のことである。こんにちのことがらはきわめて複雑な問題をふくんでおり、なかには三、四回考えてもまだたりないことさえある。魯迅は「少なくとも二へんは読みかえす」といっているが、では多いときは何べんか。かれはそれにはふれていないが、わたしの考えでは、重要な文章なら十回以上読みかえしてもさしつかえなく、しんけんに添削をくわえたうえで発表したほうがよい。文章は客観的事物の反映であり、事物は曲折した複雑なものであって、それを適切に反映するにはくりかえし研究しなければならない。この点をおろそかにするのでは、文章を書く最低限の知識もわきまえないということになる。」(『毛沢東選集』第3巻)

我々は毛主席の言葉をしっかりと心に刻み、仕事や学習において常に脳を働かせ、周密に思考し、細部まで行き届いた配慮を行わなければならない。そうして初めて手際よく進めることができ、仕事を本当にやり遂げることができるのである。



鉴戒かんかい

原文

毛主席は『学習と時局』という論文の中で、革命が発展する過程において、一部の同志が勝利を収めた際に度々驕り高ぶり、路線上の誤りを犯して革命に損害を与えたことに言及している。毛主席は数々の誤りを列挙した後、「全党の同志は、このいくたびかの傲慢、いくたびかのあやまりを今後のいましめとしなければならない。」と述べている(『毛沢東選集』第3巻)。

「鑑戒」という言葉は『国語』楚語に由来する。『楚語』には「人の多聞善敗を求めるは、以て鑑戒とするなり」とあり、大意は、人々が成功や失敗に関する出来事を多く聞こうとするのは、自らを警戒させるためである、ということである。「鑑」はもともと鏡を意味し、鏡は物を映して形を確かめられることから、引き照らす、あるいは観察・省みるという意味へ変わった。後世の人々は、過去に犯された誤りを自分や他人が繰り返さないよう警戒する際、よく「鑑戒」や「引為鑑戒(反面教師として鑑み戒めとする)」といった表現を用いるようになった。

毛主席が「鑑戒」という言葉を引用した意図は、過去の失敗から教訓を汲み取ることに長け、歴史的な誤りの再発を防ぎ、革命事業を絶えず勝利へと導くべきだと我々に教え導く点にある。




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