第6話 すり切れるノート
8月29日。事故まで、あと二日。
葵はこの数日、蓮との時間を意識的に増やしていた。中沢の存在が明らかになった今、少しでも蓮のそばにいて、危険の兆候を見逃さないようにするためだった。それは同時に、残り少ない時間を、少しでも多く彼と過ごしたいという、葵自身の願いでもあった。
8月31日まで、あと二日。カレンダーの数字を見るたびに、葵の胸には焦燥にも似た緊張感が広がっていく。中沢という容疑者の存在は掴んだものの、決定的な証拠はまだ何ひとつない。このままでは、また同じ結末を繰り返してしまうのではないか――そんな不安が、常に頭の片隅を離れなかった。それでも、蓮と過ごす時間だけは、不思議なほど穏やかで、優しい光に満ちていた。
花火大会の夜以来、蓮は葵に対して、これまで以上に自然に距離を縮めてくるようになっていた。返事を保留にされているにもかかわらず、彼はそれを不満に思うことも急かすこともなく、ただ静かに、葵のそばにいることを選び続けてくれていた。その優しさが、かえって葵の胸を締めつけることもあった。
その日の午後、葵は蓮の下宿先を訪れていた。コンペの最終プレゼン資料を手伝ってほしいと頼まれたのがきっかけだった。実際のところ、葵にできることは資料の誤字をチェックする程度だったが、蓮はそれでも「時枝さんがいてくれると集中できる」と言って、素直に喜んでくれた。
蓮の部屋は、想像していたよりもずっと整然としていた。壁には過去の作品の写真や、憧れているという建築家のポスターが貼られ、机の上には何十枚もの図面が几帳面に重ねられている。かつて何度も訪れたことのある部屋のはずなのに、今日はまるで初めて足を踏み入れる場所のように、葵の目には新鮮に映った。
「ちょっと、コーヒー淹れてくるよ」
蓮がキッチンに立った隙に、葵は資料の束を整理しようと机に手を伸ばした。その拍子に、床に置いてあった鞄を軽く倒してしまう。中身が音を立てて床に散らばり、葵は慌ててそれを拾い集めようとした。財布、リップクリーム、大学の学生証――ありふれた日常の品々の中に、それは紛れ込んでいた。
「あ……」
慌てて拾おうとしたそのとき、葵は自分の血の気が引いていくのを感じた。
鞄の中から零れ落ちたのは、資料ではなかった。それは、葵自身の、すり切れた大学ノートだった。
頭が真っ白になった。なぜここに――そう考えて、すぐに思い出す。数日前、蓮と待ち合わせた際、急いでいたせいで、いつも肌身離さず持ち歩いているノートを、うっかり鞄に入れたまま蓮の部屋に立ち寄ってしまったのだ。あのとき、確かに一度、鞄を置いた記憶がある。心臓が早鐘のように打ち始め、指先が冷たくなっていくのを感じた。
慌てて拾い上げようとした葵の手より先に、コーヒーカップを両手に持った蓮が戻ってきた。湯気の立つマグカップが、ことりと机の上に置かれる。その何気ない音が、やけに大きく葵の耳に響いた。
「あれ、それ……」
蓮の視線が、床に落ちたノートに釘付けになった。
「時枝さんの?」
「あ、うん。ごめん、勝手に持ち込んじゃって」
葵はなんとか平静を装いながら、ノートを拾い上げようとした。だが、蓮の方が一瞬早く、床に落ちていたページの一枚――ちょうど開いた状態で落ちていたそのページに、目を留めてしまっていた。
蓮の表情が、みるみるうちに凍りついていく。
「これ……なに?」
蓮の声は、震えていた。
葵は覚悟を決めるしかなかった。もう、隠し通せる段階はとっくに過ぎていた。この瞬間を、これまで何度も想像してはいたものの、実際に訪れると、想像していたよりもずっと重く、そして同時に、どこか解放的でもあった。
開いていたページには、こう書かれていた。
「7回目の事故。8月31日17時03分。交差点、トラック。即死。蓮の記憶消滅率――出会いから半年分」
それだけではない。ページをめくれば、そこには一回目から七回目まで、蓮が命を落とした状況が、日付、時刻、状況、そして「記憶消滅率」という不気味な言葉とともに、克明に記録されていた。日付ごとに変わる事故現場のスケッチ、蓮が受けたという電話の発信元の推測、そして、その日蓮がどんな表情をしていたかまで、余白を埋め尽くすように書き込まれている。ページの端には、涙が滲んだ跡なのか、インクが所々滲んでよれていた。それはまさに、七年分にも感じられるほどの、葵の執念と絶望の結晶だった。
「時枝さん、これ……どういうこと?」
蓮の声は、恐怖と困惑の入り混じったものだった。
葵は、しばらく何も言えなかった。何度もシミュレーションしてきたはずの瞬間だった。もし真実がバレたら、どう説明するべきか。けれど、いざその瞬間が訪れると、頭の中で用意していた言葉は、何ひとつ形を成さなかった。
「……全部、本当のことなの」
葵は、静かにそう切り出した。
「私は、今の蓮くんにとって、今日会ったばかりの他人。でも本当は……八回目なの。私たちが出会うのは、これで八回目」
蓮は言葉を失ったまま、葵の顔をじっと見つめていた。
「8月31日の午後5時、蓮くんは交差点でトラックに轢かれて死ぬ。それが起きるたびに、私の意識だけが8月1日に戻される。そして、そのたびに、蓮くんの記憶から私に関する思い出が、少しずつ消えていくの」
「……それが、本当なら」
蓮は震える声で、ようやく言葉を絞り出した。
「俺は、もう七回も、死んでるってこと?」
「うん」
葵は静かに頷いた。
「そして、今の蓮くんは、私のことを何も知らない状態から始まってる。名前も、顔も、二人で過ごした四年間も、全部忘れてる」
「四年間……俺たち、そんなに長く一緒にいたの?」
「うん。大学一年の学祭で出会って、その日から、ずっと」
葵はその四年間の記憶を、ひとつひとつ思い出しながら語った。初めて手を繋いだ日、初めて一緒に見た映画、蓮が誕生日に作ってくれた不格好なケーキ。どれも今の蓮にとっては初耳の話のはずなのに、語れば語るほど、彼の瞳には確かな何かが揺れているように見えた。
蓮は目を伏せ、こめかみを押さえた。まるで、突然大量の情報を処理しきれないというように、その表情は苦悶に満ちていた。部屋の中に、重い沈黙が満ちる。窓の外から聞こえる蟬の声だけが、やけに大きく響いていた。
「信じられない……いや、信じたくない、とかじゃなくて……なんでか、信じられちゃうんだ。おかしいよな。初めて聞く話のはずなのに、なんでか、腑に落ちるところがある」
蓮はそう言いながら、無意識に右腕の青いミサンガに触れていた。
「このミサンガ……時枝さんが?」
「うん。一回目のループのとき、私が贈ったもの」
「なんで、これだけ消えないんだろう」
蓮の問いに、葵は首を振った。
「分からない。でも、たぶん……蓮くんの中の何かが、それを手放したくないって、無意識に思ってるんだと思う」
蓮は自分の腕に視線を落とし、しばらく黙り込んだ。指先でミサンガの結び目をなぞりながら、何かを確かめるようにじっと見つめている。編み込まれた青い糸は、七回のループを経てもなお、色褪せることなくそこにあり続けていた。それはまるで、記憶という不確かなものよりも、もっと確かな何かが、二人の間に繋がっていることの証のようだった。
「時枝さんは……七回、こんな思いをしてきたの? 俺が死んで、忘れられて、それでもまた最初からやり直して」
「うん」
「なんで、そこまでして……」
蓮の声が、涙で潤んでいくのが分かった。
「なんで、そこまでして、俺を助けようとしてくれるんだよ」
蓮の問いには、これまで積み重ねてきた無数の後悔と、罪悪感にも似た感情が滲んでいた。自分のために、これほどまでの犠牲を払い続けてきた人がいるという事実は、彼にとって喜びであると同時に、耐え難い重さでもあるようだった。
葵は、その問いに、ずっと前から答えを持っていた。けれど、いざ口にしようとすると、喉が詰まって声が出なかった。それでも、今この瞬間だけは、隠さずに伝えなければならないと思った。
「好きだから」
震える声で、葵はそう答えた。
「蓮くんのことが、大好きだから。蓮くんがいない世界には、何の意味もないから。だから、何度でも――」
何度心が折れても、何度絶望に打ちひしがれても、それでもまた立ち上がって蓮のもとへ向かった理由は、結局のところそれ以外の何物でもなかった。理屈でも義務感でもなく、ただ純粋な恋心が、七回分のループを支え続けてきたのだ。
言い終わる前に、葵の視界が涙で滲んだ。堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
蓮は、静かに立ち上がり、葵の前に膝をついた。そして、震える両手で、そっと葵を抱きしめた。腕の中に閉じ込められる感覚とともに、葵はようやく、長年張り詰めていた糸が緩んでいくのを感じた。
「ごめん」
「え……?」
「今まで、気づいてあげられなくて、ごめん。ずっと、こんなに苦しい思いをさせてたなんて、知らなかった」
蓮の声も、涙で震えていた。
「君は、ひとりでこんな地獄を歩いていたのか」
その一言に、葵の中で、七回分の孤独が、ようやく報われたような気がした。誰にも打ち明けられず、誰にも理解されないまま積み重ねてきた日々。それが、たった一言で、こんなにも軽くなるとは思っていなかった。涙腺が完全に決壊し、葵はしばらくの間、声を上げて泣き続けた。蓮はただ黙って、その背中をゆっくりと撫で続けてくれた。
「私、蓮くんに嫌われるのが怖かった。ノートを見られたら、気持ち悪いって思われるかもしれないって」
「そんなわけないだろ」
蓮は強い口調で、そう言い切った。まっすぐに葵の目を見据えるその眼差しには、迷いも躊躇いも一切なかった。
「時枝さんは、俺のために、七回も命がけで戦ってきてくれたんだ。気持ち悪いなんて、絶対に思わない。むしろ、ありがとうって、何度言っても足りないくらいだよ」
その日、二人は蓮の部屋で、夜遅くまで話し込んだ。過去七回のループの詳細、事故の共通点、そして中沢という人物への疑い。葵はこれまで一人で抱えてきたすべてを、初めて誰かと共有することができた。
話しながら、葵はふと、この瞬間がどれほど奇跡的なことかを実感していた。七回分の記憶を持つ自分と、まっさらな今の蓮。その二人が、こうして同じテーブルを挟んで、同じ真実を分かち合っている。それは、これまでのどのループでも起こらなかった、新しい展開だった。一人で抱えるしかなかった重荷を、初めて誰かと分け合えることの安堵は、言葉では言い表せないほど大きなものだった。
コーヒーはとうに冷め、窓の外はすっかり暗くなっていたが、二人は時間の経過も忘れて語り合った。蓮は時折、信じられないというように首を振りながらも、葵の話す一言一句を、決して聞き逃すまいとするように真剣に耳を傾けていた。
話を聞き終えた蓮の表情は、これまでのどんな瞬間よりも真剣だった。穏やかで優しかった彼の中に、何か強い決意のようなものが宿り始めているのを、葵は感じ取っていた。それは、これまで葵が知っていた「優しいだけの蓮」とは、明らかに違う顔つきだった。眉間に力がこもり、瞳の奥には、かつて感じたことのないほどの強い意志の光が宿っていた。
「時枝さん」
「うん?」
「もう、一人で背負わなくていい。これからは、俺も一緒に戦う」
その声には、これまでの穏やかさとは違う、確かな強さが宿っていた。まるで、たった一晩で、彼の中の何かが決定的に変わってしまったかのようだった。葵はその変化に、驚きと同時に、言い知れぬ安堵を覚えていた。
その言葉に、葵は静かに頷いた。すり切れたノートは、もう葵一人だけの秘密の記録ではなくなっていた。それは今、二人で運命に立ち向かうための、確かな証となっていた。孤独な戦いの記録が、二人の絆の証へと姿を変えた瞬間だった。
窓の外には、夏の終わりを告げるような、涼やかな夜風が吹いていた。残された時間は、あと二日。それでも今、二人は初めて、同じ場所に立って、同じ未来を見つめていた。玄関先まで送ってくれた蓮は、別れ際に葵の手をもう一度強く握り、「絶対に、二人で乗り越えよう」と静かに誓ってくれた。その言葉を胸に、葵は夜道を一人、家路についた。心の中に灯った小さな光が、これまでの孤独を少しずつ溶かしていくのを感じながら、葵は星の見えない夜空を見上げ、明後日に迫った運命の日への覚悟を、静かに新たにしていた。




