国境の門と、泥を塗られた正義
「あー! 温泉最高だったッス! 体も軽いし、これなら王都まで一気に駆け抜けられそうッスわ!」
魔界側の緩やかな坂道を下りながら、ハルトくんは眩しい太陽の下で背伸びをした。
魔王領の最果てにある検問所は、驚くほど開放的だった。魔族の門番たちは「勇者様、また遊びに来てくださいね!」と手を振り、リリィの分身である幻影を倒した(と思っている)ハルトくんを、温かく送り出してくれたのだ。
だが、国境を示す『石の門』をくぐり、人間界側の検問所に足を踏み入れた瞬間。
世界の「色」が、一変した。
「……っ、何この空気。重くて、不快だわ」
エルヴィーラが不快そうに鼻を鳴らす。
目の前に現れたのは、高くそびえ立つ無骨な石壁と、何重にも張り巡らされた鉄条網。
そして、そこを守る王国軍の兵士たちは、魔族の門番たちとは対照的に、死んだ魚のような濁った瞳でこちらを睨みつけていた。
「おい、止まれ。通行証を出せ」
一人の兵士が、ハルトくんの前に槍を突き出した。
「おっ、お疲れ様ッス! 俺は勇者ハルト! 魔王をぶっ倒して帰ってきたッスよ!」
ハルトくんがいつもの調子でドヤ顔を見せるが、兵士は鼻で笑った。
「……勇者? ああ、あの死に損ないか。報告は受けている。……だが、そっちの『荷物』は別だ」
兵士が指差したのは、私の後ろに隠れるように歩いていたフェリスとエルヴィーラだった。
「亜人の女が二人……。エルフの方は上玉だな。獣人は少し痩せているが、労働力としては十分だ。おい、その二人はここで『没収』する。亜人の入国には高額な関税か、あるいは所有権の放棄が必要だ。分かったらさっさと引き渡せ」
「……は?」
ハルトくんが呆然と声を漏らす。
魔界では、エルフも獣人も人間も、同じ店で笑い合い、同じお湯に浸かっていた。それが当たり前の日常だった。
「な、何を言っているの!? わたくしたちはハルト様と共に戦った仲間ですわよ!」
アナスタシアが声を荒げるが、兵士は卑俗な笑みを浮かべて彼女を舐めるように見た。
「聖女様も随分とお優しいことで。いいですか、教会でも教えているでしょう? 亜人は魂のない、言葉を解するだけの『家畜』だ。家畜を街に入れるわけにはいかない。王都の奴隷商に売って、国の資金にするのが正しい『正義』ってやつですよ」
「……家畜……?」
フェリスが恐怖に震え、私の服の裾を強く握りしめる。
エルヴィーラは屈辱に唇を噛み、今にも魔法を放ちそうなほど指先を震わせていた。
(……ああ、そうだったね。これが、リリィが変えようとしていた『人間の国』の姿だ)
私はフードを深く被り、魔力を隠したリリィの肩をそっと抱き寄せる。
リリィは、目の前の兵士たちが放つドス黒い悪意に、ただ静かに絶望しているようだった。
「お、おい……おっさん、冗談はよしてほしいッス。こいつらは俺の大事な仲間ッスよ! そんなこと言うなら、俺が黙って――」
「黙れ、ガキが」
別の兵士が、ハルトくんの胸を槍の石突きで突き飛ばした。
「女神の力を授かったからと言って、調子に乗るな。貴様はもう『用済み』なんだよ。……おい、さっさとその亜人の女どもを縛れ! 抵抗するなら殺しても構わん!」
「っ……!!」
ハルトくんが聖剣を握ろうとした、その時。
彼の瞳に、再びあの不気味な赤い光が……宿ることはなかった。
今の彼には、女神の『使命(呪い)』がない。
目の前にいるのは「魔王」ではなく、守るべき「人間」の兵士たち。
呪いのシステムが作動しない中、ハルトくんは初めて、自分たちが信じていた『正義の国』が放つ圧倒的な理不尽と、醜悪な差別に直面していた。
「……ヤエさん。これ、何かの間違いッスよね?」
ハルトくんが、すがるような目で私を振り返る。
その瞳には、今までになかった深い困惑と、世界が壊れていくような恐怖が混じっていた。
「……間違いじゃないよ、ハルトくん。これが、君が守りたかった『平和な人間界』の本当の姿だよ」
私は冷徹にそう告げると、一歩前に出た。
(……さて。ここからは『英雄』の出番じゃない。不条理を掃除する、『裏方』の仕事だね)
私は袖の中に隠していた、魔力を一切通さない特製の小石を、指先でピンッと弾き飛ばした。
「ぐわぁぁぁッ!?」
槍を構えていた兵士たちの膝の裏を正確に撃ち抜く。
ガクン、と崩れ落ちる男たち。その隙に、私はハルトくんの肩を叩いた。
「ハルトくん、今は引こう。力でねじ伏せても、君の正義が汚れるだけだ」
「で、でも……っ!」
「いいから、私についてきて」
私は半狂乱になりそうなヒロインたちを連れ、混乱する検問所を強行突破して、人間界側の暗い森の中へと姿を消した。
背後から聞こえる、兵士たちの「亜人を捕らえろ!」「反逆者だ!」という罵声。
それは、昨日まで聞いていた温泉宿の笑い声とは、あまりにもかけ離れた、地獄の合唱だった。




