第10話 9回目の夏はいらない
目を開けると、そこは真っ白な天井だった。
消毒液の匂いと、規則的な機械音。葵はゆっくりと瞼を開けながら、自分がどこにいるのかを理解しようとした。頭の芯がまだぼんやりとしていて、意識と現実の境目が曖昧だった。夢の中を漂っているような感覚の中、少しずつ、周囲の輪郭がはっきりとしてくる。天井の照明の光が、やけに眩しく感じられた。
「病院……?」
掠れた声で呟くと、視界の端で何かが動いた。心電図のモニターが規則的な電子音を刻み続け、点滴の管が腕に繋がれているのが見えた。ここが病院であることを、葵は改めて実感した。同時に、自分がまだ生きているのだという事実が、じわじわと胸の中に広がっていった。
「葵!」
その声に、葵は思わず涙が溢れた。
「蓮、くん……?」
ベッドの脇には、涙でぐしゃぐしゃになった顔の蓮が座っていた。彼の右手は、葵の左手をしっかりと握りしめている。目の下には濃い隈ができており、着ている服も皺だらけだった。おそらく、葵が意識を失っている間、片時も離れずにそばにいてくれたのだろう。
「よかった……本当に、よかった……」
蓮は何度も何度も、そう繰り返した。まるで、その言葉を口にすることで、目の前の現実を確かめようとしているかのようだった。窓から差し込む柔らかな光の中、二人はしばらくの間、ただ黙って、互いの存在を確かめ合っていた。葵はその手の温もりを、じっと感じ取りながら、自分が今、確かに生きているのだという実感を、ゆっくりと取り戻していった。
医師の説明によると、葵は事故の際に頭部を強く打ち、その衝撃で意識を失っていたが、命に別状はなく、意識も三日ほどで回復するだろうとのことだった。中沢の運転する車は、直前で急ハンドルを切ったためガードレールに激突し、二人への直撃は免れたのだという。それでも、その衝撃の余波で葵は歩道の縁石に頭を打ちつけてしまい、そのまま意識を失ってしまったのだった。奇跡的としか言いようのない結果だった。もし蓮のとっさの判断が一瞬でも遅れていたら、結果はまったく違うものになっていただろうと、担当医は静かに語った。
「俺が、君の服を掴んだんだ」
蓮は、葵の手を握りながら、震える声でそう説明した。
「時枝さんが俺を突き飛ばしてくれた瞬間、なんでか、体が勝手に動いた。気づいたら、時枝さんの袖を掴んで、一緒に歩道に倒れ込んでた。中沢の車は、俺たちのすぐ横をかすめて、そのままガードレールに突っ込んでいった。あの一瞬だけは、なぜか、今でもはっきり覚えてるんだ」
「中沢くんは……」
「その場で、警察に取り押さえられた」
蓮は、深く息を吐いてから、続けた。
「取り調べで、全部話したらしい。あの偽の火災の連絡……あれも、中沢が仕組んだことだったんだって。母さんのアカウントを乗っ取って、俺たちをホテルの外に誘い出して、実家の近くの交差点に呼び寄せる計画だったらしい。事故に見せかけて、俺を……その、始末するつもりだったって」
蓮の声は、そこで一度詰まった。
「でも、俺が中沢の車に気づいて、時枝さんと一緒に逃げようとしたのを見て、計画がバレたと思ったんだと思う。頭が真っ白になって、後先考えられなくなって、そのまま突っ込んできたって、警察には話してるらしい」
蓮の声には、複雑な感情が滲んでいた。憎しみだけではない、幼馴染としての、消えない哀しみもまた、そこには確かに存在していた。取り調べの中で、中沢は涙ながらに、これまでの罪をすべて告白したのだという。長年の努力が報われないことへの苦しみと、蓮への劣等感が、少しずつ彼の心を蝕んでいった結果だった。計画的な犯行のはずが、最後の最後で理性を失い、衝動的な凶行へと変わってしまった――それが、彼の転落の全貌だった。
「あいつのこと、今でも許せない部分もある。でも同時に、悲しくもあるんだ。もっと早く、あいつの苦しみに気づいてあげられていたらって」
蓮はそう言って、目を伏せた。優しい彼らしい、複雑な想いだった。長年の友情の記憶と、今回の一件で負った深い傷。そのどちらもを抱えながら生きていくことは、決して簡単なことではないだろう。それでも蓮は、その痛みからも目を逸らさず、まっすぐに受け止めようとしていた。
「これで、因縁の連鎖は、断ち切られたんだね」
葵の問いに、蓮は静かに頷いた。窓の外に広がる病院の中庭には、まだ夏の名残を感じさせる緑が生い茂っていたが、風にはすでに、秋のはじまりを告げる涼やかさが混じっていた。
「うん。もう、8月31日は、俺たちにとって、ただの夏の終わりの日になる」
その言葉を聞きながら、葵はゆっくりと目を閉じた。八回分、繰り返してきた恐怖の日付が、ようやく普通の日常の一部として、心の中に静かに収まっていく感覚があった。
三日後、葵は無事に意識を取り戻した。目を開けた瞬間、真っ先に視界に飛び込んできたのは、涙を流しながら微笑む蓮の顔だった。三日間、彼はほとんど眠らずに付き添ってくれていたのだろう。その献身的な姿に、葵はまだ言葉を発する前から、胸がいっぱいになった。
「おかえり、葵」
その一言に、葵はすべてを理解した。
助かったのだ。今度こそ、本当に。
「ただいま、蓮くん」
葵の声も、涙で震えていた。
窓の外を見ると、そこには9月1日の、澄み渡った秋の始まりを思わせる空が広がっていた。八回、繰り返してきた8月31日という運命の日を、ついに乗り越えることができた。その事実が、葵の胸に、じわじわと実感として染み込んでいった。窓の外を飛んでいく小さな鳥の群れを、葵はしばらくの間、ただ黙って見つめていた。生きているということ、そして誰かの隣にいられるということの、当たり前でありながらこの上なく尊い幸福を、噛みしめながら。
蓮の記憶は、完全には戻っていなかった。四年間の思い出のすべてを取り戻すことは、結局叶わなかった。それでも、葵という存在への「感情の記憶」――理屈を超えた、深い愛情だけは、確かに彼の中に残り続けていた。過去の詳細な出来事は思い出せなくても、葵と過ごすたびに感じる安心感や愛おしさは、以前とまったく変わらないものだった。
「記憶がなくても、いいの?」
病室のベッドの上で、葵はふと、そんな不安を口にした。
「私との思い出、ほとんど戻ってないのに……」
蓮は、優しく微笑みながら、葵の手を握った。窓から差し込む午後の光が、その微笑みを柔らかく照らしていた。
「いいんだ。むしろ、これでいいんだと思う」
「どうして?」
「だって、これから、新しい思い出を全部作ればいいから」
蓮はそう言って、右腕に巻かれた青いミサンガに、そっと触れた。
「このミサンガだけは、なぜか消えなかった。それはきっと、俺の中の一番大切な部分が、時枝さんのことを、絶対に手放したくないって、ずっと願い続けてきたからなんだと思う」
蓮はミサンガを外し、葵の手のひらに乗せた。指先が、葵の手のひらに触れる感触が、これまでの八回分のすべての苦しみを、そっと包み込んでくれるようだった。
「これから、新しい思い出を全部作ろう。時枝さんが忘れられない過去じゃなくて、俺自身が、この目でちゃんと積み重ねていく未来を」
蓮はそう言って、葵の腕に、そのミサンガを結び直した。青い糸が、まるで新しい約束の証のように、葵の手首に優しく巻きついた。結び目を確かめるように、蓮の指先がゆっくりと動く。その丁寧な仕草の一つひとつに、彼の想いの深さが表れているようだった。
「今度は、私が持っておくね。蓮くんとの、新しい未来の始まりの印として」
「うん。大事にしてね」
「うん」
二人は、静かに微笑み合った。窓の外から差し込む午後の光が、二人を優しく包み込んでいた。これまでの八回分の苦しみのすべてが、この穏やかな一瞬のために存在していたのだと、葵は静かに思った。指先で結び目をそっと確かめながら、この小さな青い糸が、これからの二人の未来をずっと見守ってくれるようにと、心の中で静かに祈った。
退院後、葵と蓮の日常は、少しずつ穏やかさを取り戻していった。中沢の事件は大学内でも大きな騒動になったが、蓮のコンペ作品はきちんとオリジナルとして認められ、最終選考でも高い評価を得ることができた。表彰式では、蓮の名前が呼ばれる瞬間、葵は誰よりも大きな拍手を送った。
「これから、いろんな建物を設計していきたいんだ」
ある日の午後、大学のベンチに並んで座りながら、蓮がそう語った。金木犀の甘い香りが、秋の風に乗って漂ってくる。彼の横顔には、これまでの苦難を乗り越えたからこそ得られた、確かな充実感が滲んでいた。
「誰かを待つ場所、誰かと再会できる場所。そういう空間を、もっとたくさん作りたい」
その言葉に、葵は静かに微笑んだ。それは、蓮が一回目のループのときから抱き続けていた夢と、まったく同じ形をしていた。記憶を失っても、彼の魂の根底にある願いだけは、決して消えることがなかったのだ。人という存在の根源にあるものは、表面的な記憶の有無を超えて、確かに受け継がれていくものなのかもしれないと、葵は改めて実感していた。
「素敵だと思う。きっと、たくさんの人を幸せにするよ」
「時枝さんのおかげだよ。時枝さんが、俺をずっと待ち続けてくれたから、俺も今、こうして誰かと再会することの意味を、心から理解できるようになったんだと思う」
蓮の言葉に、葵の胸が温かくなった。八回分の孤独な戦いの果てに、こんなにも優しい言葉をかけてもらえる未来が待っているとは、あの絶望の淵にいた頃の自分には、到底想像できなかったことだった。
秋が深まったある日、葵は久しぶりに、すり切れたノートを開いた。七回分の絶望と、八回目の奇跡の記録が刻まれたそのノートを、葵はもう、開く必要のない過去として、そっと本棚の奥にしまい込むつもりだった。ページをめくるたびに、これまでの長く過酷な旅路の記憶が蘇ってくる。それでも、その記憶に付随する痛みは、以前ほど鋭くはなかった。すべてが、過去という確かな場所に、静かに収まっていくようだった。
最後のページに、葵は新しい一文を書き加えた。
「9回目の夏は、いらない。だってもう、蓮くんと一緒に、何度でも夏を迎えられるから」
ペンを置き、葵は窓の外を見つめた。この一文を書き終えたことで、七回分の絶望と、八回分の戦いの記録に、ようやく本当の意味での終止符が打たれたような気がした。ノートを閉じる手には、これまで感じたことのない、確かな安堵があった。
澄み渡る秋の空の下、大学のキャンパスでは、学生たちがそれぞれの日常を歩んでいる。もう、時間は戻らない。もう、忘れられることを恐れなくていい。
その日常の何気ない尊さを、葵は改めて、深く噛みしめていた。ほんの数ヶ月前まで、こんな穏やかな時間が訪れるとは、想像すらできなかった。八回分の絶望の果てに手にした、この静かな幸福を、葵はこれからも大切に生きていこうと、心に誓った。
「葵、待たせてごめん」
遠くから、蓮が駆け寄ってくるのが見えた。息を切らしながらも、その顔には、屈託のない笑顔が浮かんでいる。手には、何かの資料らしき紙の束を抱えていた。おそらく、また新しい建築コンペの構想を練っていたのだろう。
「ううん、全然待ってないよ」
葵は立ち上がり、蓮に向かって微笑んだ。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。
「今日、新しいプロジェクトの話が決まったんだ。今度、駅前の再開発に関わることになって」
「本当に? すごいじゃない!」
「うん。時枝さんに一番に報告したくて、急いで来たんだ」
蓮の弾んだ声に、葵の心も自然と明るくなった。彼が誇らしげに語る夢の一つひとつが、これからの二人の未来を彩っていくのだと思うと、胸の奥が温かくなった。こうして未来への希望を語り合える日常が、これほどまでにかけがえのないものだとは、これまで想像もしていなかった。
二人は並んで、秋の始まりの道を歩き始めた。もう二度と失われることのない、確かな未来へと向かって。互いの歩幅を自然に合わせながら、他愛のない会話を交わす。それは、これまでの八回のループの果てに、ようやく手に入れた、何気なくも尊い日常の一コマだった。
8回目の夏は、こうして、二人にとってかけがえのない、最初で最後の「奇跡の夏」として、静かに幕を閉じた。振り返れば、あまりにも長く、あまりにも過酷な道のりだった。それでも今、その道のりのすべてが、こうして手にした穏やかな日常の礎になっていることを、葵は誰よりも深く理解していた。
そして、その先に続く日々は、ようやく取り戻した、当たり前で、けれど何よりも尊い、二人だけの物語の始まりだった。もう二度と、8月31日という日付に怯える必要はない。もう二度と、蓮の記憶が消えていくことを恐れる必要もない。ただ、これから積み重ねていく、何気ない日々の一つひとつを、大切に生きていくだけでいい。
秋風が二人の間を優しく吹き抜けていく中、葵は隣を歩く蓮の横顔を、そっと見つめた。何度でも恋に落ちたくなる、この笑顔とともに歩んでいく未来が、これからもずっと続いていくことを、心の底から願いながら。八回分の絶望を経て、ようやくたどり着いた、何よりも尊いこの日常を、葵はこれから先も、大切に生きていくつもりだった。
これにて完結です。お読みいただきありがとうございました!




