毛沢東選集第二巻で出てくる「中国成語」
この文章は
成語とその発音もしくは意味
その成語が出てきた毛主席の著作原文
その成語の解説
の順につくられています。
休戚相关(両者の苦楽や禍福が互いに深くかかわっている・人、集団、国家や一般的事物、抽象的事物が利害が一致し関係が密である)
原文
今天全国人民有一种希望,认为国际力量必将逐渐增强地援助中国。这种希望不是空的;特别是苏联的存在,鼓舞了中国的抗战。空前强大的社会主义的苏联,它和中国是历来休戚相关的。
今日、全国の人民には、国際勢力がしだいに中国への援助を強めるにちがいないという期待がある。この期待はむなしいものではない。とくに、ソ連の存在が、中国の抗戦を力づけている。かつてないほど強大になっている社会主義のソ連は、これまで中国と苦楽をともにしてきた。
《持久戦論》
「休戚相关(休戚相関する・苦楽をともにする)」という言葉は「国語・晋語」を出典としています。「晋の孫談の子である周は、国を離れて周国へ行き、単襄公に仕えた。(中略)晋国に心配事があれば悲しまないことはなく、祝い事があれば喜び楽しまないことはなかった。襄公は「(晋国の)喜びや憂いを自分のこととするのは、根本(祖国)を忘れていないからだ」と言った。」春秋時代、晋国では一時期、公族の公子たちを国内で養わない方針をとっていたため、晋の襄公(注:晋の文公の孫にあたる人物)の従孫である「姫周」は、周国へ赴いて単襄公に仕えざるを得なかった。姫周は晋国を離れてはいたものの、常に故国・晋の状況に心を配り、嬉しいこと(喜)があれば喜び、悲しいこと(憂)があれば悲しんだ。
単襄公が重病に倒れた際、息子の頃公にこう言い残した。「お前は必ず周を大切にしなさい。彼は将来、晋国を治める人物になるだろう。彼のように晋国を気にかける姿は、まさに「根本を忘れていない」と言えるのだ」
後世の人々は、この故事から「休戚相关」という成語を生み出した。通常は、「苦楽をともにする」ことや、「関係が非常に深く、利害が一致していること」の形容として用いられる。
束之高阁(束ねて高い棚に置いておく・有用な品物、貴重な資料、立派な計画,正確な方針などを置いたまま使わない)
原文
这样,我可始终立于主动,一切敌人的“挑战书”,旁人的“激将法”,都应束之高阁,置之不理,丝毫也不为其所动。
このようにすれば、わが方は終始主動にたつことができるのであり、敵の「挑戦状」や、他の人の「けしかけの手」は、すべてたな上げにし、無視すべきで、すこしでもそれに動かされてはならない。
《持久戦論》
「束之高閣(高閣に束ね置く)」という言葉は「晋書・庾翼伝」を出典としている。「京兆の杜義、陳郡の殷浩は才能と名声が世に抜きん出ていたが、庾翼は二人を重んじなかった。常に人に語って言った「この者たちは高閣に束ね置いておき、天下が太平になってから、その任用について議論すべきだ」と。」
東晋の時代、世間に名高い才能と名声を備えた二人の若者がいた。一人は杜義、もう一人は殷浩といいました。二人は大変才能があり、弁論にも長けていましたが、長らく隠遁して官職に就かなかった。殷浩は後に建武将軍に就任したものの、許昌と洛陽の敵を討伐する戦いで敗北を喫し、免職されて信安県へと流され庶民に落とされました。
当時、同じく才能と知恵に秀でていた庾翼という人物が征西将軍を務めていました。彼は杜義や殷浩の才能を称賛し、出仕させるよう求める多くの声を聞いていましたが、彼らには名実が伴っておらず重用すべきではないと考え、怒りを込めて人々にこう語りました。
「杜義や殷浩のような者たちは、ただ高層の棚(高閣)の上に縛って置くように片付けておき、天下が太平になってから改めて任用を検討すればよいのだ」
これ以来、人々は「束之高閣(高閣に束ね置く)」という成語を用いて、人や物事を放置して顧みないこと、そのまま放っておくことを表すようになったのである。
为虎作伥(トラに食われた人は死後倀鬼となり人を誘ってトラに食わせる)
原文
一曰全国讨汪。查汪逆收集党徒,附敌叛国,订立卖国密约,为虎作伥,固国人皆曰可杀。
第一は、国をあげて汪精衛を糾弾すること。逆賊汪精衛は一味のものをかりあつめ、国にそむいて敵につき、売国の密約を結び、侵略者の手先になって悪事をはたらいており、国民のすべてがこれを殺すべきだというのが当然である。
《国民党にたいする十項目の要求》
「為虎作倀」という言葉は「正字通・聴雨記」を出典としている。伝説によると、昔、一頭の虎がある人間を噛み殺してその肉を食べた。さらに虎は、その人間の魂を自分の体に憑依させ、代わりに次の人間を探して食べさせなければ立ち去ることができないようにした。そこで、その魂は虎を導いて次の人間を探しに行きました。身代わりとなる人間を見つけると、魂は自ら前に進み出てその人の服を脱がせ、帯を解いて、虎が手間をかけずに人を食べられるようにしました。このように虎を助けて人食いの悪事を働く魂のことを「倀鬼」と呼ぶ。
人々はこの伝説に基づき、悪人に手を貸して悪事を働くことを「為虎作倀」と言うようになりました。毛主席がこの言葉を引用したのは、売国奴である汪兆銘とその一党が敵に寝返って祖国を裏切り、日本帝国主義の手先となって中国人民を侵略したことを言及するためであった。
一心一德
原文
共产党人一心一德,忠实执行自己的宣言,・・・实行坚决的抗战。
共産党員は、心を一つにして、自己の宣言を忠実に実行すると同時に、・・・断固抗戦を実行するものである。
《日本の進攻とたたかう方針、方法および前途》
「一心一徳」という言葉は『尚書・泰誓』を出典としている。「乃ち一徳一心にして、立ちて厥の功を定め、惟れ克く永世にせん。」
殷の君主である紂王は残虐で理不尽な政治を行っていたため、周の指導者である周の武王が兵を率いて紂王を討伐(伐紂)することになりました。武王は商の都へ進撃する前に「孟津」で誓師大会を開き、誓いの言葉を読み上げました。これを「泰誓」と呼びます。その中には次のような言葉がありました。「我らが心を一つにし、徳を同じくして(一心一徳)、必ずや敵を完膚なきまでに滅ぼし、天下に永遠の太平をもたらさんことを」
後世の人々は、この故事から「一心一徳」という成語を引用し、ある集団に属する人々が同じ闘争目標を持ち、考えや行動を一致させていることを表すようになりました。
前车可鉴(前車の覆るは後車の戒め)
原文
一句话,给人民以爱国的自由。民力和军力相结合,将给日本帝国主义以致命的打击。民族战争而不依靠人民大众,毫无疑义将不能取得胜利。阿比西尼亚的覆辙,前车可鉴。
一言でいえば、人民に愛国の自由をあたえることである。人民の力が軍事力とむすびつけば、日本帝国主義に致命的な打撃をあたえるであろう。民族戦争であっても人民大衆に依拠しなければ、勝利をかちとれないことは、なんら疑う余地がない。エチオピアの失敗が、よいいましめである。
《日本の進攻とたたかう方針、方法および前途》
「前車可鑑(ぜんしゃにかんすべし・前車の覆るは後車の戒め)」という言葉は「漢書・賈誼伝」を出典としている。「諺に「前の車が覆れば、後の車は戒めとする(前車覆、後車戒)」と言う。(中略)秦の時代が速やかに滅び去ったのは、その車輪の跡を見れば明らかである。それにもかかわらずこれを避けないならば、これ即ち後の車もまた翻ることになるのだ。」
漢の文帝が賈誼を自身の息子の太傅に任じた際、賈誼は何度か文帝に上書し、国家の政道について論じました。その中で賈誼は、夏・商(殷)・周の三代がそれぞれ数百年間にわたり統治したのに対し、秦王朝はわずか二代で滅亡したという歴史的事実を引用した。そして、文帝に対して三代の治世に学び、政治を改めて善政に励むよう促すとともに、秦の滅亡を教訓として次のように述べました。「前に進む車が翻るのを見たならば、後ろを進む車は警戒すべきです。(中略)秦代が滅んだ車の跡は目に見えています。もし警戒しなければ、後ろの車もまた同じように翻ってしまうでしょう」
後世の人々は、この「前車覆、後車戒」という言葉を縮めて「前車可鑑(前車鑑むべし)」という成語にしました。その意味は、「先の失敗(前車の翻った事態)を教訓とすべきである」ということです。
毛主席がエチオピアの踏んだ轍を引き合いに出して「前車可鑑」という言葉を用いたのは、次のような理由からでした。すなわち、蒋介石が消極的にしか日本と戦わず、積極的に反共工作を行い、人民に愛国の自由を与えず、人民広範を動員・依拠して抗戦しようとしない姿勢では、抗日戦争に勝利することはできないと説くためである。
かつてアフリカのエチオピアがイタリア・ファシズムの指導者ムッソリーニに侵略・占領されたのは、エチオピアの封建専制統治者が内部の団結を固めることができず、人民の抗戦を動員できなかった結果として失敗したためでした。アビシニアの亡国は、消極的に抗日を行い、積極的に反共へ傾斜する国民党の蒋介石らにとって、まさに大きな警戒すべき教訓(前車可鑑)とされるべきものでした。
尔诈我虞(君が私をだまし私が君をだます・お互いにだましあう)
原文
中心关键在国共两党的亲密合作。政府、军队、全国各党派、全国人民,在这个两党合作的基础之上团结起来。“精诚团结,共赴国难”这个口号,不应该只是讲得好听,还应该做得好看。团结要是真正的团结,尔诈我虞是不行的。
中心の鍵は国共両党の親密な協力にある。政府、軍隊、全国の各政党、全国人民は、この両党の協力を基礎として団結する。「まごころをもって団結し、ともに国難にあたれ」というスローガンを、耳ざわりよくしゃべりたてるだけでなく、りっぱにやってのけなければならない。団結は、ほんとうの団結でなければならず、うそをいったり、だましたりするのはいけない。
《日本の進攻とたたかう方針、方法および前途》
「尔诈我虞(爾詐我虞君が私をだまし私が君をだます・お互いにだましあう)」という語は、「左伝・宣公十五年」の「我に爾を詐る無く、爾に我を虞るる無からん(我無爾詐、爾無我虞)」に由来する。春秋時代、楚は難癖をつけて宋に攻め入り、楚の荘王自らが兵を率いて宋の都を包囲しました。数か月が経過しても宋の包囲は解けず、かといって楚の軍勢も城内に攻め込むことができずにいた。その後、楚の荘王は申叔時の「陣地に兵舎を建て、農繁期の兵士を帰国させて、長期戦の構想を見せることで宋を恐れさせ、屈服させる」という進言を採用しました。宋は案の定恐れをなしたが、屈服を望むことはなかった。そこで宋の華元は、夜陰に紛れて楚の総大将である子反の寝所に侵入し、子反をベッドから引き起こしてこう告げました。「宋は包囲されて非常に窮しているが、だからといって屈服することは決してない。もし楚軍が三十里退却してくれるなら、宋は楚の意向を受け入れよう」と。子反は華元に脅迫された状態で荘王にその旨を申し出ると約束し、結果として楚軍は本当に三十里退却しました。
こうして宋は楚と和親条約を結びました。その条約文には「我に爾を詐る無く、爾に我を虞る無からん」と書かれており、これは「我が楚国は決してあなたがた宋国を騙さないし、あなたがた宋国も我が楚国を警戒する必要はない」という意味であった。
後世の人々は、この二つの句を縮めて「爾詐我虞(尔诈我虞)」という成語を作った。現在では、人と人との間に信頼がなく、互いに騙し合い、一方が騙せばもう一方が警戒するような状態を表すために使われている。
明哲保身
原文
事不关己,高高挂起;明知不对,少说为佳;明哲保身,但求无过。这是第三种。
自分にかかわりのないことはほうっておき、まちがっていることがはっきりわかっていても、口にださない方が得だと考え、りこうに保身をはかり、あやまちのないことだけをねがう。これが第三の型である。
《自由主義に反対する》
「明哲保身」という語は、『詩経・大雅・蒸民』に由来します。春秋時代(※注:周の宣王の時代は西周晩期)、周に仲山甫という大変優秀な人物がいました。彼は周の宣王を忠実に補佐し、外敵の侵略を防いだ。ある時、宣王は異民族の侵入に備えて築城させるため、仲山甫を斉の地に派遣しました。その際、もう一人の名将である尹吉甫が仲山甫に一首の詩を贈りました。その詩の中で、仲山甫のことを「既明且哲,以保其身。夙夜匪解,以事一人。既に明にして且つ哲なり、以て其の身を保つ。夙夜解らず、以て一人に事ふ。(実に明晰、そして哲人。故にこそ人々より慕われ、その立場を保っている。早朝より深夜まで政務を怠らず、ただ一人のために仕えている。)」と称えました。これは、「仲山甫は物の道理に通じて聡明であり、自らの身を保つことに長けている。同時に、朝から晩まで怠ることなく、ただひとりの君主に忠誠を尽くしている」という意味である。
「明哲保身」は、この「既明且哲、以保其身」という二つの句を縮めて作られた成語です。もともとは「聡明で道理にかなった人は、情勢を見極めて危険を避け、自身の身を全うすることができる」という意味でした。しかし現在では、自分の安危ばかりを気にして原則(道義や正義)を顧みない、利己的な態度や日和見主義的な姿勢を批判・揶揄する言葉としてよく使われます。
すべての革命幹部および革命青年は、毛主席の教えに従い、このような「明哲保身」をはじめとするあらゆる誤った思想や行動様式を捨て去らねばならない。すべてにおいて人民と党の利益を最優先し、揺るぎない革命的人生観を確立し、決して利己的にならず、専ら他人に奉仕すべきなのである。
一团和气(いちだんのわき・原則を問わずにうわべだけの打ち解け合い・和気あいあいとしている)
原文
因为是熟人、同乡、同学、知心朋友、亲爱者、老同事、老部下,明知不对,也不同他们作原则上的争论,任其下去,求得和平和亲热。或者轻描淡写地说一顿,不作彻底解决,保持一团和气。结果是有害于团体,也有害于个人。这是第一种。
知人、同郷、同窓、親友、親近者、旧来の同僚、旧来の部下であることから、おだやかさとむつまじさを保とうとして、まちがっていることがはっきりわかっていても、かれらと原則上の論争をおこなわず、なすがままにまかせる。あるいは、なごやかな空気を保とうとして、うわべのことをいうだけで、徹底的な解決をはからない。その結果、団体にも害をあたえ、個人にも害をあたえる。これが第一の型である。
《自由主義に反対する》
「一団和気」という成語は、「程子全書」に見られる。「謝顕通云わく、明道(※程顥)の坐するは泥塑の人(泥人形)の如し、然れども人に接するは渾て是れ一団の和気なり」とある。ここでの「一団和気」は、程明道先生が人に対する態度が非常に穏やかで親しみやすかったことを意味しています。
毛主席がこの「一団和気」という成語を引用した際は、自由主義のあらわれの一つを説明するためであった。彼らは知人に対して八方美人的な態度をとり、思想面において平和共存を求め、無原則な和気を保とうとするのである。
得过且过(その場限りのことをしてお茶を濁す・無責任である)
原文
办事不认真,无一定计划,无一定方向,敷衍了事,得过且过,做一天和尚撞一天钟。这是第九种。
なにごとをやるにもふまじめで、一定の計画をもたず、一定の方向をもたず、いいかげにすませ、その日暮らしをし、坊主になればなっているあいだだけ鐘をつく。これが第九の型である。
《自由主義に反対する》
「得過且過(その日暮らしをする)」という成語は、「南村輟耕録・寒号虫」に由来する。「五台山に鳥有り、名づけて寒号虫と曰う。夏に当たり、毛彩絢爛たり。自ら鳴きて曰く「鳳凰も我に如かず」と。深冬厳寒の際に至るに比(及)びて、毛羽脱落し、索然として穀雛(こくすう:生まれたてのヒナ)の如し。遂に自ら謳いて曰く「得過且過」と」とある。
昔、五台山に「寒号虫」と呼ばれる大きなコウモリ(※伝説上の生き物・ムササビの一種)がいたと言われています。盛夏の季節になると、その体には色彩豊かな美しい羽毛が生え揃うため、「鳳凰だって私には叶わない!鳳凰だって私には叶わない!」といい気になって叫んでいました。しかし厳しい冬になると、その美しい羽毛は抜け落ちて見る影もなく惨めな姿となり、「その日をしのげればそれでいい!その日をしのげればそれでいい!」と諦めきったように鳴くのでした。つまり、「一日をやり過ごせれば良しとする(その場しのぎで生きる)」という意味です。
毛主席は文中でこの成語を引用し、自由主義的な仕事の姿勢を批判しました。このような人々は事業に対する情熱に欠け、仕事に対して不真面目で、計画も目標もなく、いい加減にその場を繕って「一日をやり過ごせればそれでいい」と考えているのです。
秋毫无犯(軍紀が厳しく守られ少しも大衆の利益を侵さない)
原文
军事上说来,亦须实行全盘的改革,主要地是战略战术上单纯防御的方针,改变为积极攻击敌人的方针;旧制度的军队,改变为新制度的军队;强迫动员的方法,改变为鼓动人民上前线的方法;不统一的指挥,改变为统一的指挥;脱离人民的无纪律状态,改变为建设在自觉原则上的秋毫无犯的纪律;单单正规军作战的局面,改变为发展广泛的人民游击战争配合正规军作战的局面,等等。
軍事上からいうと、これも全面的な改革を実行しなければなりません。それは主として、戦略上戦術上の単純防御の方針を敵にたいする積極的攻撃の方針にあらためること、ふるい制度の軍隊を新しい制度の軍隊にあらためること、強制動員の方法を、人民が前線におもむくよう激励する方法にあらためること、不統一な指揮を統一的な指揮にあらためること、人民から遊離した無規律な状態を、自覚の原則のうえにうちたてられた少しも人民の利益をそこなわない規律にあらためること、正規軍だけで戦う局面を、広範な人民遊撃戦争を発展させて正規軍の戦いに呼応させる局面にあらためることなどです。
《イギリスの記者バートラムとの談話》
「秋毫無犯(軍の規律が極めて厳格で、人民の利益を少しも侵さないこと)」という語は、「史記・淮陰侯列伝」に由来します。秦の末期、楚と漢が争っていた頃、漢の劉邦は蕭何相国のたっての推薦により、韓信を大将軍に任命し、天下統一のための策を練りました。韓信は楚と漢の双方の情勢を分析し、項羽は残酷非道であるために民心を失っていると指摘した上で、次のように献策しました。「大王の武關に入るや、秋豪も害する所無く、秦の苛法を除き、秦の 民と法は三章のみと約したれば、」このようにすれば天下を得ることができる、と述べたのです。劉邦は韓信の言葉を受け入れ、ついに項羽を破って天下を統一しました。
また、「漢書・高帝紀」には「沛公(劉邦)曰く吾関に入り、秋毫も取る所無し」とあります。「秋毫無犯」は、この「秋毫無所害」と「秋毫無所取」から派生してできた言葉であり、軍隊の規律が非常に厳格で、少しも民間を荒らしたり人民の利益を損なったりしないことを意味しています。
毛主席がこの成語を用いたのは、国民党が真に抗日戦争を行おうとするならば、政治面および軍事面の改革を行わなければならないと指摘するためでした。その改革の一つが、国民党軍が人民から切り離された無規律な状態を克服し、自覚的な原則に基づいた、人民の利益を少しも侵さない厳格な規律を確立することだったのである。
青黄不接
原文
(八)因此,目前是处在从片面抗战到全面抗战的过渡期中。片面抗战已经无力持久,全面抗战还没有来到。这是一个青黄不接的危机严重的过渡期。
(八)したがって、いまは一面的抗戦から全面的抗戦への過渡期にある。一面的抗戦はもうもちこたえる力がなくなり、全面的抗戦はまだ実現していない。これは端境期のような、重大な危機をはらんだ過渡期である。
《上海、太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務》
「青黄不接(せいこうふせつ・端境期)」という語は、「元典章・巻二十一・戸部・倉庫」に見られる。「韶の云わく、即目まさに青黄不接の際、各処の物斛(穀物)湧貴(高騰)す」とあり、また「通俗編」には「黄とは旧穀を謂い、青とは新秋を謂う」と解説されています。「青黄不接」とは、田の青苗はまだ生育中であり、倉庫の黄谷(実った穀物)はすでに食べ尽くしてしまった状態を指し、通常は古い食糧(旧穀)を食べ尽くし、新しい収穫(新穀)がまだ行き渡らない「端境期」を形容するために用いられます。
毛主席がこの成語を用いたのは、国民党の「片面抗戦(民衆を動員しない一部政権・軍による抗戦)」はすでに維持する力がなく、一方で「全面抗戦(全人民を組織・動員した抗戦)」はまだ到来していないという状況を説明するためでした。当時はまさに、古い片面抗戦から新しい全面抗戦へと向かう「過渡期(谷間の時期)」にあたっていたのである。
神出鬼没
原文
游击队自己的弱点,可以在斗争中逐渐减少。且其弱点有时正成为争取主动地位的条件,例如正是因为自己弱小,才利于在敌人后方神出鬼没地活动,敌人无奈他何,这样大的自由是庞大的正规军所不能得到的。
遊撃隊自身の弱点は、闘争のなかでだんだんすくなくしていくことができる。そのうえ、その弱点が、ときにはかえって主動的地位をかちとるための条件となる。たとえば遊撃隊は弱小だからこそ、敵の後方で神出鬼没の活動をするのに有利であり、敵はそれをどうすることもできないのである。このような大きな自由は、膨大な正規軍ではえられるものではない。
《抗日遊撃戦争の戦略問題》
「神出鬼没」という語は、「淮南子・兵略」にある「善くする者の動くや、神出し鬼行す(戦いに長けた者の行動は、神のように現れ、鬼のように現れる)」に由来します。これは、作戦指揮に長けた者は軍の進退・行動を神出鬼没で変幻自在に展開させ、敵から見ればまるで神や鬼の動きのように捉えがたいものにできる、という意味です。歴史上、これは機動性に富んだ柔軟な戦術の一種とされてきました。
毛主席が文中でこの成語を用いたのは、遊撃隊はまさに自らが弱小であり、行動が柔軟で目標が小さいからこそ、敵の背後で神も鬼も気づかぬうちに、影もなく形もなく秘密裏かつ神速に活動し、不意を突いて敵を襲撃するのに適しており、敵はそれに対して手出しができないのだ、ということを説明するためでした。
坚壁清野
原文
在反对敌人的工作中,地方戒严和可能程度的坚壁清野两事是重要的。前者为了镇压汉奸,并使敌人得不到消息;后者为了协助作战(坚壁),并使敌人得不到粮食(清野)。这里所说的清野,是指粮食成熟时早日收割的意思。
敵とたたかう活動のなかでは、地方の戒厳とできる範囲の竪壁清野という二つのことが重要である。前者は民族裏切り者を弾圧し、敵に情報を入手させないためであり、後者は戦いをたすけ(竪壁)、敵に食糧を入手させない(清野)ためである。ここでいっている清野とは、穀物がみのるころ、早めに刈り入れるという意味である。
《抗日遊撃戦争の戦略問題》
「堅壁清野(けんぺきせいや・壁を堅くし野を清くす)」という語は、「晋書・石勒載記」に由来する。西晋の末年、統治者の腐敗により連年戦乱が続き、社会的統治の基盤は崩壊状態に陥っていました。当時、黄河の下流地域で活動していた石勒(せきろく:苦難を味わった羯族の小頭目・農民出身で、のちに即位して後趙を建国した人物)は、凶悍な部隊を率いて寿春の近くで晋軍と戦いました。当初、石勒軍は不覚をとって多くの死傷者を出しましたが、当時の晋軍も伏兵を恐れて追撃できず、「寿春へ撤退」しました。しかし、石勒軍が再び前進した際、「石勒の通過する道筋は、どこもみな堅壁清野となっており、掠奪しようにも得るものがなく、軍勢は大いに飢えて兵士同士が喰らい合う事態となった」とあります。その後、「堅壁清野」は優勢な敵の侵略に対抗するための一種の戦術となりました。この「堅壁清野」戦術の内容と要求は、敵を迎え撃つ際、一方では拠点を堅く守り、同時に拠点外の住民やあらゆる物資をすべて運び出し、侵入してきた敵に物資の補給や食糧の調達をさせず、現地で立脚できないようにすることにあります。
毛主席は抗日戦争の時期に、この「堅壁清野」の闘争技術を発展させ、それを自らの人民戦争思想における重要な要素へと高めました。「堅壁清野」を実行するにあたっては、あらゆる大衆組織を広範に動員し、地方の人民武装勢力と正規軍が連携して積極的に戦争に参加するようにしました。こうして、全人民が総動員された必勝の局面が形成されたのです。
围魏救赵(いぎきゅうちょう、魏を囲んで趙を救う)
原文
在反围攻的作战计划中,我之主力一般是位于内线的。但在兵力优裕的条件下,使用次要力量(例如县和区的游击队,以至从主力中分出一部分)于外线,在那里破坏敌之交通,钳制敌之增援部队,是必要的。如果敌在根据地内久踞不去,我可以倒置地使用上述方法,即以一部留在根据地内围困该敌,而用主力进攻敌所从来之一带地方,在那里大肆活动,引致久踞之敌撤退出去打我主力;这就是“围魏救赵”的办法。
反包囲攻撃の作戦計画では、わが方の主力は、一般に内線におかれる。だが、兵力に十分ゆとりのある条件のもとでは、副次的な力(たとえば県や区の遊撃隊、ないしは主力から分遣された一部の部隊)を外線につかい、そこで敵の交通線を破壊し、敵の増援部隊を牽制することが必要である。もし敵が根拠地内に長くとどまって去ろうとしないなら、わが方は上述の方法を逆につかう。すなわち一部の兵力を根拠地内にのこしてその敵をとりかこむ一方、主力を用いて数がもといた地方一帯を攻撃し、そこで大いに活動させ、いままで長くとどまっていた敵がわが主力を攻撃するためそこを出ていくようにしむける。これが、「魏を囲んで、趙を救う」というやり方である。
《抗日遊撃戦争の戦略問題》
注:西紀前三五三年、魏軍は趙国の首都邯鄲を包囲攻撃した。斉国の国王は田忌、孫臏に、軍をひきいて趙の救援におもむくよう命じた。孫臏は魏国の精鋭部隊が趙にあり、本国内部は手薄であるとみて、兵を率いて魏を攻めた。魏軍は自国を救うためにひきかえしてきた。斉軍は魏軍の疲れているのに乗じ、桂陵(現在の河南省新郷市長垣市)で戦い、大いに魏軍をやぶったので、趙国の包囲はついに解けた。それ以後中国の軍事家は、「魏を囲んで趙を救う」ということばをつかって、これに似た戦法を説明するようになった。
「囲魏救趙(いぎきゅうちょう・魏を囲んで趙を救う)」という故事は、「史記・孫子呉起列伝」に見られる。「其の後、魏、趙を伐ち、趙、急なり、救いを斉に請う。 斉の威王、孫臏を将とせんと欲す。斉の威王、田忌を以て将と為し、而して孫子を師と為し兵 を引いて趙に之かんと欲す。孫子曰く、今、梁・趙、相い攻む。軽兵鋭卒必 ず外に竭き、老弱、内に罷せん。君、兵を引いて疾く大梁に走り、其の街 路に拠り、其の方に虚なるを衡くに若かず。彼必ず趙を釈てて自ら救わん。是れ我が一挙にして、趙の囲みを解きて、弊を魏に収むるなり」とある。戦国時代の初期、中原地域では魏の勢力が最も強大であり、外征を行って領土を拡張しようとしていました。こうして紀元前353年、魏は兵を発して趙の都である邯鄲を包囲しました。趙からの救援要請を受けた斉の威王は、田忌と孫臏に軍を率いさせて趙の救出に向かわせました。孫臏は当時の戦争情勢を分析し、「魏の精鋭部隊は趙におり、国内は空である」と指摘し、兵を率いて魏の本国を攻撃に向かいました。この事態に直面した魏軍は、邯鄲の包囲を解いて本国の救援に戻らざるを得なくなりました。斉軍は魏の遠征軍の疲弊に乗じて桂陵の戦いで魏軍を大破し、こうして趙の包囲は解かれたのです。
これ以降、中国の軍事家たちは、孫臏が魏を囲むことで趙の包囲を解いたこの故事に基づき、これを「囲魏救趙」という成語として要約し、あらゆる類似の戦法を説明するようになりました。
得意忘形(とくいぼうけい・有頂天になること)
原文
因此,游击战争的领导者们不可在自己的战略进攻中得意忘形,轻视敌人,忘记了团结内部、巩固根据地和巩固部队的工作。
したがって、遊撃戦争の指導者たちは戦略的進攻のなかで有頂天になって、敵を軽視し、内部の団結、根拠地の強化、部隊の強化の活動をわすれるようなことがあってはならない。このようなときには、よく敵の動静を観察し、敵がふたたび進攻してくるきざしがあるかどうかみなければならない。
《抗日遊撃戦争の戦略問題》
「得意忘形(とくいぼうけい・有頂天になること)」という語は、「晋書・阮籍伝」にある「其の意を得るに当たりては、忽ち其の形骸を忘る(意に叶って満足した時には、あっけなく自分の身体のことさえ忘れてしまう)」に由来します。晋代の名士である阮籍は、気ままにより頼まない豪放磊落な性格で、時には家で読書に没頭して数か月も外出しないこともあれば、時には遠出して山水に遊んで数日も家に帰らないこともありました。彼は広く書物を読むことを好み、とりわけ老荘思想の著作を愛好しました。また酒を嗜み、管楽器や琴を弾くことも得意としました。彼が満悦している時には、自分がどのような姿形をしているかさえ忘れてしまうほどであった。「晋書」では、彼のこのような歓喜の様子を「当其得意、忽忘形骸」と描写しています。後世の人々はこの二つの句を縮めて「得意忘形」という成語を作り、人が有頂天になったあまり、自分本来の姿や立場を忘れて舞い上がってしまう様子を形容するようになりました。
毛主席がこの成語を用いたのは、敵の攻撃を粉砕した勝利に浮かれて敵を軽視し、自らの成すべき仕事や課せられた任務を忘れてはならない、と戒めるためでした。
狼狈为奸(ぐるになって悪事を働く)
原文
估计到某种时机,敌之劝降手段又将出现,某些亡国论者又将蠕蠕而动,而且难免勾结某些国际成分(英、美、法内部都有这种人,特别是英国的上层分子),狼狈为奸。
ある時機がくれは、敵の投降勧告の手段がまたもやあらわれようし、一部の亡国論者がまたもやうごめき、そのうえ、ある種の国際勢力(イギリス、アメリカ、フランスの内部にはそうした人間がいる、とくにイギリスの上層分子がそうである)と結託して悪事をはたらくこともあろう。
《持久戦論》
「狼狽為奸(狼と狽が結託して悪事を働く)」という語は、「博物典彙」に見られる。「狼は前の二足が長く、後の二足が短い。狽は前の二足が短く、後の二足が長い。狼は狽が無ければ立つことができず、狽は狼が無ければ歩くことができない」とある。また、「酉陽雑俎」には「狽は前足が極めて短く、移動する時は常に狼の背に乗る。狼は狽を失うと動くことができなくなる。ゆえに世間で物事がうまくいかないことを「狼狽」という」と見られます。狼と狽(バイ:伝説上の動物)は同類の動物です。伝説では、彼らは常に一緒に出かけては民家の家畜を盗み食いしていたとされています。狼は長い前足を使い、狽は長い後足を使ってお互いに助け合うことで、速く走れると同時に高く立つこともでき、ついに羊小屋に乗り込んで羊をくわえ去るのでした。そのため、人々はこのエピソードを元にして「狼狽為奸」という言葉を作り、二人が結託して悪事を働くことの例えとして使うようになりました。
毛主席が「狼狽為奸」という語を用いたのは、国民党内の「亡国論者」と英・米・仏などの妥協分子が結託し、対日降伏活動に従事している様子を批判するためでした。
一叶障目,不见泰山(一枚の葉に目を覆われて泰山が見えない)
原文
(二七)然而速胜论者也是不对的。他们或则根本忘记了强弱这个矛盾,而单单记起了其它矛盾;或则对于中国的长处,夸大得离开了真实情况,变成另一种样子;或则拿一时一地的强弱现象代替了全体中的强弱现象,一叶障目,不见泰山,而自以为是。
(二七)ところが、速勝論者もまちがっている。かれらは、強弱というこの矛盾をまったく忘れてしまって、その他の矛盾しかおぼえていないか、中国の長所を誇張して、ほんとうの状況からはなれ、別のものにしてしまうか、あるいは一時期、一地方の強弱の現象を全体における強弱の現象におきかえてしまい、あたかも一枚の葉に目をおおわれて泰山がみえなくなるのとおなじように、自分ではそれを正しいと考えている。
《持久戦論》
「一葉障目、不見泰山(一葉目を覆えば、泰山を見ず)」は、「一葉蔽目、不見泰山」とも記載され、「鶡冠子・天則」に由来する。「夫れ耳の主とするは聴、目の主とするは明。一葉目を蔽えば、泰山を見ず。両豆耳を塞げば、雷霆を聞かず」とあります。ここでの「一葉蔽目、不見泰山」は、一枚の小さな木の葉が目を覆ってしまうと、泰山のような大きなものでさえ見えなくなってしまう、という意味です。また「笑林」の記載によると、昔、楚の地にひとりの貧しい書生がいました。彼は「淮南子」を読んで、カマキリが蝉を捕まえる時に身を隠していた木の葉には身を隠す(姿を消す)効果があることを知り、その木の葉を探しに出かけました。彼は地面に落ちた葉を持ち帰り、一枚一枚その葉で自分の目を覆っては、妻に向かって「お前は私が見えるか?」と尋ねました。妻は最初「見えますよ」と答えていましたが、何日も続いたためすっかり嫌気が差し、いい加減になって「見えません!」と口を滑らせました。すると書生は大喜びでその葉を携えて市へ出かけ、人の物を盗もうとして、その場で捕まってしまいました。県令に取り調べられた際、彼は事情をすべて話し、「私はこの葉で目を覆ったので、何も見えなくなったのです(=だから相手からも見えないはずだ)」と主張しました。県令は大笑いし、すぐに彼を放免しました。
後世の人々は、この「一葉障目、不見泰山」という言葉を、目の前にある些細な事象に惑わされ・包み隠されてしまい、事物の主流や本質をしっかり見極められないことの例えとして使うようになりました。
犬牙交错(境界線がイヌの牙のようにジグザグになっている・犬牙錯綜)
原文
(五一)我们可以断言,持久战的抗日战争,将在人类战争史中表现为光荣的特殊的一页。犬牙交错的战争形态,就是颇为特殊的一点,这是由于日本的野蛮和兵力不足,中国的进步和土地广大这些矛盾因素产生出来的。
(五一)持久戦としての抗日戦争は、人類の戦争史に光栄ある特殊な一ページをかざるであろうと断言できる。犬歯錯綜した戦争の形態がそのかなり特殊な点で、これは日本の野蛮さと兵力不足、中国の進歩と土地の広大さという矛盾した要素からうまれたものである。
《持久戦論》
「犬牙交錯(犬の歯のように複雑に入り組んでいること)」という語は、「漢書・中山靖王伝」にある「諸侯王は自ら骨肉至親を以て、先帝の広封連城し、犬牙交錯する所以の者は、盤石の宗の如きなり」に由来します。顔師古の注釈には「錯は、交雑なり。その地の相交錯するを言う」とあります。また「史記・孝文紀」には「高帝、王子弟を封ずる地、犬牙相制す」とあり、索隠(注釈書)には「子弟を封じ、境土交接し、犬の牙の如く、正に相当せずして、相銜(含)み入るを言う」とあります。「犬牙交錯」あるいは「犬牙相制」とは、国境や領域の接地面が犬の歯並びのようにギザギザと入り組み、噛み合っている様子を意味しています。
毛主席が文中でこの成語を用いたのは、日中戦争において敵我(日中双方)の力の対比にそれぞれ長所と短所があり、それによって生じた包囲と反包囲、夾雑した複雑な戦況(入り乱れた戦線)を例えるためでした。
灭顶之灾
原文
动员了全国的老百姓,就造成了陷敌于灭顶之灾的汪洋大海,造成了弥补武器等等缺陷的补救条件,造成了克服一切战争困难的前提。
全国の民衆を動員すれば、敵をすっぽり沈めてしまう洋々たる大海原がつくられ、武器その他の欠陥をおぎなう補強条件がつくられ、戦争のあらゆる困難をのりきる前提がつくられる。
《持久戦論》
「滅頂之災」という語は、「周易・大過」にある「過ぎて渉りて頂を滅す。凶。」に見られる。これは、頭のてっぺんまで水中に没するのは不吉であり災害の兆候である、という意味である。「滅頂之災」はこの一文から派生して出来た言葉です。現在では通常、人が川を渡る際に水に溺れて死ぬことを「滅頂之災」に遭うと言ったり、また大禍が降りかかって壊滅的な事態に陥ることを形容したりするのに用いられます。
南辕北辙
原文
要胜利,就要坚持抗战,坚持统一战线,坚持持久战。然而一切这些,离不开动员老百姓。要胜利又忽视政治动员,叫做“南其辕而北其辙”,结果必然取消了胜利。
勝利するには、抗戦を堅持し、統一戦線を堅持し、持久戦を堅持しなければならない。しかし、これらのすべては、民衆を動員することからきりはなすことはできない。勝利をのぞみながらも政治的動員を無視するのは「南へいくのに、車を北に走らせる」というものであって、その結果は、かならず勝利をすてることになる。
《持久戦論》
「南轅北轍(南轅北轍:志や目的と行動が正反対であること)」という語は、『戦国策・魏策』に由来します。「魏王、邯鄲を攻めんと欲す。季梁、これを聞き、……往きて王に見えて曰く『今者臣来たるに、人のかの大行に於いて、まさに北にしてその駕を待つ(車を走らせる)者を見たり。臣に告げて曰く、我、楚に行かんと欲すと。臣曰く、君、楚に行かんに、将た何ぞ北面する、と。……而して楚を離るること遠からんと欲するのみ。今、王の動けば覇王の挙を成さんと欲し、天下に信(信義/威信)づけんと欲し、王国の大きさを恃みとして……邯鄲を攻む……王の動くこと愈々(いよいよ)数なれば、王を離るること愈々遠からんのみ。猶お楚に至らんとして北行するがごときなり』と」とあります。戦国時代、魏の王が趙を攻めようとした際、季梁はこの報せを聞いて魏王に謁見し、こう言いました。「私が来る途中、大行山脈のあたりで楚に行こうとしている人物に出会いましたが、彼は車を北へ向けて走らせていました。私が『楚へ行くのに、なぜ北へ進んでいるのですか?』と尋ねると、彼は『私の馬は足が速いし、路用(旅費)もたっぷりあるし、御者の腕も確かだから大丈夫だ』と答えました。楚は南にあるのですから、北へ向かって走らせれば走らせるほど、楚から遠ざかるばかりです。王はかねてより名高い覇者になろうとし、この度趙を攻めて領土と威名を広げようとされています。しかし、このようなやり方をすれば、王がお望みの目的からますます遠ざかってしまいます。あの楚へ行こうとして車を北へ走らせていた男と同じくらい途方もない間違いなのです!」と。
後世の人々はこの故事を少し形を変えて、「南轅北轍」という成語を作り、背道而馳(道から外れて正反対に進むこと)、すなわち目的と行動が完全に逆行している様子の例えとして使うようになりました。
毛主席がここで「南轅北轍」という語を用いた意味は、抗日戦争の勝利を勝ち取るためには、広範な政治的動員という経路を通じて全国の人民大衆を積極的に立ち上がらせ、偉大な人民戦争を巻き起こさねばならない、そうしてこそ困難を克服し、段階的に敵を削弱させ、最終的な抗戦の勝利に達することができるのだということを明らかにすることにありました。このように動員を行わないのは背道而馳であり、「その轅を南に向けながら、その轍を北へ走らせる」ことになってしまうのである。
沧海一粟
原文
其次,怎样去动员?靠口说,靠传单布告,靠报纸书册,靠戏剧电影,靠学校,靠民众团体,靠干部人员。现在国民党统治地区有的一些,沧海一粟,而且方法不合民众口味,神气和民众隔膜,必须切实地改一改。
第三に、どのようにして動員するのか。口頭、ビラや布告、新聞や書籍、演劇や映画、学校、民衆団体、幹部をつうじて動員するのである。いま国民党支配地区で、いくらかおこなわれているが、大海の一滴のようなもので、方法も民衆のはだにあわず、態度も民衆からかけはなれており、これは確実に改めなければならない。
《持久戦論》
「滄海の一粟」は、宋代の大詩人・蘇軾の「前赤壁の賦」に見られる。「況んや吾と子と、江渚の上に漁樵し、魚蝦を侶として麋鹿を友とし、一葉の輕舟に駕し、匏樽を挙げて以て相属め、蜉蝣を天地に寄す、渺たる滄海の一粟なるをや。吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の窮まり無きを羨やむ。(私やあなたは、長江のほとりで木を切り魚を捕らえ、魚とエビを伴侶とし、大鹿と鹿を友として、一枚の葉のような小舟に乗り、ひさごで作った酒樽をかかげて酒を酌み交わす者であり、かげろうのようなはかない人生を天と地に預け、広大な果てのない青い海の中に浮かぶ一粒の粟のような存在なのです。自分の命がすぐに過ぎてしまうことを悲しく思い、長江の尽きることがない様子を羨ましく思うのです。)」
これは蘇軾があるとき、友人と船に乗って赤壁の下で遊覧し、三国時代に周瑜がこの地で赤壁の戦いを繰り広げ、曹操の軍隊を大破した出来事を思い出して感に耐えず、傷感の嘆きを発したものである。「渺たる滄海の一粟」とは、人がこの世に生きる様は、まるで広大無辺な大海原に浮かぶ一粒の粟のように微小である、という意味である。後に人々は「滄海一粟」という成語を用いて、ある物事や現象が極めて微小であることを形容するようになった。現在では、人々はよくこの成語を用いて厳しく自己を律し、自らを「滄海の一粟」とみなす。人民群衆こそが大海であり、最も偉大な社会の主人であり、真の英雄なのである。
攻其无备,出其不意(備えること無する其の攻めるに、其の意わざるに出るなり)
原文
什么是不意?就是无准备。优势而无准备,不是真正的优势,也没有主动。懂得这一点,劣势而有准备之军,常可对敌举行不意的攻势,把优势者打败。
不意とはなにか。それは準備のないことである。優勢ではあるが準備がないなら、真の優勢ではなく、また主動性もない。この点がわかっていれば、劣勢ではあるが準備のある軍隊は、しばしば、敵にたいし不意の攻勢にでて、優勢な敵をうちやぶることができる。
《持久戦論》
「攻其无备,出其不意(其の備え無きを攻め、其の意わざるに出づ)」は、「孫子兵法・計篇」の「備えること無する其の攻めるに、其の意わざるに出るなり。此く之を兵して勝つに、不いに伝する可きなり。」に由来する。これは古来、用兵においてよく用いられてきた戦法である。その意味するところは、戦いにおいては敵の防備がない場所を攻撃し、敵の予期しない方向から兵を出さねばならない、ということである。
毛主席は「論持久戦」の中で、この戦術思想を深く解明した。毛主席はこの作戦方法を応用して敵の優勢を劣勢に変え、わが方の劣勢を優勢へと転じさせ、最終的に敵に勝利した。毛主席はこの戦術を用いて、人民戦争の思想を豊かにし発展させたのである。毛主席は次のように述べている。
「これを実現するには、すぐれた民衆組織が前提条件となる。したがって、敵に反対するすべての民衆を立ちあがらせ、かれらをことごとく武装して、広範に敵を襲撃させる一方、それによって情報を封じ、・・・これは非常に重要である。」
八公山上,草木皆兵(はっこうさんじょうそうぼくかいへい・八公山の草木みな兵なり)
原文
错觉和不意,可以丧失优势和主动。因而有计划地造成敌人的错觉,给以不意的攻击,是造成优势和夺取主动的方法,而且是重要的方法。错觉是什么呢?“八公山上,草木皆兵”,是错觉之一例。
錯覚と不意のために、優勢と主動をうしなうことがある。したがって、計画的に敵に錯覚をおこさせ、不意うちをかけることは、優勢をつくりあげ、主動をうばいとる方法であり、しかも重要な方法である。錯覚とはなにか。「八公山の草木みな兵なり」というのは錯覚の一例である。
《持久戦論》
「八公山上,草木皆兵(八公山の草木みな兵なり)」という成語の典故は、「晋書・苻堅載記」にある。「堅、苻融と城に登りて王師を望み、……また八公山の上を望むに、草木皆人の形に類す。顧みて融に謂いて曰く、「此れもまた勁敵なり、何ぞ少なしと謂わんや」と」東晋の時代、前秦の王である苻堅は中国北部を支配していた。西暦383年、苻堅は軍を率いて東晋を攻めるべく南下した。東晋は謝石と謝玄に兵を率いさせてこれを迎え撃った。晋軍は安徽の寿陽・洛澗の地で秦軍の前鋒を破り、そのまま水陸並進した。前鋒が大敗した報を聞いた苻堅は、弟の苻融とともに寿陽へ赴き晋軍の動静を視察した。晋軍の陣立てが厳整であるのを見、さらに寿陽の北にある八公山の上の草木を望み見て、それらがすべて晋兵であると思い込み、強敵に遭遇したと感じて恐れる色を見せた。後に人々はこの故事を、「八公山上、草木皆兵」という成語へと凝縮させ、人が極度の恐慌に陥った際、神経過敏になって少しの風の音を聞いただけで非常に緊張する様子を形容するようになった。
毛主席は自著の中で、この成語を錯覚の一例として用いた。毛主席は、作戦においては計画的に敵の錯覚を引き起こし、不意の攻撃を加えることが、わが方の優勢を作り出し主導権を奪取するための重要な方法である、と指摘したのである。
声东击西(せいとうげきせい・東に声して西を撃つ)
原文
“声东击西”,是造成敌人错觉之一法。在优越的民众条件具备,足以封锁消息时,采用各种欺骗敌人的方法,常能有效地陷敌于判断错误和行动错误的苦境,因而丧失其优势和主动。“兵不厌诈”,就是指的这件事情。
「東を撃つとみせて西を撃つ」というのは、敵に錯覚をおこさせる一つの方法である。情報がもれるのを防げるようなすぐれた民衆的基盤があるばあい、敵をあざむくいろいろな方法をとれば、しばしば効果的に、判断をあやまり行動をあやまるような苦境に敵をおとしいれ、これによって敵の優勢と主動をうしなわせることができる。「兵法はいつわりをいとわず」というのは、このことをさすのである。
《持久戦論》
「声東撃西」という言葉は、『通典・兵典六』の「声は東に撃つといい、実は西を撃つ」に見られる。その意味するところは、戦争において作戦指揮に長けた者は柔軟に用兵を行い、実際には西の方向を攻撃するものの、あえて東方を攻撃するかのような動作や音勢を装い、敵の耳目を惑わして条件を引き寄せ、敵を撃破するということである。
毛主席は中国革命を指導した数々の戦争において、この戦法を何度も鮮やかに適用し、多くの輝かしい成果をあげられたのである。
兵不厌诈(兵法はいつわりをいとわず)
原文は同上のため記載しない。
「兵不厌诈(兵法はいつわりをいとわず)」という言葉は、「韓非子・難一」の「晋の文公、まさに楚人と戦わんとす。舅犯を召してこれに問いて曰く、「吾、まさに楚人と戦わんとす。彼れは多く我は寡なし、これをなすに奈何せん」と。舅犯曰く、「臣これを聞く、繁礼の君子は忠信を厭わず、戦陣の間のものは詐偽を厭わずと。君それこれを詐らむのみ」」に由来する。春秋時代、晋と楚の城濮の戦いに先立ち、晋の文公は戦いに確信が持てず、晋の大夫である舅犯(狐偃・こえん)に「我々は楚国と戦おうとしているが、敵は多く我々は少ない。どのように対処すればよいか」と尋ねた。舅犯は「礼儀を重んじる君子は忠実で誠実であることを厭いませんが、戦場において作戦指揮に長けた者は騙し合い(詐偽)をいといません。主公におかれましては、ただ詐策(詐欺の手段)を用いられるのがよろしいでしょう」と答えた。「兵不厭詐(兵は詐を厭わず)」は、この「不厭詐偽(詐偽を厭わず)」から変化して生まれたものである。後世では、陸以湉の「冷廬雑識にも「……凡そこれ皆な奇を出して勝ちを制す、いわゆる兵は詐を厭わざるなり、小儒の能く知る所に非ざるなり」と見られる。
いわゆる「兵不厭詐」とは、用兵や戦いに長けた者は、詐策や騙し合いを戦術として用いることをいとわない、という意味である。
凡事预则立,不预则废(凡そ事、予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す・およそ物事は事前に準備していれば成功し、準備していなければ失敗する)
原文
由于战争所特有的不确实性,实现计划性于战争,较之实现计划性于别的事业,是要困难得多的。然而,“凡事预则立,不预则废”,没有事先的计划和准备,就不能获得战争的胜利。
戦争に特有な不確実性のために、戦争で計画性を実現することは、他の事業で計画性を実現するよりもはるかに困難が多い。しかし、「およそ事は前もって準備すれば成り、準備せざれば成らず」で、事前の計画と準備がなければ、戦争の勝利をかちとることはできない。
《持久戦論》
「凡事予めすれば則ち立ち、予らずんば則ち廃す」という言葉は、「礼記・中庸」の「凡そ事、予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す。言前に定まれば則ちつまずかず、事前に定まれば則ち困まず、行前に定まれば則ちやましからず、道前に定まれば則ち窮せず。」に由来する。その意味するところは、何事を行うにせよ事前に計画があれば成功を収めることができ、計画がなければ失敗に終わるということであり、言行や物事への取り組みはすべてこれに当てはまる、ということである。
毛主席は私たちに常に、どのような仕事を行うにあたっても事前に見通しを持ち、計画性を持つべきであり、さもなければ盲目的な行動が良い結果を生むことはない、と教えているのである。
运用之妙,存乎一心(うんようのみょうはいっしんにそんす・運用の妙は一心に存す)
原文
古人所谓“运用之妙,存乎一心”,这个“妙”,我们叫做灵活性,这是聪明的指挥员的出产品。
「運用の妙は一心に存す」という古人のことばのこの「妙」を、われわれは弾力性とよぶのであり、それは聡明な指揮員の創作である。
《持久戦論》
「運用の妙、一心に存す(うんようのみょうはいっしんにそんす)」という言葉は、「宋史・岳飛伝」の「陣して後に戦うは、兵法の常、運用の妙、一心に存す」に由来する。これは岳飛が宗沢に対して語った言葉である。宋代の民族的英雄である岳飛は兵法に精通し、人並み外れた武芸を誇り、金軍への抵抗においてたびたび戦功を立てた。彼が抗金の権威であった将軍・宗沢の部下として偏将の職にあった際、あるとき宗沢が彼に一幅の陣図を与えて次のように語った。「お前は機知に富み勇敢で、武芸もずば抜けており、古代のすぐれた将軍も及ばないほどだ。それは良いことだ。しかしお前は野戦を好み、陣を敷いて戦うことを嫌うが、それはあまり感心しない。やはり陣図を学ぶべきだ」。これに対し岳飛は、「陣勢を整えてから戦うのは兵法の常則ですが、それをいかに巧妙に運用するかは、指揮官がその場の状況に応じて柔軟に応用すること(すなわち運用の妙、一心に存す)にかかっています」と答えた。
毛主席が自著の中でこの言葉を引用したのは、作戦において指揮官が実情から出発し、客観的状況に基づいて情勢を見極め、機知を働かせて柔軟に指揮を執るべきであることを教えるためである。
路遥知马力,事久见人心(道のりが遠ければ馬の力(の強弱)を知り,月日がたてば人の心(の善悪)がわかる)
原文
游击战争没有正规战争那样迅速的成效和显赫的名声,但是“路遥知马力,事久见人心”,在长期和残酷的战争中,游击战争将表现其很大的威力,实在是非同小可的事业。
遊撃戦争は正規戦争のような迅速な成果と派手な名声はないが、「道遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を知る」といわれるように、長期の残酷な戦争のなかでその大きな威力をあらわすであろう。それはじつになみたいていな事業ではないのである。
《持久戦論》
「路遥知马力,事久见人心・路遙くして馬力を知り、事久しくして人心を見る」という二つの俗語は、「元曲選・争報恩」の「徐寧云く、恰度姉上は私の命を救ってくださった……ただ姉上の長命富貴を願うのみ、もし少しでもよからぬ事があれば、私は姉上の恩に報いずにはいられない、これぞ路遙くして馬力を知り、日久しくして人心を見るというものではないか」に見られる。「路遙知馬力、事久見人心」は、「路遙知馬力、日久見人心(路遙くして馬力を知り、日久しくして人心を見る)」から変化して生まれたものである。その意味するところは、道のりが遠くて始めて馬の力の強弱がわかり、年月が経って始めて人の心の良し悪しがわかる、ということである。
毛主席が自著の中でこの二つの俗語を引用したのは、遊撃戦が抗日戦争において重要な戦略的位置を占めていることを説明するためである。遊撃戦は正規戦のような迅速な成果やめざましい名声こそ持たないものの、道のりが遠くて始めて馬の力がわかり、多くの事柄を経て始めて人心がわかるのと同様に、長期的かつ残酷な戦争の中で大きな威力を発揮していくことになる、ということを示している。
孤注一掷(こちゅういってき・あり金を全部かけてさいころを振る)
原文
放弃土地是为了保存军力,也正是为了保存土地;因为如不在不利条件下放弃部分的土地,盲目地举行绝无把握的决战,结果丧失军力之后,必随之以丧失全部的土地,更说不到什么恢复失地了。资本家做生意要有本钱,全部破产之后,就不算什么资本家。赌汉也要赌本,孤注一掷,不幸不中,就无从再赌。事物是往返曲折的,不是径情直遂的,战争也是一样,只有形式主义者想不通这个道理。
土地を放棄するのは軍事力を保存するためであり、またまさに土地を保存するためでもある。なぜなら、不利な条件のもとにありながら土地を部分的に放棄することをせず、勝算のまったくない決戦を盲目的にやるならば、その結果は、軍事力を喪失したのち、かならず、つづいて全部の土地を喪失し、失地回復どころの話ではなくなってしまうからである。資本家が商売をするには元手が必要で、すっかり破産してしまえば、もう資本家ではなくなる。ばくちうちにも元がいり、一か八か有り金を全部張ってしまって、運わるくあたらなければ、それ以上賭けようがなくなる。事物は思いどおりにまっすぐ進むものではなく、反復したり、曲折したりするものであり、戦争もこれとおなじであって、この道理に納得がいかないのは、形式主義者だけである。
《持久戦論》
「孤注一擲」という成語は、「宋史・寇準伝」の「陛下博を聞けるか、博する者は銭を輸けて尽きんと欲すれば、乃ち所有の悉くを馨くしてこれを出す、これを孤注と謂う。陛下は寇準の孤注なり。斯れ亦危うし。」に由来する。宋の真宗の時代、契丹が侵入した際、宋の宰相であった寇準は真宗皇帝の親征を力説した。真宗は寇準の主張を受け入れ、澶淵を渡って最前線の将兵を督戦した。皇帝が自ら陣頭に立ったことで宋軍の士気は大いに高まり、一挙に敵を打ち破ったため、契丹は和議に応じざるを得なくなり、戦事は終結した。その後、真宗は寇準の功績を称え、彼を非常に優遇した。しかし、参知政事(副宰相)の王欽若はこれを酷く嫉妬し、寇準と私怨があったこともあって、真宗の前で彼を讒言して次のように語った。「陛下は賭博という遊びをご存知でしょうか。勝負師は金を負け尽くしそうになると、所有するすべての資金を賭けて勝負に出ます。これを「孤注」と申します。寇準が陛下に契丹への親征を求めたのは、陛下をまるで己の「孤注」としたようなものです。これは真に危険なことでありました!」また、「晋書・何無忌伝」にも「劉毅、家中に担石の貯え無きも、樗蒲一擲百万」と見られる。ここでの「一擲」も、土壇場において手元の資金をすべて賭けるという意味である。
後に人々は「孤注」と「一擲」を組み合わせ、「孤注一擲」という成語へと発展させた。現在では一般に、物事が切迫した局面において、自らの持てるすべての力を投げ打ち、最後のかけに出る様子を喩えるのに用いられている。
不遗余力(餘力 を遺さじ・余力を残さない)
原文
日本不能占领全中国,然而在它一切力所能及的地区,它将不遗余力地镇压中国的反抗,直至日本的内外条件使日本帝国主义发生了进入坟墓的直接危机之前,它是不会停止这种镇压的。
日本は全中国を占領することはできないが、その力のおよびうる地区では、全力をあげて中国の抵抗を弾圧し、その内外の条件によって日本帝国主義が墓場においこまれる直接的な危機がやってくるまでは、このような弾圧を停止することはありえない。
《持久戦論》
「不遺余力(余力を遺さじ余力を残さない)」という成語は、「戦国策・趙策」の以下の記述に由来する。王曰く、「秦の我を攻めざるや、餘力を遺さじ。必ず倦めるを以て歸りしならん。」戦国時代、秦国が趙国を攻撃して大敗させ、両国とも体力も精神力も尽きた国に陥った。秦軍は撤退した後、使者を趙国に派遣し、領土の割譲を条件に講和を求めてきた。趙の孝成王は大夫の楼緩と相談し、土地を割譲して秦と講和を結ぶ方針を支持した。これを知った上卿の虞卿は趙王に謁見し、楼緩の降伏論を反駁した。虞卿は趙王に「秦国が撤兵したのは、精疲力尽して退いたのでしょうか、それともまだ力を残しているのに攻撃してこないのでしょうか」と尋ねた。趙王は「秦国が我が国を攻めた際は、すべての力を使い果たしており、少しの余力も残していなかった。精疲力尽したからこそ退いたのだ」と答えた。
後世、人々はこの「不遺余力」という成語を作り、物事を行う際にすべての力を出し切り、最大限の努力を傾けることを表すようになった。
放之四海而皆准(どんな所に置いてもみな正しい・真理はどこにでも適用できる)
原文
马克思、恩格斯、列宁、斯大林的理论,是“放之四海而皆准”的理论。不应当把他们的理论当作教条看待,而应当看作行动的指南。
マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの理論は「世界のどこにも適用する」理論である。その理論を教条としてあつかうべきではなく、行動の指針とすべきである。
《民族戦争における中国共産党の地位》
「放之四海而皆準(四海に放ちて皆准す・真理はどこにでも適用できる)」という語は、「礼記・祭義篇」の以下の記述に由来する。曾子曰く、夫れ孝は之れを置けば天地に塞ち、之れを溥けば四海に横り、諸を後世に施して朝夕なく、推して諸を東海に放りて準なり。・・・詩に云ふ、西より東より、南より北より、思うて服せざるなしとは、此れの謂ひなり。ここでの記述は、封建的な孝道が持つ普遍的な意義について述べており、「天地」や「四海」のあらゆる場所において孝道が基準とされないものはない、としている。「放之四海而皆準」という成語はこれに由来し、ある理論や思想が普遍的かつ共通の規範・基準となることを意味する。
毛主席はこの文章の中で、マルクス・レーニン主義の学説は単に特定の国家や民族だけに適用されるものではなく、「放之四海而皆準(真理はどこにでも適用できる)」普遍的真理であると教えている。我が党の任務は、数億の人民を率いて前例のない偉大な闘争を行うことであり、それゆえにマルクス・レーニン主義の理論を普遍的かつ深く学習・研究しなければならないのである。
学而不厌,诲人不倦(がくじふえん、かいじんふけん・学びて厭わず、人を誨えて倦まず)
原文
学习的敌人是自己的满足,要认真学习一点东西,必须从不自满开始。对自己,“学而不厌”,对人家,“诲人不倦”,我们应取这种态度。
学習の敵は自己満足である。なにかをしんけんに学ぼうとするには、自己満足しないことからはじめなければならない。自分にたいしては「学びて厭わず」、他人にたいしては「人を誨えて倦まず」、これがわれわれのとるべき態度である。
《民族戦争における中国共産党の地位》
「学而不厭(学んで厭わず=学んで満足しない・学びを飽きない)」、「誨人不倦(人を教えて倦まず=熱心に人を指導して倦むことがない)」という言葉は、『論語・述而篇』の以下の記述に由来する。「子曰く、黙して之を識しり、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我に有らんや。」これは、孔子が弟子たちに対して自身の学問の修め方や教育への取り組みについての感慨を語ったものであり、「学んだことを心の中で静かに記憶し、絶えず努力して学びを厭わず、忍耐強く人を教育して飽きることがない。これら以外に、私にとって何があろうか」という意味である。学習と教育における孔子の「学而不厭」「誨人不倦」という態度は、我々にとっても大いに推奨されるべきものである。
毛主席は孔子のこの二つの名言を引用し、「偉大な革命事業を成し遂げるためには、常に厳しく自己を律して努力学習しなければならない。また、同志に対しては忍耐強く手を差し伸べ、批判を基礎とした上で団結を強化すべきである」と熱心に戒めている。これこそが、我々の採るべき態度なのである。
先斩后奏
原文
只有根据国民党已经许可的东西(例如《抗战建国纲领》),独立自主地去做,无法“一切经过”。或者估计国民党可能许可的,先斩后奏。例如设置行政专员,派兵去山东之类,先“经过”则行不通。
国民党がすでにゆるしたもの(たとえば「抗戦建国綱領」)にもとづいて、独立自主でやる以外にない。あるいは、国民党がゆるすだろうと予想したものは、さきに処置してあとで報告するのである。たとえば行政専員の設置、山東への部隊の派遣などといったことは、さきに「通じ」るとすればやれなくなる。
《統一戦線における独立自主の問題》
「先斬後奏」という語は、『後漢書・酷吏伝序』の以下の記述に見られる。
「民に臨むの職、専ら威断を事とし、奸軌を族滅し、先行して後聞す」漢の時代、社会には豪富や不正を働く者が多く、また当時の人口の多さと領土の広さゆえに、少し地位の高さにある官吏が地方の政務を適時に把握することは困難であった。そのため、一部の官職は強横かつ独断で事を進め、時には罪を犯した者に対して事先報告なしに「滅族」の罪を課すことすらあった。即ち、「先に刑を行い、然る後に聞奏す」ということである。「先斬後奏」という語は、この「先行後聞」という語から演化したものである。本来の意味は「先に人を殺し、後になって上奏する」というものであった。現在では一般に、仕事においてある問題に対し事前に指示を仰がず、処理した後に上級へ報告することを形容して用いられる。
毛主席は抗日戦争時期、抗日統一戦線における独立自主の原則を堅持するよう全党に再三戒めた。しかし、右傾機会主義は「一切を統一戦線経由で行う」と主張したため、これは極めて有害であった。では、統一戦線における独立自主の原則をどのように堅持すべきか。毛主席は四つの状況に分けて対応すべきであると指摘した。すなわち、あるものは「先奏後斬(先に報告して後に処理する)」、あるものは「先斬後奏(先に処理して後に報告する)」、あるものは暫時に「斬而不奏(処理して報告しない)」、そしてまたあるものは暫時に「不斬不奏(処理も報告もしない)」とし、すべては抗戦の利益と革命の利益に基づいて決定されるべきであるとした。
贤人七十,弟子三千(けんじんしちじゅう、でしさんぜん)
原文
延安的青年们干了些什么呢?他们在学习革命的理论,研究抗日救国的道理和方法。他们在实行生产运动,开发了千亩万亩的荒地。开荒种地这件事,连孔夫子也没有做过。孔子办学校的时候,他的学生也不少,“贤人七十,弟子三千”,可谓盛矣。但是他的学生比起延安来就少得多,而且不喜欢什么生产运动。他的学生向他请教如何耕田,他就说:“不知道,我不如农民。”又问如何种菜,他又说:“不知道,我不如种菜的。”中国古代在圣人那里读书的青年们,不但没有学过革命的理论,而且不实行劳动。
延安の青年たちは何をしただろうか。かれらは革命の理論を学習し、抗日救国の道理と方法を研究している。かれらは生産運動をおこなって荒れ地を何千華畝、何万華畝も開墾した。荒れ地を開墾して耕作することは孔子さまさえやらなかった。孔子が学校をひらいたとき、その学生は多く、「賢人七十、弟子三千」、まことにさかんであった。だが、その学生は、延安にくらべるとはるかにすくなかったし、しかも生産運動などはこのまなかった。孔子は学生からどんなふうに田を耕すかときかれると、こういった。「知らない。わたしは農民にはおよばない。」また、どんなふうに野菜をつくるのかときかれると、かれはまた、こういった。「知らない。わたしは野菜をつくる人にはおよばない。」中国の古代、聖人のもとで勉強していた青年たちは、革命の理論を学んだことがなかったばかりか、労働もしなかった。
《青年運動の方向》
「賢人七十、弟子三千(賢人七十人、弟子三千人)」という言葉は、『史記・孔子世家』の以下の記述に由来する。「孔子、詩・書・礼・楽を以て教え、弟子は蓋し三千、身、六芸に通ずる者七十有二人あり。」これは「孔子は詩・書・礼・楽を用いて学生を教え、その弟子はおよそ三千人おり、自ら六芸(詩・書・礼・楽・易・春秋)に通じた者は七十二人いた」という意味である。
毛主席が原文において「賢人七十、弟子三千」を引用したのは、中国古代の著名な教育家である孔子が学校を開いた際、その学生が多かっただけでなく、優れた学芸を修めた者も少なくなかったことを説明するためである。
しかし、孔子はどこまでも封建社会初期における生産活動から離脱した教育家であり、彼が教えたのは一連の封建文化であった。彼の学生は延安と比べると、数量の面で遥かに少ないだけでなく、みな四体を動かさず、五穀の区別もつかない、実情から遊離して労働生産に参加しない人々であり、両者の間には本質的な違いが存在するのである。
甚嚣尘上(人の声がやかましくほこりが巻き上がる・反動的な議論が勢いを振るう)
原文
半年以来,由于日本诱降政策的加紧执行,国际投降主义者的积极活动,主要地还是在中国抗日阵线中一部分人的更加动摇,所谓和战问题竟闹得甚嚣尘上,投降的可能就成了当前政治形势中的主要危险;
この半年来、日本の投降へのさそいこみ政策の強化、国際投降主義者の積極的な策動、主として、中国の抗日陣営内の一部の人びとのいっそうの動揺によって、いわゆる和するか戦うかの問題がやかましくさわがれ、投降の可能性は、当面の政治情勢における主要な危険となり、
《投降の策動に反対せよ》
「甚囂塵上(甚だ囂しく、塵上に上る・反動的な議論が勢いを振るう)」という語は、「左伝・成公十六年」の以下の記述に由来する。「楚子、巣車(敵陣を観察するための背の高い車)に登りて晋軍を望む。 子重、大宰伯州犂をして王の後ろに待らしむ。王曰く、「甚だ囂しくして、且つ塵上れり。」曰く、「将に井を塞ぎ竈を夷げて行を為さんとするなり。」」春秋時代、晋国が鄭国を攻めた際、鄭国は楚国に救いを求め、楚国は鄭国を救援するために挙兵した。紀元前575年6月、晋軍と楚軍は鄭国の鄢陵で対峙した。楚国は晋軍が早朝で無備であることに乗じ、陣を張って戦いに備えさせた。この時、楚の共王は伯州犁を従えて車に登り、晋軍を遠望した。二人は状況を観察しながら会話を交わした。共王が伯州犁に「甚だ囂しく、且つ塵上に上れり(ひどく騒がしく、しかも塵が舞い上がっている)」と尋ねると、伯州犁は「晋軍は井戸を埋め、かまどを平らにして、軍中で陣を構える準備をしております」と答えた。「甚囂、且塵上矣」とは、晋軍が喧嘩紛乱し、地面の塵を舞い上げながら警戒・準備に忙殺されている状態を形容したものである。「甚囂塵上」という成語は、この言葉から生まれた。
毛主席がこの成語を用いたのは、国民党頑固派が日本の懐柔や英米の降伏勧告の下で、積極的に反共・降伏活動を準備していた。いわゆる「和戦問題」を巡って議論が紛紛とし、騒然となっていた状況を説明するためである。
莫予毒也(余を毒すること莫からん・自分を危うくするものはもういない)
原文
中华民族的历史任务是团结抗战以求解放,投降派欲反其道而行之,无论他们如何得势,如何兴高采烈,以为天下“莫予毒也”,然而他们的命运是最后一定要受到全国人民的制裁的。
中華民族の歴史的任務は解放をもとめるために団結し抗戦することであるのに、投降派はその反対の道をあゆもうとしており、かれらがどのように勢いをえ、どのように得意になり、世の中には「自分を危うくするものはもういない」と考えても、かれらは、最後には、かならず全国人民の制裁をうけるという運命にある。
《投降の策動に反対せよ》
「莫予毒也」という語は、「左伝・僖公二十八年」に出典がある。春秋時代の初期、南方の楚の勢力が強大化し、北方へと推進して北方の諸侯各国の脅威となった。その後、北方の晋が次第に強大化し、とりわけ晋の文公重耳が執政すると国勢はさらに強盛となった。このため晋と楚の間で諸侯の主導権を巡る矛盾が生じ、歴史上有名な城濮の戦いが勃発した。楚は令尹の成得臣(字は子玉)を統帥とした。この戦いにおいて、晋の文公は政治面で十分な動員を行い、楚を孤立状態に陥れた。さらに戦略・戦術面でも受動から能動へと転じる数々の有利な戦法をとったため、最終的に楚軍を大破した。楚軍の敗北に伴い、楚の主帥であった子玉は軍を率いて連谷まで引き返したが、楚王の恩赦を得られず自殺するしかなかった。当時、晋と覇権を争っていた楚の令尹であり作戦の統帥でもあった人物が自殺したため、「晉侯、之を聞きて、而る後に喜びしこと知る 可きなり。曰く、「余を毒すること莫からんのみ。」と記されている。これは、晋の文公が子玉の自殺を聞いて、「もはや自分に危害を加える者はいない」と大いに喜んで言った、という意味である。
毛主席はここで「莫予毒也」という語を用いて、蒋介石と汪兆銘が合流して投降画策を行い、積極的に反共を進めたその実質を深く見破り、暴き出したのである。
城下之盟
原文
在某种适合于日本的时机,日本将发起东方慕尼黑,以某种较大的让步为钓饵,诱胁中国订立城下之盟,用以达其灭亡中国的目的。
日本は、自分につごうのよい時機に東方ミュンヘンを提唱し、ある種の比較的大きな譲歩をえさにして、城下の盟を結ぶよう中国を誘惑、強迫し、それによって中国を滅ぼすという目的をはたそうとするでしょう。
《新しい国際情勢についての新華日報記者との談話》
「城下之盟」という語は、「左伝・桓公十二年」に出典がある。「楚、絞を伐ち、其の南門に軍す。莫敖屈假曰く、「絞は小にして輕し、輕ければ則ち謀寡し。請う樵を采る者を扞ること無くして以て之を誘わん(楊注:行軍には必ず樵を采るの役徒有り、樵を采るの時又必ず保衛の者有り)、」之に從う。絞人、三十人(楚の樵を采る者)を獲たり。明日、絞人、争い出でて、楚の役徒を山中に駆る。楚人、其の北門を坐(杜注:「坐」は猶ほ「守」なり)りて、諸を山下に覆(おそう、杜注:「覆」は伏兵を設けて之を待つ)う。大いに之を敗り、城下の盟いを為して還る。」とある。春秋時代、楚が絞国を攻めた際、軍でその南門を包囲した。楚軍は屈瑕の進言に従い、楚の薪拾いを護衛しないことで絞の人々を誘い出した。果たして絞の人々は罠にかかり、楚軍は絞軍を打ち破って、城下で講和条約を結ぶことを余儀なくさせ、勝利を収めて帰国した。
その後、敵に城下まで攻め入られ、屈服して無理やり講和を結ばせられることを例えて「城下之盟」と言うようになったのである。
亲痛仇快(味方を悲しませ、敵をよろこばせる)
原文
现在许多人的文章上常常有一句话,说是“无使亲痛仇快”。这句话出于东汉时刘秀的一位将军叫朱浮的写给渔阳太守彭宠的一封信,那信上说:“凡举事无为亲厚者所痛,而为见仇者所快。”朱浮这句话提出了一个明确的政治原则,我们千万不可忘记。
いま、多くの人びとの論文には、「味方を悲しませ、敵をよろこばせるようなことをしてはならない」ということばがよく出てきます。このことばは、東漢の劉秀の将軍朱浮という人が漁陽の大守彭寵におくった手紙に、「なにごとをするにも、味方や親しいものを悲しませ、仇をよろこばせるようなことをしてはならない」と書いたことから出たものです。朱浮のこのことばは一つの明確な政治原則を提起しています。われわれは、けっしてこれを忘れてはなりません。
《中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話》
「親痛仇快(しんつうきゅうかい・味方を悲しませ、敵をよろこばせる)」という成語は、「後漢書・朱浮伝」の「凡そ事を挙ぐるに、親厚とする者の痛む所と為りて、見仇とする者の快とする所とする事無かれ・なにごとをするにも、味方や親しいものを悲しませ、仇をよろこばせるようなことをしてはならない」に見られる。後漢時代、光武帝・劉秀の配下に朱浮と彭寵という二人の部下がいた。朱浮は気性が激しく、彭寵は頑固で功績を鼻にかける性格であった。二人は意見が合わず互いに争い、怨恨を深めていった。その後、朱浮が劉秀に彭寵のことを密告したため、劉秀は彭寵に帝都へ赴くよう命じた。しかし彭寵は命令に従わず、軍を率いて朱浮を攻撃した。朱浮は彭寵に手紙を送り、自身の前途のために軽挙妄動を慎むよう諭した。手紙には「およそどのような事を行うにしても、決して親しい者を痛心させ、敵対する者を喜ばせてはならない」と書かれていた。
後世の人々はこの二句を簡略化し、「親痛仇快」という成語にした。これは、問題に対処する際、身内に害を及ぼして敵に利益を与え、味方を悲しませて敵を喜ばせるような行動をとってはならない、という戒めを表すために用いられている。
笑里藏刀(しょうりぞうとう・笑いの中に刀を隠す)
原文
世界上多少人被张伯伦及其伙伴的甜蜜演说所蒙蔽,而不知道他们笑里藏刀的可怕,而不知道在张伯伦、达拉第决心拒绝苏联,决心进行帝国主义战争的时候,苏德才订立了互不侵犯条约;现在这些人应该觉悟过来了
世界の多くの人は、チェンバレンやその仲間たちの甘い演説にまどわされて、かれらの笑顔のかげにかくされている剣のおそろしさを知らないでいるし、また、チェンバレン、ダラディエがソ連を拒否する決意をし、帝国主義戦争をする決意をしたときにはじめてソ連がドイツと相互不可侵条約を結んだのだということを知らないでいる。いまは、これらの人びとも目ざめるべきである。
《ソ連の利益と人類の利益との一致》
「笑里藏刀(しょうりぞうとう・笑いの中に刀を隠す)」は、「新唐書・李義府伝」に由来する。唐の高宗の時代、奸臣である李義府は阿諛追従によって皇帝の信頼を勝ち取り、権力を掌中に収めた。「義府、貌は柔恭、人と立つに嬉怡として微笑す。而るに陰賊険忌、心に著る。凡そ意に忤う者は、皆これを中傷す。時、義府を号して「笑中の刀」と以す」と記されている。これは、李義府という人物が、表面上は人に対して穏やかで謙虚であり、笑顔で接していたものの、腹の中は陰険かつ嫉妬深かったことを意味する。自分に意の沿わない者はすべて中傷して陥れたため、当時の人々は彼の本性を見抜き、彼を「笑中の刀」と呼んだと言うことである。
「笑里藏刀」はこの「笑中刀」から派生した成語である。毛主席がこの成語を引用した意図は以下の点にある。第二次世界大戦初期、イギリスのチェンバレン首相やフランスのダラディエ首相らの類は、ドイツ・イタリア・日本といったファシズム諸国の侵略に対し、名目的には「不干渉」政策を掲げながら、実際には彼らをソ連侵攻へと積極的に誘導し、戦争を放置・助長することで、社会主義国家であるソ連を滅ぼそうと企てていた。したがって、チェンバレンやダラディエらのこうした画策こそが、まさに「笑里藏刀」であった、ということである。
箪食壶浆,以迎红军(たんしこしょう、いげいほんぐん)
原文
这几天的电讯,指明这些少数民族是怎样地箪食壶浆以迎红军,把红军看做他们的救星・・・
ここ数日らいの外電は、これらの少数民族がどのようによろこんで赤軍をむかえ、赤軍を自分たちの救いの星とみているかを明らかにしている。
《ソ連の利益と人類の利益との一致》
「箪食壺漿、以迎紅軍(たんしこしょう、もってこうぐんをむかえる)」という言葉は、「箪食壺漿、以迎王師」という成語を改変したものである。後者は「孟子・梁恵王下」に出典がある。「之を取りて燕の民悅ばば、則ち之を取れ。古の人ひと之これを行ふ者有り。武王是なり。之を取て而して燕の民悅ばずんば、則ち取る勿れ。古の人之を行ふ者有り。文王是なり。萬乗の国を以て萬乗の国を伐つ、簞食壺漿して、以王師を迎るは,豈に他あらんや、水火を避けんとすればなり、水の益々深きが如とく、火ひの益々熱きが如くならば、亦運らんのみ。」とある。戦国時代、斉が燕を破ったことがあった。斉の宣王は燕を併合しようと考え、その成否を孟子に尋ねた。孟子はこれに対し、併合するか否かは燕の庶民が望むかどうか次第であると答えた。斉が燕を打ち破った際、燕の民が竹かごに飯を盛り、ツボにスープを入れて王の軍隊を歓迎したのは、自国の水火のごとき悪政から逃れ出したいと望んだからにほかならない。もし斉が燕を占領し、人民に与える苦痛をさらに重くし、水がさらに深く火がさらに熱くなるような状況にするならば、燕の民は完全に反転して逃げ出し、再び別の者が自分たちを救ってくれることを望むようになるだけだ、と論じたのである。
毛主席が原文において「箪食壺漿、以迎紅軍」というフレーズを用いたのは、人民が自らの軍隊(紅軍)に対して寄せる深い愛情と熱烈な支持を形容するためである。
自给自足
原文
一、自给自足的自然经济占主要地位。农民不但生产自己需要的农产品,而且生产自己需要的大部分手工业品。地主和贵族对于从农民剥削来的地租,也主要地是自己享用,而不是用于交换。那时虽有交换的发展,但是在整个经济中不起决定的作用。
一、自給自足の自然経済が主要な地位をしめていた。農民は、自分に必要な農産物を生産したばかりでなく、自分に必要な大部分の手工業品をも生産した。また地主と貴族は、農民から搾取した小作料を、主として自分の消費にあて、交換にはあてなかった。当時、交換も発展していたが、経済全体のなかでは決定的な役割をはたさなかった。
《中国革命と中国共産党》
「自給自足」という言葉は「列子・黄帝篇」に見られる。昔、海外に神仙の島があり、島には列姑射山という山があった。山には多くの仙人が住んでおり、そこは気候が穏やかで順調で五穀が豊かに実っていた。すなわち、「施さず恵まざれども物は自ずから足り、聚めず斂めざれども己に愆なし」とされる世界であった。
毛主席は文章の中で、この言葉を「自給自足」と成語に改編して用い、封建社会における「男は耕し女は織る」という自然経済の形態を描写した。農民は自らの生産に依存して自らに供給し、自らのニーズを満たしており、交換は経済生活において決定的な役割を果たしていなかった発展段階である。
半途而废(半塗にして廢する・仕事・学習などをやりかけて途中で投げ出す)
原文
完成中国资产阶级民主主义的革命(新民主主义的革命),并准备在一切必要条件具备的时候把它转变到社会主义革命的阶段上去,这就是中国共产党光荣的伟大的全部革命任务。每个共产党员都应为此而奋斗,绝对不能半途而废。
中国のブルジョア民主主義革命(新民主主義革命)を達成するとともに、すべての必要条件がそなわったときそれを社会主義革命の段階に転化させること、これが中国共産党の光栄ある偉大な革命的任務の全部である。共産党員の一人ひとりは、このために奮闘すべきであって、絶対に中途でやめてはならない。
《中国革命と中国共産党》
「半途而廃(中途半端にやめること)」という言葉は『礼記・中庸』に由来する。子曰く、「君子道に遵ひて行ひ、半塗にして廃するも、吾は已むこと能はず。(君子は道に従って歩むが、途中でやめてしまう者がいる。しかし私はやめることができない)」とある。
これは孔子の言葉である。孔子は中庸の道を強く主張した。教養のある人は物事を行う際、常に一定の軌道(すなわち中庸の道)や道筋に従って前進すべきであり、決して途中で取りやめてはならないと論じた。「半途而廃」とは、途中で中止してしまい、最後までやり遂げないことを意味する。
嘤其鸣矣,求其友声(鳥の嚶々と鳴くは友を求むる声)
原文
我们中国人民,是处在历史上灾难最深重的时候,是需要人们援助最迫切的时候。《诗经》上说的:“嘤其鸣矣,求其友声。”我们正是处在这种时候。
われわれ中国人民は、歴史上災難のもっともひどい時期、他人の援助をもっとも切実に必要とする時期におかれている。『詩経』には「鳥の嚶々と鳴くは友を求むる声」ということばがあるが、われわれはまさにそういう時期におかれている。
《スターリンは中国人民の友である》
「嚶其鳴矣、求其友声(嚶として其れ鳴く、其の友を求むる声あり。)」は「詩経・小雅・伐木」の一節、「木を伐ること丁丁たり、鳥の鳴くこと嚶嚶たり。幽谷より出でて、喬木に遷る。嚶として其れ鳴く、其の友を求むる聲あり。(山の木を伐る音がとうとうと木霊が響く、森に住む鳥たちが朋友が励まし合い呼び合っている、奥深い谷から鳥たちが飛び立ち、安全な高い木々に遷りと停まる、鳥でさえ共に生きて行こうと友を呼び合う声がする)」に由来する。「嚶其鳴矣、求其友声」とは、鳥が木の上で嚶嚶と鳴いているのは、仲間の声を求めているからだという意味である。ここでは鳥が友を求めることに見立てて、社会における人間もまた友なしではいられないことを比喩的に表している。
毛主席はここで『詩経』のこの言葉を引用し、世界中の被抑圧民族や各国の働く人々は互いに友人であり、相互に支持し合い、援助し合うべきであることを説明した。
口蜜腹剑(こうみつふくけん・口に蜜有り腹に剣有り)
原文
李林甫是唐朝的宰相,是一个有名的被称为“口蜜腹剑”的人。现在这些所谓朋友,正是“口蜜腹剑”的朋友。这些人是谁呢?就是那些口称同情中国的帝国主义者。
李林甫は唐代の宰相で、「口に蜜あり、腹に剣あり」といわれた有名な人物である。いまのそうしたいわゆる「友」は、それこそ「口に蜜あり、腹に剣あり」という友である。それはだれであろうか。口先では中国に同情するといっている帝国主義者である。
《スターリンは中国人民の友である》
「口蜜腹剣」という成語は「資治通鑑・唐紀」に由来する。「李林甫 相と為り、凡そ才望功業 己の右に出づる者、及び上に厚くせられ、勢位 将に己に迫らんとする者には、必ず百計して之を去る。尤も文学の士を忌む。或いは陽に之と善くし、咯(客)するに甘言を以てして陰に之を陥る。世 謂う、李林甫は口に蜜有り、腹に剣有りと」。
唐の玄宗の時代、李林甫が宰相を務めていた。彼は自分より才能や声望に優れ、あるいは皇帝の寵愛を受けて地位が自分に迫りそうな者を非常に妬み、あらゆる手段を用いて暗害し、排斥しようとした。人と付き合う際には、表面上は非常に誠実で優しそうに装い、甘く心地よい言葉をかけるが、腹の中では相手を陥れる悪計を抱いていた。そのため当時の人々は、このような偽善者である彼を「口に蜜あり、腹に剣あり」と評した。
「口蜜腹剣」は、この「口有蜜、腹有剣」から簡略化されたものである。現在では、心と口が一致せず、陰険で狡猾な偽善者を形容する言葉として用いられている。
引玉之砖(ほうせんいんぎょく・磚(煉瓦)を投げ捨てて、玉を引き出す)
原文
对于全国先进的文化工作者,我们的东西,只当作引玉之砖,千虑之一得,希望共同讨论,得出正确结论,来适应我们民族的需要。
全国の進歩的な文化活動家にとって、われわれのものは、さしずめよい意見をひきだすよび水、せめてものとりえというほどのものにすぎないが、みんなで討議して正しい結論をひきだし、わが民族の要求にこたえるようにしたいとおもう。
《新民主主義論》
「引玉之磚(ほうせんいんぎょく・磚(煉瓦)を投げ捨てて、玉を引き出す)」という言葉は「伝灯録」に見られる。「趙州念念(稔)にして大衆に謂う、問いを立てる者有らば出来せよと。一個便ち出て礼拝す。稔曰く、比来磚を抛ちて玉を引くに、却って一個の鑿子を引き得たりと」。伝説によると、唐代の詩人である常建は、当時著名であった詩人の趙嘏の詩を日頃から仰慕していた。ある時、趙嘏が呉の地にやってくると知り、常建は彼が必ず霊岩寺を訪れると考え、寺の壁にあらかじめ二句の詩を書き残しておいた。その後、趙嘏が寺を訪れると、果たして未完成の二句を目にし、その後に二句を書き足して一首の詩を完成させた。常建の詩は趙嘏の詩には及ばなかったため、後世の人々は常建のこの試みを「抛磚引玉(レンガを投げて玉を引き寄せる)」と呼ぶようになった。これは「自分からレンガを投じることで、価値ある玉を引き出す」という意味である。「引玉之磚」はこの「抛磚引玉」から派生した表現である。後に人々は、自分の意見が拙いことをへりくだり、他者の高論を引き出す契機にしたいという意味で「抛磚引玉」という言葉を借りるようになった。
毛主席が文章の中でこの言葉を引用したのも、同じく謙遜の言葉として用いたものである。
千虑之一得
原文は上記の文章と同上なので省略。
「千慮之一得」は「史記・淮陰侯列伝」の「廣武君曰く、「臣聞く、智者も千慮に必ず一失有り。愚者 も千慮に必ず一得有り、と。故に曰く、『狂夫の言も、聖人焉を擇ぶ』。」という一節に由来する。前漢の時代、韓信が兵を率いて趙国を攻め、趙軍を破った際、彼は使いをやって趙の策士である広武君・李左車を連れてこさせた。韓信は、自ら北の燕国を攻め、東の斉国を撃つという計画を広武君に明かして助言を求めた。広武君は再三辞退したのち、「智者も千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得ありと聞き及んでおります」と述べ、自身の意見を述べた。その後、韓信は広武君の意見に基づいて当初の計画を修正し、燕と斉を征服したのである。
「千慮一得」とは、どんなに愚鈍な人間であっても、何度も考えをめぐらせれば一つくらいは正しい考えに至るという意味である。これはもともと李左車の謙譲の言葉である。
毛主席が文章の中でこの言葉を引用したのも、自身の意見を謙遜して表現したものである。
向隅而泣(片すみで涙をながす)
原文
这就是现时中国革命的历史特点。在中国从事革命的一切党派,一切人们,谁不懂得这个历史特点,谁就不能指导这个革命和进行这个革命到胜利,谁就会被人民抛弃,变为向隅而泣的可怜虫。
これが現在の中国革命の歴史的特徴である。革命にたずさわっている中国のすべての政党、すべての人びとで、この歴史的特徴がわからないものは、この革命を指導することも、この革命を勝利にみちびくこともできず、ついには人民からみすてられて、片すみで涙をながすあわれな存在になってしまうであろう。
《新民主主義論》
「向隅而泣(隅に向かいて泣く)」という言葉は「説苑・貴徳」の「聖人の天下におけるや、譬猶一堂の上のごときなり。今 堂に満ちて飲酒する者有るに、一人独り索然として隅に向かいて泣く者有らば、則ち一堂の人 俱に楽しまざらん」に由来する。「隅」とは部屋の隅のことであり、「向隅而泣」とは部屋の角を向いて泣くことを意味する。後世、人々はこの「向隅而泣」という言葉を用いて、孤独で失望した悲観者を例えるようになった。
ここで毛主席は「向隅而泣」という言葉を用い、中国革命の過程においては中国歴史の特徴を理解して初めて中国革命の性質を解明できるのであり、これこそが革命を勝利に導く第一の重要問題であると教導している。さもなければ、「左」傾あるいは右傾の過ちを犯し、人民に見捨てられて隅で泣くような哀れな存在になってしまうのである。
循名责实(名に循いて實を責む・名実相伴うことを求める)
原文
我们现在虽有中华民国之名,尚无中华民国之实,循名责实,这就是今天的工作。
われわれはいま中華民国という名はもっているが、まだ中華民国の実をともなっていない。その名にふさわしく実をととのえていくこと、これこそがこんにちの仕事である。
《新民主主義論》
「循名責実(名に循いて実を責む)」という言葉は『韓非子・定法』の「術は、任に因りて官を授け、名に循いて實を責め、殺生の柄を操り、群臣の能を課する者なり。此れ人主の執る所なり。」に由来する。韓非子は戦国時代末期の偉大な唯物論思想家であり、前期法家の重要人物である。「循名責実」論は彼の唯物論的認識論における重要な理論である。「循名責実」とは、名称に基づいて実際の形体を追求し、両者を合致させることを意味する。通常は、名目に基づいて実質を求め、名実を相符合させることの比喩として用いられる。
毛主席が「循名責実」という言葉を引用したのは、中華民国が各革命階級の連合専政による新民主主義共和国であるべきであることを説明するためであった。しかし、国民党の専制支配下においては、中華民国という名ばかりで、中華民国の実質が存在しなかった。それゆえ我々は、名に基づいて実質を追求し、名実ともに備わった新民主主義共和国の実現に努めるべきであるとしたのである。
捷足先登(足の速い者は人より先に目的地に着く)
原文
但是这种新的“剿共”事业,不是已经有人捷足先登、奋勇担负起来了吗?这个人就是汪精卫,他已经是大名鼎鼎的新式反共人物了。
ところが、その新しい「共産党討伐」事業を、足はやにぬけがけして勇ましくも買ってでた人物があらわれたではないか。汪精衛がそれだ。かれはすでに名声とどろく新しい型の反共の人物である。
《新民主主義論》
「捷足先登(素早い者が先に上り詰める)」は「捷足先得」とも書き、『史記・淮陰侯列伝』の「秦、其の鹿を失い、天下共に之を逐う。是に於て高材疾足の者、先づ焉を得たり。」という一説に由来する。秦代の末年、韓信が斉王の田広を破って凄まじい勢勢を誇った際、劉邦は韓信の叛逆を恐れて彼を斉王に封じた。この時、弁士の蒯通は韓信に対し、劉邦を裏切って項羽と手を組み、まずは天下を三分した上で全国を統一するよう勧めた。しかし韓信は、自らに対する劉邦の恩義を思い起こし、蒯通の提案を受け入れなかった。その後、劉邦は韓信の力を借りて項羽を滅ぼした後、韓信を淮陰侯に降格させた。韓信は不満を抱き、巨鹿に駐屯する陳豨と密かに連絡を取り合って劉邦の支配を覆そうと企てた。間もなく劉邦が兵を率いて陳豨を打ち討ちに向かうと、韓信も密謀が漏れて劉邦の妻(呂后)に捕らえられ処刑された。処刑に臨んで韓信は「蒯通の計略を聞かなかったことが悔やまれる」と溜息をついて語った。戦勝して帰還した劉邦は韓信の臨終の言葉を知ると、蒯通を引き出して釜茹での刑に処そうとした。蒯通は大声で無実を訴えた。劉邦がその理由を尋ねると、蒯通は次のように答えた。「秦の残暴な支配に対して人民は次々と立ち上がりました。『秦がその鹿(天下)を失うや、天下は挙ってこれを追い、優れた才能を持ち足の速い者が真っ先にこれを得た』のです。犬は主人のために、常に知らぬ者に向かって吠えるもの。当時、私はただ韓信を知るのみで、あなた様の存在を知りませんでした。天下が混乱していた頃、皆があなた様のなそうとしたことを望んでいましたが、ただ力量が及ばなかったに過ぎません。あなた様はこれらすべての人々を煮殺すおつもりですか」。劉邦は彼の言に理があるとし、蒯通を釈放した。後世の人々は蒯通の「疾足の者、先づ焉を得たり」という言葉を引用して「捷足先得(素早い者が先に得る)」とし、才能に優れ足の速い者が真っ先に目的を達することを説明するようになった。
毛主席がこの言葉を引用したのは、汪精衛がすでに敵に投降して反共を図る「急先鋒」となったことを説明するためであった。
日薄西山,气息奄奄,人命危浅,朝不虑夕(日は西山にせまり、気息奄々、生命も危うく、朝に夕をはかりがたし)
原文
资本主义的思想体系和社会制度,已有一部分进了博物馆(在苏联);其余部分,也已“日薄西山,气息奄奄,人命危浅,朝不虑夕”,快进博物馆了。
資本主義の思想体系と社会制度も、一部ではすでに博物館にはいっているが(ソ連では)、他の部分でも、すでに「日は西山にせまり、気息奄々、生命も危うく、朝に夕をはかりがたし」であって、まもなく博物館入りするであろう。
《新民主主義論》
これら四つの言葉は李密の『陳情表』にある「但以うに、劉、日に西山に薄りて、気息奄々たり。人命、危に浅する、朝に夕を慮はかられず。」に由来する。李密の文章においては、彼の祖母が年老いて身体が弱り、今にも死に瀕している様子を説明している。まるで西の山に沈もうとする太陽のように息も絶え絶えであり、朝には夕方の無事を保てないほどの状態であるため、皇帝に状況を申し述べて老祖母の介護のために留まることを乞い、当面は朝廷へ仕えるのを見合わせたいと願った(第四巻「煢煢孑立、形影相吊」の項目を参照)。
毛主席がこれらの言葉を引用したのは、世界の資本主義制度がすでに死に瀕した時代に突入していることを説明するためであった。
偃旗息鼓(軍旗を伏せ軍鼓をやめる)
原文
可是,因为中国资产阶级的无力和世界已经进到帝国主义时代,这种资产阶级思想只能上阵打几个回合,就被外国帝国主义的奴化思想和中国封建主义的复古思想的反动同盟所打退了,被这个思想上的反动同盟军稍稍一反攻,所谓新学,就偃旗息鼓,宣告退却,失了灵魂,而只剩下它的躯壳了。
ところが、中国のブルジョア階級が無力であったことと世界がすでに帝国主義の時代にはいっていたことによって、このようなブルジョア思想は、出陣して数合のうち合いをみただけで、外国帝国主義の奴隷化思想と中国封建主義の復古思想との反動同盟によって撃退されてしまい、いわゆる新学はこの思想上の反動同盟軍のちょっとした反撃に、たちまち旗をまいて、なりをしずめ、退却を宣し、魂も消しとび、わずかにその形骸を残すのみとなった
《新民主主義論》
「偃旗息鼓(旗を伏せ鼓を止む)」という言葉は『三国志・蜀志・趙雲伝』に由来する。裴松之の注が引く『趙雲別伝』には、「曹操の軍は追って囲に至ったが、この時、沔陽県長の張翼が雲囲の内にあり、張翼は閉門して拒守しようとしたが、趙雲は入営すると更めて大いに開門させ、旗を伏せて鼓を休ませた。曹操の軍は趙雲に伏兵があるかと疑い、引き去った。」とある。三国時代、魏と蜀の二国が戦っていた際、蜀の将軍である趙雲と黄忠は命を受けて曹操軍の兵糧を奪う作戦に出た。その後、趙雲、黄忠、張著らは曹操軍に分断されて包囲されたが、趙雲は曹操軍を突破し、黄忠と張著を救出した。この時、曹操が自ら大軍を率いて援軍に駆けつけ、趙雲の部将である張翼は大群の曹操軍が追撃してくるのを見て、門を閉ざして防衛することを主張した。趙雲はこれを聞き入れず、砦の門を大きく開け放ち、旗を倒し、太鼓を叩くのを止めさせ、砦の外に弓矢手を潜ませると、自身はただ一人槍を手に砦の門前に立った。間もなく曹操軍が追いついたが、この光景を目にして大量の伏兵がいるのではないかと疑い、攻撃を躊躇して撤退した。蜀将の趙雲が曹操軍の追撃を受けた際、部隊に命じて旗を巻き、太鼓を止めさせて行方を眩まし、敵を混乱させたこの様を象徴的に「偃旗息鼓」と呼んだのである。後世の人々はこの成語を用いて、軍隊が形跡を隠して目標を暴露しない様子を表すようになり、また戦闘の休止や論争・喧嘩の沈静化を例える際にも用いるようになった。
毛主席が文章の中でこの言葉を引用したのは、闘争を停止させるという意味においてである。
奴颜媚骨(追従者の卑屈な態度)
原文
鲁迅是中国文化革命的主将,・・・鲁迅的骨头是最硬的,他没有丝毫的奴颜和媚骨,这是殖民地半殖民地人民最可宝贵的性格。
魯迅は中国の文化革命の主将であり、・・・魯迅の背骨はもっともかたく、かれには奴隷の根性やへつらいの態度がいささかもなかった。これは植民地、半植民地人民のもっとも貴重な性格である。
《新民主主義論》
「奴顔媚骨(奴隷のような卑屈な面つきと媚び諂う態度)」は「奴顔婢膝(奴隷や女中のように膝を折り頭を下げて諂うこと)」という成語から転化したものであり、『抱朴子・交際篇』の「特立独立する者を以て渋客疎拙となし、奴顔婢膝なる者を以て当事を暁解すとなす」に由来する。また『宋史・陳仲微伝』にも「首を伏せ心を吐き、奴顔婢膝す」と見られる。「奴顔媚骨」とは、奴隷のような顔つきや卑しい骨組み(下品な気性)を意味し、卑劣かつ恥知らずに他人にへつらい屈服する様子を形容する言葉である。
一败涂地(一敗地にまみれる・再び立ち上がれないほどひどく負ける)
原文
其中最奇怪的,是共产党在国民党统治区域内的一切文化机关中处于毫无抵抗力的地位,为什么文化“围剿”也一败涂地了?这还不可以深长思之吗?而共产主义者的鲁迅,却正在这一“围剿”中成了中国文化革命的伟人。
なかでも、もっとも不思議なことは、国民党支配区内のすべての文化機関で、共産党がまったく抵抗する力のない立場におかれていたにもかかわらず、どうして文化的「包囲討伐」までが一敗地にまみれたかということである。それでもなお深く考えないでいられるだろうか。共産主義者の魯迅は、まさしくこの「包囲討伐」のなかにあって、中国の文化革命の偉人となったのである。
《新民主主義論》
「一敗塗地(一敗地にまみれる)」という言葉は『漢書・高祖本紀』の「高祖曰く、『天下 方に乱れ、諸侯 並び起きる。今 将を置くこと善からざれば、一敗 塗地せん。吾 敢えて自らを愛するにあらず、恐らくは能薄く、父兄の業を完うする能わざらん。此れ大事なり、願わくは更によろしき者を択べ』と」に由来する。これは劉邦が沛県の人民から県令として推戴された際に語った言葉である。秦の二世皇帝の元年、陳勝(陳渉)が大沢郷で挙兵して暴虐な秦の支配に反旗を翻すと、各族の人民がこれに応じた。沛県の県令もまた、国外に流亡していた人々を呼び戻して挙兵に参加させようとした。しかし、沛県の泗水亭長であった劉邦が多くの流亡労働者を率いて戻ってくると、県令は彼らの勢力が大きいのを見て指揮に従わないのではないかと恐れ、城門を固く閉ざして入城を拒んだ。劉邦は城内に向けて手紙を射ち込み、元の県令を殺して新たな県令を選び、ともに挙兵に応じようと人民に呼びかけた。結果として人民は県令を殺害して劉邦を城内に迎え入れ、彼に県令となってほしいと請うた。劉邦は謙遜して、「現在、天下の諸侯が兵を挙げて秦に反逆しており、情勢は緊迫している。もし県令の人選を誤れば『一敗塗地』となってしまうだろう。私自身の能力には限りがあり、父老兄弟の皆様の重責を果たせないのではないかと恐ろしい。……どうか他に才能ある者を選んでいただきたい」と述べた。
「一敗塗地」とは、戦いに敗れて命を落とし、肝脳が地面にぶちまけられる(塗られる)ことを意味する。後世、人々はこの言葉を用いて、壊滅的な敗北を喫して手遅れになる様を比喩するようになった。
生吞活剥(せいどんかっぱく・他人の理論・方法・経験などをそのまま機械的に受け入れる)
原文
但是一切外国的东西,如同我们对于食物一样,必须经过自己的口腔咀嚼和胃肠运动,送进唾液胃液肠液,把它分解为精华和糟粕两部分,然后排泄其糟粕,吸收其精华,才能对我们的身体有益,决不能生吞活剥地毫无批判地吸收。
だが、すべて外国のものは、われわれが食物にたいするのと同様に、それをからだに有益なものとするためには、ぜひとも自分の口で咀嚼し、胃腸の運動をつうじて、それに唾液、胃液、腸液をおくり、それを粋と滓の二つに分解したうえで、滓を排泄し粋を吸収しなければならず、けっしてなまのままうのみにして無批判に吸収してはならない。
《新民主主義論》
「生吞活剥」という成語は、『唐詩記事』に由来する。唐の高祖の時代、李義府という有名な詩人が次のような詩を詠んだ。「月を鏤めて歌扇となし、雲を裁ちて舞衣と作す。自ら雪を回らすの影を怜み、好し洛川を取って帰らん」当時、棗強尉の張懐慶という者がおり、名士の文章を盗用することを好んでいた。彼は李義府の五言詩を盗み、文理の通らない七言詩へと改変してしまった。「生情に月を鏤めて歌扇となし、出性に雲を裁ちて舞衣と作す。照鑑して自ら雪を回らすの影を怜み、来たる時好し洛川を取って帰らん」これにより、彼は周囲から多くの失笑を買うこととなった。当時の人々は彼を嘲笑して、「張昌齢を活剥し、郭正一を生呑す」と言った。これ以来、張懐慶が他人の文章を盗用した笑い話を指して、「生呑活剥」と呼ぶようになったのである。
毛主席が文章の中でこの成語を引用した際、それは外国の先進的な文化や古代の文化遺産に対して、機械的に丸呑みして模倣するのではなく、批判的に吸収しなければならないという意味を込めたものであった。
双管齐下
原文
在上述情况下,党的任务就在于:一方面,坚决反抗投降派顽固派的军事进攻和政治进攻;又一方面,积极发展全国党政军民学各方面的统一战线,力争国民党中的大多数,力争中间阶层,力争抗战军队中的同情者,力争民众运动的深入,力争知识分子,力争抗日根据地的巩固和抗日武装、抗日政权的发展,力争党的巩固和进步。如此双管齐下,就有可能克服大地主大资产阶级的投降危险并争取时局的好转前途。
以上のべた状況から、党の任務は、一方では、投降派や頑迷派の軍事攻勢と政治攻勢に断固反抗することであり、また他方では、政党、政府、軍隊、民衆、知識層など各方面の全国的な統一戦線を積極的に発展させて、極力、国民党内の大多数をたたかいとり、中間層をたたかいとり、抗戦部隊内の共鳴者をたたかいとり、民衆運動の深化をたたかいとり、知識人をたたかいとり、抗日根拠地の強化と抗日武装組織、抗日政権の発展をたたかいとり、党の強化と進歩をたたかいとることである。このように両方の任務を同時にすすめていくならば、大地主・大ブルジョア階級の投降の危険を克服し、時局の好転の前途をかちとることが可能となる。
《投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとろう》
「双管斉下」という言葉は、張彦遠の『歴代名画記』に由来する。唐代の著名な大画家である張璪は松を描くことを得意とした。彼が松を描く際、「能く双管を握り、一時に斉しく下す。一は生枝と為り、潤いは春の渾てを含み、一は枯幹と為り、惨として秋色と同じ」と評された。そうして描かれた松は生き生きとして迫真的であり、当時の人々は彼の絵を「神品」と称えた。後世の人々は、張璪が両手に一本ずつ筆を握って同時に作画する様子や技法を指して「双管斉下」と呼ぶようになった。
現在では、二つの仕事や対策を同時に効率よく進めることの比喩としてよく用いられている。
挂羊头,卖狗肉(羊頭を掲げて狗肉を売る)
原文
那种假统一论,不合理的统一论,形式主义的统一论,乃是亡国的统一论,乃是丧尽天良的统一论。他们要把共产党、八路军、新四军和民主的抗日根据地消灭,要把一切地方的抗日力量消灭,以便统一于国民党。这是阴谋,这是借统一之名,行专制之实,挂了统一这个羊头,卖他们的一党专制的狗肉,死皮赖脸,乱吹一顿,不识人间有羞耻事。
あのにせの統一論、不合理な統一論、形式主義的な統一論は、亡国の統一論であり、良心のひとかけらさえないものの統一論である。かれらは共産党、八路軍、新四軍、民主的抗日根拠地を消滅し、すべての地方の抗日勢力を消滅して、国民党に統一しようとしている。これは陰謀である。これは、統一に名をかりて専制の実をおこなうものであり、統一という羊頭をかかげて、かれらの一党専制という狗肉を売るものであり、ずうずうしくでたらめをならべたてて、まったくこの世に恥というもののあることを知らないものである。
《すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう》
「掛羊頭、売狗肉(羊頭を掲げて狗肉を売る)」は『晏子春秋・内篇雑下』に由来する。斉の霊公が晏子に「寡人 吏をして女子の男子の飾を為すを禁じ、其の衣帯を裂断するも、相望みて止まざるは何ぞや(私が役に命じて女が男装するのを禁止させ、服や帯を引き裂かせているのに、互いに見合わせるばかりで一向に止まないのはなぜか)」と尋ねた。晏子は「君 これを内に服せしめて、これを外に禁ずるは、猶牛首を門に懸けて馬肉を内に売るがごときなり。公 何ぞ内に服すること勿からしめざん、則ち外も敢えて為す莫からん(お上は宮中でそれを着せながら、屋外で禁止しておられます。これは門に牛の頭を吊るしながら、奥で馬肉を売るようなものです。なぜ宮内でも着させないようにしないのですか。そうすれば外でも誰も男装をしなくなるでしょう)」と答えた。斉の霊公は宮中の女性が男装することを好んだため、斉の国の女性たちがみなこれを模倣するようになった。霊公はこれに気づくと役人を派遣して禁止させようとしたが、結局止めることができなかった。ある日、晏子が霊公に拝謁した際、霊公はこの件を打ち明け、なぜ禁止できないのかと尋ねた。晏子は景公に対し、宮中では女の男装を推奨しながら、屋外ではそれを禁止しているのは、門に牛の頭を掲げて奥で馬肉を売るようなものだと語った。そして、もし宮内でも禁止すれば、外の女性たちも男装をしなくなるだろうと告げた。
後世の人々は、霊公のこのような内と外で言行が一致しないやり方を「牛首を門に懸けて、馬肉を内に売る」と例えた故事に基づき、これを「掛羊頭、売狗肉(羊頭狗肉)」という言葉へと転化させ、表裏が一致しない虚偽の作風を例えるのに用いるようになった。
招摇过市(しょうようかし・わざと仰々しくふるまって盛り場を通り過ぎる)
原文
然此乃公开之汪精卫,尚未语于暗藏之汪精卫也。若夫暗藏之汪精卫,则招摇过市,窃据要津;匿影藏形,深入社会。贪官污吏,实为其党徒;磨擦专家,皆属其部下。
しかし、それは公然たる汪精衛のことであって、かくれた汪精衛についてはまだふれられていない。かくれた汪精衛にいたっては、政府の要職をぬすみとって、大手をふってのしあるき、あるいは社会にふかくもぐりこんで、影をひそませている。汚職官吏はまさにその一味であり、摩擦専門家はみなその部下である。
《国民党にたいする十項目の要求》
「招揺過市」という言葉は、『史記・孔子世家』の以下の記述に由来する。「孔子・・・衛に居ること月余、霊公、夫人と車を同じうし、宦者雍渠、参乗して出づ。孔子をして次乗(後ろの車に乗って御伴する)と為らしめ、市を招揺(自由気ままに歩き回る)し、之を過ぐ。孔子曰く、「吾、未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり。」是に於いて之を醜じ、衛を去り、曹に過る。」『史記』における「招揺過市」は、衛の霊公が外出する際、夫人と同じ車に乗り、宦官を侍らせて大威張りで街中を巡る様子を描写したものである。後世、この言葉は、人々の前で何の憚りもなく大威張りで歩き回る(見せびらかすように練り歩く)様子を形容するのに用いられるようになった。
投畀豺虎(悪人を山犬やトラに投げ与える・悪人に対する深い恨みを晴らす)
原文
若无全国讨汪运动,从都市以至乡村,从上级以至下级,动员党、政、军、民、报、学各界,悉起讨汪,则汪党不绝,汪祸长留,外引敌人,内施破坏,其为害有不堪设想者。宜由政府下令,唤起全国人民讨汪。有不奉行者,罪其官吏。务绝汪党,投畀豺虎。此应请采纳实行者一。
都市から農村まで、上級から下級まで、政党、政府、軍隊、民衆、新聞、知識層の各界をこぞって汪精衛糾弾に立ちあがらせる全国的な汪精衛糾弾運動がなければ、汪一味は根絶できず、汪の災いはいつまでもつづき、外からは敵をひきいれ、内からは破壊をおこない、その害は想像を絶したものとなるであろう。政府は、汪精衛を糾弾するよう全国人民の喚起をうながす命令をくだすべきである。それを執行しないならば、その官吏を罪に問うべきである。汪一味は虎狼の餌食にしてもあきたらず、ぜひとも根絶しなければならない。これが採択し実行してもらいたいことの第一である。
《国民党にたいする十項目の要求》
「投畀豺虎」という成語は、『詩経・小雅・巷伯』の以下の記述に由来する。「彼の人を譖づる者、誰を適として與に謀れる。彼の譖づる人を取りて、豺虎に投げ畀えん。」これは迫害を受けた人物——詩人である孟子が、迫害に対して放った怒りの抗議である。その意味は、「他人を陥れる者どもは、いったい誰を頼みにして悪だくみを巡らせているのか。あのような小人を引っ捕らえ、山犬や狼、虎や豹の餌食にしてしまうべきだ!」というものである。
毛主席が原文においてこの言葉を引用したのは、公然と裏切った汪兆銘はすでに敵に寝返って売国行為に走ったが、潜伏した汪兆銘——すなわち国民党頑固派、貪官汚吏、反共エキスパートの類は依然として存在している、という文脈においてである。消極的な抗日運動と積極的な反共・反人民活動を行うこれらの汪兆銘一派を、根絶やしにすべきであるということを示している。
司马昭之心,路人皆知矣(司馬昭の心は道行く人までみな知っている)
原文
盖自汪精卫倡言反共亲日以来,张君劢、叶青等妖人和之以笔墨,反共派、顽固派和之以磨擦。假统一之名,行独霸之实。弃团结之义,肇分裂之端。司马昭之心,固已路人皆知矣。
汪精衛が反共親日をとなえていらい、張君勱、葉青らの化け物どもは筆をもってそれに呼応し、反共派、頑迷派は摩擦をもってそれに呼応している。かれらは統一に名をかりて独裁の実をおこない、団結の大義をすてて、分裂のいとぐちをつくっている。司馬昭の心は、もとより世間の人がみな知るところである。
《国民党にたいする十項目の要求》
「司馬昭の心は、路人も皆知る(司馬昭の野心は、誰もが知っている)」という言葉は、『三国志・魏書・高貴郷公伝』に由来する。裴松之の注釈が引く『漢晋春秋』には、次のように記されている。「帝、権威の日に去るを見て、その忿りに勝へず、乃ち侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業を召して謂ひて曰く、『司馬昭の心は、路人の知る所なり。吾、坐して廃辱を受けるに能はず、今日当に卿等と自ら出てこれを討つべし』と」この故事の背景は以下の通りである。魏王朝の曹髦の治世下において、実権はすでに大将軍の司馬昭の手へと渡っていた。司馬昭が皇位簒奪を企んでいることを悟った曹髦は不安を募らせ、側近の官吏たちを集めて対策を協議した際、「司馬昭の心は、路人の知る所なり」と憤りを口にした。その後、司馬昭は果たして曹髦を殺害した。
毛主席がこの言葉を引用したのは、国民党の蒋介石ら反共頑固派が売国奴の汪兆銘に調応し、積極的に反共・親日の陰謀を繰り広げている事実は、すでに誰の目にも明らかである、ということを指摘するためである。
重足而立,侧目而视(あしをかさねてたちめをそばだててみる・足を重ねて立ち目を側てて見る)
原文
使通国之人重足而立,侧目而视者,无过于此辈穷凶极恶之特务人员。为保存政府威信起见,亟宜实行取缔,加以改组,确定特务机关之任务为专对敌人及汉奸,以回人心而培国本。
これらの極悪非道の特務ほど、全国の人びとの足をすくませ、目をそばめざせるものはない。政府の威信を保つ見地から、人心をとりもどし国の基礎をかためるため、すみやかに特務機関をとりしまり、改組し、その任務をもっぱら敵と民族裏切り者に対処するものであると確定すべきである。
《国民党にたいする十項目の要求》
注:国民党の特務機関とは、蒋介石集団が革命運動を弾圧し、共産党員、愛国的な人びと、進歩的な青年を迫害するための道具である。解放前、おもな特務組織には、「軍統」、「中統」、「中米合作所」などがあった。「軍統」は「国民政府軍事委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、その前身は、「復興社」の中核組織「力行社」の特務課である。「中統」は、「中国国民党中央執行委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、CC系の頭目陳果夫、陳立夫の手ににぎられていた。「中米合作所」の全称は「中米特殊技術合作所」で、一九四三年、重慶につくられ、アメリカ帝国主義が蒋介石集団とぐるになって中国人民の革命運動を弾圧した特務組織である。
「重足而立、側目而視(足を重ねて立ち、目を側めて視る)」という言葉は、『史記・汲鄭列伝』の以下の記述に由来する。「黯、時に湯と論議するに、湯の弁は常に文深小苛にあり。黯、伉に顕れ厲に守り、高うして屈する能はず、忿発して罵りて曰く、『天下、刀筆吏は以て公卿と為るべからずと謂ふ、果して然り。必ず湯なるかな。天下をして重足して立ち、側目して視しめん』と」前漢の時代、漢の武帝の臣下であった汲黯が廷尉の張湯と法律について議論した際、汲黯は怒って張湯を面罵し、もし張湯の苛酷な法律に従って執行するならば、「天下をして重足して立ち、側目して視しめん(天下の人々に足を重ねて立ち、横目で見させろというのか)」と言い放った。これは、天下の人々に道を進むこともできず、直視することもできないほどの恐怖を与えるという意味である。
「重足而立」とは両足を重ねて立ち、恐れて立ちすくみ前進できない様子を指し、「側目而視」とは斜めに目をやり、恐れて正視できない様子を指す。「重足而立、側目而視」は、心の中で怒りを抱きつつも、それを口に出すことができない状態を形容する表現である。
盛气凌人(おごりたかぶって人を威圧する・居丈高になる)
原文
所谓领导权,不是要一天到晚当作口号去高喊,也不是盛气凌人地要人家服从我们,而是以党的正确政策和自己的模范工作,说服和教育党外人士,使他们愿意接受我们的建议。
いわゆる指導権とは、それをスローガンとして朝から晩までさけぶことでもなければ、また、いたけだかになって人をわれわれにしたがわせることでもなく、党外の人びとがよろこんでわれわれの提案をうけいれるように党の正しい政策と自分の模範的な活動でかれらを説得し、教育することである。
《抗日根拠地の政権問題》
「趙の太后、新たに事を用う。秦、急に之を攻む。趙氏、救いを齊に求む。齊曰 く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん。」太后、肯ぜず。大臣強い て諫む。太后明らかに左右に謂えらく、「復た長安君をして質為らしめよ、と言 う者有らば、老婦必ず其の面に唾せん。」左師觸龍(札記により、「讋」を「龍」 と「言」の二字に分かつ)言う、「太后に見えんことを願う。」太后、氣を盛ん にして之を胥つ。」戦国時代、趙の恵文王が世を去った直後、孝成王が即位し、母である趙太后が執政した。このとき秦が攻撃を仕掛けてきたため、趙は斉に救援を求めた。しかし斉は「長安君を人質に出すならば出兵する」と返答した。太后は最も寵愛する長安君を差し出すことを嫌がり、多くの臣下が諫言を繰り返しても首を縦振らず、かえって憤慨した。そこへ左師の触竜という老臣が面会を求めてきた。太后はこれも自分を説得しに来たのだろうと苛立ち、全身に怒りをみなぎらせ、威圧的な態度で彼を待ち受けた。『戦国策』は、趙太后が最初に触竜を迎えた際の面持ちを「盛気してこれを胥つ(盛気してこれをつ)」と描写している。
後世、人々はこの故事から派生させて「盛気凌人」という言葉を作り、他者に対して傲慢不遜で、威圧的な態度をとる様子を形容するのに用いるようになった。
畏首畏尾(あれこれ心配する)
原文
应吸收一切较有抗日积极性的知识分子进我们办的学校,加以短期训练,令其参加军队工作、政府工作和社会工作;应该放手地吸收、放手地任用和放手地提拔他们。不要畏首畏尾,惧怕反动分子混进来。
抗日の積極性を比較的もっているすべての知識人をわれわれの学校にいれ、短期間の訓練をほどこしたうえで、軍隊、政府、社会の仕事に参加させるべきであり、かれらを大胆に吸収し、大胆に任用し、大胆に抜擢すべきである。反動分子がまぎれこむのをおそれて、あれこれと用心しすぎるのはよくない。
《政策について》
「畏首畏尾(いしゅいび・あれこれ心配する)」という言葉は、『左伝・文公十七年』に引用されている古いことわざに由来する。「古人言える有り、曰く、『首を畏れ尾を畏るれば、身は其の餘り幾ぞ(首にも畏れ尾にも畏れるなら、その他に畏れないところがどれほ どあろうか)。』」春秋時代の紀元前611年、晋の霊公は鄭の地で再び周辺の諸侯を大いに集めた。鄭の穆公は顧慮するところがあって出席しなかったため、霊公から問責を受けた。そこで穆公は晋の霊公のもとへ使者を送り、自国が晋と楚という二大国に挟まれた厳しい境遇にあることを陳述する際、この古諺を引用して「首を畏れ尾を畏るれば、身は其の餘り幾ぞ(首にも畏れ尾にも畏れるなら、その他に畏れないところがどれほどあろうか)。」と訴えた。鄭国は北に晋を恐れ、南に楚を恐れており、誠に困難な状況に追い込まれていたため、霊公が主宰する会盟に出席する勇気が出なかったのである。
後世、人々はこの「畏首畏尾」という言葉を、あれこれと気兼ねや懸念が多く、胆力が小さくて思い切った行動ができない様子(疑心暗鬼で不甲斐ない態度)を比喩するのに用いるようになった。
树倒猢狲散(木が倒れると猿も散ってしまう・中心人物が没落すると,その人に付き従っていた者も散り散りばらばらになる)
原文
帝国主义战争现时已到发生大变化的前夜,一切依靠帝国主义过活的寄生虫,不论如何蠢动于一时,他们的后台总是靠不住的,一旦树倒猢狲散,全局就改观了。
帝国主義戦争は、いまや大きな変化の前夜にある。帝国主義にたよって生きているすべての寄生虫が一時どのようにうごめこうと、結局、かれらのうしろだてはたよりになるものではない。いったん大樹が倒れて、猿どもがちりぢりになれば、全局面の様相はかわるであろう。
《安徽省南部事変について発表した命令と談話》
「樹倒猢猻散(樹倒れて猢猻散ず)」という言葉は、『説鄂』に収められた、宋代の厲徳新が馬詠へ送った「樹倒猢猻散賦」に由来する。宋の時代、秦檜が権力を握っていた頃、馬詠をはじめとする多くの人々は秦檜に徹底的にへつらい、その結果として高官厚禄の地位を得た。ただ一人、馬詠の妻の兄である厲徳新だけは権勢に媚びなかったため、馬詠から不満を買った。馬詠は職権を利用して厲徳新を脅迫したが、厲徳新は屈しなかった。やがて秦檜が死去すると、彼にへつらっていた者たちは次々と失脚し、馬詠も新州へ降格された。その時、彼のもとに厲徳新からの手紙が届いた。開けてみると、そこにあったのが「樹倒猢猻散賦」であった。
「樹倒猢猻散」の意味は、大樹が倒れれば、その樹に依存して暮らしていた猿どもは散り散りになるしかない、ということである。これは厲徳新が、秦檜の権勢に寄り添っていた馬詠らを皮肉った言葉だ。後世の人々はこの言葉を用いて、中心となる人物が失脚すると、それに従っていた者たちも頼るものを失い、一斉に散り散りになる様子を比喩するようになった。
怙恶不悛(悪事を頼みて改めず)
原文
如若他们怙恶不悛,继续胡闹,那时,全国人民忍无可忍,把他们抛到茅厕里去,那就悔之无及了。
もしもかれらが悪事を悔いあらためず無法なことをつづけるなら、全国人民は堪忍ぷくろの緒がきれて、かれらを肥だめになげこんでしまうだろう。そうなれば後悔してもおよばない。
《安徽省南部事変について発表した命令と談話》
「怙悪不悛(悪事を頼みて改めず)」という成語は、『左伝・隠公六年』の次の記述に由来する。「君子曰く、「善は失う可からず、惡は長ず可からずとは、其れ陳の桓公の謂ならんか。惡を長じて悛めずんば、從って自ら及ばん。之を救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせんや。」春秋時代、衛が陳と連合して鄭を攻撃した際、鄭の鄭伯は陳に講和を求めたが、陳の桓公はこれを許さなかった。陳の公子佗は、隣国と睦まじくするために講和を受け入れるよう桓公を諌めた。しかし桓公は、鄭は小国であり害をなすことはできないと考えて忠告に耳を傾けなかった。翌年、鄭伯は陳に攻め入り大勝した。これに対して人々はこう語った。「善い事は失ってはならず、悪い事は助長させてはならない。これは陳の桓公のことを指しているのではないか。悪事を重ねて改めない(長悪不悛)ならば、必ずや自ら災いを招くことになり、その時になって救おうとしても到底不可能である」
後世、人々はこの故事に基づき、「長悪不悛」を「怙悪不悛」という成語に変え、悪事を重ねて死んでも改めないことを意味する言葉として使うようになった。
毛主席が著書の中でこの成語を引用したのは、国民党反動派が抗日戦争期に皖南事変を起こし、共産党と人民に反発した行為を直ちに制止すべきだと訴えるためであった。もし彼らが悪事を重ねて改めず、反共・反人民の態度を続けるならば、必ずや人民に見捨てられ、打倒されることになると警告したのである。
吾恐季孙之忧,不在颛,而在萧墙之内(吾、季孫の憂いは、顓臾(センユ:国の名前・魯の属国)に在らずして、蕭牆の内に在らんことを恐るるなり)
原文
如能实行以上十二条,则事态自然平复,我们共产党和全国人民,必不过为已甚。否则,“吾恐季孙之忧,不在颛臾,而在萧墙之内”,反动派必然是搬起石头打他们自己的脚,那时我们就爱莫能助了。
もし以上の十二ヵ条が実行されれば、事態はおのずから平常に復し、われわれ共産党と全国人民は、それほど度をすぎたことはしない。そうでなければ. 「われは恐る、季孫の憂え、顓臾にあらずして、蕭牆のうちにあらんことを」ということになり、反動派は、かならずもちあげた石で自分の足をうつ羽目になる。
《安徽省南部事変について発表した命令と談話》
「吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之內(吾季孫の憂いは、顓臾に在らずして、蕭牆の内に在らんことを恐れる)」という言葉は、『論語・季氏篇』に由来する。春秋時代、魯の大夫である季孫は国政を牛耳っており、魯の君主との間に大きな矛盾を抱えていた。同時に、君主が実権を取り戻そうとしていることも察知していた。そのため季孫は、顓臾(当時、魯の附庸国であった小国)がその力をもって君主を助け、自分を討つのではないかと大いに恐れ、先手を打って顓臾を攻略しようと考えた。孔子の弟子である冉有と子路は、季孫が顓臾を伐とうとしていることを聞きつけ、孔子に相談した。この状況に対し、孔子は「吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之內也」(「蕭牆」とは魯の君主が用いる屏風、すなわち古代の宮室で門を遮る壁のことであり、「蕭牆の内」は魯の君主を指す)と答えた。これは、季孫の懸念は顓臾にあるのではなく、魯の君主にあるのではないかという意味である。孔子はこの一言で季孫が顓臾を伐とうとする思想の本質を見抜き、その討伐に反対する姿勢を示した。
「吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之內」という言葉は、今日ではある出来事に対する懸念が外部にあるのではなく、内部にあることを形容する際によく用いられる。
毛主席はこの故事を引用し、国民党反動派が信義を裏切って皖南事変を起こした陰謀を深刻に糾弾・暴露した。彼らが恐れていたのは外敵の侵略者ではなく、広大な人民の利益を代表する共産党であった。そのため、彼らは国を損ない人民を苦しめながら積極的に反共を進め、抗日には消極的であったのである。毛主席は全人民を代表して彼らに警告し、もしこのやり方を早急に改めなければ「必ずや石を持ち上げて自分の足を打つことになる」と告げた。
亡羊补牢,犹未为晚(羊を亡いて、牢を補ふ未だ遲しとせず・過ちを改めるのに遅いということはないということ)
原文
老实说,我们的让步是有限度的,我们让步的阶段已经完结了。他们已经杀了第一刀,这个伤痕是很深重的。他们如果还为前途着想,他们就应该自己出来医治这个伤痕。“亡羊补牢,犹未为晚。”这是他们自己性命交关的大问题,我们不得不尽最后的忠告。
卒直にいって、われわれの譲歩には限度があり、われわれの譲歩の段階はすでに終わりをつげた。かれらはすでに最初の一太刀をあびせてきたのだし、その傷は非常に深いのである。もし、まだ将来のことを考えているなら、かれらは自分からのりだして、この傷の治療にあたるべきである。「羊を失ってからおりをつくろっても、まだおそくはない。」これはかれら自身の生死にかかわる大間題であり、われわれとしては最後の忠告をしないわけにはいかない。
《安徽省南部事変について発表した命令と談話》
「亡羊補牢、猶未為晩(羊を亡いて、牢を補ふ未だ遲しとせず)」という言葉は、『戦国策・楚策』の「臣聞く、鄙語に曰く、『莵を見て犬を顧みるも、 未だ晚しと為さざるなり。羊を亡いて牢を補うも、未だ遅しと為さざるなり。」という記述に由来する。戦国時代、楚の襄王が即位すると、奸臣を寵愛して政治は暗黒となり、国勢は日に日に弱まっていった。大臣の庄辛はこの情勢を見て、享楽に耽って国事を省みない態度を改めなければ楚は必ず滅亡すると襄王を諌めた。襄王はこれを聞いて甚だ不快に思い、彼を老いぼれと罵り、故意に災いを予言して人心を惑わしていると責めた。冤罪を着せられた庄辛は、趙国へ避居することを申し出た。彼が趙に渡ってわずか五ヶ月後、秦国が果たして楚へ出兵し、国都の鄢郢などの地を占領した。襄王は城陽へと流亡を余儀なくされ、庄辛の言葉が正しかったと悟り、使者を趙へ派遣して庄辛を呼び戻した。そして「余はあなたの言葉を聞かず、今やこのような事態に陥ってしまった。どうすればよいと思うか」と尋ねた。庄辛は誠実にこう答えた。「臣が聞きますに、世間の諺に『兎を見てから猟犬を呼び寄せても決して遅くはなく、羊が逃げ出してから羊小屋を修復しても決して遅くはない』と申します」。彼は多くの生々しい比喩を用い、襄王に今後は心を入れ替えて国を治めるよう勧めた。
後世、人々はこの故事から「亡羊補牢、猶未為晩」(亡は逃げること、牢は家畜の囲い)という成語を用い、過ちや失敗が生じた後であっても、ただちに救済策を講じるならば、まだ手遅れではないということを比喩するようになった。
自相矛盾(自己矛盾)
原文
至于重庆军委会发言人所说的那一篇,只好拿“自相矛盾”四个字批评它。既在重庆军委会的通令中说新四军“叛变”,又在发言人的谈话中说新四军的目的在于开到京、沪、杭三角地区创立根据地。
重慶軍事委員会のスポークスマンがおこなった例の談話にたいしては、「自己矛盾」の四字をもって批判するほかはない。重慶軍事委員会の命令では、新四軍が「反乱した」といっているかと思うと、そのスポークスマンの談話では、新四軍の目的が、南京、上海、杭州の三角地帯に進出して根拠地をつくることにあったともいっている。
《安徽省南部事変について発表した命令と談話》
「自相矛盾(自家撞着、自己矛盾)」という言葉は、『韓非子・難一』に由来する。「客曰く、楚人に楯と矛を鬻ぐ者有り、之を譽めて曰く、 『吾が楯の堅きこと、能く陷すもの莫し。』又其の矛を譽めて曰く、 『吾が矛の利きこと、物に於いて陷さざる無し。』或ひと曰く、『子の矛を以て 子の楯を陥さば何如。』其の人應うる能わず。夫れ陷す可からざるの楯と陷さざる無きの矛とは、世を同じくして立つ可からず。今堯・舜の兩つながら譽む可からざるは、矛楯の説なり。夫れ賢と勢との相容れざるもまた明かなり。」この故事が語るのは次のような内容である。戦国時代、楚の国に矛と盾の両方を売る商人がいた。彼は矛と盾(古代中国の二種類の武器)を持って街頭へ売り込みに出かけた。まず盾を手に取り、この盾は極めて堅固でどんなものも突き通せないと自慢した。しばらくすると今度は矛を掲げ、自分の矛は非常に鋭利で刺し通せないものは何一つないと自慢した。見ていた人々はおかしく思い、思わず彼に問い詰めた。「では、お前の矛でお前自身の盾を刺したらどうなるのだ」。商人は閉口し、何も答えることができなかった。その後、「自相矛盾」は、人の発言や議論の過程において前後が抵触し、辻褄が合わない様子を表す慣用成語として広く用いられるようになった。
毛主席はこの典故を用い、国民党反動派が起こした「皖南事変」の陰謀の本質と、国民党反動派の報道官によるロジックの混乱を形象的かつ強力に暴き出した。
徒劳无功(とろうむこう・むだ骨を折る)
原文
这次斗争表现了国民党地位的降低和共产党地位的提高,形成了国共力量对比发生某种变化的关键。这种情况迫使蒋介石重新考虑他自己的地位和态度。他现在强调国防,宣传党派观念已陈旧,乃是企图以“民族领袖”的资格,站在国内各种矛盾之上,表面上表示并不偏于一个阶级一个党,以便维持大地主大资产阶级和国民党的统治。但是如果只是形式上的欺骗而无政策上的改变,他的这一企图必然徒劳无功。
こんどの闘争は、国民党の地位の低下と共産党の地位の上昇をしめし、国共の力関係にある種の変化をおこさせる鍵となった。このような状況は、蒋介石にその地位と態度の再検討をよぎなくさせている。かれがいま国防を強調し、党派観念はすでにふるくさくなったと宣伝しているのは、大地主、大ブルジョア階級と国民党の支配を維持するために、「民族の指導者」の資格で、国内のさまざまな矛盾のうえにのって、表面的には、一階級や一政党にかたよらないことをしめそうとたくらんでいるのである。しかし、それが形式上の欺瞞にすぎず、政策上の変化がないとすれば、このたくらみはかならずむだ骨に終わるであろう。
《二回目の反共の高まりを撃退した後の時局》
「徒労無功(徒労無功・徒労に終わる)」という成語は、『管子・形勢篇』に由来する。『管子・形勢篇』に「強むるに不能なるに、告ぐるに知らざるを、これを労して功無しと謂う」とある。また『荀子・正名篇』には「窮借にして枉ること無きも、甚だ労して功無し」とあり、『荘子・天運篇』には「舟を陸に推すは、労して功無く、身必ず殃有らん」とある。さらに『呂氏春秋』にも「功を立ててその実を得ざれば、賢なること湯武に過ぎるとも、また労して功無からん」と記されている。
「徒労無功」は、これらの文献に見られる「労而無功(労して功無し)」から変化して生まれた言葉であり、無駄に労力を費やすだけで、少しも成果が上がらないことを意味している。
侧目而视(横目で見る)
「側目而視(斜めに目をやって直視しない)」という成語は、『戦国策・秦策』に由来し、また『史記・汲鄭列伝』にも見られる。戦国時代、策士の蘇秦は秦へ出向き、秦の恵王に連衡の策を実行するよう遊説したが、採用されなかった。そのため、彼は意気消沈して故郷へ帰るほかなかった。彼がすっかり落ち込んで家に帰り着いた時、家族はみな彼を見下した。妻は機織り機に座ったまま無視し、義理の兄の妻(義姉)も飯を作らず、父母ですら彼と口をきこうとしなかった。
一年後、彼は再び趙国へ渡って趙王に謁見し、合従の策を提案した。合従とは、六国(斉・楚・燕・韓・趙・魏)が連合して、日に日に強大化する秦に対抗するという策であった。趙王はこの策を非常に優れていると評価し、彼を武安君に封じて相国(首相)に任命した。こうして高官となった蘇秦が洛陽を通りかかった際、その知らせを聞いた彼の父母は、街から三十里も離れた場所まで出迎えた。蘇秦の妻は彼に会うと恐縮し、うやうやしく傍らに立ち、目を斜めにして直視できず、耳を傾けて彼の言葉を聞いた(原文は「妻側目而視、傾耳而聴」)。また義姉は地にひれ伏して四度礼をし、己の非を許すよう請い願った。ここでの「側目而視」は、恐れ多くて正視できない様子を形容しており、敬畏の意味を含んでいる。
その後、『史記・汲鄭列伝』には、漢の武帝の臣下である汲黯が廷尉の張湯を罵り、もし張湯の苛烈な法を実行すれば天下の人々を「重足而立、側目而視」(足も踏み出せず、目も直視できない状態)に陥れることになると述べた記述がある。ここでの「側目而視」は、怒りを抱きつつも口に出せない様子を含んでいる。今日では、憤怒の表情を形容する際にも用いられる。例えば、「国中の人々を足も踏み出せず、怒りの眼差しで見つめさせる原因を作ったのは、これら極悪非道な特務員らにほかならない」といったように使われる。




