艰难险阻((かんなんけんそ)困難・危険・障害)
原文
自从盘古开天地,三皇五帝到于今,历史上曾经有过我们这样的长征吗?十二个月光阴中间,天上每日几十架飞机侦察轰炸,地下几十万大军围追堵截,路上遇着了说不尽的艰难险阻,我们却开动了每人的两只脚,长驱二万余里,纵横十一个省。请问历史上曾有过我们这样的长征吗?没有,从来没有的。
盤古が天地をひらいてから、三里五帝をへて、こんにちにいたるまで、われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。十二ヵ月のあいだ、空ではまいにち何十機という飛行機が偵察と爆撃をおこない、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃し、阻止し、遮断し、途上ではことばでいいつくせない困難と険害に出あったにもかかわらず、われわれはめいめいの二本の足を動かして二万余華里を踏破し、十一の省を縦横断した。われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。なかった、いまだかつてなかった。
《日本帝国主義に反対する戦術について》
「艱難険阻」という言葉は、『左伝・僖公二十八年』に由来する。春秋時代、晋の公子であった重耳は、継母の迫害を受けたため、19年もの長期にわたり国外へ亡命することとなった。その間、衛、斉、宋、楚、秦などの国々を転々としたが、各国での待遇はさまざまで、この十数年の間に重耳は多くの苦難をなめつくし、同時に豊かな経験をも積み重ねた。その後、秦の穆公の援助を受けて晋国に戻り、君主となりました。これが晋の文公である。
亡命期間中、彼は曹と衛の二国で君主から軽視され侮辱を受けたことがあったため、のちに紀元前632年、兵を起こして曹国と衛国を攻めた。曹と衛は楚国の同盟国であったため、楚の大将である成得臣が兵を率いて救出に向かった。しかし、このとき曹と衛はすでに晋に敗れていた。楚の成王は形勢が不利であることを見てとり、成得臣に撤退を促す手紙を送りった。その中で成王は次のように伝えた。「晋侯は外に在ること十九年(外に在ること十九年なり矣)。而して果して晋国を得たり。険阻艱難、備に之を嘗めたり。民の情偽尽く之を知れり。」
その意味は、「重耳は国外を19年も逃げ回り、今や66歳になっている。彼は苦労を重ね、危険を乗り越えてきた、非常に経験豊かな人物だ。我々が彼と戦っても、優位に立てるとは限らない。だから戻ってきなさい」というものであった。しかし成得臣は頑なに聞き入れず、ついに晋と戦火を交え、敗北して自刎して果てた。
「艱難険阻」と「険阻艱難」は同じ意味を持っている。毛主席は「艱難険阻」という言葉を引用して、紅軍が長征の途上で遭遇したありとあらゆる困難や危険をあらわした。しかし、紅軍は最終的にこれらの困難に打ち勝ち、長征の勝利を収めたのである。




