魔界の秘湯と、裸の付き合い
美食の街を抜けた私たちが次にやってきたのは、湯煙が立ち込める山間の温泉街『ユアミーゴ』。
その一番奥にひっそりと佇むのは、瓦屋根に障子、そして畳の香りが漂う、純和風の超高級旅館『鬼怒湯』だった。
「うおおおおおっ!? なんだこの懐かしい匂いと畳の感触は! 異世界にきて温泉旅館に出会えるなんて最高ッス!!」
ハルトくんは用意されていた浴衣に着替え、テンションMAXで畳の上をゴロゴロと転げ回っている。
「……ハルト、落ち着きなさい。それにしても、魔界にこんなに風情のある建築技術があったなんて……」
エルヴィーラが障子の桟を撫でながら感嘆の息を漏らす。
(ふふん。昔、私が温泉に入りたくてたまらなくなって、温泉掘り当ててから建築様式まで全部教え込んだ甲斐があったよ)
私は仲居の鬼娘さんが淹れてくれたお茶を啜りながら、内心でドヤ顔を決めていた。
「さあさあ、夕食の前にひとっ風呂浴びてくるッスよ! 男のロマン、大浴場へゴーッス!」
ハルトくんはタオルを片手に、弾かれたように部屋を飛び出していった。
◇ ◇ ◇
【男湯・露天風呂】
「くぅ〜〜〜ッ! 染みるッス! これぞ日本の心!」
ハルトくんがざばーんと湯船に浸かり、極楽のような声を上げる。
だが、その広い露天風呂には先客がいた。
背中に巨大な竜の翼を生やした、傷だらけの屈強な竜人の戦士だ。
普通なら殺気立って戦闘になってもおかしくない相手だが……。
「ほぅ、人間の小僧か。いい湯の浸かり方をするな」
「おっちゃんもいい背中してるッスね! その傷、歴戦の猛者って感じッスわ!」
「ガハハ! 分かるか小僧! これは昔、北の霊峰で魔獣とやり合った時の名誉の負傷でな!」
「マジッスか! 俺もこの前、すげぇ強い魔王を倒したとこなんスよ!」
「ほう、そりゃあ大したもんだ!」
ハルトくんは、相手が魔族の屈強な戦士であることなど微塵も気にせず、お湯を掛け合いながら完全に『裸の付き合い』で意気投合していた。
彼にかけられた「恐怖を麻痺させる加護」は、ある意味で最強のコミュニケーション能力として機能してしまっている。
◇ ◇ ◇
【女湯・露天風呂】
一方、女湯の空気は(物理的には温かいのに)ヒリヒリと凍りついていた。
「きゃははっ! エルフのお姉ちゃん、お背中流してあげるー!」
「ひ、ひぃぃっ……!! 滅相もございませんっ……魔、いや、リリィ様にそのようなことをしていただくなど……っ!」
無邪気に桶を持ったリリィ(魔王)が近づいてくるたびに、エルヴィーラは岩のように硬直し、アナスタシアは湯船の隅で「南無女神様……いや女神様はもう信じませんけどお助けを……」とお経のように震えていた。
「……リリィ、私の背中も流して。代わりに尻尾、もふもふさせてあげる」
「わーい! もふもふー!」
フェリスだけは野生の勘で「この子は怒らせなければ無害」と理解したのか、完全にリリィと打ち解けてキャッキャと遊んでいる。
(……うんうん、平和だねぇ)
私は一人、一番見晴らしの良い岩風呂に浸かりながら、最高の温泉を満喫していた。
◇ ◇ ◇
そして、待ちに待った夕食の時間。
部屋に運ばれてきたのは、目にも鮮やかな『魔界風・懐石料理』だった。
「おおおっ! 白米! 味噌汁! そして刺身ッス!!」
ハルトくんが涙を流して拝んでいる。
「こちらは『氷海リヴァイアサンのトロ刺し』と、『ゴールデン・マンドラゴラの天ぷら』、そして『不死鳥の卵の茶碗蒸し』でございます」
仲居さんが深々と頭を下げて説明する。
「……ヤエ。素材の名前がいちいち神話級で、わたくし胃が痛くなってきましたわ……」
アナスタシアが引きつった笑顔で箸を持つ。
「まあまあ、騙されたと思って食べてみてよ」
エルヴィーラが恐る恐る天ぷらを口に運ぶ。
サクッ。
「……っ!! 何これ……衣はサクサクなのに、中から信じられないくらい濃厚な旨味が溢れて……っ!」
「このお刺身もヤバいッス! 舌の上で一瞬で溶けたッスよ! ご飯が止まらねぇッス!」
ハルトくんはもう、三杯目のおかわりを要求している。
美味しい料理、ふかふかの布団、そして誰に怯えることもない温かな時間。
「魔界=地獄」という思い込みは、彼らの中で完全に過去のものとなっていた。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、ヤエさん」
食後。縁側で涼んでいた私に、ハルトくんがぽつりとこぼした。
「俺、魔族って、もっと残虐で恐ろしい連中だと思ってたッス。でも……みんな良い奴らばっかりだし、飯も美味いし、温泉も最高ッス。……魔王を倒したことで、少しはみんなが笑える世界になったんスかね?」
その言葉に、私は少しだけ胸がチクッとした。
(……ごめんね、ハルトくん。君が倒したのは偽物で、この平和は最初からここにあったものなんだ)
でも、君が「この笑顔を守りたい」と思ってくれたなら、それはきっと嘘じゃない。
「そうだね。ハルトくんが頑張ったおかげで、今この瞬間は、間違いなく平和だよ」
私は彼の頭をポンと撫でて、夜空に浮かぶ月を見上げた。
この最高に幸せな温泉宿の夜が明けたら、いよいよ私たちは国境を越え――人間の国へと足を踏み入れることになる。




