バックグラウンドで動く不安
東京の夏は、軽井沢のそれとは違って、逃げ場のない湿気を帯びていた。
連休明けの月曜日。私のデスクには、休暇中に溜まった仕様変更のメールが山積し、モニターの光が容赦なくドライアイを刺激する。
「……はぁ。再起動したはずなのに、メモリ不足ね」
コーヒーを一口すすり、マウスを動かしたその時。
デスクの隅に置いた私用のスマホが、短く振動した。
『東京、暑すぎますね。木内さんのオフィスは涼しいですか? 僕は今、次の舞台のオーディション会場に向かってます。』
リョウくんからだった。
画面に浮かぶ彼の名前を見た瞬間、殺伐としたオフィスの風景が、一瞬だけセピア色の避暑地の記憶に上書きされる。私は周囲を気にしながら、素早く返信を打った。
『頑張ってね。リョウくんなら、きっとヒロインの相手役に選ばれるわ。』
送信ボタンを押して、自分でも驚くほど頬が緩んでいることに気づく。
仕事モードの鉄面皮を、彼はLINE一通で軽々と突破してくる。
その日の夜。残業を終えて駅のホームに立っていると、再び彼から着信があった。今度はメッセージではなく、写真だった。
そこには、底がすり減って、無惨に剥がれかけた革靴が写っていた。
『……落ちちゃいました。オーディション。
審査員の人に、「靴の手入れもできない奴に、役の気持ちはわからない」って言われちゃって。
悔しいです。バイト代、全部ワークショップに突っ込んじゃったから、新しい靴が買えなくて……。
木内さんに、こんな情けない話してごめんなさい。忘れてください。』
胸の奥が、ちりりと痛んだ。
彼の「才能」や「夢」が、たかが数万円の「靴」というハードウェアの不備で否定されるなんて。
『リョウくん、泣かないで。
その靴の代わり、私が投資させてくれないかな。
次のオーディションは、最高の状態で受けてほしいの。』
反射的に送っていた。
システム子会社で働く私にとって、数万円は、ひと月の残業代にも満たない。
けれど、彼にとっては人生を左右する大金なのだ。
数分後。
『……いいんですか? 本当に、出世払いになっちゃいますけど。
木内さん、僕の女神です。大好きです。』
「大好き」という文字列が、網膜に焼き付く。
その夜、私はネットバンキングで、彼が教えてくれた口座に「靴代」という名目のデータを転送した。
画面に表示された「振込完了」の文字。
それは、私の人生というシステムに、未知のソースコードを書き込んでしまった瞬間だった。




