26話 心理学的に言えば、恐怖なんて大半は予期不安
自室に駆け込んだレイヴンは、震える手でドアに鍵をかける。
「ど、どういう事!? お義兄さまがあの連中を雇った? 命の危険がある? ど、どうしてそんな事を――!?」
スキルが出したあり得ない内容に、レイヴンはまだ上手く受け入れられていないようだ。
(義兄とは距離があって、あまり好かれてはいないとは思ってた。でもこれまで危害を加えられたことなんて無いし、少なくとも嫌われてはいないと思ってた。それに……)
兄であるルシアンと彼女は、同じ毒親に育てられ、同じような苦労を課せられてきた。
だからレイヴンには、彼の気持ちが分かる場面もあって、僅かながら親近感を抱いていた。
蔑ろにされていたこの屋敷の中で、唯一嫌いではない人間だったのだ。
(だけど……全部私の独りよがりだった? 義兄さんは私を嫌ってた? 殺したいくらい憎んでた?)
頭の中がぐちゃぐちゃで、上手く考えがまとまらない。
『ど、どうするのレイヴン?』
レイヴンの周りを飛び回り、メイプルが切迫した声を上げる。
『部屋に籠ってて大丈夫なの? 外に逃げた方がいいんじゃ?』
「外にって言われても、どこにも行くところなんて無いよ?」
血の気の引いた顔をメイプルに向け、弱音を吐くレイヴン。
(家を出て独り立ちすることも計画してたけど、婚約破棄からまだ五日でそこまで手は回ってないし……。うぅ、いったいどうすれば……?)
部屋の中をぐるぐると歩き回りながら、レイヴンが何とか考えをまとめようと努めていると――。
――コンコン!
不意にドアをノックされ、レイヴンは「ひっ!」っと短く息を呑む。
「――っ! だ、誰!?」
「私だよ、ルシアンだ」
どうやらドアの向こう側にいるのは義兄らしい。
「お、お義兄さま! ど、どうしたんですか?」
「いやなに、少し話がしたくてね。夕食を一緒にどうかと誘いに来たんだ」
「わ、私とお義兄さまが、ですか?」
「ああ。婚約破棄なんてとんでもない事が起きたんだ。私は兄として妹を心配しているんだよ」
優しい声色で話すルシアン。
だがいつもの態度とは違い過ぎて、より胡散臭く感じてしまう。
「に、義兄さまがわたくしの心配を……?」
「思えば私はレイヴンの事をあまり気に掛けてこなかった。最近は父上とも疎遠になっているんだろう? ヴァンキッシュ家の長男として、このままじゃいけないと反省したんだ」
「…………」
「さぁレイヴン、出てきておくれ。もう食事の準備も終わってるんだよ」
ルシアンは穏やかな口調でレイヴンを誘い出そうとする。
レイヴンの頭の周りをビュンビュンと飛び回り、メイプルが焦った声を上げる。
『だ、ダメだよレイヴン! 今のルシアンは危険だ! 食事に毒でも入れられてたらどうするんだよ!』
『わ、分かってる! で、でもどうすれば……!?』
恐怖と戸惑いで、頭が上手く働かないレイヴン。
(こ、怖い……! お義兄さまが何を考えているのか分からない……! だ、誰か助け――)
思わず弱音を吐きそうになったところで、ハッと気づく。
(い、いいえ、しっかりしなさい私! 他人に頼らず自分で何とかするの! いつも独りで頑張ってきた、それが私だったじゃない!)
両手で頬をパンと叩き、恐怖で固まってしまった思考を無理やり動かす。
(心理学的に言えば、恐怖なんて大半は予期不安。そんなもので固着反応を起こしてる場合じゃないの! 脅威に対抗するには闘争逃走反応! 戦うか、逃げるか、どっちかしかない!)
そうしてレイヴンは、自分の精神状態を整えていく。
「おい、聞こえているのかレイヴン? ここを開けて――」
「わ、分かりましたお義兄さま!」
急かし始めたルシアンに、レイヴンは慌てて返事をする。
「着替えを済ませてから食堂に向かいます。ですので少しお待ちください」
「……分かった、では食堂で待っているからね」
ルシアンがそう言ったあと、コツコツと足音が遠ざかっていく。
ドアの前から気配が消えたのを確認し、レイヴンは深く息を吐いた。
『そ、それでどうするの? 今ので時間は稼げたけど、きっとそんなにもたないよ?』
「とにかく逃げる! この屋敷を出る! 出た後の事は後で考える!」
そう決断してからのレイヴンは早かった。
まずは小ぶりのボストンバッグに、部屋にあったへそくりや貴金属など、逃走資金になりそうなものを詰めていく。
次にクローゼットを開き、一番地味な服を選ぶ。
「この服なら貴族には見えないよね」
紺のワンピースをハンガーから取り外す際、上の棚にあった茶色い物体に目がいく。
以前、変装に使えるのではないかと思って買った、ブラウンヘアのウィッグだ。
「これ、使えるかな?」
取り出してかぶってみるも長さが足りない。
肩に届く程度の長さしかないウィッグでは、腰まで伸びた黒髪は到底隠せない。
「ダメ、やっぱり短いよね……いや、言ってる場合じゃないか」
机に向かい、引き出しを開けると、中に入っていたナイフを取り出す。
うなじで髪をひとまとめにすると、生え際に沿ってナイフを髪に当てた。
『ちょっ、何を――』
メイプルが止める暇もなくナイフを引くレイヴン。
束ねた髪が根元からバッサリと切り落とされた。
『レ、レイヴン何で……?』
「仕方ないでしょ、迷ってるヒマなんて無いんだから」
一度覚悟を決めてしまえば、レイヴンの行動に迷いはない。
服を着替えるとウィッグをかぶり、ボストンバッグを肩にかける。
この姿であれば、聖女どころか貴族にも見えない。
ブラウンヘアの平民に、完全に擬態できていた。
「これで良し! 必要なものは持った。後は……」
窓を開け放つと、外はすっかり暗くなっていた。
レイヴンは覗き込んで、窓から地面までの高さを確認する。
部屋があるのは二階だが、飛び降りるには少し高い。
「クッションが必要ね」
そう判断したレイヴンは、ベッドからマットレスを引っぺがし、窓の外へ放り投げた。
「せーのっ!」
掛け声とともにマットレスの上に飛び降りる。
ドスンッ! ――とお尻から無事着地できた。
ちなみに部屋から出たばかりのレイヴンだが、裸足ではなくフラットなパンプスを穿いている。
この世界では室内でも靴を脱がないのが一般的だからだ。
なのでこのまま外へ逃亡しても問題はないだろう。
『それでレイヴン、これからどうするの?』
「まだ決めてない、でも逃げなきゃ!」
そうして二人は暮れたばかりの夜に紛れ、屋敷の外へと姿を消した。




