第8話 最後の夜に交わした約束
8月30日の夜。運命の日まで、あと半日を切っていた。
街はすでに夏の終わりを予感させる、どこか物憂げな空気に包まれていた。日中の強い日差しはまだ健在だったが、夕方以降の風には、わずかに秋の気配が混じり始めている。葵はその変化を肌で感じるたびに、残された時間の少なさを、否応なく実感させられていた。振り返れば、8月1日にこの夏が始まったときには、まだ果てしなく長く感じられた三十一日間が、今ではあっという間に過ぎ去ろうとしていた。
二人は打ち合わせ通り、翌朝一番でホテルにチェックインする計画を最終確認していた。だが、その夜、蓮の部屋で作戦を詰め直していたとき、蓮がふと、深刻な表情で口を開いた。
机の上に広げられた地図には、ホテルの位置と、そこまでの最短ルートが赤いペンで丁寧に書き込まれていた。蓮は几帳面な性格らしく、あらゆる可能性を想定して、複数の避難経路まで用意していた。その真剣な準備の様子を見るだけで、葵は彼がどれほどこの計画に本気で向き合ってくれているかを実感し、胸が熱くなった。徹夜で調べ上げたのだろう、彼の目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。
「時枝さん、もうひとつ、聞いておきたいことがあるんだ」
「なに?」
「もし、明日も失敗したら……時枝さんは、また8月1日に戻るんだよね」
葵は静かに頷いた。
「うん」
「その場合、俺は……時枝さんの存在自体を、完全に消滅させるリスクがあるって、前に言ってたよね」
「うん。八回目が限界だって、なんとなく分かってる。これ以上ループしたら、私自身がこの世界からいなくなるか、蓮くんの精神が壊れてしまうか、そのどちらかになる」
葵はこれまで、この事実をできるだけ蓮に伝えないようにしてきた。知れば、蓮は必要以上に自分を責めてしまうだろうと分かっていたからだ。それでも、真実を共有すると決めた以上、隠し通すことはできなかった。過去のノートに書き記したどの記録よりも、この事実を口にすることが、葵にとっては一番勇気のいることだった。
蓮の顔が、青ざめていった。
「それって……」
「うん。だから、今回が本当に、最後のチャンスなの」
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いているように感じられた。
「もうループはしないでくれ」
蓮が、絞り出すように言った。
「もし俺が明日死んで、時枝さんがまた9回目に戻れるとしても……もう、そんなことはしないでほしい。頼むから」
その言葉に、葵は胸を締めつけられた。
「でも、それじゃあ、蓮くんが……」
「俺のことなら、いい」
蓮は真剣な表情で、葵の両肩に手を置いた。その手には、これまで見たことのないほどの強い力がこもっていた。
「俺がもし死んだとしても、時枝さんが、これ以上苦しむ姿を見たくない。七回分、あんな地獄を繰り返してきたなんて、俺には想像もできないくらい辛かったはずだ。もう、そんな思いをしてほしくない」
蓮の瞳には、涙が滲んでいた。それは自分の死への恐怖ではなく、葵のこれまでの苦しみへの、深い共感と痛みから来るものだった。
「私は……」
葵は言葉に詰まった。蓮を失うくらいなら、何度でもループを繰り返す。それが、これまでの葵の、揺るぎない信念だった。けれど今、蓮自身の口から、その信念を否定するような言葉を告げられ、心が激しく揺れていた。自分の存在をかけてでも蓮を救いたいという想いと、蓮が望まない選択はしたくないという想い。その二つが、葵の中で激しくせめぎ合っていた。どちらの想いも、蓮を大切に思う気持ちから生まれているのに、そのふたつが正反対の結論を導いてしまうという矛盾に、葵は苦しめられていた。
「もし俺が明日死んで、君が未来へ行けたら……俺を忘れて、幸せになってほしい」
蓮のその言葉に、葵は堪えきれず、涙を流した。それは、蓮なりの、精一杯の優しさだった。自分の死を受け入れた上で、それでも葵の未来を思いやる、その献身的な愛情の深さに、葵の胸は張り裂けそうになった。同時に、そんな覚悟を彼にさせてしまっている自分自身への不甲斐なさも、強く込み上げてきた。
「そんなの、できるわけない」
「できるよ。時枝さんは強い人だから」
「強くなんかない。ただ、蓮くんのことが好きで、諦めきれなかっただけ」
「それが、強いってことなんだよ」
蓮は優しく微笑みながら、葵の涙を指で拭った。その指先の温もりが、涙で濡れた頬にじんわりと染み込んでいくようだった。
二人はしばらく無言のまま、互いの体温を確かめるように寄り添っていた。窓の外では、夏の終わりを告げるような虫の声が、静かに響いている。網戸の隙間から吹き込む夜風が、二人の間の重い空気を、わずかに和らげてくれていた。
「明日、絶対に生き延びよう」
蓮が、静かな決意とともにそう言った。
「ホテルに引きこもって、誰の連絡にも応じない。もし何があっても、絶対に外には出ない。そう約束する」
「うん」
「時枝さんも、約束して。もし俺が失敗しても、これ以上ループはしないって」
その一言に、部屋の空気が再び張り詰めた。蓮の声には、これまでにない切実さがこもっていた。
葵は、その約束を口にすることが、どうしてもできなかった。蓮を失うことを、簡単に受け入れられるはずがない。それでも、蓮の真剣な眼差しを前に、何かを答えなければならないという焦りが募っていく。心の中で、これまで積み重ねてきた七回分の決意と、蓮への新しい約束が、静かに衝突していた。
「……明日、絶対に成功させる。だから、そんな約束、しなくていい」
葵はそう言って、話をはぐらかした。蓮は少し寂しそうな表情を見せたが、それ以上は追及しなかった。彼もまた、これ以上葵を追い詰めることの残酷さを、理解しているようだった。二人はしばらくの間、それぞれの想いを胸に秘めたまま、ただ静かに窓の外の暗闇を見つめていた。
その夜、蓮は葵を、自分の部屋に泊まるよう誘った。一人にしておくのが心配だという理由からだった。葵も、一人で過ごす夜の静けさに耐えられる自信がなかったため、その申し出を受け入れた。
蓮は手早く布団を用意し、簡易的なソファベッドを整えてくれた。「俺はこっちで寝るから」と言う蓮に、葵は思わず苦笑した。かつて何度も、同じ部屋で当たり前のように隣り合って眠っていた記憶がある。それを今、律儀に距離を取ろうとする今の蓮の律儀さが、どこか懐かしく、そして切なく感じられた。
「なんで笑ってるの?」
「ううん、なんでもない。ただ、瀬尾くんって、やっぱり優しいなって思って」
「そりゃそうだろ、大事な人の前で失礼な真似はできないよ」
蓮は当然のようにそう言って、少し照れくさそうに視線を逸らした。その仕草に、葵はまた胸の奥が温かくなるのを感じた。こんな些細な言葉のひとつひとつが、これまでの孤独な日々を埋めていくように、静かに心に染み渡っていった。
二人はベッドの端に並んで腰掛け、しばらく他愛のない話を続けた。蓮の子供の頃の話、葵が大学で好きだった授業の話。どれも、明日の危機とは無関係な、ごく普通の会話だった。それでも、そんな些細な時間こそが、葵にとってはこの上なく愛おしいものだった。
蓮は小学生の頃、初めて作った紙飛行機がどうしても真っ直ぐ飛ばず、何十回も作り直した末に、ついに校庭の端から端まで飛ばせたときの達成感について、身振り手振りを交えながら楽しそうに語った。葵はその話を聞きながら、こんな些細な思い出話ひとつすら、これまでの七回のループでは聞くことができなかったのだと気づき、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「その紙飛行機、まだ持ってるの?」
葵が尋ねると、蓮は照れくさそうに笑った。当時のことを思い出しているのか、遠い目をしながら、懐かしそうに目を細めている。
「いや、さすがにもうないよ。でも、なんでか今でも鮮明に覚えてるんだよな、あの日の空の色とか、風の匂いとか」
「素敵な思い出だね」
「うん。……時枝さんとも、こういう他愛のない話、もっとたくさんしたいな。事故のこととか、中沢のこととか関係なく、ただの日常の話を」
蓮の声は穏やかで、けれどその奥には、明日への漠然とした不安を紛らわせようとするような、健気な強がりが滲んでいるように葵には感じられた。
その言葉に、葵は静かに頷いた。それは、これまでの葵が、ずっと憧れながらも手にできずにいた、ごく普通の幸せそのものだった。
「時枝さん」
蓮が、ふと真剣な声で名前を呼んだ。
「うん?」
「もし、明日を無事に乗り越えられたら……ちゃんと、返事、聞かせてくれる?」
蓮の声は、緊張と期待が入り混じったような、どこかぎこちない響きを帯びていた。それでも、その眼差しには、確かな誠実さが宿っていた。
葵は、蓮の目をまっすぐに見つめ、静かに頷いた。
「うん。約束する」
その約束の重みを、二人とも、痛いほど理解していた。窓の外を流れる雲が月を覆い、部屋の中が一瞬だけ暗くなる。それでもすぐにまた、柔らかな月光が二人を照らし出した。
「明日が終わったら、俺と、ちゃんと付き合ってほしい」
蓮は、もう一度、はっきりとそう告げた。窓から差し込む月明かりが、彼の横顔を静かに照らしている。その表情には、これまでのどんな瞬間よりも真摯な決意が滲んでいた。
「これから、たくさんの新しい思い出を作ろう。時枝さんが忘れられない思い出じゃなくて、俺自身が、この目でちゃんと覚えていられる思い出を」
その言葉に、葵の胸が熱くなった。それは、八回分の孤独と絶望のすべてを、報われたと感じさせてくれる言葉だった。これまで何度も、蓮の記憶から消えていくことを恐れながら過ごしてきた日々。その恐怖の対極にある、確かな約束の言葉だった。
「うん。約束する」
葵は、涙を堪えながら、静かにそう答えた。この約束が、これまでの七回分の孤独な戦いの、確かな終着点になるようにと、葵は心の底から願わずにはいられなかった。
蓮は優しく葵を抱き寄せ、そのまま、静かな抱擁を交わした。言葉を超えた、深く静かな絆の確認だった。窓の外の月明かりが、二人の姿を柔らかく照らしていた。しばらくの間、二人はただそのまま、互いの鼓動の音だけを感じながら、時間の流れを忘れて寄り添っていた。この瞬間だけは、明日への不安も、事故の恐怖も、すべてが遠くに霞んでいくようだった。
深夜、蓮が眠りについたあとも、葵はしばらく眠ることができなかった。隣で穏やかな寝息を立てる蓮の横顔を見つめながら、これまでの七回分の記憶を、一つひとつ思い出していた。
一回目のループでの、無邪気で幸福だった日々。二回目、三回目の絶望と混乱。四回目以降の、忘却の呪いへの気づきと、それに伴う孤独の深まり。そして、八回目にしてようやくたどり着いた、この静かで穏やかな夜。長い長い旅路の果てに、ようやく見えてきた小さな光を、葵は改めて噛みしめていた。振り返れば、あまりにも長く、あまりにも過酷な道のりだった。
何度も何度も繰り返してきた絶望と、それでも諦めきれなかった恋心。その果てに、ようやくたどり着いた、この静かな夜。月明かりに照らされた蓮の寝顔は、記憶を失う前と何一つ変わらない、穏やかで優しいものだった。この顔を、明日もまた見られるように。ただそれだけを、葵は静かに願った。
「絶対に、失わない」
誰にも聞こえない声で、葵はそう誓った。
明日、運命の午後5時が訪れる。その瞬間まで、あと十数時間。葵は蓮の手をそっと握り、その温もりを確かめながら、静かに目を閉じた。手のひらから伝わる規則正しい体温が、これから訪れる嵐のような一日を前に、葵の心をわずかに落ち着かせてくれた。窓の外を見上げれば、雲間から覗く月が、まるで二人を静かに見守っているかのようだった。
これまでの七回、葵はいつも一人でこの夜を過ごしてきた。誰にも真実を明かせず、誰にも寄り添ってもらえず、ただ一人で運命と向き合ってきた。それが今、こうして隣に蓮がいるというだけで、これほどまでに心強く感じられるものかと、葵は改めて実感していた。孤独だった夜の記憶と、今この瞬間の温もりとの落差に、胸がいっぱいになる。
八回目の夏の、最後の夜が、こうして静かに過ぎていった。窓の外では、夜明けを待つ夏の虫たちが、いつまでも静かな声を響かせ続けていた。すべての決着がつく明日という日が、静かに、しかし確実に近づいていた。




