第9話 運命の午後5時
8月31日。運命の朝が訪れた。
目覚めた瞬間、葵はまず、隣に蓮が眠っていることを確認した。八回目にして初めて、ループの朝を一人で迎えずに済んだという事実に、葵は静かな安堵を覚えた。カーテンの隙間から差し込む朝日は、これまでの七回と何一つ変わらない、ごく普通の夏の朝の光だった。それでも今日という日が、これまでとはまったく違う特別な一日になることを、葵は痛いほど理解していた。
「おはよう」
蓮も目を覚まし、寝ぼけ眼でそう挨拶した。柔らかな朝日を受けたその表情には、これから始まる一日への緊張と、それでも隠しきれない穏やかさが同居していた。
「おはよう。……今日だね」
「うん。今日で全部、終わらせよう」
蓮の声には、これまでにない確かな決意が滲んでいた。彼のその横顔を見つめながら、葵は改めて、この八回目の夏で得た何よりも大切なものの重みを、噛みしめていた。
二人は身支度を整え、予定通り、大学近くのビジネスホテルへと向かった。街はいつもと変わらない、けだるい夏の朝の空気に包まれていた。すれ違う人々の誰一人として、この街のどこかで、命運を分ける戦いが繰り広げられていることなど知る由もない。その静かな日常との対比が、葵の緊張をより一層際立たせていた。
チェックインの手続きを済ませ、最上階に近い一室に入る。窓からは街並みが一望でき、遠くには例の交差点も、小さく見えていた。あの場所で、これまで七回、蓮の命が奪われてきた。その事実を思い出すだけで、葵の胸は締めつけられた。
「よし、これで準備は完了」
蓮はカーテンを閉め、部屋の鍵をしっかりとかけた。スマートフォンは電源を入れたままにしていたが、着信音はすべてマナーモードに設定し、通知は見ないと二人で決めていた。ドアには念のため、チェーンロックまでかけておいた。
「あとは、時間が過ぎるのを待つだけ」
葵はそう言いながらも、心臓の鼓動が速まっていくのを感じていた。過去七回、どんなに対策を講じても、必ず何かのきっかけで運命は蓮を連れ出してきた。今回もまた、何かが起きるのではないかという恐怖が、拭いきれずに残っていた。
それでも、今回は一人ではない。隣には蓮がいる。それだけで、葵はこれまでとは違う強さを、自分の中に感じることができた。テーブルの上に置いたノートを、葵はそっと開いた。これまでの七回分の記録を見返しながら、今回こそは、このページの続きを書かずに済むようにと、心の中で強く祈った。
午前中は、二人で他愛のない話をしながら、比較的穏やかに過ごすことができた。テレビをつけ、適当なバラエティ番組を眺めながら、蓮は時折冗談を言って、張り詰めた空気を和らげようとしてくれた。
「見て、この芸人、面白いこと言ってるよ」
蓮がそう言って笑うたびに、葵の心も少しずつほぐれていった。籠城作戦などと大げさに構えていたが、こうして二人で過ごす時間は、思いのほか穏やかで、まるで普通のカップルが休日を過ごしているかのような錯覚さえ覚えるほどだった。カーテンの隙間から漏れる光の筋が、時間の経過とともにゆっくりと角度を変えていくのを、葵は時折目で追いかけていた。
昼過ぎになると、部屋にはホテルのルームサービスで注文した軽食が届いた。ドアの外に置いてもらう形で受け取り、直接顔を合わせることは徹底して避けた。蓮はドアスコープから廊下の様子を確認してから、慎重にドアを開け、皿を取り込んだ。その一連の動作の丁寧さに、葵は改めて彼の本気度を感じていた。
「順調だね」
蓮がそう言って、微笑んだ。
「うん。このまま、何も起きずに終わるといいけど」
葵の声には、まだ拭いきれない緊張が滲んでいた。窓の外に見える交差点を、葵はちらりと見やった。まだ何事もなく、車が普段通りに行き交っている。その平穏な光景が、いつまで続くのか、葵には見当もつかなかった。
午後になっても、特に変わったことは起きなかった。時計の針が、少しずつ午後3時、4時と進んでいく。二人は次第に、これはうまくいくのかもしれないという、淡い期待を抱き始めていた。
「もしかして、今回はこのまま何もなく終わるんじゃない?」
蓮がそう呟いたとき、葵もつい、その言葉に頷きそうになった。それでも心の奥底では、これまでの七回の記憶が、油断するなと警鐘を鳴らし続けていた。運命はいつも、希望を抱いた瞬間を狙うようにして、牙を剥いてきたからだ。窓の外に流れる雲の影が、部屋の壁をゆっくりと横切っていくのを、葵はただ黙って見つめていた。
午後4時半。突然、蓮のスマートフォンが激しく鳴り始めた。着信音を切っていたはずなのに、緊急速報のようなけたたましい音が鳴り響く。部屋の静寂を切り裂くその音に、二人は反射的に体を強張らせた。
「な、なんだ?」
蓮が慌てて画面を確認すると、そこには実家の母親からの着信が表示されていた。着信を無視しようとした瞬間、続けてメッセージが届いた。画面に表示された「母」の文字を見つめる蓮の指先が、わずかに震えていた。
「大変! 泥棒に入られたみたい! 警察が来てるけど、家の中がめちゃくちゃで……お父さんが取り乱してて、あなたに連絡が取れないかって……できれば、すぐ帰ってきてほしい」
メッセージには、荒らされた自宅の写真も添付されていた。棚が倒れ、物が散乱した室内の様子が、生々しく写し出されている。見慣れたはずのリビングの光景が、無残な姿に変わり果てている写真を見て、蓮の呼吸が明らかに乱れていくのが分かった。
「これ……」
蓮の顔から、みるみる血の気が引いていった。両手が小刻みに震え、スマートフォンを持つ指先が白くなっている。
「嘘、だよね……?」
葵も、画面を覗き込みながら、背筋が凍る思いだった。過去の記録には、こうした「家族の緊急事態」を装った呼び出しの記述はなかった。だが、これが罠である可能性は、十分に考えられた。
「蓮くん、これは罠かもしれない。今、絶対に部屋を出ちゃダメ」
「でも、もし本当に母さんが……」
蓮の声が、激しく揺れていた。
「実家、燃えてるかもしれないんだ。放っておけない」
葵はスマートフォンを奪うようにして確認した。母親のアカウントらしきものからのメッセージだったが、よく見ると、いつも使っている絵文字の癖や、文末の言い回しが、微妙に違っていた。長年、蓮を通じて母親の文章の癖を見てきた葵だからこそ気づける、ごくわずかな違和感だった。
「蓮くん、落ち着いて。このメッセージ、本当にお母さんが送ったものか確認しよう。電話、かけ直してみて」
蓮は震える手でスマートフォンを操作し、母親に電話をかけた。しかし、何度かけても、繋がらない。
「繋がらない……」
「それって、余計に怪しい。本当に緊急事態なら、お母さんが電話に出られないなんて、おかしいよ」
葵は努めて冷静な声を保とうとしたが、内心では、これまでの七回の記録にはなかった新しいパターンの罠に、強い危機感を覚えていた。
「でも、もし本当だったら……」
蓮の顔は、恐怖と焦りで歪んでいた。家族の安否という、最も本能的で強い感情が、彼の理性を揺さぶっている。
その時、部屋のドアが激しくノックされた。
「瀬尾様、緊急のご連絡です! ご実家から、直接ホテルにお電話がありまして……火災が発生しているとのことです!」
ホテルの従業員の声が、廊下から聞こえてきた。切迫した声色から、事態の深刻さが伝わってくる。
「火災……!?」
蓮の顔から、完全に血の気が引いた。それまで辛うじて保たれていた冷静さの糸が、ぷつりと切れた瞬間だった。
「もう、無視できない」
蓮は葵の制止を振り切るように、ドアへと向かった。
「待って、蓮くん!」
「ごめん、時枝さん。でも、もし本当に家族が危険な目に遭ってるなら、俺は絶対に見過ごせない」
蓮の目には、強い決意が宿っていた。それは、優しさゆえの、抗いようのない性分だった。誰かが苦しんでいるとき、それを放っておけない――その本質的な優しさこそが、蓮という人間の魅力であり、同時に、この呪われた運命の、最大の弱点でもあった。
葵は必死に蓮の腕を掴んだが、彼の意志は固く、振り払われてしまった。過去七回のループでも、まさにこの瞬間、蓮は同じように理性よりも情に動かされて、危険な場所へと足を運んでしまっていた。歴史は繰り返そうとしている――そう悟った瞬間、葵の中で何かが吹っ切れた。
「私も行く」
葵はとっさにそう言って、蓮のあとを追った。止めることができないなら、せめて隣にいる。それだけが、今の葵にできる、精一杯の抵抗だった。
ホテルを飛び出した二人は、タクシーを拾い、蓮の実家へと向かった。車内で、蓮は何度も母親に電話をかけ続けたが、一向に繋がらない。窓の外を流れる景色を見つめながら、葵は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるのを感じていた。時計の針は、容赦なく午後5時に向かって進み続けている。
「お願い、無事でいて……」
蓮の呟きに、葵は何も言うことができなかった。ただ、彼の手を強く握りしめることしかできなかった。タクシーの運転手が、二人の只事ではない様子を察してか、心なしか運転を急いでくれているようだった。
実家に到着すると、そこには火災の痕跡など、何ひとつなかった。近所の様子もいつも通りで、消防車も警察の姿もない。夕方の穏やかな住宅街の風景が、何事もなかったかのように広がっているだけだった。
「これは……」
蓮が呆然と立ち尽くす中、家の中から、蓮の母親が普段通りの様子で出てきた。エプロン姿で、手には夕食の買い物袋を提げている。あまりに日常的なその光景に、二人はしばらく現実感を取り戻せずにいた。
「あら、蓮。どうしたの、こんな時間に」
「え……お母さん、無事、なの?」
「無事も何も、いつも通りよ。何かあったの?」
母親は、きょとんとした表情で首をかしげた。その拍子抜けするほど平穏な様子に、蓮はしばらく言葉を発することができなかった。
蓮は呆然としながら、スマートフォンの画面を見せた。だが、そこにあったはずのメッセージは、なぜか、跡形もなく消えていた。トーク履歴を遡っても、母親とのやり取りには、何日も前の他愛のない会話しか残っていない。
「そんな……」
葵は、血の気が引いていくのを感じた。時計を確認すると、時刻は午後4時58分。事故の起きる時刻まで、あと二分だった。心臓が早鐘のように打ち始め、周囲の音が一瞬遠くなるような感覚に襲われた。
「蓮くん、今すぐ戻ろう!」
葵が叫んだ、その瞬間だった。
蓮の実家の近くにある交差点――かつての事故現場とは違う場所だったが、そこに、猛スピードで一台の車が走ってくるのが見えた。運転席には、見覚えのある人物の姿があった。
中沢だった。
その顔には、これまで葵が知っていた温和な蓮の幼馴染とは、まるで別人のような、追い詰められた表情が浮かんでいた。目は血走り、ハンドルを握る手には、尋常ではない力がこもっているのが、遠目にも分かった。すべてを失うことへの恐怖と焦りが、彼を人間らしい判断力から切り離してしまっているようだった。おそらく彼自身、自分が今何をしようとしているのか、正常に理解できていないのかもしれない。
「蓮!」
中沢の乗る車が、猛スピードで蓮に向かって突っ込んでくる。エンジンの轟音と、タイヤが路面を擦る甲高い音が、周囲の空気を切り裂いた。
葵は考えるよりも先に、体が動いていた。
過去七回、葵は蓮を庇うことを恐れていた。自分が死んだら、ループそのものが起こらなくなってしまうかもしれないという恐怖があったからだ。けれど今回、葵の心にあったのは、その恐怖ではなかった。
「蓮くんを、生かすために」
その一心だけが、葵の体を突き動かしていた。頭で考える暇などなかった。ただ本能が、何よりも先に、彼を守れと叫んでいた。
葵は、渾身の力で蓮の体を突き飛ばした。
「危ない――!」
蓮の体が、歩道の外側へと弾き飛ばされる。彼の驚愕した表情が、スローモーションのように葵の目に焼きついた。
だが、その刹那だった。体勢を崩しながらも、蓮の右手が反射的に伸び、葵の服の袖を強く掴んでいた。
「葵――!」
突き飛ばされた勢いを利用して、蓮は自らの体ごと、葵を引き寄せるようにして歩道へと引き倒す。二人の体が、もつれ合うようにして地面に転がった。
同時に、目前に迫った二人の姿に弾かれたように、中沢はとっさに急ハンドルを切った。タイヤが甲高い悲鳴のような音を上げ、車体は大きく横滑りしながら、道路脇のガードレールへと激突する。金属の潰れる鈍い音が、辺りに響き渡った。
車体の側面が、二人のすぐ脇をかすめるようにして通り過ぎていった。直撃こそ免れたものの、その衝撃と勢いのまま、葵の体は歩道の縁石に強く打ちつけられ、後頭部に鋭い痛みが走った。
視界が、急速に暗く滲んでいく。
「葵――!」
蓮の叫び声が、ひどく遠くから聞こえたような気がした。頭上に覆いかぶさるようにして自分を庇う蓮の顔が、ぼやけた輪郭のまま視界の中で揺れている。
それを最後に、葵の意識は、深い闇の中へと静かに沈んでいった。




