不逞之徒(ふていのと)
不逞之徒
原文
“不逞之徒”去了许多。因此,农运一起,匪患告绝。对于这一点,绅富方面也同情于农会。
四つは、各地の軍隊が大量に兵隊を募集したので、「不逞の輩」がおおぜいいってしまった。こうしたことから、農民運動がおこると、盗賊の害はあとを絶ってしまった。この点については、顔役や金持ちの側でも農会に賛意をしめしている。
《湖南省農民運動の視察報告》
「不逞之徒(不逞の輩/ふていのやから)」という成語は、「不逞之人」から派生した言葉でである。「不逞之人」の出典は「左伝」襄公十年にある。
初め、子駟、田洫を爲るとき、司氏・堵氏・侯氏・子師氏、皆田を喪ふ。故に、五族、羣不逞の人を聚め、公子の徒に因りて以て乱を作す。
(また、子駟は田地の境界を管理する地位にあったが、彼の処理によって、司氏・堵氏・侯氏、および子師氏がみな田地(の一部)を失ったことがある。そこで(この四氏と尉止の)五族が相結び、不平の人々を語らい、さきに子駟に殺された公子熙ら四公子の家の人々を表面に立てて、 乱を起こした。)
春秋時代、鄭国の権臣であった子駟は、摂政として国政を握っていたが、多くの大夫たちと怨恨関係にあった。かつて子駟が大夫たちの領地(田地)を再区画した際、司氏、堵氏、侯氏、子師氏の4つの家系の領地を減らしてしまったため、怨みを買っていたのである。さらに襄公八年には、子駟が公子(君主の息子たち)の数名を殺害したため、その一派(党徒)もまた、かねてより乱を起こそうと機会を窺っていた。そこで上述の4つの家系は、彼ら「不逞の人(不満を抱く者たち)」を集め、公子の残党たちと結託して反乱を起こしたのである。
後世、人々はこの「不逞之徒」という言葉を、社会秩序を乱し、悪事ばかりを働く者たち(無法者、不穏分子)を指す言葉として引用するようになった。




