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勇者の正義と、神の沈黙

集落でのトマト騒動から数日。

一行はさらに魔王領の奥深く、険しい岩山が続く地帯へと差し掛かっていた。


夜、皆が寝静まった中で、一人だけ熱心に素振りを繰り返す影があった。ハルトくんだ。


「九百九十八、九百九十九……千ッ!」


最後の一振りを終え、彼は滝のような汗を拭いながら岩場に腰を下ろした。


「ハルトくん、お疲れ様。はい、冷たいお水」


「おっ、ヤエさん! 起きてたんスか。あざっす!」


ハルトくんは差し出した水筒をひったくるように受け取り、勢いよく喉を鳴らした。

彼は聖剣とチート能力を持っている。正直、こんな地味な素振りなんてしなくても、今の彼は十分に強い。それでも、彼は一日も欠かさず剣を振る。


「……ねえ、ハルトくん。どうしてそんなに一生懸命なの? 君には女神様からもらった『力』があるじゃない」


私の問いに、ハルトくんは少し照れくさそうに鼻の下をこすった。


「いやー、そりゃあ……俺、あの方に選んでもらったんスから。期待に応えなきゃ男が廃るじゃないっスか」


ハルトくんは遠い目をして、自分がこの世界に来た時のことを語り始めた。


「真っ白な空間で、それはもう綺麗な女神様が俺に言ったんスよ。『この世界を救えるのは、あなたしかいない』『どうか、邪悪な魔王を討伐して、民に平和を取り戻してほしい』って……」


彼は、自分の胸に手を当てて真っ直ぐに私を見た。


「あんなに悲しそうな顔で頼まれたら、断れるわけないじゃないっスか。俺のチートは、魔王を殺して、みんなを笑顔にするための『正義の力』なんスよ」


一点の曇りもない、純粋なヒーローの瞳。

彼は本気で信じているのだ。自分は神に選ばれ、悪を滅ぼす使命を背負った救世主だと。


「……女神様が、魔王を倒せ……ね。なるほど……」


私は夜風に吹かれながら、その言葉をゆっくりと咀嚼した。


(ハルトくんが会った『自称・女神様』は、一体誰なんだろうね)


私の脳裏には、かつて一度だけまみえた『本物の神』の姿が浮かんでいた。

私が知るその存在は――人間が魔族を殺そうと、魔族が人間を滅ぼそうと、どちらの肩を持つこともなく、ただ退屈そうに世界を眺めているだけの『概念』そのものだった。


神はこの世界の均衡が保たれていればそれでいい。

特定の個人に呼びかけ、特定の種族を滅ぼせと命じるなんて、絶対にあり得ないのだ。


(……つまり、ハルトくんを呼び寄せ、偽りの使命を植え付けた『何者か』が王国の裏にいる、ってことだ)


アナスタシアのペンダントといい、野盗に配られた最新鋭の武器といい。

王国は、この純粋な少年すらも『完璧な殺人兵器』として洗脳し、利用しているに過ぎない。


「ヤエさん? どうしたんスか、黙り込んじゃって」


「あはは、なんでもないよ。ハルトくんは本当に真面目だなぁ、と思って」


私はいつもの笑顔を取り繕い、彼の頭を乱暴に撫で回した。


「うわっ、子供扱いしないでくださいよー! もうすぐ魔王城なんスから、もっと敬ってくださいよ!」


「はいはい。それじゃあ、敬意を表して明日の朝ごはんにはハルトくんの好きな卵焼き、一つ多めに入れてあげるね」


「やった! さすがヤエさん、話がわかるッス!」


無邪気に喜ぶハルトくんを見て、私は密かに決意を新たにした。


(君が信じている『正義』は、おそらく偽物だ。でも、君が流してきた汗と、その掌のマメだけは、本物の君自身の努力だ。……だから)


いつか、彼が『女神様(偽物)』の正体を知り、自分が利用されていたことに気づいて絶望する日が来るかもしれない。

その時、彼が本当の意味で自分の力で立ち上がれるように。

今はまだ、この平和な『接待プレイ』の旅を続けてあげよう。


「さ、もう寝なさい。明日も早いんだから」


「うっす! おやすみなさい、ヤエさん!」


軽やかな足取りでテントへと戻っていく勇者の背中。

その影が、月明かりに照らされてどこか儚く見えた。


私は一人、焚き火の消えかけた炭を見つめながら、通信機の向こうで今夜も怯えているリリィのことを想うのだった。

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