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毛沢東選集第四巻に出てくる「中国成語」



袖手旁观しゅうしゅぼうかん

原文

中国大地主大资产阶级的政治代表蒋介石,大家知道,是一个极端残忍和极端阴险的家伙。他的政策是袖手旁观,等待胜利,保存实力,准备内战。

 中国の大地主・大ブルジョア階級の政治的代表者である蒋介石は、周知のように、このうえもなく残忍で陰険な男である。手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備する、というのがかれの政策であった。

《抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針》


袖手旁観しゅうしゅぼうかん」は、「巧匠旁観、縮手袖閑」という言葉に由来する。「巧匠旁観、縮手袖閑」は、韓愈の『祭柳子厚文』にある「不善為断、血指汗顔、巧匠旁観、縮手袖閑」が出典である。大工仕事が下手な人は、作業をすると顔に汗をかくだけでなく、不注意で自分の指を傷つけてしまう。一方で、高い技術を持つ職人は、手を袖に入れて暇そうに傍観しているだけで、手助けをしようとしない。この意味から、後に「巧匠旁観、縮手袖閑」が簡略化され、「袖手旁観」という成語が生まれた。

現在では、他人に協力しなかったり、ある出来事に関与せず手をこまねいて見ている様子を形容する際に用いられる。



外强中干がいきょうちゅうかん

原文

美国帝国主义要帮助蒋介石打内战,要把中国变成美国的附庸,它的这个方针也是老早定了的。但是,美国帝国主义是外强中干的。我们要有清醒的头脑,这里包括不相信帝国主义的“好话”和不害怕帝国主义的恐吓。

アメリカ帝国主義は蒋介石をたすけて内戦をやらせ、中国をアメリカの従属国にしようとしているが、アメリカ帝国主義のこの方針もはやくからきまっているものである。しかし、アメリカ帝国主義はうわべは強そうでも、中味はからっぽである。われわれははっきりした頭脳をもっていなければならないが、それには、帝国主義の「甘いことば」を信じない、帝国主義のおどかしをおそれない、ということがふくまれている。

《抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針》


 「外強中干(外強中乾=外見は強そうに見えるが、内実は虚弱であること)」という成語は、『左伝』僖公十五年に由来する。

「慶鄭曰く、「今、異 産に乘り、以て戎事に從う。懼るるに及びて變じ(楊注:「變」は正常の状態に 反するを謂う)、将に人と易わらんとす(楊注:「易」は「反」、御者の意と違い反するなり)乱気狡憤(気が乱れて正常で無くなること)すれば、陰血周作し て(血液の流れが盛んになる)、張脈僨興す(血管が膨れ上がる)。外彊きも中 乾き(楊注:「乾」は「竭」なり。楊注:以上馬を言う)、進退可ならず、周旋 (前後左右、周囲)能わず。君必ず之を悔いん。」

春秋時代、秦国が晋国へ侵攻した際、晋国は敗戦を重ねていた。最後の決戦にあたり、晋の恵公が鄭国産のマダラ馬に乗って出陣しようとしたため、慶鄭はこれを戒めて次のように言った。出陣の際には必ず自国産の馬に乗らねばならない。自国産の馬であれば戦士に従順で、道に慣れ、指示通りに動くからである。他国産の馬に乗って戦場へ向かい、予期せぬ事態に直面すれば、その馬は血管を膨らませて息を荒らげ、外見こそ張り詰めて強そうに見えても、内実は恐怖で力尽きてしまう(外強中干)。進むことも退くこともできず、身動きが取れなくなる。そうなってから後悔しても遅いのである。

毛主席が文章の中でこの成語を引用した意図は、アメリカ帝国主義が外観こそ強大に見えるものの、その内部は実に虚弱なものであると説明する点にある。



百孔千疮ひゃっこうせんそう

原文

国民党在取得沪宁等地、接通海洋和收缴敌械、收编伪军之后,较之过去加强了它的地位,但是仍然百孔千疮,内部矛盾甚多,困难甚大。

国民党は上海、南京などを手にいれ、海への通路をひらき、敵の武装を解除し、かいらい軍を自軍に編入して、まえよりもその地位を強めているが、あいかわらず満身創痍の状態で、内部の矛盾はひじょうに多く、困難ははなはだ大きい。

《国民党と和平交渉をすすめることについての中国共産党中央の通達》


 「百孔千瘡ひゃっこうせんそう」という言葉は、韓愈の『与孟尚書書』に見られる。韓愈はこの手紙の中で、秦が「ついに先王の法を滅ぼし、その経書を焼却し、学術の士を坑殺した。……後から学問をする者は完全な経書を見ることができず、先王の事業をすべて知ることができない」と嘆いている。続いて「漢代以来、多くの儒者たちがわずかに修補してきたが、百孔千瘡であり、乱に従って失われ、その危うさは一発の毛で千鈞の重さを引くがごときである……」と述べている。これは、秦の始皇が焚書坑儒を行ったことで多くの聖賢の経書(孔子や孟子の書)が失伝し、後世の人々が先王の事業や先哲の道を理解できなくなったことを意味する。漢代以降、多くの儒者がわずかに補修を加えたものの、なお欠陥だらけであり、破壊や散逸が著しく、その危機的状況は一本の髪の毛で数千斤の重りを吊るすかのようであった。

「百孔千瘡」という言葉はこれに由来し、ある物事が非常に激しく破壊されている様や、欠陥・問題が極めて多い様を形容する。

毛主席は物事を観察する際、常にまずその本質と主流を捉えることに長けていた。内戦初期、国民党反動派は表面上は一見「強大」に見えたが、その本質から見れば「百孔千瘡」であり、「隙が多く、地域が広大」であった。と同時に、新勢力の力は打ち負かすことができないものであり、革命は必ず勝利を収めると指摘した。



立于不败之地(不敗の地に立つ)

原文

为着粉碎蒋介石的进攻,必须作持久打算。・・・总之,我们是一切依靠自力更生,立于不败之地,和蒋介石的一切依靠外国,完全相反。

 蒋介石の進攻を粉砕するためには、持久的な計画を立てなければならない。・・・要するに、蒋介石がすべてを外国にたよっているのとまったく反対に、われわれはすべてを自力更生にたよって、不敗の地に立つようにするのである。

《自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ》

 

「立于不敗之地(不敗の地に立つ)」という言葉は、『孫子兵法・形篇』に由来する。この篇において、孫子は主に戦争において異なる状況に応じ、いかに作戦の客観的法則を把握し、自らの勝利を勝ち取る条件を創造して敵に勝つことを保証するかという問題について述べている。では、どのようにすれば敵に勝つことができるのだろうか。孫子は「故に、善く戦う者は、不敗の地に立ちて、敵の敗を失わざるなり。」と言っている。これは、戦いに巧みな者は自らを不敗の立場に置くと同時に、敵が敗北する機会を逃さないという意味である。

毛主席は、過去に革命を行う際も、今日において建設を行う際も、主として「自力更生」に頼り、自らを「不敗の地に置く」べきであると一貫して我々を指導された。我々は毛主席の思想を深く理解し、どのような仕事を行うにあたっても艱難辛苦に耐えて奮闘し、地に足をつけて行動し、自らを「不敗の地に置く」ようにしなければならない。



民不聊生(人民が安心して暮らしていけない)

原文

我们是艰苦奋斗,军民兼顾,和蒋介石统治区的上面贪污腐化,下面民不聊生,完全相反。在这种情形下,我们是一定要胜利的。

 蒋介石支配区の、上には汚職と腐敗があり、下では人民が塗炭の苦しみをなめているというのとまったく反対に、われわれは刻苦奮闘し、軍隊と人民の双方に配慮をくわえるのである。こうした状況のもとでは、われわれはかならず勝利する。

《自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ》


 「民不聊生(民、生を楽しまず・人民が生活を営むことができない)」という言葉は、『史記・春申君列伝』に由来する。「夫れ韓・魏の父子兄弟の踵を接して秦に死する 者、将に十世にならんとす。本国は残なわれ、社稷は壊れ、宗廟は毀たれ、腹を刳(コ、えぐる、さく)き腸を絶ち、頸を折り頤を摺(ショウ、ひしぐ)ぎ、首身、分離す。骸骨を草澤に暴し、頭顱どくろは僵仆 (キョウ・フ、どちらも倒れるの意、倒れ附す)し、境に相い望む。父子老弱は脰(トウ、うなじ)を係ぎ手を束ね、羣虜と為る者、路に相い及ぶ。鬼神(亡霊)、孤傷(独り哀しむ)し、血食(祖先を祠る祭り)する所無く、人民、生を聊せず(暮らしのやりくりがつかない)。族類は離散流亡し、僕妾(僕婢、下男下女)と為る者、海内に盈満す。故に韓・ 魏の亡びざるは秦の社稷の憂いなり。(およそ韓・魏の父子兄弟で秦のために相次いで死んだ者は十代にも及ぼそうとしている。本国は荒廃し、社稷は壊れ、宗廟は破壊され、腹を割かれ腸を絶たれ、首や顎を折られ、首と胴体が離れ、骸骨を草むらに晒している。打ち捨てられた頭骨が国境の中で互いを望むように転がり、父子や老弱者は縄で縛られ、手を縛られて捕虜の群れとなり道路に連なっている。鬼神(先祖の霊)は孤立して悲しみ、供え物を受けることもできない。人民は生活を営むことができず、一族は離散し、流亡して下男や下女となる者が天下に満ちている。ゆえに韓・魏が滅びないことこそ、秦の社稷の憂いなのである……)」とある。

戦国時代、四公子の一人であった春申君(黄歇)は楚の貴族であった。楚の懐王は秦の使者である張儀と令尹の言葉を信じて秦と友好関係を結んだが、後に秦国に誘い出されて捕らわれ、異郷で没した。黄歇は秦が一挙に出兵して楚を滅ぼすことを恐れ、秦の昭王に上書して楚を攻撃せず、むしろ楚と和睦して韓・魏の二国を滅ぼすべきだと訴えた。彼は次のように述べた。「韓・魏の両国の土地はあなたに多く強奪され、宗廟も焼き払われて国家の体をなしていません。韓・魏の人民もあなた方に多く殺され、軍隊に脅かされてもはや生活を営むことができず(民不聊生)、異郷に逃亡して売児売女によって日を過しています。彼らと秦国との怨恨はまさに不共戴天と言えます。このような状況下において、あなたは楚国と同盟を結び、韓・魏を徹底的に滅ぼして後憂を絶つことこそが正解であり、どうして不共戴天の死敵と結んで遠方の楚を攻めるような逆の真似ができましょうか」

秦の昭王は果たして黄歇の言葉を聞き入れ、楚を攻撃するのをやめ、さらに楚国と同盟を結んだ。「民不聊生」とは、庶民が耐えかねて、もはや生活を続けていくことができない状態を指す言葉である。



骄奢淫逸きょうしゃいんいつ

原文

“人民能够维持其自由的生活方式与目前最低生活水准”——中国买办地主阶级必须维持其向全国人民实行压迫剥削的自由和他们目前的骄奢淫逸的生活水准,中国劳动人民则必须维持其被人压迫剥削的自由和他们目前的饥寒交迫的生活水准。这是战犯求和的终极目的。

 「人民が自由な生活様式と当面の最低生活水準を維持しうる」こと――中国の買弁・地主階級は、全国人民を抑圧し搾取する自由と、いまのぜいたくきわまる享楽的な生活水準を維持しなければならないし、中国の勤労人民は、抑圧ざれ搾取される自由と、いまの飢えと寒さにあえぐ生活水準を維持しなければならない。

《戦犯の和を乞うを評す》


 「驕奢淫逸きょうしゃいんいつ」という成語は、『左伝・隠公三年』に由来する。石碏せきしゃくは「石碏シャク諫めて曰く、「臣聞く、子を愛すれば、 之に教えるに義方(「方」は「道」なり)はを以てし、邪に納れずと。驕・奢・ 淫・泆(イツ、泆と逸との字は通ず)は自りて邪なる所なり。四者の来たるは、 寵禄過ぐればなり。」と諌めた。王伯群の選注には、「驕は矜傲きょうごう、奢は僭侈せんし、淫は無度、逸は放蕩を謂う。洪通に佚に作り、逸のごとく読む」とある。春秋時代、衛の荘公の息子である州吁は荘公から非常に寵愛され、生活面で放縦かつ奢侈であり、淫楽に浸り好逸していたが、荘公はそれを野放しにして禁止しなかった。大夫の石碏は州吁が将来禍乱を起こすことを懸念し、荘公を勧告して言った。「息子を愛するのであれば正しい道を行くよう教育すべきであり、邪道に入らせてはなりません。過度の寵愛は彼に驕奢淫逸の悪習を養わせることになります。驕傲、奢侈、淫楽、好逸、これらは邪道に陥る起源であります」

後に人々は常に「驕奢淫逸」という成語を用いて、搾取階級の放縦かつ奢侈で、淫楽に浸り好逸する腐敗した生活を形容するようになった。



日暮途穷(日暮れて道きわまる・窮地に陥ってなすすべがなくなる)

原文

蒋介石日暮途穷,欲以开“国大”、打延安两项办法,打击我党,加强自己。其实,将适得其反。

窮地におちいった蒋介石は、「国民大会」の招集と延安攻撃という三つの手段によって、わが党に打撃をくわえ、自己の強化をはかろうとしている。だが、実際にはまったく逆の結果となるであろう。

《延安の一時放棄と陝西・甘粛・寧夏辺区の防衛についての中国共産党中央の二つの文書》


「日暮途窮(日暮れて途窮まる)」という成語は、『史記・伍子胥列伝』の以下の記述に由来する。伍子胥曰く、「我が為に申包胥に謝して曰え、吾、日莫れて途遠し、吾、故に倒行(倒れるほどに急いでいること)して之を逆施(道理に逆らって行動する)せり、と。

春秋時代、楚の平王は費無忌の讒言を信じ、伍子胥の父である伍奢と兄の伍尚を殺害した。伍子胥は宋へ逃れ、最終的に呉へと至った。楚を攻撃して復讐を果たすべく呉の兵を借りるため、彼は呉王闔閭の即位を助けた。その後、彼は闔閭とともに楚へ攻め入り、国都を攻略した。この時、すでに平王は死去していたため、伍子胥は平王の墓を掘り起こし、その死体を鞭で三百回叩いた。

伍子胥の親友である申包胥は、手紙を送って彼のやり過ぎを責めた。それに対し、伍子胥は使者に向かって次のように語った。「申包胥にくれぐれもよろしく伝えてくれ。私は例えるなら、日が暮れかかっているのに目的地までの道のりがまだ遠い旅人のようなもの(原文は『吾日暮途遠』)だ。だからこそ、理に背くような常軌を逸した手段をとるしかなかったのだ、と。」「日暮途窮」という成語は、この「日暮途遠」から変化したものであり、日はすでに暮れ、道も行き詰まった状態を意味する。通常は、策も力も尽き果て、没落の段階に至ったことの比喩として用いられる。

毛主席はこの成語を引用し、蒋介石反動集団が死に至る日も遠くないことを、深刻かつ象徴的に指摘したのである。



作威作福(権勢を笠に着て威張り散らす)

原文

一九三七年至一九四七年,十一年时间内,我们党的组织,由几万党员,发展到了二百七十万党员,这是一个极大的跃进。这使我们的党成了一个在中国历史上空前强大的党。这使我们有可能打败日本帝国主义,并打退蒋介石的进攻,领导一万万以上人口的解放区和二百万人民解放军。但是缺点也就跟着来了。这即是有许多地主分子、富农分子和流氓分子乘机混进了我们的党。他们在农村中把持许多党的、政府的和民众团体的组织,作威作福,欺压人民,歪曲党的政策,使这些组织脱离群众,使土地改革不能彻底。

 一九三七年から一九四七年までの十一年間に、わが党の組織は数万の党員から二百七十万の党員にまで発展したが、これはきわめて大きな躍進である。これによって、わが党は、中国の歴史上かつてない強大な党になった。これによって、われわれは、日本帝国主義をうち破るとともに、蒋介石の進攻を撃退し、一億以上の人口をもつ解放区と二百万の人民解放軍を指導することができるようになった。だが、それにともなって欠点もうまれた。つまり、多くの地主や富農、ごろつきが、機に乗じてわが党にまぎれこんだのである。かれらは農村で党や政府、民衆国体の多くの組織をにぎって、いばりちらし、人民をいじめ、党の政策をゆがめ、これらの組織を大衆からうきあがらせ、徹底的に土地改革をおこなうのをさまたげている。

《当面の情勢とわれわれの任務》


 「作威作福(権勢を笠に着て威張り散らす)」という言葉は、『尚書・洪範』の「惟だ辟のみ福をなし、惟だ辟のみ威をなし、惟だ辟のみ玉食す。臣は福をなし威をなし玉食すること有る無かれ」に由来する。ここで言う「辟」とは君主(皇帝)を指し、「玉食」とは贅沢で美味な食事を意味する。すなわち、支配階級のみが人民を虐げ、権力を独占し、威張り散らして人民を圧迫することができる、という意味である。現在では、「作威作福」という成語は、権勢を笠に着て専横を極め、贅沢に興じ、人民群衆に対して恣意的に賞罰を下すような悪しき作風を形容するのによく用いられる。

毛主席がここでこの言葉を引用したのは、党内に紛れ込んだ地主分子、富農分子、およびルンペン分子などがもたらした悪質な作風を指しているのである。



文武之道,一张一弛(ぶんぶのみち、いっちょういっし)

原文

《晋绥日报》在去年六月以后进行的反对右倾的斗争,是完全正确的。在反右倾的斗争中,你们作得很认真,充分地反映了群众运动的实际情况。对于你们认为错误的观点和材料,你们采用编者按语的形式加以批注。你们的批注后来也有缺点,但是那种认真的精神是好的。你们的缺点主要是把弓弦拉得太紧了。拉得太紧,弓弦就会断。古人说:“文武之道,一张一弛。”现在“弛”一下,同志们会清醒起来。过去的工作有成绩,但也有缺点,主要是“左”的偏向。现在作一次全面的总结,纠正了“左”的偏向,就会做出更大的成绩来。

 晉綏日報が昨年の六月以降おこなった右翼的偏向に反対する闘争は完全に正しいものであった。右翼的偏向に反対する闘争にあたって、諸君はそれにしんけんにとりくみ、大衆運動の実際状況をじゅうぶんに反映させた。諸君があやまっていると考えた観点や材料にたいしては、編集者のことばという形式で評語をつけた。あとになると諸君の評語にも欠陥がうまれたが、しんけんにとりくむという精神はりっぱである。諸君の欠陥は主として、弓を強く引きしぼりすぎたことにある。あまり強く引きしぼると、弓のつるは切れてしまう。古人も、「文武の道は一張一弛」といっている。ここで少し「弛」めてみたら、同志諸君も頭がすっきりするにちがいない。いままでの仕事には成果があったが、欠陥もあった。それは主として「左」翼的傾向であった。こんど全面的なしめくくりをおこなって、「左」翼的傾向を是正すれば、いっそう大きな成果をあげることができるにちがいない。

《晉綏日報の編集部の人たちにたいする談話》


「文武之道、一張一弛(ぶんぶのみち、いっちょういっし)」という言葉は、『礼記・雑記下』に由来する。春秋時代、孔子の弟子である子貢が孔子に従って祭礼を見に行った際、孔子は子貢に「賜(子貢の名)よ、楽しいか」と尋ねた。子貢は「国中の人々が皆狂ったように興奮しており、私にはその楽しさが分かりません」と答えた。すると孔子は次のように語った。「弓の弦を張りつめたままで緩めないのは、文王や武王であっても不可能なことだ。逆に緩めっぱなしで張りつめないのは、文王や武王もなさないことである。適度に張り、適度に緩めることこそが、文王・武王の治世の道(文武之道)なのだ。」

ここで言う「文武」とは、中国史上における二人の名君、周の文王と武王を指しており、彼らは国家を治める多くの優れた方策を有していた。上記の言葉の意味は、弓の弦を極限まで引き絞ったまま緩めなかったり、逆に緩めたまま二度と引き締めなかったりすれば、たとえ周の文王や武王のような治国の手腕があっても、天下をうまく治めることはできないということである。現在では、仕事や生活においてメリハリをつけ、波のように緩急をもって前進すべきであることの比喩としてよく用いられる。

毛主席は「文武之道、一張一弛」という言葉を引用し、次のように我々を指導した。仕事においても緊張と緩和の調和が必要であり、緊張のみでも、緩むばかりでもいけない。仕事の合間に適切に休整を挟み、経験を総括してこそ、明晰な頭脳を維持し、仕事をより良いものにできるのである。



不违农时(農期を逃がさない)

原文

在后方,减少国家机构的开支,减少不急需的人力和畜力的动员,减少开会时间,注意农业的季节,不违农时,节省工业生产的成本,提高劳动生产率,・・・

 後方では、政府の支出をへらし、すぐには必要としない人力、畜力の動員をへらし、会議についやす時間をへらし、農期を逸しないよう農業の季節に注意をはらい、工業生産の生産費をきりつめ、労働の生産性をたかめ、・・・

《九月会議にかんしての中国共産党中央の通達》


 梁恵王が孟子に国家統治の理について教えを乞う際、恵王は次のように語った。『私は国家に対し、実に心を砕いている。例えば、河西地方が飢饉に見舞われれば、そこの民の一部を河東に移し、河東の糧食を河西へと運送している。河東が飢饉の際も同様である。隣国の政治を観察しても、私ほど民のために心を砕いている者はいない。しかしながら、なぜ隣国の民は減少せず、我が国の民も増加しないのだろうか。』孟子は戦争を例に挙げて梁の恵王の気づきを促した後、次のように続けた。「農時に違わざれば、穀は勝げて食う可からず。數罟ソク・コ洿池 (オ・チ)に入らずんば、魚鼈も勝げて食う可からず。斧斤時を以て山林に入 れば、材木勝げて用う可からず」

これは、農繁期に徴兵や徴用を行わなければ、糧食は食べきれないほど豊富になる、目の細かな網を大きな池に入れて乱獲しなければ、魚類も食べ尽くせなくなる、斧を入れて木を伐採するのに適切な時期を守り乱伐しなければ、木材も使い尽くせないほどになる、という意味である。孟子は続けて、これらがすべて実践された上で、文化教育、副業の振興、および社会政治の改善に留意するならば、自国の民は自ずと増加していくであろうと論じた。



分崩离析ぶんほうりせき

原文

第二次世界大战胜利以后,代替法西斯德意日的地位而疯狂地准备着新的世界战争、威胁全世界的美国帝国主义及其在各国的走狗们,・・・这个敌人的基础是虚弱的,它的内部分崩离析,它脱离人民,它有无法解脱的经济危机,因此,它是能够被战胜的。

 第二次世界大戦の勝利後、アメリカ帝国主義および各国におけるその手先どもは、ファシズムのドイツ、イタリア、日本の地位にとってかわって、・・・この敵は、基礎がよわく、内部は四分五裂になっており、人民から遊離し、ぬけだしようのない経済危機をかかえている。したがって、われわれはかれらにうち勝つことができる。

《全世界の革命勢力は団結して帝国主義の侵略とたたかおう》


 「分崩離析ぶんほうりせき」という言葉は、『論語・季氏篇』に由来する。春秋時代、孔子の弟子である冉求と子路の二人は、魯国の大夫である季氏の家臣を務めていた。季氏が属国である顓臾を攻めようとした際、二人は孔子の元を訪れて指示を仰いだ。冉求が季氏の野心を庇おうとしたため、孔子は次のように語った。「冉求よ、君子は己の貪欲さを素直に認めず、わざわざ別の口実を探して繕うような振る舞いを嫌うものである。私はこう聞いている。諸侯や大夫たる者は、財貨が少ないことを心配するのではなく、分配が不平等であることを心配すべきであり、人民が少ないことを心配するのではなく、境内が不安定であることを心配すべきである。分配が公平であれば貧しさを感じず、境内が平和で団結していれば人が少ないと感じることもなく、境内が安穏であれば国が傾くこともない。このようにしても遠方の者が服従しないのであれば、仁義や礼楽といった徳治を修めて彼らを招き寄せるべきであり、彼らがやって来たなら、安心して暮らせるようにしなければならない。今、仲由(子路)と冉求の二人は季孫(季氏)を補佐していながら、『遠人服せざれども来たすこと能はず、邦分崩離析ぶんほうりせきすれども守ること能わず、而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。(遠方の者が服従しないのに招き寄せることもできず、国家が分裂しているのに保全することもできず、それどころか国境の内側で兵を動かそうと企てている)』。季孫の憂いは顓臾にあるのではなく、魯の君主にあるのではないか。」

この故事から、人々は「分崩離析」という言葉を用いて、国家が分裂することや、ある集団が瓦解・分裂することを形容するようになった。



惊弓之鸟(弓の音にもおびえる鳥・驚弓之鳥)

原文

张家口、新保安、怀来和整个北平、天津、塘沽、唐山诸敌,除某几个部队例如三十五军、六十二军、九十四军中的若干个别的师,在依靠工事保守时尚有较强的战斗力外,攻击精神都是很差的,都已成惊弓之鸟,尤其你们入关后是如此。

 張家口、新保安、懐来の敵ならびに北平、天津、塘沽、唐山全地区の敵は、いくつかの部隊、たとえば第三十五軍団、第六十二軍団、第九十四軍団のうちの若干の師団が、防御工事によって守備すればなお比較的大きな戦闘力をもっているほかは、いずれもはなはだしく攻撃精神に欠けており、弓の音におびえる鳥のようになっている。諸君が山海関以南にはいってからはとくにそうである。

《平津戦役の作戦方針について》


 「惊弓之鳥(弓の音にもおびえる鳥・驚弓之鳥)」という成語は、『戦国策・楚策』に由来する。

戦国時代、更羸という弓の名手がいた。ある時、彼が魏王の傍らに立っていた際、空を群れをなして飛ぶ鳥を目にし、魏王に向かって「私は弓に矢を番えず、ただ弦を鳴らすだけで鳥を撃ち落とすことができます」と語った。魏王はにわかに信じがたく思っていたが、折良く一羽の孤立した雁が上空を飛んできた。更羸がすぐさま矢を番えずに弦だけを弾くと、雁はたちまち地上へと落ちてきた。魏王は驚嘆すると同時に彼の腕前を称賛した。それに対し、更羸は次のように説明した。「この鳥は飛ぶのが遅く、鳴き声も悲しげでした。飛ぶのが遅いのは傷を負っているからであり、悲しげに鳴くのは群れを見失っているからです。創傷が癒えておらず、恐怖心が消え去っていないため、弓弦の音を聞いただけで怯えて落ちてしまったのです。」「惊弓之鳥」という成語はこの故事に由来し、一度強い驚愕や打撃を受けた者が、その後類似の状況に遭遇した際、極めて恐れおののく様子をたとえて用いられる。

毛主席はこの「惊弓之鳥」という成語を引用し、1948年末における国民党の反動武装力量が、我が軍によって四分五裂に打ち破られて傷だらけとなり、解放軍の銃砲声を少し耳にしただけで魂を消し飛ばさんばかりに恐れおののき、潰走して戦闘力を失った様を象徴的に説明した。まさに驚弓の鳥の如きであり、このような軍隊は破竹の勢いで打破される運命にある、と示したのである。



水深火热(深みにはまり火に焼かれる・塗炭の苦しみ)

原文

南京国民党反动政府,在其反动的卖国的内政外交基本政策的基础之上所举行的国内战争,业已陷全国人民于水深火热之中,南京国民党反动政府决不能逃脱自己应负的全部责任。

 南京国民党反動政府がその反動的、売国的な内政、外交の基本政策を土台としておくなってきた国内戦争は、すでに全国人民を生き地獄につきおとしており、南京国民党反動政府はその当然おうべき全責任からけっして逃がれることはできない。

《中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明》


 「水深火熱(水の益々深きが如く、火の益々熱きが如く)」という成語は、『孟子・梁恵王下』に由来する。原文は「簞食壺漿して、以て王師を迎うる(箪食壺漿を以て王の師を迎う)」の故事に見られる。「水深火熱」は、「水の益々深きが如く、火の益々熱きが如く(水の中に落ちたようにいよいよ深く、火の中に投げ込まれたようにいよいよ熱い)」という言葉を簡略化したものである。「水」や「火」は暴政や災禍の比喩であり、通常は反動勢力の支配下で人民が被る絶大な災難と苦痛をたとえるのに用いられる。



杀人不眨眼(人を殺してもまばたき一つしない)

原文

以蒋介石等人为首的中国反动派,自一九二七年四月十二日反革命政变至现在的二十多年的漫长岁月中,难道还没有证明他们是一伙满身鲜血的杀人不眨眼的刽子手吗?难道还没有证明他们是一伙职业的帝国主义走狗和卖国贼吗?

 一九二七年四月十二日の反革命クーデターからこんにちまでの二十余年にわたる長い年月をつうじて、蒋介石らをかしらとする中国の反動派は、満身血にまみれた、人を殺しても顔色ひとつ変えない殺人鬼の一味であるということが、まだ証明されていないとでもいうのだろうか。かれらが職業的な帝国主義の手先、売国奴の一味であることがまだ証明されていないとでもいうのだろうか。

《革命を最後まで遂行せよ》


 「殺人不眨眼(人を殺すに眼やまばたかず)」という表現は、『五灯会元』に見られる。曹翰が胡則を征伐する際、長江を渡って廬山寺に入ったが、縁徳という和尚は平常通り落ち着き払って座っており、歓迎や敬意を示す様子がなかった。「翰曰く、汝聞かずや、人を殺すに眼を眨かざる将軍を。 徳熟視していわく、汝安いずくんぞ生死を懼れざる和尚を知らんや。」

曹翰は胡則への出征の途中、長江を渡って廬山寺を訪れた。寺内におり縁徳と名乗る和尚は、きわめて平然と普段通り座っており、歓迎や敬意を表する気配すら見せなかった。曹翰はこの不遜な態度に激怒し、「お前は人を殺すのに瞬きもしない将軍を知らないのか」と喝破した。死を以て威嚇したのである。縁徳はこれを聞くと、彼をしばらく注視し、全く意に介さない様子で「天下には死を恐れない和尚もいることを知らぬのか」と応じた。

後世、人々は「殺人不眨眼」という言葉を用いて、統治者がまるで児戯のごとく大量の人を殺戮する、きわめて凶残かつ残酷な行為を形容するようになった。



众叛亲离(大衆に背かれ,親しい者にも見放される)

原文

现在,国民党反动政府发动内战的政策,业已自食其果,众叛亲离,已至不能维持的境地。

いまや、国民党反動政府はその内戦政策によって自業自得の結果をまねき、みなにそむかれ身内に見はなされて、もはやもちこたえられなくなっている。

《中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明》


 「衆叛親離(衆叛き親離る)」という言葉は、『左伝・隠公四年』に由来する。春秋時代、衛の公子である州吁しゅうくは、桓公を弑逆して自ら即位した(桓公と州吁は異母兄弟であった)。この行為は国内の人民の不満を引き起こした。州吁は国内の矛盾を逸らすため、「先君の怨みを晴らす」と口実を設け、かつて衛と交戦した鄭を伐つことにした。こうして宋・陳・蔡と連合して鄭を攻撃したが、5日間にわたり包囲したものの攻略できずに撤退した。当時、魯の大夫である衆仲はこの様子を見て、「夫の州吁は兵を阻(たのむ、「阻」は仗恃(たのむ、たよるの意)なり)みて忍(残忍)に安んず。兵を阻めば、衆無く、忍に安んずれば、親無し。衆叛き、親離れば、以て濟(「濟」は功を成すなり)り難し。(州吁は武力に頼り、残忍な行いに安んじている。武力に頼れば民の支持を失い、残忍であれば肉親や側近も離れ去る。民が叛き親しい者が離れ去ったならば、事を成し遂げるのは難しい)」と語った。

これは、州吁が諸侯に媚びて民を懐柔し、国内の矛盾を緩和しようと目論んだものの、結果は裏目に出て、広範な民衆からは背かれ、身近な側近からも見放されたことを意味する。人民の激しい怨嗟を買い、彼は簒奪から1年足らずで殺害された。「衆叛親離」とは、民衆が背き、親しい者が離れ去ることを意味する。現在では、反動派が民心を失い、孤立無援となった状態を形容する成語として頻繁に用いられる。

毛主席がここで「衆叛親離」という言葉を引用したのは、国民党反動派が一貫して反共・反人民の内戦政策を強行した結果、1949年初頭の時点で全国人民の反対に遭ったのみならず、かつて蒋介石反動派に幻想を抱いていた人々さえもがその本質を認識して覚醒しつつあり、国民党反動政府がまさに「衆叛親離」の境地に陥っていることを示したのである。



土崩瓦解どほうがかい

原文

现在,人民解放军无论在数量上士气上和装备上均优于国民党反动政府的残余军事力量。至此,中国人民才开始吐了一口气。现在,情况已非常明显,只要人民解放军向着残余的国民党军再作若干次重大的攻击,全部国民党反动统治机构即将土崩瓦解,归于消灭。

 現在、人民解放軍は、数のうえでも、士気のうえでも、また装備のうえでも、国民党反動政府の残存軍事力をしのいでいる。ここにいたって、中国人民ははじめて気を吐いたのである。現在、状況はひじょうにはっきりしている。人民解放軍が国民党軍の残存部隊にさらに何回か大きな攻撃をくわえさえすれば、国民党の反動支配機構はすべて崩壊し、消滅するであろう。

《中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明》


 「土崩瓦解どほうがかい」という言葉は、『史記・秦始皇本紀』に由来する。「秦の積衰は、天下の土、崩れ瓦解す。周旦の材有ると雖も、復た其の巧みを陳ぶる所無からん。而るに以て一日の孤(子嬰)を責むるは、誤れるかな。俗に秦の始皇、罪悪を起こし、胡亥、極めたり、と伝うるは、其の理を得たり。(秦の積もり重なった衰えにより、天下は土崩瓦解し、たとえ周旦(周公旦)の才能があったとしてももはやその巧みを振るう術はなく、わずか一日の孤王に責任を追及したところで、もはや手遅れである。俗に、秦の始皇帝が悪事を起こし、胡亥がそれを極めたと言い伝えられているのは、まさにその道理を得ている)」この文章は、秦の衰亡が秦二世の時代に至って極限に達し、土が崩れ瓦が砕けるがごとく、たとえいかに優れた才能があったとしてももはや収拾のつけようがない状態であったことを意味している。

毛主席は「土崩瓦解」という成語を用い、国民党の反動統治機構が間もなく全面的な崩壊を迎え、中国革命が全国的な勝利を収めるであろうことを予見的に指摘した。これは毛主席が1949年1月に下した科学的な予見であった。まもなくこの予見は現実のものとなり、中国大陸は完全に解放され、国民党の反動統治は文字通り「土崩瓦解」したのであった。




四分五裂しぶんごれつ

原文

国民党反动统治崩溃的速度,比人们预料的要快。现在距离解放军攻克济南只有四个多月,距离攻克沈阳只有三个多月,但是国民党在军事上、政治上、经济上、文化宣传上的一切残余力量,却已经陷于不可挽救的四分五裂、土崩瓦解的状态。

 国民党反動支配のくずれていく速度は、人びとの予想以上にはやい。解放軍の済南攻略からわずか四ヵ月あまり、瀋陽攻略からわずか三ヵ月あまりしかたたない現在、国民党の軍事面、政治面、経済面、文化・宣伝面のあらゆる残存勢力はもはや、救いようのない四分五裂と瓦解の状態におちいっている。

《四分五裂の反動派がなぜまだ「全面的和平」の空念仏をと存えるのか》


 「四分五裂(四分五裂す)」という言葉は、『戦国策・魏策』に由来する。張儀が秦の連横策を推進するべく魏王に遊説して言った。「張儀、秦の為に連橫せんとし、魏王に説いて曰く、「魏の地、方千里に至らず、 卒、三十萬人に過ぎず。チ四もに平らかにして、諸侯四もに通じ、條達輻湊す(周囲から中心に集まってくる状態をいう)。名山大川の阻有る無く、鄭從り梁 に至るまで、百里に過ぎず。陳從り梁に至るまで、二百餘里。馬馳せて人趨ら ば、倦むを待たずして梁に至る。南は楚と境し、西は韓と境し、北は趙と境し、 東は斉と境し、・・・魏、南のかた楚に與して齊に與せずんば、則ち齊、其の東を攻めん。 東のかた齊に與して趙に與せずんば、則ち趙、其の北を攻めん。韓に合せずん ば、則ち韓、其の西を攻めん。楚に親しまずんば、則ち楚、其の南を攻めん。 此れ所謂る四分五裂の道なり。(魏の領土は千里に満たず、兵卒は三十万人に過ぎません。地勢は平坦で諸侯の交通が四方に通じており、名山や大川といった天険の阻みがありません。鄭から梁(魏の国都)までは百里足らず、陳から梁までは二百余里であり、馬を駆り人が走れば息をつく間もなく到達してしまいます。梁は南で楚と接し、西で韓、北で趙、東で斉と接しております。……魏が南の楚と結んで斉と結ばなければ、斉が東から攻め寄せるでしょう。東の斉と結んで趙と結ばなければ、趙が北から攻めてきます。韓と和合しなければ韓が西から攻め、楚と親しまなければ楚が南から攻めてきます。これがいわゆる四分五裂の地勢というものです。)」

蘇秦は戦国時代における合縦派の指導者であり、張儀は連横派の指導者であった。張儀は合縦を打開することを目的とし、蘇秦も張儀も巧みな危言(過激な言辞)を用いて諸侯の間を遊説して回った。ここに記されているのは、張儀が秦の使者として魏王を遊説した際の一節である。彼は、魏の立地が鄭・陳・楚・韓・趙・斉の各国に囲まれ、周囲に守るべき天険がないという地理的欠陥を指摘した。張儀はあたかも魏国を心から案じているかのように装い、南の楚と結べば斉が攻め、斉と結べば趙が攻め、楚と親しまなければ楚が攻めてくる、といった具合にいかなる施策も万全とはなり得ず、魏は連年の戦争で安寧を失い、国土も分断されて四分五裂に至るであろうと説いたのである。「四分五裂」とは、一つの国家や地域がいくつもの断片に切り裂かれる様子をたとえたものであり、支離破砕や分崩離析と同義である。



天低吴楚,眼空无物(天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし)

原文

这样,李宗仁在石头城上所能看见的东西,就只剩下了“天低吴楚,眼空无物”。李宗仁自上月二十一日登台到现在下过的命令,没有一项是实行了的。

 こうして、李宗仁が石頭城から目にしうるものとては、ただ「天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし」ということになってしまった。李宗仁が先月二十一日に登場してから現在までにくだした命令で、実行されたものは一つもない。

《四分五裂の反動派がなぜまだ「全面的和平」の空念仏をと存えるのか》


 「天低呉楚、眼空無物(天は呉楚に低く、眼は空として物無し)」は、元代の詩人である薩都剌(号は天雲)が詠んだ『登石頭城(石頭城に登る)』・調は『念奴嬌』の一節に由来する。この詞の冒頭は次のように始まる。「石頭城より望めば、天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし。六朝の形勝の地を指点すれば、ただ青山の壁の如きあるのみ。」ここで言う「石頭城」とは南京市の古称であり、「呉楚」は長江中下流の一帯を指す。この詞は、詩人が石頭城に登り、四方を展望しつつ往事を振り返って抱いた感慨を詠じたものである。

人間が遠方を見渡す際、遠くなればなるほど天が下方に垂れ下がり、青空と大地が地平線で接しているかのような錯覚を覚える。ゆえに詩人は「天低呉楚」と表現した。長江中下流は古来、幾多の豪傑たちが争いを繰り広げた地であり、それゆえ詩人は「一江の南北、多少の豪傑を消磨せしか」と詠み、しかし今目を転じれば、すべては潰えて「眼空無物」となったと感慨を漏らしたのである。「天低呉楚、眼空無物」とは、南京城上に立って遠くを展望すれば、見渡す限り蒼天が広がるのみで、目に入るものは何一つないという意味である。この一句には、悲哀と傷感の情が込められている。

毛主席はこの詩句を借用し、国民党反動派がすでに四分五裂を極め、衆叛親離の境地に陥っている様を象徴的かつ生々しく説明した。仮に彼ら自身が南京城上に立って遠くを眺めたところで、ただ広がる蒼天以外には何一つ見出すことはできないのだ、と示したのである。



明目张胆めいもくちょうたん

原文

他的这些话,和二月十三日国民党宣传部的《特别宣传指示》对于战犯问题所表示的态度,是一样地吞吞吐吐,不敢明目张胆地提出反对,较之李宗仁敢于承认以惩办战犯为谈判的基础条件之一,大不相同。

 かれのこうしたことばは、国民党宣伝部の二月十三日の「特別宣伝指示」が戦犯問題にたいしてしめした態度とおなじように、奥歯にものがはざまったような言いかたをしていて、あけすけには反対していない。これは、李宗仁が戦犯の処罰を交渉の基礎条件の一つとして思いきって承認したのとは、大きなちがいがある。

《戦争責任の問題にたいする国民党のいくつかの答案を評す》


 「明目張胆(めいもくちょうたん・目を明らかにし胆を張る)」という言葉は、『新唐書・韋思謙伝』に由来する。唐の韋思謙(本名は仁約)は、かつて監察御史を務め、頻繁に巡察へ出ては権勢を恐れることなく、貪官汚吏を糾弾することに躊躇しなかった。ある時、中書令の褚遂良の過ちを見咎め、上書して告発した。これによって一度は左遷されたものの、後に高宗(李治)に重用された。しかし、その過程で一時的に甘粛の清水県令へと降格された際、韋思謙は極めて不満を抱き、激昂して「大丈夫たる者、当に敢えて言うべし。要は須らく目を明らかにし胆を張りて以て天下に報ゆべし。安んぞ能く碌碌として妻子を保たんや」と語った。

これは「男たる者、堂々と発言すべきであり、目を見開き肝を据えて大胆に物事をなし、国家に報いるべきだ。どうして凡庸な官吏に甘んじて妻子を養うだけで満足できようか」という意味である。

後世、人々はこの「明目張胆」という言葉を引用し、一部の者が恐れを知らずに傍若無人に振る舞い、公然と悪事を行なう様子を形容するようになった。



不耻下问(下問を恥じない)

原文

我们切不可强不知以为知,要“不耻下问”,要善于倾听下面干部的意见。先做学生,然后再做先生;先向下面干部请教,然后再下命令。

 われわれはけっして知らないのに知ったようなふりをしてはならず、「下問を恥じない」ようにしなければならず、下級の幹部の意見によく耳をかたむけるようにしなければならない。まず生徒になり、そのあとで先生になる、まず下級の幹部に教えを請い、そのあとで指令を出すようにする。

《党委員会の活動方法》

 春秋時代、衛の大夫に孔圉こうぎょという人物がいた。彼は極めて好学かつ謙虚であり、かつて孔子にも教えを請うたことがあった。衛国は彼の生前における謙虚で学問を好む高潔な精神を讃え、その死後、「文」という諡号しごうを贈った(後世、人々は彼を孔文子と称した)。

孔子の弟子である子貢はこの処置に納得がいかず、彼にも欠点があったのになぜ称賛されるのか疑問に思った。そこで孔子に「孔文子、何をもってかこれを『文』と謂うや(なぜ孔圉は『文』と称されるのでしょうか)」と尋ねた。孔子は「敏にして学を好み、下問を恥じず、是以てこれを『文』と謂うなり」と答えた。これは、彼が聡明でありながら学問を好み、自分より身分や能力が劣る者に教えを請うことを恥としなかったため、諡号として「文」と贈られたのだ、という意味である。「不恥下問」という成語はこの故事に由来する。現在では、謙虚に学び、勤勉に問いかける姿勢をたとえるのによく用いられる。

毛主席は「不恥下問」の言葉を用いて我々を次のように指導した。自らを向上させ、仕事を成功させるためには、謙虚に他者から学ぶ必要があり、時には自分より劣る者からも学ばねばならない。自ら進んで小学生(教えを受ける立場)になることは羞恥ではなく、むしろ光栄なことである。他者から謙虚に学ぶ者だけが絶えず進歩できるのであり、まさに毛主席が述べた通り「謙虚は人を進歩させ、うぬぼれは人を後落させる」のである。



鸡犬之声相闻,老死不相往来(けいけんのこええいきこゆるも、おいてしにいたるまであいおうらいせず・雞犬の声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来せず)

原文

“互通情报”。就是说,党委各委员之间要把彼此知道的情况互相通知、互相交流。这对于取得共同的语言是很重要的。有些人不是这样做,而是像老子说的“鸡犬之声相闻,老死不相往来”,结果彼此之间就缺乏共同的语言。

 「情報を知らせ合う」。つまり、党委員会の各委員は知っている状況を知らせ合い、交流し合わなければならない。これは、共通のことばをもつうえでひじょうに大切なことである。一部の人はそうしないで、老子のいうように「鶏犬の声あい聞くゆれども、老いて死にいたるまであい往来せず」、その結果、ぶたがいのあいだに共通のことばが欠けている。

《党委員会の活動方法》


「鶏犬之声相聞、老死不相往来(鶏犬の声相聞こえ、老死まで相往来せず)」という言葉は、『老子・第八十章』に由来する。「小国寡民、什伯ジュウハクの器あるも用いざらしむ。民をして死を重んじて遠くうつらざらしむ。甲兵ありといえども、これをつらぬるところなし。人をしてまた縄を結びてこれを用い、その食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国相望み、雞犬の声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来せず。」この文章は、老子の思想における「小国寡人」という理想社会を反映している。老子は春秋時代末期の思想家であり、当時の社会の闇を認識していた一方で、その問題を解決するための科学的な概念を提示する力を持たなかった。そのため、唯心史観に基づいて、後退的であり本質的には反動的な「小国寡人」という社会理想を打ち出したのである。これは老子の空想に過ぎないが、一面においては小生産者たる労働者が搾取や併吞戦争に反対する思想的要求をある程度反映したものでもあった。

毛主席は「鶏犬之声相聞、老死不相往来」という言葉を引用し、我々がどのような仕事を行う際にも、地域間、部門間、あるいは幹部同士において、必ず情報を互いに通じ合わせ、状況や経験を交流し合い、全体的な視点を持つべきであると指導した。そうしてはじめて党の統一的指導を実現し、党の方針や政策をより良く貫徹・執行できるのであり、同時に互いに長所を採り入れて短所を補い合い、助け合って仕事をより優れたものにできるのである。



取而代之(ある人が他人の権力・地位に,ある事物が他の事物に取って代わる)

原文

划清反动派和革命派的界限,揭露反动派的阴谋诡计,引起革命派内部的警觉和注意,长自己的志气,灭敌人的威风,才能孤立反动派,战而胜之,或取而代之。在野兽面前,不可以表示丝毫的怯懦。

 反動派と革命派のけじめをはっきりつけ、反動派の陰謀、計略をあはき、革命派の内部の警戒心と注意をよびおこし、味方の士気をたかめ、敵の威勢をくじいてこそ、反動派を孤立させ、これにうち勝ち、あるいはこれにとって代わることができるのである。野獣のまえでは、ほんのわずかなひるみも見せてはならない。

《人民民主主義独裁について》


 「取而代之(これに取って代わる)」という成語は、『史記・項羽本紀』「秦の始皇帝、會稽に游び、浙江を渡る。梁、 籍と俱に觀る。籍曰く、「彼取って代わる可きなり。」」に由来する。

秦の時代、秦の始皇帝が会稽を巡幸し、浙江を渡った際、項梁と項籍(項羽)は共にその様子を見物した。項羽は始皇帝の巡幸の盛大な様を目にし、思わず「あの皇帝の座は奪い取って自分が代わることができる」と語った。後世、人々はこの「彼可取而代也」という言葉を圧縮して「取而代之」という成語を作り、他者を追い出して自分がその場所に取って代わることを意味するようになった。



庆父不死,鲁难未已(慶父が生きている間は魯国に災難はやまない・国をひっかき回す元凶がいる間は安寧は期待できない)

原文

・・・逮捕并严惩那些坚决反对和平、积极破坏和谈、积极准备抵抗人民解放军向长江以南推进的反革命首要。庆父不死,鲁难未已。战犯不除,国无宁日。这个真理,难道现在还不明白吗?

また、どこまでも和平に反対し積極的に和平交渉をぶちこわし長江以南への人民解放軍の進撃に抵抗しようと積極的に準備している反革命のおもだったものどもを逮捕して厳重に処罰すべきである。慶父死せざれは、魯の難はやまず、戦犯をのぞかざれば、同に寧日なし、である。この真理がいまになってもまだわからないのだろうか。

《南京政府はどこへいく》


「庆父不死,鲁难未已(慶父死なざれば、魯の難止まず)」という言葉は、『左伝・閔公元年』に由来する。春秋時代、魯の公子慶父は魯の荘公の弟であった。荘公の死後、子般が国君として即位したが、慶父は自らの野心のために子般を殺害し、別に閔公を擁立した。しかし、それから間もなく閔公もまた慶父によって害された。野心に満ちた慶父が相次いで国君を殺害したため、国内の情勢は大乱を極め、人民の激しい怒りを引き起こした。魯の国君が立て続けに命を落としたことを受け、斉は権力者である大夫の仲孫湫を慰問のため魯国へ派遣した。慰問を終えて斉へ戻った彼は、国君に向かって「慶父を去らざれば、魯難已まず(慶父を排除しなければ、魯の災難が止むことはありません)」と報告した。その後、魯の人民が立ち上がって慶父を追い払ったことで、魯国ははじめて安寧を取り戻すことができたのである。「慶父不死、魯難未已」という成語はこの故事に由来する。後世、人々はしばしば「慶父」の二字を、災難や戦乱を引き起こす元凶・権謀術数の首謀者の比喩として用いるようになった。

毛主席はここで、内戦を挑発して人民を殺戮した戦犯を慶父になぞらえ、歴史の教訓を永遠に踏襲すべきであると人民を指導した。すなわち、断固とした態度で戦犯を排除し、革命を最後まで遂行しなければならないのであり、反動階級の利益を代表する戦犯どもを根絶しない限り、国内の平和は決して実現しないと説いたのである。



嗟来之食(さらいのし・さげすんで与える食べ物)

原文

美国人在北平,在天津,在上海,都洒了些救济粉,看一看什么人愿意弯腰拾起来。太公钓鱼,愿者上钩。嗟来之食,吃下去肚子要痛的。

 アメリカ人は北平で、天津で、上海で、すこしばかり救済用の小麦粉をばらまき、どんな連中が腰をかがめて拾うかをためしてみた。太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる。嗟来の食は、食えばおなかが痛くなる。

《さらば、スチュアート》


 「嗟来之食(嗟来の食)」という言葉は、『礼記・檀弓下』に由来する。春秋時代、斉の国で深刻な飢饉が起こった際、黔傲けんごうという富豪が、偽善的な親切心から道端に食べ物を並べ、飢えた人々に施しを行おうとした。まさにその時、一人の男が餓えでひどく疲弊し、袖で顔を覆い、破れた靴を引きずりながら、フラフラと歩いてやって来た。黔傲は左手に食べ物を持ち、右手に汁物を持って、飢えた男に向かって「嗟!来たりて食らえ(おい!来て食べろ)」と横柄に呼びかけた。

飢えた男はその無礼な呼びかけを聞くと、目をかっと見開き、黔傲を凝視して次のように拒絶した。「われ嗟來の食を食はず、以て斯に至れるなりと。(私がこうして餓死寸前まで追い込まれたのは、まさにそのような侮蔑に満ちた施しを食べなかったからだ)。」結局、その男は他者からの侮辱的な施しを拒み通し、そのまま餓死してしまった。1949年8月、中国人民解放戦争が全国的な勝利を目前にし、蒋介石政権(蒋家王朝)が完全に追い詰められていた状況下、国民党の統治地域では深刻な食糧難が発生していた。アメリカ帝国主義は国民党反動統治の崩壊危機を救うため、奴隷化を条件とした「援助」を提供し、北京や上海などの大都市でいわゆる「救済米」をばら撒いた。

しかし、気骨ある中国人民(聞一多や朱自清に代表される知識人たち)は、アメリカ帝国主義による侮辱的な「施し」を堅く拒絶した。

毛主席は『さらば、スチュアート』という論説の中でこの成語を引用し、「倒れることを選ぶとも、屈服することは望まない」という中国人民の屈強で不撓不屈の精神を象徴的に説明したのである。



施仁政(じんせいをほどこす・仁政を施す)

原文

军队、警察、法庭等项国家机器,是阶级压迫阶级的工具。对于敌对的阶级,它是压迫的工具,它是暴力,并不是什么“仁慈”的东西。“你们不仁。”正是这样。我们对于反动派和反动阶级的反动行为,决不施仁政。

軍隊、警察、法廷などの国家機構は、階級が階級を抑圧する道具である。敵対階級にたいしては、それは抑圧の道具であり、暴力であって、けっして「いつくしみ」などというものではない。「きみたちにはいつくしみがない」。まったくそのとおりである。反動派、反動階級の反動的な行為にたいしては、われわれはけっして仁政をほどこしはしない。われわれは人民の内部に仁政をしくだけで、人民の外部の反動派、反動階級の反動的な行為にたいして仁政をほどこすものではない。

《南京政府はどこへいく》


 「施仁政(じんせいをほどこす・仁政を施す)」という言葉は、『孟子・梁恵王上』に由来する。

戦国時代、孟子が魏(梁)の国を訪れて梁恵王に謁見した際、恵王は国家の治術について尋ねた。恵王は「かつて我が魏の強大さに並ぶ国はなかったが、今や斉・秦・楚などの国々と戦って敗北を重ね、これは痛恨の極みである。この恥を雪ぐにはどうすればよいか」と質問した。

これに対し、孟子は次のように答えた。「地は方 百里ならば以て王たる可し。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き、税斂を薄く し、深く耕し易め耨らしめ、壯者は暇日を以て其の孝悌忠信を脩め、入りては 以て其の父兄に事え、出でては以て其の長上に事えば、梃を制して以て秦楚の 堅甲利兵を撻たしむ可し。」

これは、「方円百里の小国であっても仁政を行えば天下の王となることができる。王が民に対して仁慈の政治を行い、刑罰を軽減し、税金を安くし、民が深く耕して草をむしり取れるようにし、若い者には暇な時に孝悌や忠信の道徳を学ばせ、家庭では父兄に仕え、外では目上の者に仕えさせるならば、ただの木棒を持たせるだけでも、頑丈な甲冑や鋭利な兵器を持つ秦や楚の精鋭に対抗させることができる」という意味である。「施仁政」とは、本来「仁慈の政治を行なう」という意味である。しかし、これはブルジョアジーによる階級を超越した反動的論調である。「仁政」はいつの時代においても階級的・具体的なものであり、超階級的な「仁政」など存在し得ない。中国革命の勝利後、ブルジョア的な論調が流行し、反動派に対しても仁政を施すべきであり、さもなければ我が党は「不仁」であると主張する者が現れた。

毛主席はこうした誤った論調を断固として批判し、「われわれは人民の内部に仁政をしくだけで、人民の外部の反動派、反動階級の反動的な行為にたいして仁政をほどこすものではない。」と指摘した。

さらに毛主席は、「反動階級や反動派のものにたいしては、かれらの政権がくつがえされたのち、かれらが謀反をおこしたり、破壊行為にでたり、攪乱行為にでたりしないかぎり、やはり土地をあたえ、仕事をあたえて、生きていけるようにし、労働のなかで自己を改造させ、新しい人間にうまれ変わらせる。・・・これも、「仁政をほどこす」ものといえるかもしれないが、しかし、これは、もともと敵対階級だったものにたいしてわれわれが強制的におこなうものであって、革命的人民の内部にたいしてわれわれのおこなう自己教育とは同日に論ずることはできない。」と解き明かしたのである。


即以其人之道,还治其人之身(その人のやり方でその人に仕返しする)

原文

宋朝的哲学家朱熹,写了许多书,说了许多话,大家都忘记了,但有一句话还没有忘记:“即以其人之道,还治其人之身。”我们就是这样做的,即以帝国主义及其走狗蒋介石反动派之道,还治帝国主义及其走狗蒋介石反动派之身。如此而已,岂有他哉!

 宋代の哲学者朱熹はいろいろな書物を書き、いろいろなことを説いたが、みんなから忘れられている。しかし、まだ忘れられていないかれのことばに、「すなわちその人の道をもって、かえってその人の身を治む」というのがある。われわれがやっているのは、まさにこれである。すなわち帝国主義とその手先蒋介石反動派の道をもって、かえって帝国主義とその手先蒋介石反動派の身を治めるのである。それだけのことで、それ以外のことではない。

《人民民主主義独裁について》


 「即以其人之道,還治其人之身(その人の道をもって、即ちその人の身を治む:目には目を、歯には歯を)」という言葉は、宋の朱熹による『中庸・十三章注』に由来する。この言葉に関して、『資治通鑑・唐紀』には一つの逸話が記されている。唐の女皇・武則天が執政していた頃、その手下に尚書右丞の周興と御史中丞の来俊臣という、残酷極まりない二人の高官がいた。彼らは日頃から残忍な酷刑を考案していた。後に周興に謀反の密告がなされると、武則天は来俊臣にこの件の審理を命じた。

周興に自供させることが容易ではないと知っていた来俊臣は、策を講じて彼を自宅での酒宴に招いた。酒宴が盛り上がった頃合いを見計らい、来俊臣はわざと「最近、取り調べで容疑者がなかなか自供しないのだが、何か良い手立てはあるか」と尋ねた。残忍な周興はこう答えた。「簡単なことだ。大きなかめを一つ用意し、その周囲で炭火を焚いて熱する。そこに容疑者を入れれば、灼熱の苦痛に耐えかねて、どんな罪でも白状するだろう」。これを聞いた来俊臣はすぐに大きな甕を運ばせ、周興の言った通りに温めさせた。そして周興に向かって「あなたを告発する密告状があり、取り調べを言いつかった。さあ、この甕に入っていただこう」と告げた。周興は呆然自失とし、恐れおののいて頭を下げ、あっさりと罪を認めたのだった。

この故事は「請君入甕(君、この甕に入らんことを請う)」と呼ばれており、後に人々は、来俊臣が「周興の道をもって、周興の身を治めた」と表現するようになった。

宋の哲学者である朱熹は『中庸・十三章』の注釈において、「即以其人之道,還治其人之身」という一節を書き加えた。

毛沢東主席は『人民民主主義独裁について』の中でこの朱熹の言葉を引用し、次のように説明している。「独裁という仕組みは、プロレタリアートが発明したものではなく、搾取階級が被搾取階級を支配する過程で生み出した産物である。革命的専政は反革命的専政から学んだものであり、無産階級の『独裁』はブルジョワジーの『独裁』から学んだものにほかならない。無産階級およびあらゆる被抑圧階級の革命が成功を収めた後、もし反動階級に対して専政を行わなければ、革命政権を維持し強固にすることはできず、反革命勢力が復活して革命は失敗に終わるであろう。」



大公无私たいこうむし

原文

人民民主专政需要工人阶级的领导。因为只有工人阶级最有远见,大公无私,最富于革命的彻底性。整个革命历史证明,没有工人阶级的领导,革命就要失败,有了工人阶级的领导,革命就胜利了。

  人民民主主義独裁には、労働者階級の指導が必要である。なぜなら、労働者階級だけがもっとも遠くを見通すことができ、大公無私であり、もっとも革命の徹底性をもっているからである。革命の全歴史が証明しているように、労働者階級の指導がなければ革命は失敗し、労働者階級の指導があれば革命は勝利する。

《人民民主主義独裁について》


  「大公無私(たいこうむし・公のために尽くし、私心を捨て去ること)」という言葉は、『呂氏春秋』に収められたある故事に由来する。『呂氏春秋・去私篇』には、「堯には十人の子がいたが、その子に与えず舜に譲った。舜には九人の子がいたが、その子に与えず禹に譲った。これこそ至公ある」と書かれている。あるとき、晋の平公が祁黄羊に「南陽県で県令のポストが空いているが、誰を派遣すべきだと思うか」と尋ねた。祁黄羊は「解狐を当てるのが最も適切です」と答えた。平公は驚いて「解狐は君の仇敵ではないか。なぜ彼を推薦するのだ」と尋ねた。祁黄羊は「公は誰が県令にふさわしいかをお尋ねになったのであり、誰が私の仇敵であるかをお尋ねになったわけではありません」と答えた。そこで平公は解狐を県令として派遣したところ、解狐は現地の人々のために多くの有益な仕事を行い、民衆から大いに歓迎された。数日後、平公は再び祁黄羊に「現在、朝廷で法官が欠員となっている。誰なら任に耐えうると思うか」と尋ねた。祁黄羊は「祁午なら任を果たせます」と答えた。平公はまたしても不思議に思い、「祁午は君の息子ではないか」と尋ねた。祁黄羊は「公は誰が任を果たせるかをお尋ねになったのであり、祁午が私の息子であるかどうかをお尋ねになったわけではありません」と答えた。そこで平公は祁午を法官に任じたところ、これまた民衆から絶大な評判を得た。孔子はこれら二つの出来事を聞き、祁黄羊を大いに称賛して次のように語った。「善いかな、祁黄羊の論たるや。外に挙げ(推挙し)ては仇を避けることなく、内に挙げては子を避けることなし。祁黄羊は公と言ふべきなり(実に素晴らしい議論である。外部の人材を推挙する際には仇敵であっても避けず、内部の人材を推挙する際には実の子であっても避けない。祁黄羊こそは、まさに公平無私な人物と言える)」。

つまり、祁黄羊は推薦する際、完全に才能と徳を基準としており、優れた人物が自分の仇敵であるからといって偏見を持って不採用にすることもなければ、自分の息子であるからといって世間の評判を恐れて埋もれさせることもなかったということである。祁黄羊のような人物こそ、まさに「大公無私」と呼ぶにふさわしい。また、『漢書・賈誼伝』には「人臣たる者は、主を思ひて身を忘れ、国を思ひて家を忘れ、公にして私を忘る(臣下たる者は、君主を第一に考えて自身の身を忘れ、国家を第一に考えて己の家を忘れ、公の立場を最優先して私心を忘れるべきである)」という記述がある。「大公無私」という成語は、この「公而忘私(公にして私を忘る)」という言葉から発展して生まれたものである。

毛沢東主席は「大公無私」という言葉を用いて、中国のプロレタリアートが中国革命の指導者であることを説明した。これは中国の労働者階級が持つ階級性によって決定づけられたものであり、歴史発展の必然的な法則であって、中国革命の勝利における根本的な保証とされる。

当然ながら、無産階級の「大公無私」と、古人が語った「至公」とでは、その本質において明確な違いが存在する。



放下屠刀,立地成佛(凶刃を捨てさえすれば,直ちに成仏する)

原文

按照逻辑,艾奇逊的结论应该是,照着中国某些思想糊涂的知识分子的想法或说法,“放下屠刀,立地成佛”,“强盗收心做好人”,给人民的中国以平等和互利的待遇,再也不要做捣乱工作了。但是不,艾奇逊说,还是要捣乱的,并且确定地要捣乱。

 論理からすれば、アチソンの結論は、中国の一部のあいまいな考えをもつ知識人が考えたり、いったりしているように、「刀を捨てて、たちどころに仏となり」「強盗が改心して善人となる「つまり、人民の中国に平等、互恵の待遇をあたえ、二度と攪乱工作はやらない、ということになるはずである。ところが、そらではなく、アチソンは、これからも攪乱する、しかもかならず攪乱する、といっている。

《幻想をすてて、闘争を準備せよ》


 「放下屠刀,立地成佛(刀を捨てて、たちどころに仏となり・悪人も悔い改めさえすれば,直ちに善人に立ち返る)」という言葉は、明の彭大翼による『山堂肆考』の一文に由来する。「屠児、涅槃会において屠刀を放ち下せば、立地に即ち成仏す(屠殺業者が涅槃会において殺生用の包丁を置けば、その場ですぐに仏になる)」という記述があり、これは悪を改め善に従うよう人々を諭す仏教の教えである。すなわち、屠殺者のような人間であっても、自身の過ちを懺悔し、殺生の道具を捨てさえすれば、その場で直ちに仏になれるという意味である。「放下屠刀,立地成佛」は、この「放下屠刀,立地便成佛」という表現から発展して生まれたものであり、悪事を働いた者であっても、改心を決意して悪を改めて善に向かうならば、良い人間になれるということを意味している。

毛沢東主席は、中国人民革命がまさに全国的な勝利を収めようとしていた時期に、「民主的個人主義者」がアメリカ帝国主義に対して抱いていた幻想を暴く一方で、帝国主義者の本質が変わることは決してなく、彼らが「屠刀を捨てて、その場で仏になる」ようなことはあり得ないと指摘した。ここで   

毛主席は、全党および全人民に対し「幻想をすてて、闘争を準備せよ」と呼びかけ、革命の徹底的な勝利を迎えるよう訴えたのである。



伯夷颂はくいしょう

原文

唐朝的韩愈写过《伯夷颂》,颂的是一个对自己国家的人民不负责任、开小差逃跑、又反对武王领导的当时的人民解放战争、颇有些“民主个人主义”思想的伯夷,那是颂错了。

 唐代の韓愈は「伯夷頌」を書いたが、たたえているのは、自国の人民には責任を負わず、こっそり逃げだし、しかも武王の指導する当時の人民解放戦争にも反対した、かなり「民主的個人主義」の思想をもっていた伯夷であって、こういうものをたたえるのはまちがいであった。

《さらば、スチュアート》


伯夷の故事は、最初『荘子』や『呂氏春秋』に散見される。『史記・伯夷列伝』はこれらの資料に基づき、伯夷に関する事跡を体系的に記録している。伯夷と叔斉は、ともに古代の孤竹国の君主の子であった。君主の生前、叔斉に王位を継がせる意向があったが、君主の死後、叔斉と伯夷は互いに君主の座を譲り合い、自ら即位することを望まなかった。最終的に二人は国を捨て、周の地へと逃亡した。彼らが周に到着した時、文王はすでに没しており、武王が即位して殷の紂王に対する討伐を始めようとしていた。討伐の知らせを聞いた伯夷と叔斉は、武王の馬の前に進み出て手綱を取り、次のように諫めた。「父が死して未だ葬らざるに、すなわち干戈に及ぶ、孝と謂うべけんや。臣を以て君を弑する、仁と謂うべけんや(父が亡くなってまだ葬儀も済んでいないのに武力を行使するのは孝と言えようか。臣下の身でありながら君主を討つのは仁と言えようか)」。伯夷と叔斉は、武王の紂王討伐を不仁・不孝であると見なし、強く反対したのである。武王が殷を滅ぼすと、天下は周に服従した。しかし「伯夷と叔斉はこれを恥とし、義として周の粟を食らわず、首陽山に隠れ、ぜんまいを摘んでこれを食べ、餓死するに至った」。伯夷と叔斉のこのような行為は、封建統治階級から一貫して称賛と推崇を受けてきた。孔子は彼らを「仁を求めて仁を得たり」と評し、韓愈は特に感服して『伯夷頌』を執筆し、「特立独行し、天地を窮め万世に亘りて顧みざる(信念を貫き、天地の間で永遠に他人の目を気にすることのない)」の「豪傑の士」であると称賛した。

毛主席はここで、伯夷に対する伝統的かつ錯誤した認識を正し、マルクス・レーニン主義に基づく科学的批判を伯夷に加えた。毛主席は、我々が称賛すべきは民族的英雄の気概を示した人物(朱自清や聞一多ら)であって、自らの国家や人民に関心を持たなかった伯夷のような人物ではないと指摘した。この点は、我々が歴史上の人物をどのように認識し評価すべきかにおいて、非常に大きな指導的意義を持っている。



太公钓鱼,愿者上钩(太公望の魚釣り,釣られたい者が針にかかる)

原文

美国人在北平,在天津,在上海,都洒了些救济粉,看一看什么人愿意弯腰拾起来。太公钓鱼,愿者上钩。

 アメリカ人は北平で、天津で、上海で、すこしばかり救済用の小麦粉をばらまき、どんな連中が腰をかがめて拾うかをためしてみた。太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる。

《さらば、スチュアート》


「太公釣魚,願者上鉤(太公望の魚釣り,釣られたい者が針にかかる・太公望の釣りのように、相手が自ら進んで罠にかかること)」は、古くから伝わる民間の故事であり、『水経注・渭水』および『史記・斉太公世家』に見られる。伝説によれば、周の時代に姜太公(名は尚)という人物がいた。文王や武王の時代、才能を持ちながらも恵まれなかった彼は、陝西省の渭水いすいのほとりに隠遁していた。当時の社会に対する不満から、彼はエサのない直線の針を水面から三尺以上も上に垂らして釣りをし、「運命に背く者(死期を早めたい者)は針にかかれ!」と常に口にしていた。ここを通りかかるここりたちがよく彼を笑ったが、彼は呪文のように「短竿長線、磻渓はんけいを守る。このからくりを誰が知ろうか。ただ当朝の君と臣を釣るのみにて、何ぞ意の水中のお魚に在らんや(短竿と長い糸で磻渓の畔におり、この意図を誰も知らない。私が釣り上げようとしているのは今の時代の君主と臣下であって、水中の魚など端から狙っていない)」と呟いていた。太公はこのようにして数十年を過ごし、髭や髪は白くなり、体も衰えていったが、いつの日か開明的な君主と出会い、自らの抱負を実現できるという希望を心の中にほのかに抱き続けていた。その後、周の文王が果たして「針にかかり」、姜太公を国師として迎え入れ、まもなく丞相へと引き上げた。

毛沢東主席は『さらば、スチュアート』と題する文章の中で、「太公釣魚,願者上鉤」の故事を用いて、米帝国主義による「施し」や「救済用の小麦粉」の本質には下心があり、純粋な救済の意図から出たものではないことを比喩的に表した。当時、中国人民は党と毛主席の指導・教育のもと、英雄的民族の気概をもって米帝国主義の陰謀を力強く暴き出し、全国人民革命の偉大な勝利を迎えたのである。



茕茕孑立,形影相吊(茕茕けいけいとして孑立けつりつし、形影相吊う(一人ぽっちで頼る所もなく余儀なく独り立ちしたが、影と形がお互いに慰め合うように、非常に孤独で頼りない有様であった)

原文

人民解放军横渡长江,南京的美国殖民政府如鸟兽散。司徒雷登大使老爷却坐着不动,・・・总之是没有人去理他,使得他“茕茕孑立,形影相吊”,没有什么事做了,只好挟起皮包走路。

 人民解放軍が長江を渡ると、南京のアメリカ植民政府はくもの子を散らすように逃げさった。ところがスチュアート大使さまだけは、新しい店でもひらいてひともうけしようとじっと腰をおちつけ、・・・要するに、だれも、かれをかまってくれるものがいなかった。そこで「煢々として孑立し、形影相弔う」ことになり、なにもすることがないので、カバンを小脇に出ていくよりしかたがなくなった。

《さらば、スチュアート》


 「茕茕孑立,形影相吊(茕茕けいけいとして孑立けつりつし、形影相吊う・孤独で身寄りもなく、自分の体と影だけが互いを慰め合っている様子)」という言葉は、李密りみつの『陳情表』に由来する。

李密は晋の時代の犍為武陽の人であり、若い頃に譙周に師事し、文章の才能で知られていた。幼少期に父を亡くし、母は親族に迫られて再嫁した。李密は祖母のもとで孤苦のうちに成長し、後に蜀漢に仕えて何度も呉への使者となり、優れた論弁の才を示した。蜀漢が滅亡した後、晋の武帝は彼を太子洗馬(太子の教官役)として召し出そうとしたが、彼は老齢の祖母への思いからこれを固辞し、祖母の養老を許してほしいと請願する『陳情表』を上奏した。「茕茕孑立,形影相吊」とは、この『陳情表』の中で、身寄りがなく孤独で頼る者もおらず、ただ自分の体と影だけが互いに慰め合っているような切実な情景を表現した言葉である。

毛沢東主席は『さらば、スチュアート』の中でこの成語を引用し、中国共産党が中国人民を指導して民族民主革命の勝利を収めた後、米帝国主義の侵略代理人であったスチュアートが、惨めにも孤独で荒涼とした様子のまま中国大陸から追い出されていく姿を生き生きと描き出した。と同時に、侵略を本性とする帝国主義は孤立無援となって最後には失敗すること、そして目覚め武装した民族と人民が正義のために行う闘争は必ず勝利することを我々に伝えている。



民不畏死,奈何以死惧之(民、死を(おそ)れざれば、奈何(いかん)ぞ死を()ってこれを(おそ)れしめん)

原文

多少一点困难怕什么。封锁吧,封锁十年八年,中国的一切问题都解决了。中国人死都不怕,还怕困难吗?老子说过:“民不畏死,奈何以死惧之。”

 多少の困難を、なんで恐れることがあろう。封鎖するがよい。五年十年と封鎖しているうちには、中国の問題はすべて解決される。中国人は、死をも恐れないのに、なんで困難を恐れよう。老子もいっているように「民、死を畏れずんば、何ぞ死をもって之を懼れしめん」である。

《さらば、スチュアート》


 「民不畏死,奈何以死惧之(民、死を(おそ)れざれば、奈何(いかん)ぞ死を()ってこれを(おそ)れしめん。・民衆は死を恐れていない。それなのにどうして死をもって彼らを脅そうとするのか)」という言葉は、『老子・七十四章』の「民不畏死,奈何以死惧之?若使民常畏死,而為奇者,吾得執而殺之,孰敢?(民、死を(おそ)れざれば、奈何(いかん)ぞ死を()ってこれを(おそ)れしめん。もし民をして常に死を畏れしめば、(すな)わち()()す者は、われ(とら)えてこれを殺すを得るも、()れか敢えてせん。)」に由来する。この意は、民衆は死を恐れていないのだから、なぜ死をもって彼らを威嚇するのかということである。もし民衆が常に死を恐れるようになり、その上で不正や乱動を起こす者がいるとすれば、それらを捕らえて殺してしまえば、誰が敢えて乱動を起こそうとするだろうか、と述べている。老子の思想は非常に複雑である。彼の社会観の中には、人民の願望を反映した思想的要素が時折見られる一方で、統治階級のために智謀を巡らせ助言を与える側面も存在する。彼が統治階級に対して殺生をやめるよう諫めた点は評価できるが、その目的はあくまで統治階級のために知恵を絞り、対策を講じることにあった。

中国人民による大革命がまさに勝利を収めようとしていた際、米帝国主義は封鎖によって中国革命の困難を助長させようと目論んだ。その時、毛沢東主席は中国人民を代表して米帝国主義に警告を発した。中国人民の徹底的な解放のためには死すら恐れないというのに、どんな困難を恐れることがあろうか、と。解放後十数年に及ぶ革命と建設の実践はこの真理を証明した。勝利したのは偉大なる中国人民であり、帝国主義は最終的に失敗するのである。



自力更生じりきこうせい

自力じりき」とは、あらゆる力を出し尽くすことを意味する。『論語』には「此説甚善,正吾人所当自力也(この説はきわめて優れており、まさに我々が全力を尽くすべきものである)」とあり、この学説は実に理にかなっており、我々が全力で取り組むべきものであるという意味で用いられている。「更生こうせい」とは、再び新たに生き返り、伸びていくことである。『漢書・魏相伝』には、元鼎げんてい二年に各地が大災害に見舞われた際、多方面からの救援・救援策によって「酒(あるいは民)[※1]得蒙更生(かろうじて命を吹き返すことができた)」と記されている。すなわち「自力更生」とは、己の全力を尽くすことによって、自らを死の縁から生へ、停滞から成長・発展へと導くことを意味する。

毛沢東主席は『抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針』という文章の中で次のように述べている。「われわれの方針は、なにを根底とすべきか。自分の力を根底とすべきで、これが自力更生である。われわれは孤立してはいない。帝国主義に反対する全世界のすべての国ぐにと人民はみなわれわれの友である。しかし、われわれは自力更生を強調する。われわれはわれわれ自身の組織する力によって、内外のすべての反動派をうちやぶることができる。」(『毛沢東選集』第4巻)。

これは毛主席が第三次国内革命戦争(解放戦争)の初期、蒋介石側の軍勢が一時的な優勢を誇っていた際に出した言葉である。歴史の事実は、毛主席のこの明察に満ちた結論を完全に証明した。



为民请命(人民のために請願する)

原文

毛沢東主席は『戦犯の和を乞うを評す』という文章の中で、「これからわかるように、講和の申し入れは他でもなく、まったく『民のために命を請う』ためなのである」と述べている(『毛沢東選集』第4巻)。

「為民請命(民のために命を請う:人民の窮状を救い、命を守るよう訴えること)」という言葉は、『書経』の「湯誥とうこう」篇に由来する。「湯誥」は商(殷)の湯王が夏の桀王けつおうを討伐した際に発した布告であり、その中に「ここに元聖(大徳の聖人・伊尹)を求め、之と力をあわせせ、以てなんじ有衆(人民)と命を請わん」などの記述がある。この布告は、夏の桀王が残虐であり、人民が自らの生命を保つことができないため、商の湯王が賢臣である伊尹いいんとともに力を尽くして挙兵・討伐し、民衆の生命を保全しようとしたことを伝えている。

毛主席は「為民請命」という成語を引用することで、人民の利益の代表者を気取る国民党の首魁・蒋介石の偽善的な顔を痛烈に風刺・嘲笑し、彼の真の企みを暴露した。すなわち、蒋介石が称する「講和」とは、実のところ買弁・地主階級が労働人民を搾取・圧迫する自由と、自らの驕奢で淫逸な生活を維持しようとするものに過ぎない。自らは「講和」を装いながら、「和平の破壊」という罪名を中国共産党になすりつけようとしたのである。毛主席はこれにより、蒋介石の「和平」という偽りの仮面を剥ぎ取り、人民にその醜悪な素顔をはっきりと知らしめたのである。

これからもわかるように、和平を乞いもとめるのはひとえに「民のために命乞いをする」のであり、だんじてその他のためにするのではない。




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