聖女の涙と、泥だらけのトマト
「見えたッス! あそこが魔族の前線基地ッスね! 俺のチート魔法で一網打尽にしてやるッス!」
魔王領の森を抜けた先。
開けた盆地に広がる集落を見下ろしながら、ハルトくんが聖剣を天に掲げて意気巻く。
だが、彼の背後に続くパーティーの空気は、まるでお通夜のように重かった。
昨夜、信じていた父親(国王)から呪い殺されかけたアナスタシアは、青白い顔で俯いたままフラフラと歩いている。
エルヴィーラとフェリスも、彼女を気遣うように無言で寄り添っていた。
「さあ、いくぜ魔族ども! 覚悟――って、あれ?」
勢いよく集落に突撃しようとしたハルトくんが、ふと足を止めて間の抜けた声を漏らした。
彼が「前線基地」と呼んだその場所。
そこにあったのは、おぞましい兵器でも、血に飢えた魔物たちの姿でもなかった。
「……よいしょ、っと。今年のトマトは赤くて美味そうだべ」
麦わら帽子を被った巨漢のオークが、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、クワで畑を耕していた。
その足元では、ゴブリンやスライムの子供たちがキャッキャと笑いながら鬼ごっこをしている。
「な、なんだこれ……。こいつら、戦いの準備どころか……畑仕事してんのか?」
ハルトくんがポカンと口を開ける。
「ほら、ハルトくん。剣をしまいなさい。彼らはただの農家だよ」
私はハルトくんの肩をポンと叩き、聖剣を鞘に押し戻させた。
そう、これがリリィが守りたかった『魔王領のリアル』だ。痩せた土地でも必死に耕し、細々と命を繋いでいるだけの、ただの心優しい種族。
私たちが集落の入り口に立つと、鬼ごっこをしていたゴブリンの女の子が、トテトテとこちらに駆け寄ってきた。
「あっ、にんげんのお姉ちゃんたちだ!」
「ひっ……!」
アナスタシアが、ビクッと肩を震わせて一歩後ずさる。
彼女は教会の教えで、「魔族は人間の血肉を貪る恐ろしい悪魔だ」と刷り込まれて生きてきたのだから無理もない。
だが、ゴブリンの女の子はアナスタシアの青白い顔を見上げると、心配そうに首を傾げた。
「お姉ちゃん、お顔が真っ白。どこか痛いの? お腹すいてるの?」
「え……?」
女の子は泥だらけの小さな手で、抱えていたカゴの中から、一番赤くて大きなトマトを一つ取り出した。
そして、それをアナスタシアの震える両手にコロンと乗せた。
「これ食べる? お日様の匂いがしていーっぱい甘いよ! 食べたらきっと、元気になるよ!」
ニカッと笑うゴブリンの女の子。
その手は泥だらけだったけれど、アナスタシアの手に触れた指先は、人間と同じように温かかった。
アナスタシアは、手のひらに乗せられた真っ赤なトマトを、呆然と見つめた。
教会の聖堂で見るどんな宝石よりも、それは美しく、生命力に満ちて輝いていた。
(魔族は、恐ろしい悪魔……? 人間を殺す、世界の敵……?)
アナスタシアの脳裏に、これまでの記憶がフラッシュバックする。
魔族を全滅させろと笑っていた父親の顔。
魔族から奪ったであろう、野盗のアジトにあった王国軍の武器。
そして、自分を呪い殺そうとした、ドス黒いペンダント。
『わたくしは、ただ、国のために……っ』
――違う。
私が祈りを捧げていた王国こそが、この優しくて温かい手を持つ子供たちの平和を、理不尽に踏みにじろうとしていた『本物の悪魔』だったのだ。
「……あ、ああ……」
アナスタシアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は膝から崩れ落ち、両手で持ったトマトにガブリと噛み付いた。
泥のついた皮が弾け、瑞々しくて甘い果汁が口いっぱいに広がる。
「……あまい……ですわ……」
ボロボロと大粒の涙を流しながら、ドレスを泥だらけにしてトマトを貪り食う聖女。
「うっ、ううっ……こんなに、甘くて……温かいのに……お父様は、これを……っ!」
今まで自分が信じてきた正義が、信仰が、父親からの愛情が、音を立てて崩れ去っていく。
痛くて、苦しくて、惨めで。
でも、口の中のトマトだけが、狂ってしまった世界の中で唯一の『優しい真実』だった。
「お、お姉ちゃん……!? なんで泣いてるの? 不味かった……?」
ゴブリンの女の子がおろおろとしていると、私はそっとその小さな頭を撫でた。
「ううん、こんなに……暖かくて……すごく美味しくて、感動して泣いちゃったみたい。ありがとうね」
「そっか! よかったぁ!いっぱいあるから食べて元気になってね!」
女の子はパァッと笑顔になり、再び畑の奥へと走っていった。
その後ろ姿を見つめながら、エルヴィーラもフェリスも、何も言わずにただアナスタシアの背中に寄り添って座り込んだ。
「ん? アナスタシア、お前そんなにトマト好きだったのか? 俺も一つもらおうかな!」
一人だけ空気を読まない勇者の声が響く。
「……ハルトくんは、あっちでオークのおじさんたちの畑仕事を手伝ってきなさい。体力作りだよ」
「ええっ!? 俺のチート魔法で一気に耕すッスよ!」
「ダメ。自分の手で、土の重さを知りなさい」
私はハルトくんの首根っこを掴んで畑の方へ放り投げ、再びアナスタシアに向き直った。
「……ヤエ」
泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、アナスタシアが私を見る。
その瞳から、もう『盲目的な聖女』の光は消えていた。
代わりに宿っていたのは、真実を知り、這い上がろうとする一人の少女の、弱くも確かな炎。
「……もっと、トマト食べますか?」
私がハンカチを差し出しながら笑いかけると、アナスタシアは子供のようにしゃくりあげながら、強く、強く頷いたのだった。




