偽りの死闘と、堕ちた勇者の終炎
「……ウゥゥ……アアアアアアアッ!!」
夜の魔王城下町に、獣のような咆哮が響き渡る。
赤黒い魔力に完全に呑み込まれたハルトくんは、もはや人間の理性を失っていた。
彼が握る聖剣ルミナスは、本来の神聖な輝きを完全に失い、ドロドロとした血のような禍々しいオーラを吹き出している。その切っ先が振られるたびに、空間が悲鳴を上げ、石畳が紙くずのように捲れ上がった。
「ハルト様……っ! お願いです、正気に戻って……!」
「ダメよアナスタシア! 今のあいつに近づいたら、本当に殺されるわ!」
アナスタシアの悲痛な叫びも、ハルトくんの耳には届かない。
アナスタシアは、彼の全身から吹き出すドス黒い魔力を見て、ガクガクと震えていた。
(あれが……ハルト様が授かったという、『女神様の力』だと言うの……? 嘘よ……あんなおぞましいものが、神聖な加護であるはずがないわ……っ!)
そう。ハルトくん自身が『女神様から貰った正義の力』だと信じて疑わないその力は、どう見ても神聖なものなどではない。彼から理性を奪い、命を削ってまで殺戮を強要する……それは紛れもない、ただのドス黒い『呪い』だった。
(……ハルトくんを救うには、彼の脳に『魔王を討伐した』と錯覚させるしかない。それも、彼が全力を出し切り、呪いの条件を完全に満たすほどの『本物の死闘』で)
私は瓦礫の陰に身を隠し、深く息を吐いた。
そして、あらかじめリリィから預かっていた『本物の魔王の魔力』を核にして、私の魔力で編み上げた特大の術式を夜空へ向かって解放した。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如として、街を包み込む空気が一変した。
重力そのものが何倍にも跳ね上がったかのような、圧倒的なプレッシャー。ヒロイン三人がたまらず地面に膝をつき、呼吸すら困難になるほどの『絶対的な闇』が、広場の中心に顕現していく。
「……そこまでだ、勇者よ」
地響きのような重低音が、空間そのものを震わせた。
赤黒い炎の中から姿を現したのは、王国の教典に描かれた通りの姿――天を衝く影の角を生やし、地獄の業火をマントのように羽織る、巨大にして凶悪な『伝承の魔王』の幻影だ。
「マ、オウ……!! 殺ス……ッ! 全テ、壊スッ!!」
ハルトくんの赤い瞳が、魔王の姿を捉えた瞬間、さらにドス黒く濁った。
彼の呪いが「標的」を認識したのだ。
ダンッ!!
ハルトくんが地面を爆砕して跳躍する。
「ウオオオオオオッ!!」
彼が振り下ろした聖剣から、城下町を真っ二つに引き裂くほどの巨大な赤黒い斬撃が放たれた。
対する魔王(私)は、指先一つ動かさない。
ただ、その身から溢れ出る『極大の獄炎』を障壁として展開する。
ズドォォォォォンッ!!
相反する二つの魔力が激突し、夜空に巨大な光の半球が膨れ上がった。
暴風が吹き荒れ、周囲の建物が余波だけで木っ端微塵に吹き飛んでいく。
(……すごい。呪いにブーストされているとはいえ、本当に規格外の出力だね。でも、この程度で倒れる魔王なら、呪いのシステムは『討伐完了』を信じない)
私は物陰で冷や汗を流しながら、魔王の分身体を精密に操作し続けた。
ハルトくんの攻撃をギリギリで防ぎ、反撃の業火を放ち、彼に致命傷を与えない程度に、しかし確実に『死の恐怖』を刻み込むような猛攻を浴びせる。
「ガ、アアアアッ!」
業火に焼かれ、吹き飛ばされ、地面を何度も転がりながらも、ハルトくんは止まらない。
全身は傷だらけになり、呼吸は浅く、今にも心臓が破裂しそうな極限状態。それでも彼は、ただひたすらに「使命」という名の強迫観念に突き動かされ、立ち上がり続ける。
(……ハルトくん。君のその真っ直ぐさは、本当に本物だよ。だからこそ、こんなふざけた呪いを『女神の加護』だと騙して縛り付けている連中を……私は絶対に許さない)
「ハァ……ッ、アァァァァッ!!」
ついに、ハルトくんの体が限界を超えた。
聖剣ルミナスが、禍々しい魔力と彼自身の生命力を吸い上げ、かつてないほどの巨大な光の柱となって夜空を貫く。
これが最後の一撃。この一振りに、彼の全てが込められている。
「……来い、勇者。我が絶望の淵にて、その光を証明してみせよ!」
魔王が両腕を広げ、地獄の底から湧き上がるような巨大な闇の球体を創り出す。
光と闇。全てを終わらせる二つの極星が、次の瞬間、広場の中心で激突した。
カッ――……!!!
音が、消えた。
強烈すぎる閃光が世界を白く染め上げ、数秒の遅れを伴って、鼓膜を破るような轟音が魔王領全体を揺るがした。
「……ッ!!」
私が操る魔王の『闇』を、ハルトくんの『光』が真っ向から引き裂いていく。
私はタイミングを完璧に見極め、魔王の胸にある『核』への防御をふっと緩めた。
ズチャァァァンッ!!
赤黒く染まった聖剣が、魔王の胸の奥深く、その魔力の源泉を正確に貫き通した。
「……見事だ、勇者よ」
静寂が戻りつつある広場で、胸に剣を突き立てられた魔王が、威厳に満ちた声でゆっくりと告げる。
「我が覇道、ここに潰えるか……。だが忘れるな。人間の業が尽きぬ限り、闇は何度でも蘇る……」
その言葉を最後に、伝承の魔王の巨体は、光の粒子と黒い灰になってサラサラと崩れ落ち、夜風に乗って消えていった。
その瞬間。
ハルトくんの全身を縛り付けていたドス黒い呪いの鎖が、「魔王討伐完了」の条件を認識し、パキンッ!と甲高い音を立てて砕け散った。
呪いの残滓が空気中に霧散し、狂気に染まっていた赤い瞳から、スッと色が抜けていく。
「……あれ、俺……」
ハルトくんは、手から聖剣を取り落とした。
ガラン、と乾いた音が石畳に響く。
「魔王、は……。倒し、た……?」
自分の手を見つめ、ぼんやりと呟いた後。
彼は限界を迎えた糸が切れた操り人形のように、ゆっくりと膝をつき、そのままバタリと冷たい地面に倒れ込んだ。
呪いから解放された勇者の顔は、先程までの狂気とは無縁の、ただの疲れ切った少年の寝顔だった。
静まり返った魔王城下町に、ハルトくんの穏やかな寝息だけが、微かに響いていた。




