王の裏切りと、崩れ落ちる聖女
『……ねえ、ヤエお姉ちゃん。私、また人間の王様にお手紙を書いたの』
いつかの夜。通信機越しに聞いたリリィの声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
『魔族は戦いたくない。土地だって痩せた辺境のままでいいから、どうか平和条約を結んでほしいって……。でも、お返事、一回も来ないの。私の書き方が悪かったのかな……』
「そんなことないよ。リリィの字、すごく綺麗だったし、気持ちはこもってたよ」
私は優しく相槌を打ちながら、冷たい事実を噛み殺していた。
リリィが何度も送っている和平の申し出は、決して人間の民衆の耳には届かない。
なぜなら、国王自身が秘密裏にその手紙を全て握り潰し、焼却処分しているからだ。
国をまとめ上げ、民から重い税を搾り取るためには、『極悪非道な魔王』という共通の敵がどうしても必要だった。
王国の平和の裏には、いつだって権力者のドス黒い陰謀が渦巻いている。
◇ ◇ ◇
魔王領へと足を踏み入れた、最初の夜。
交代で見張りをしていたキャンプ地で、事件は起きた。
「むにゃむにゃ……魔王、覚悟しろ……俺のチートで……」
ハルトくんは相変わらず、焚き火のそばで大の字になって爆睡している。
その反対側では、アナスタシアが静かに膝をつき、胸元のペンダントを両手で包み込んで祈りを捧げていた。
「女神様。そしてお父様……。どうか、この過酷な魔王領を行く私たちに加護を――」
その時だった。
バチィッ!!
「きゃあっ!?」
アナスタシアの胸元で、ペンダントが突如として不気味な黒い火花を散らした。
澄んでいたはずの神聖な輝きがドロドロとした『黒い瘴気』へと染まり、彼女の首を絞めつけるように魔力の鎖が伸びる。
「な、なにこれ!? ペンダントから……闇の魔力が!?」
見張りをしていたエルヴィーラが慌てて立ち上がる。
フェリスも全身の毛を逆立てて「……黒い匂い。臭い!」と威嚇した。
(これは……『呪具』!?)
私は目を鋭く細めた。
昼間、カラスが奪った時はただの過保護な魔道具だとばかり思っていた。だが、魔王領の濃密な魔力にあてられたのか、あるいは王様自身が遠隔で起動したのか、その奥底に隠されていた真っ黒な術式が牙を剥いたのだ。
(あの王……実の娘に対して、ここまで外道な真似をするのか)
「う、あ……お父様……の、お守り、が……どう、して……」
アナスタシアが苦痛に顔を歪め、首元の黒い鎖を掻きむしる。
このままでは彼女の命が危ない。
「アナスタシア、動かないで!」
私は慌てて駆け寄り、彼女の首元に指先を添えた。
そして、迷うことなくその黒い鎖の結び目に、『魔力破壊』を静かに叩き込む。
パキンッ!
黒い鎖はガラスのように砕け散り、ペンダントは本来の神聖な魔力を完全に失って、ただの薄汚れた石ころへと成り果てて地面に転がった。
「ゲホッ、ゴホッ……! はぁ、はぁ……」
むせるアナスタシアの背中を撫でながら、私は落ちた石ころを冷たく見下ろした。
「……ちょっと待って。そのペンダント、見せなさい」
エルヴィーラが顔を青ざめさせながら、地面に落ちたペンダントの残骸を杖の先で指し示した。
彼女は目を閉じ、エルフ特有の高度な魔力感知で残滓を読み取っていく。そして、信じられないものを見たかのように目を見開いた。
「嘘でしょ……。これ、ただの呪いじゃないわ。術式の奥底に隠されていたのは……『持ち主の生命力を削り取とりながら、対象(勇者)を監視・操作する』ための外道の呪具よ」
「……え?」
アナスタシアが、呆然と顔を上げる。
「しかも……この呪いを編んだ魔力の波長。間違いないわ。王家に代々伝わる、国王陛下個人の魔力紋と完全に一致してる……」
エルヴィーラの言葉が、夜の森に重く響き渡った。
「そ、んな……」
アナスタシアが、その場にへたり込んだ。
幻であってほしかった。何かの間違いだと思いたかった。
しかし、天才魔導士であるエルヴィーラの解析結果と、今しがた自分の命を削り取ろうとしたドス黒い魔力の感触は、紛れもない『本物』だった。
父親にとって、自分は愛娘などではなかった。
勇者を監視し、いざとなれば意のままに操るための、ただの「使い捨ての魔力タンク」でしかなかったのだ。
『き、きっと……この卑劣な野盗どもが、王国軍の輸送部隊を襲って奪ったに決まっています!』
昼間、野盗のアジトで見つけた王国軍の武器。
そして、今ここで露見した、実の父親からの殺意。
点と点が、最悪の形で線となって繋がってしまった。
「ああ……あああっ……」
アナスタシアの両目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。
彼女が信じてきた「王国の正義」も、「優しい父親」も、最初から全てが嘘っぱちだった。
魔族が悪いのではない。本当の悪魔は、王都の玉座で優しく微笑んでいる自分の父親だったのだ。
「……アナスタシア。泣け。今は、泣いていい」
フェリスが不器用な手つきで、泣き崩れるアナスタシアの背中を撫でた。
エルヴィーラもまた、唇を強く噛み締めながら彼女の肩を抱き寄せている。
「お父、様……ひどい、です……わたくしは、ただ、国のために……っ」
声にならない嗚咽を漏らす聖女を、私はただ静かに見下ろしていた。
残酷だが、これは彼女自身が乗り越えなければならない真実だ。与えられた役割から降りて、自分の足で歩き出すための、大切な通過儀礼。
「……んあー? ふぁ〜あ」
その時。
背後の焚き火で寝転がっていたハルトくんが、呑気に大きなあくびをして起き上がった。
「あれ、みんなどうしたんスか? なんでアナスタシア、泣いてんの? あ、さてはパパに会いたくなってホームシックッスね!?」
彼は、目の前で起こっていた地獄のような絶望劇に1ミリも気づいていなかった。
それどころか、落ちているペンダントの残骸を見て「あーあ、お守り壊れちゃったのか。まあ気にすんなって!」とカラカラと笑い飛ばした。
「俺のチートがあれば、魔王なんてワンパンッスよ! そしたらすぐ王都に帰って、パパに会わせてやるから安心しろって! な!」
ハルトくんは眩しいほどのドヤ顔で、サムズアップを決める。
「……っ」
アナスタシアは絶望のどん底にいながらも、彼のあまりの能天気っぷりに、一瞬だけぽかんと口を開けた。
エルヴィーラとフェリスも、「こいつマジで何も分かってない……」と頭を抱えている。
「ふふっ」
私は思わず、小さく吹き出してしまった。
どれだけドス黒い陰謀があろうと、この勇者の底抜けな明るさの前では、なんだか全てがギャグみたいに思えてくる。
「ええ、そうですね。まずはこの魔王領の真実を確かめに、次の街へ向かいましょうか」
私はアナスタシアの涙をそっとハンカチで拭い、優しく微笑みかけた。
勇者は何も知らないまま、聖女は真実を抱えたまま。
それぞれの思いが交錯する中、私たちは魔王領の深部へと、さらに足を踏み入れていくのだった。




