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君が忘れる8回目の夏に  作者: まつたけひめ


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7/10

第7話 残された時間

8月30日。事故まで、あと一日。


前日、すべての真実を打ち明けてから、蓮と葵の関係は、明確に変わっていた。もう「初対面の他人」を演じる必要はない。今の二人は、共に運命に立ち向かう、対等なパートナーだった。互いに秘密を持たない関係というものが、これほどまでに心を軽くするものだとは、葵はこれまで想像したこともなかった。


目が覚めた瞬間、葵はまず、隣に誰もいないことを確認した。それでも、昨夜のことを思い出すと、これまでのループとはまったく違う手触りの朝が始まっていることに気づく。孤独に押し潰されそうになりながら迎える朝ではなく、誰かと真実を分かち合った上で迎える朝。それだけで、世界の色が少しだけ違って見えた。カーテンの隙間から差し込む朝日さえも、これまでよりずっと優しく感じられた。


スマートフォンには、蓮からの朝のメッセージが届いていた。「おはよう。今日、絶対に負けないからな」という短い一文に、葵は思わず頬が緩むのを感じた。同時に、その言葉の裏にある決意の重さに、身が引き締まる思いもした。返信を打とうとして、何度も文字を打っては消しを繰り返し、結局「うん、頑張ろう」という短い言葉だけを送った。もっと伝えたいことは山ほどあったが、今はまだ、その言葉たちを胸の奥にしまっておくことにした。


その日の朝、葵は蓮と共に、大学近くのファミリーレストランで作戦会議を開いていた。テーブルの上には、葵のノートと、蓮が持参したノートパソコンが並んでいる。窓際の席に座ると、朝の柔らかな日差しが二人の間に差し込んでいた。周囲では家族連れが朝食を楽しみ、店内には穏やかなBGMが流れている。その日常的な光景と、これから話し合う内容の緊迫感との対比が、葵にはどこか非現実的に感じられた。


「昨日の夜、色々考えたんだけど」


蓮は真剣な表情で切り出した。


「中沢のこと、もう少し詳しく調べてみた。コンペの最終選考、俺の作品と中沢の作品――実は審査員の間で、ちょっとした噂になってるんだ」


「噂?」


「うん。俺のコンセプトと、中沢が数ヶ月前に発表していた個人ブログの記事が、内容的にかなり似てるって。もちろん偶然の可能性もあるけど……時期的に見て、俺の方が先だったのは間違いないんだ」


蓮はノートパソコンの画面を葵に見せた。そこには、中沢が過去に投稿した記事のスクリーンショットが並んでいる。「誰かを待つ場所」というコンセプトに酷似した文章が、そこには確かに存在していた。


画面をスクロールしながら、蓮は苦しそうに眉根を寄せていた。幼馴染の言葉を、こうして疑いの目で読み返すこと自体が、彼にとっては辛い作業であるようだった。


「これって……」


「たぶん、俺のスケッチや構想メモを、どこかで見たんだと思う。俺たち、しょっちゅう一緒に作業してたから、機会はいくらでもあった」


蓮の声には、幼馴染への複雑な感情が滲んでいた。怒りとも失望とも違う、もっと深く、痛みを伴う感情。長年の友情の記憶と、目の前の疑惑という現実が、彼の中でせめぎ合っているのが、葵にも痛いほど伝わってきた。小学校からの十五年間、二人がどれほどの時間を共に過ごしてきたかを思うと、この疑惑がどれほど蓮の心を切り裂いているか、想像に難くなかった。



「もしこれが本当なら」


葵は静かに口を開いた。テーブルの上のノートパソコンの画面には、まだ中沢の投稿記事が表示されたままだった。


「中沢くんは、瀬尾くんの作品を自分のものとして発表しようとしていて……それが最終選考で発覚することを、極端に恐れているのかもしれない」


「だから、俺を……」


蓮は言葉を濁した。それでも、その先に続く言葉は、二人とも痛いほど理解していた。


「最終選考の結果発表は、9月1日。つまり、8月31日という日付は、中沢にとって『最後のチャンス』でもあるってこと」


葵の言葉に、蓮は険しい表情で頷いた。


「もし俺が、明日の午後5時までにいなくなれば、盗作の疑いも、真実も、全部うやむやになる。中沢の作品がそのまま採用される可能性だってある」


「動機としては、十分すぎるくらい」


二人の間に、重い沈黙が流れた。窓の外では、いつもと変わらない夏の日常が続いている。学生たちが笑いながら歩き、車が行き交い、蟬が鳴いている。その平和な光景と、自分たちが向き合っている現実との落差に、葵は言い知れない不安を覚えた。


蓮は組んだ両手に額を押し当て、しばらく黙り込んでいた。幼馴染を疑うということ、それも命に関わる疑いをかけるということが、彼の心にどれほどの葛藤を強いているか、葵には想像するしかなかった。


「中沢のこと、まだ信じたい気持ちもあるんだ」


蓮がぽつりと呟いた。


「でも、状況証拠は揃いすぎてる。無視できるレベルじゃない」


「うん。だからこそ、慎重に動かないと。もし冤罪だったら、取り返しのつかないことになる」


葵の言葉に、蓮は静かに頷いた。幼馴染に対する疑念を抱きながらも、まだどこかでその疑いを否定したいという気持ちが、彼の表情の端々に滲んでいた。それは決して優柔不断さではなく、長年培ってきた信頼関係の重さゆえの葛藤だと、葵には分かっていた。憎むべき相手が誰なのかさえ、まだはっきりしない。それが、この事件の一番厄介なところだった。二人はこの日、証拠を固めることよりも、まず何よりも「明日を生き延びること」を最優先にすると決めた。真相の解明は、そのあとでいい。今はただ、目の前の危機を回避することだけに、全力を注ぐべきだった。ファミリーレストランを出る頃には、日はすっかり高く昇り、真夏の強い日差しが二人の影を短く濃く落としていた。



「対策を考えないと」


蓮が沈黙を破った。


「明日、絶対に中沢からの連絡には応じない。それだけじゃなくて、そもそも交差点に近づかないようにするのが一番安全だと思う」


「うん。でも、過去七回、どんなに気をつけても、必ず何かのきっかけで、蓮くんはあの交差点に向かうことになってる。今回だけ違う結果になる保証はない」


葵はテーブルの上でノートのページをめくりながら、静かに、しかし確かな緊張感を込めてそう語った。


葵はこれまでの記録を一枚一枚めくりながら、七回分の失敗パターンを改めて蓮に説明した。ある回では友人からの急な誘いに応じてしまい、また別の回では家族からの緊急連絡を装った電話で外に出てしまった。手段は毎回違えど、結果はいつも同じだった。まるで運命という見えない力が、あらゆる抜け道を用意しているかのようだった。


「じゃあ、どうすれば」


葵はしばらく考え込んだあと、ひとつの案を口にした。


「密室に、閉じこもるのはどう? 誰の連絡も受けず、外にも一切出ない。ホテルの一室を借りて、二人で朝までそこに引きこもるの」


「ホテル、か」


蓮は少し考えたあと、頷いた。


「それなら、中沢がどんな手を使ってきても、物理的に俺たちに接触できない。悪くないと思う」


二人は具体的な計画を詰めていった。8月31日の朝、まず大学近くのホテルにチェックインし、そのまま部屋にこもる。スマートフォンの電源は切らず、しかし誰からの着信にも一切応答しない。デリバリーの食事すら、部屋の外までは受け取りに出ない。徹底した籠城作戦だった。ホテルの選定も慎重に行い、防犯カメラの設置状況やフロントの対応時間まで、蓮が事前に調べ上げていた。


「でも、絶対に安全とは言い切れない。過去のループでも、私は何度も似たようなことを試してきた。それでも、運命は形を変えて、蓮くんを連れ出そうとしてきたから」


葵の声には、消えない不安がにじんでいた。七回分の失敗の記憶が、簡単には拭えない重石として、彼女の心にのしかかっている。


「それでも」


蓮は葵の手を、そっと握った。その手のひらの温かさが、葵の張り詰めていた心を、少しずつ解きほぐしていくようだった。


「今回は、俺も一緒にいる。一人で立ち向かってきた過去とは違うんだ。二人でなら、きっと乗り越えられる」


その言葉に、葵は少しだけ、心が軽くなるのを感じた。七回分の絶望に染まりきっていたはずの心の奥に、確かな温もりが灯る感覚。それは、これまでのどんな慰めの言葉よりも、深く葵の胸に染み渡った。窓の外を通り過ぎる車のエンジン音さえも、今はどこか穏やかに聞こえた。



その日の夕方、二人は改めて、事故の起きた交差点を訪れていた。危険を冒すようだったが、葵はどうしても、その場所を今一度、蓮と一緒に確認しておきたかった。


交差点は、大学から徒歩十五分ほどの場所にある、片側二車線の比較的広い道路だった。信号機の下には、これまで何度も見てきた見覚えのある景色が広がっている。夕方の交通量が増える時間帯で、車のクラクションや、通学路を歩く小学生たちの声が、雑多に混ざり合っていた。


「ここが……」


蓮は、感慨深そうに交差点を見渡した。彼にとっては、記憶にない場所であるはずなのに、その表情には、どこか懐かしさと恐怖の入り混じった複雑な色が浮かんでいた。信号機を見上げる目には、うっすらと涙の膜が張っているようにも見えた。


「なんか、体が強張るような感じがする」


「大丈夫?」


「うん……でも、確かにここで、俺は七回、死んでるんだよな」


蓮は自嘲気味に笑ったが、その声はどこか震えていた。葵はその手を、そっと握りしめた。信号が青から赤へと変わり、車列が交差点に吸い込まれていく様子を、二人はしばらく無言で見つめていた。日常の何気ない光景のはずなのに、それが今の葵たちにとっては、まるで運命そのものが牙を剥く瞬間の予行演習のように感じられた。


「大丈夫。今回は、絶対に守るから」


「それは、俺のセリフだよ」


蓮は葵の顔を見つめながら、真剣な表情で言った。


「もう一人で背負わなくていい。これからは、俺が守る番だ」


その言葉に、葵は不意に涙腺が緩むのを感じた。これまで七回、誰にも頼ることなく、たった一人でこの重荷を背負い続けてきた。その孤独の日々の果てに、ようやくこうして「守る」と言ってくれる人が現れた。それがどれほど大きな救いか、言葉では言い表せないほどだった。夕暮れの交差点で、二人はしばらくの間、ただ黙って手を握り合っていた。信号の色が何度も変わり、通り過ぎる人々の視線を感じながらも、その手を離すことはしなかった。



その夜、葵は自室のノートに、これまでで最も長い記録を書き記していた。中沢の盗作疑惑、ホテルに引きこもる作戦、そして交差点の下見。すべての情報を、丁寧に整理していく。


ノートのページも、いよいよ残りわずかになっていた。八冊目に突入するかどうかの瀬戸際で、葵はふと、このノートがもう必要なくなる未来を想像してみた。事故を回避し、記録をつける必要がなくなった日常。そんな当たり前の幸せを想像するだけで、涙がこぼれそうになった。


書き終えたあと、葵はしばらくペンを置いたまま、天井を見つめていた。


明日、すべてが決まる。八回目にして、初めて手にした「共闘」という武器。それでも、七回分の失敗の記憶が、葵の心に消えない恐怖を刻み続けていた。過去の記憶が、まるで悪夢のフラッシュバックのように、瞼の裏に浮かんでは消えていく。トラックのヘッドライト、ブレーキ音、そして蓮の体が宙に浮くあの瞬間。何度思い出しても、慣れることのない光景だった。


スマートフォンが振動し、画面には蓮からのメッセージが表示された。


「明日、絶対に大丈夫だから。おやすみ、葵」


初めて、下の名前で呼ばれたメッセージだった。その一文だけで、葵の目には涙が滲んだ。八回目にして、ようやく取り戻しつつある、ごく普通の、けれどかけがえのない呼び名。文字の向こうにある蓮の優しさが、画面越しにも痛いほど伝わってきた。


「おやすみ、蓮」


短く返信し、葵はスマートフォンを胸に抱きしめた。指先で画面に触れながら、この温かい繋がりが、明日も、その先も、ずっと続いていくことを、心の底から願わずにはいられなかった。


残された時間は、あと一日。八回目の夏の、最後の夜が、静かに更けていった。窓の外に広がる星空を見上げながら、葵はもう一度、静かに自分に言い聞かせた。今度こそ、絶対に。この言葉を、もう何百回繰り返してきただろうか。それでも、今夜のこの祈りだけは、これまでのどの夜よりも、確かな希望を伴っていた。明日という日を、蓮と二人で、必ず生き延びてみせる。その決意だけを胸に、葵は静かに瞼を閉じた。

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