第13話 もう一度、ヒーローに
思わず俺は玲夏の顔を見る。
彼女の目元にはさっきの涙の跡が赤く残っていた。
「私はここで過ごしていた時に佑人くんに何度も助けられました。
絵が上手く描けなかった時も上手だよって言ってくれて。
他の子におもちゃを取られちゃった時には立ち向かってくれて。
それは本当に大切な思い出で、小学校に入ってからは佑人君とは違う学校になっちゃったけど、もう簡単に泣いたりせずに笑って、笑って過ごせて来ました」
そう言ったあと、玲夏はこちらの方に体ごと向き直る。
「でも、佑人くんに言っちゃったら、君はきっと『あの頃のように何も恐れず人に優しくしないといけない』って思いそうで。そんな風に思わせるのが嫌だったの」
大広の目からぽたりと涙が落ちる。
「でもあのとき、つい佑人くんに電話しちゃったり。今日文乃先輩と屋上で会ったときも、もう私は強くなったんだよって思って欲しくて、でも、結局ダメで」
手のひらで拭っても拭っても追いつかない。ひとみ先生は静かにハンカチを差し出す。
「また君に頼っちゃった。これじゃあのときと一緒だ。ごめんなさい」
玲夏は、自分の好きだった姿を俺に押し付けたくなかったんだ。
俺のことを想って、昔のヒーローみたいな振る舞いを強要したくなかったんだ。
――俺はもうヒーローなんかじゃない。そう自分に言い聞かせていた。でも、中学のときから心の奥底に蓋をしていた気持ちを、俺は再び手に取って向き合いたい。
俺は本心を告げる。取り繕わない声で。
「そんなことない!」
玲夏は少し驚いたように顔を上げる。
俺は少し声のトーンを落として、それでいながら玲夏に伝わるように話し始めた。
「……心の中に大切にしまってきた思い出があるんだ」
ひとみ先生は無言で席を外してくれた。俺たちを二人きりにして話しやすくする気遣いだろう。
「聞かせて」
玲夏の柔らかな声を合図にして、俺は十年以上前のある冬の日に心を移す。
――
確か、1月か2月だったと思う。
卒園を目の前にしながら、僕たちは来るべき友達との別れに思いを馳せたりはしていなかった。「もう少しで小学生になるね」と度々声をかけるお母さんの期待をそのまま受け取るように、僕も小学生になるという漠然とした成長に、どことなくわくわくしていたと思う。
いつものように教室にみんなで集まって活動を行う。
その日はお母さんやお父さんへ感謝の気持ちを込めて手紙を書くことになった。
ひらがなを書くのが難しかったら絵でもいいとひとみ先生は言ってくれた。
僕はもらった紙にまず「おかあさんおとうさんへ」と書く。
お母さんにはいつも自転車で送り迎えしてくれて、ご飯を作ってくれてありがとうという気持ちを書いた。
お父さんには休みの日は公園に連れて行ってくれて、お風呂で一緒に水鉄砲で遊んでくれてありがとうという気持ちを書いた。
他にもいっぱい書きたいことはあったけど、紙がちっちゃい。うんうん悩んで選んで書いた。
満足してひとみ先生のところに持って行ったら、上手に書けたねと褒めてくれて、自由に遊んでていいよと言われた。
いつも遊んでいるつみきのおもちゃに向かう途中でちらっとれいかちゃんの方を見ると、君もうんうん悩んでいた。絵を描くのも好きだったから、手紙に絵も入れているのかな。泣いてなさそうなので安心してつみきで遊ぶ。
しばらくして、れいかちゃんもひとみ先生に手紙を見せに行った。先生は少し驚いたように目を見開いていたけどいつも以上に優しい笑顔のまま「よくかけているね」と言った。
そのままつみきでお城を作っている僕にひとみ先生が近寄ってきた。先生は膝を曲げて屈み、こう言った。
「佑人くん、ちょっといいかな」
城の建設もまだ途中だ。んー、と微妙な返事をしていると、先生は言葉を続ける。
「れいかちゃんのことでね」
その言葉を聞いて僕はようやく顔を上げた。また泣いちゃったのかな、と思いピアノの近くの立つ彼女の姿を見ると、今までにあまり見たことのない顔をしていた。泣いているわけじゃないけど、笑っているわけでもない。下を向いてどこかモジモジしていた。
どうしてか知りたくなって僕は先生と一緒に彼女のところに行った。三人で教室を離れて、廊下に出る。
先生がれいかちゃんに「佑人くんきたよ」と言うと、れいかちゃんは恥ずかしそうに下を向いたまま紙を渡してきた。
僕はなんのことかわからないまま受け取る。僕もさっきまで書いていた手紙だ。
おかあさんとおとうさんに渡すものなのにどうして、と思いながら手紙を見てみると驚きでそれから目が離せなくなった。
『佑人くん
いつもえをほめてくれてありがとう
ないてたらだいじょうぶってうれしかった
あとたすけてくれてありがとう
はなれるのさびしい』
最後に一文を読んで思わずれいかちゃんの方を見る。いつのまにか泣いてしまっていたようだ。
でも、いつもと違う。
今日は、泣く彼女の姿がどんどんぼやけて見えなくなっていく。当時はどうしてなのかわからなかった。けど今思うと、こうやってありがとうの気持ちを手紙で伝えてくれたことへの嬉しさだろうか。小学校に入ったら会えなくなることの寂しさだろうか。その両方なのだろう。
僕は廊下に響くくらい大きな声で、泣いた。
今まで幼稚園で泣くことなんてなかった。確かにおかあさんから、れいかちゃんが遠くへ行くことは最近聞いていた。小学校が違うだけじゃない、どこか遠くに行ってしまうということを頭の中ではわかっていた。でも、この手紙を読んでそれを実感したんだ。
ひとしきり泣いた後、ひとみ先生は僕たち二人の顔を交互に見て、笑顔でこう言った。
「また会えるように、ゆびきりげんまんしよっか」
また会いたい。その気持ちは僕も、れいかちゃんも一緒だった。示し合わせた訳でもなく同時に頷いて二人は右手の小指を差し出す。
いつか、また会えますように。
――
「それが俺の心にずっと残っていたんだ」
「……覚えてくれてたんだ。嬉しいな」
玲夏はまた涙を流していた。でも、それはさっきまで流していた涙とは違って、すごく穏やかな表情をしているように見えた。
「玲夏を助けることは決して苦しいこととか、やんなきゃいけないこととかそんなんじゃなくて、ただ単純にしたいからやってたんだ。ありがとうって言ってくれる時の顔を見るのがすごく嬉しかったから」
感傷に浸って流しそうになる涙を抑えて俺は語気を少しだけ強くする。
「だから、今日逃げ出したことをすごい後悔してる。その時は君があのときのれいかちゃんだとは知らなかったけど、それは関係ない」
じっと玲夏の目を見つめる。玲夏は先生からもらったハンカチで涙を拭いながらもじっと俺の話を聞いてくれている。
普段は見つめ合うなんて恥ずかしくて目を逸らしてしまうけれど、伝えたいと言う気持ちがそんなのを遥かに上回る。
「玲夏が自分を責める必要なんて全然ない。俺は俺がありたい姿から目を逸らしていた。だから、また俺を頼ってほしい」
玲夏は廊下の方に目をやって独り言のように呟く。
「そっか、そうだったんだね」
そうしてじっと目を閉じる。
やがて見開かれた目には曇り1つないように見えた。彼女はいつもの調子を取り戻したように右手をグーの形で突き出してきた。
「そうしたら、また助けてね! ただゆうとくん」
俺も右手を突き出し、それに合わせる。
「こちらこそよろしく。れいか」
-☆-
電車に揺られる。
帰宅ラッシュとは反対方向だからだろうか、夕暮れ時にしては席があちこち空いている。俺と玲夏は並んで座っている。
ラインを開くと、臨時で作られたグループラインに通知が来ていた。黒水、八坂、姫乃の三人から大丈夫だったかどうかの内容だ。
学校で玲夏を見つけたあと、玲夏は俺を引っ張って教室まで荷物を取りに行った後、すぐに学校を出てしまった。合間を縫って連絡を取ったが玲夏の顔を見せる間もなく出て行ってしまったので申し訳ないな。明日教室に入ったら彼らからガン詰めされるかもしれないが仕方ないだろう。
ふと、体の右側に何かが乗っかった。見ると玲夏がこちらにもたれかかっているようだ。頭が右肩に乗っかり、体温が伝わってきてどうにもくすぐったいが、一番疲れているのは彼女だ。起こさないようにそっとしておこう。
俺は目を閉じる。
俺は昔から人に感謝されるのが嬉しかった。
歳を重ねて、知ってることが増えて、色々な人と出会っても、そのことは今でも変わっていない。
変わったのはなんだろう。
自分を守ろうとする臆病さが身についたのかもしれない。
それはもちろん悪いことばかりじゃなくて、高校のような共同体でうまくやっていくためには必要不可欠なスキルである。
でも、その臆病さと向き合って、乗り越えなきゃいけない場面もあるのだろう。
何にせよいつか再び文乃先輩の前に立ち、今度こそ正面から向き合う必要がある。
玲夏の乗り換え駅への到着を告げるアナウンスが響き、俺は玲夏をそーっと起こした。




