井底之蛙,坐井观天(井の中の蛙大海を知らず)
原文
马克思主义者看问题,不但要看到部分,而且要看到全体。一个虾蟆坐在井里说:“天有一个井大。”这是不对的,因为天不止一个井大。如果它说:“天的某一部分有一个井大。”这是对的,因为合乎事实。
マルクス主義者は、問題を見るばあい、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。井戸のなかのかえるが「空の大きさは井戸口ほどだ」というなら、それは正しくない。空の大きさは井戸口ぐらいのものではないからである。だが、もし「空のある部分の大きさは井戸口ほどだ」というなら、これは正しい。事実に合っているからである。
《日本帝国主義に反対する戦術について》
「井底之蛙、坐井観天(井の中の蛙、井の底から天を観る)」という故事は、『荘子・秋水篇』に見える。「東海の鼈に謂ひて曰く「吾れ楽しいかな。吾れ井幹の上に跳梁し、入れば缺甃の崖に休ふ。水に赴けば則ち腋を接へ顔を持し、泥を蹴れば則ち足を浸し淵を滅す。埳蟹と科斗とを還りみるに、吾に能く若くこと莫きなり。且夫れ一塾の水を抱にして、而して塔非に影践するの楽、此れ亦至れり。夫子笑ぞ時に来り入つて観さる」と。東海の鼈、左足未だ入らずして、右膝已に繋す。」から来ている。
意味はこうである。ある廃井戸の中に一匹の青蛙が住んでいた。ある日、井戸の近くで海からやってきた大きな海ガメに出会った時。青蛙はこう言った。「見てごらん、私はなんて楽しいんだろう! 嬉しいときは井戸の縁で飛び跳ね、疲れたら井戸の中のレンガの穴で休み、あるいは水の中に頭を出して浸かったり、泥の上を散歩したりするのもとても心地いい。あのタニシやカニ、オタマジャクシたちを見てごらん、誰が私に敵うというのかね! 井戸の中はこんなにも自由気ままで、楽しくて得意な場所だし、私はここの主人なのだ。ぜひ君も井戸の中に入って見物していくとよい!」
海ガメはこれを聞いて中に入って見ようとしましたが、左足がまだ完全に中に入らないうちに、右の足が井戸の縁に引っかかってしまった。そこで海ガメは青蛙に、海がいかに広大無辺であるかといったことを話した。青蛙はびっくりして、井戸の外にこれほど楽しい世界があることを初めて知ったのである。この物語に基づいて、後世の人々は「井底之蛙、坐井観天」という言葉をまとめ、盲目的に自惚れ、見識が狭く、大局を知らない人間を風刺するのに用いるようになった。韓愈は「原道」という文章の中でこう述べている。「老子が仁義を軽んじたのは、仁義を破壊しようとしたのではなく、彼の見識が狭かったからである。井戸に座って天を観て、天は小さいと言う者がいても、それは天が本当に小さいのではない(観る者の視野が狭いだけだ)」
毛主席はこの故事を用いて、一部分だけを見て全体を顧みず、紅軍の長征に対して誤った評価を下した見解を批判したのである。毛主席は次のように教えている。「しかし、あるもの(たとえば張国燾)は、中央赤軍は失敗したという。このことばは正しいだろうか。正しくない。それは事実ではないからである。マルクス主義者は、問題を見るばあい、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。・・・われわれはいう。赤軍は一つの面(もとの陣地を確保した面)からいえば失敗したが、もう一つの面(長征計画を完遂した面)からいえば勝利した。敵は一つの面(わが軍のもとの陣地を占領した面)からいえば勝利したが、もう一つの面(「包囲討伐」や「追撃討伐」の計画を実現する面)からいえば失敗した。われわれは長征をやりとげたのだから、こういってこそ適切である。」
毛主席のこの分析は、我々が物事を認識し、問題を観察するための手本を示してくださっている。我々はあらゆる物事を見るときにこのようにあるべきであり、具体的な分析方法を学習して全体を見渡し、特に、まずは最も本質的な側面を見極めるべきなのである。




