第5話 星空の下の誓い
8月25日。街のあちこちに、夏祭りの提灯が飾られ始めていた。今夜は、この街で毎年恒例の花火大会が開催される日だった。
物語の折り返し地点――葵はふと、そんな言葉を思い浮かべた。あと六日で、すべての運命が決まる。その前に訪れる、束の間の煌めきのような一夜。
「時枝さん、花火、一緒に行かない?」
数日前、蓮からそう誘われたとき、葵は一瞬迷った。人混みの中で何かが起きるリスクを考えれば、断るべきだったのかもしれない。けれど、それ以上に、葵自身がこの夜を、蓮と一緒に過ごしたいと強く願っていた。
一回目のループでも、二人はこの花火大会で結ばれた。あの夜の記憶は、葵にとって何よりも大切な宝物のひとつだった。もう一度、あの夜と同じ空の下に立てるのなら――そう思うと、断るという選択肢は、どうしても選べなかった。
それに、と葵は自分に言い聞かせるように思う。中沢という不安の種は確かに存在するが、まだ何か具体的な行動を起こしたという証拠はない。今夜くらいは、張り詰めた緊張を少しだけ緩めてもいいはずだ。そう自分を納得させながら、葵は鏡の前で浴衣に袖を通した。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、葵はふと、一回目のループの記憶を思い出していた。あの頃はまだ、忘却の呪いのことも、事故の運命のことも何も知らず、ただ純粋に恋を楽しんでいた。今の自分と、あの頃の自分。同じ人間のはずなのに、まるで別人のように遠く感じられる。それでも、この浴衣に袖を通す瞬間だけは、あの頃と同じ高揚感を、確かに感じることができた。
夕方、二人は待ち合わせ場所である神社の境内で落ち合った。参道の入り口には、すでに大きな鳥居がライトアップされ、夕暮れの空とのコントラストが幻想的な雰囲気を作り出していた。太鼓の音が遠くから響き、祭囃子の賑やかさが少しずつ近づいてくる。
「わ、浴衣、似合ってる」
蓮が目を丸くしてそう言った。葵は薄紫色の浴衣に、白い帯を締めていた。これも、一回目のループのときと同じ組み合わせだった。あえて選んだわけではなかったが、気づけば自然とその色を選んでいた自分に、葵自身も少し驚いていた。夕暮れの光が浴衣の生地を淡く染め、参道の提灯の灯りが揺れるたびに、その色合いはさらに柔らかく映えた。
「ありがとう。瀬尾くんも、甚平似合ってるよ」
「ありがと。なんか、こういう格好、久しぶりでちょっと照れるな」
蓮は照れくさそうに笑いながら、頭をかいた。その仕草も、変わらない彼らしさだった。
二人は屋台の並ぶ参道を、ゆっくりと歩いた。りんご飴、たこ焼き、金魚すくい――どの屋台も、夏祭りらしい賑やかさに満ちている。提灯の明かりが夕闇に浮かび上がり、あちこちから子供たちのはしゃぐ声や、香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。
「お腹すいたね。何か食べよっか」
蓮の提案で、二人は屋台をひとつずつ覗いて回った。たこ焼きを一つの舟皿でシェアしながら、蓮は「これ、あっつ!」と口の中で悶えながら笑い、葵はその様子を見てくすくすと笑った。何気ない、けれどかけがえのない時間だった。
「あ、金魚すくい、やろうよ」
蓮がそう言って、屋台の前にしゃがみ込んだ。葵もその隣に腰を下ろす。
「瀬尾くん、金魚すくい得意なの?」
「いや、全然。でも、なんか楽しそうじゃん」
蓮はそう言いながら、慎重にポイを水面に沈めた。だが、数秒と経たずにポイは破れ、金魚は逃げていってしまう。
「あー! 破れた!」
蓮の悔しそうな声に、葵は思わず声を上げて笑ってしまった。
「そんなに笑うことないだろ」
「ごめん、でも……なんか、懐かしい感じがして」
「懐かしい?」
「ううん、なんでもない」
葵は誤魔化すように笑ったが、内心では、一回目のループのときにも、まったく同じやり取りがあったことを思い出していた。あのときも蓮は金魚すくいで大苦戦し、悔しがっていた。歴史は繰り返す、というにはあまりにも些細で、けれどそれゆえに愛おしい記憶だった。
「よし、もう一回」
蓮は諦めきれない様子で、追加のポイを買い直した。今度は先ほどよりも慎重に、水面すれすれをそっとすくうように動かす。真剣な表情で水面を見つめる蓮の姿は、まるで大事な設計図と向き合っているときのようで、葵はその真剣な横顔を眺めながら、思わず微笑んだ。
結局、蓮は三度目の挑戦でもポイを破ってしまい、最後は屋台のおじさんに小さな金魚を一匹、おまけとしてもらうことになった。透明なビニール袋の中で泳ぐ小さな金魚を、蓮は嬉しそうに掲げてみせた。
「見て、もらっちゃった」
「よかったね」
「今度、大事に育てるよ」
その屈託のない笑顔に、葵はまた胸が締めつけられるのを感じた。こんな些細な幸福の一つひとつが、これから先も続いていけばいいのにと、切実に願わずにはいられなかった。
花火大会が始まる頃には、河川敷は人でごった返していた。二人は人混みをかき分けながら、なんとか川沿いの見やすい場所を確保した。夜風が川面を渡り、浴衣の裾をふわりと揺らす。周囲では屋台の灯りが遠く小さく瞬き、家族連れやカップルたちが思い思いの場所にレジャーシートを広げていた。
「そろそろ始まるね」
蓮がそう言った直後、遠くで最初の花火が打ち上がった。ドン、という重低音とともに、夜空に大輪の花が咲く。
「わあ……」
葵は思わず声を漏らした。何度見ても、花火の美しさには心を奪われる。金色や紅色、青色の光が夜空いっぱいに広がり、次々と形を変えながら消えていく。そしてそれ以上に、隣にいる蓮の横顔を、花火の光が照らし出す瞬間が、何よりも愛おしかった。彼の目に映る色とりどりの光の反射を見ているだけで、葵は胸がいっぱいになった。
人混みが次第に押し寄せ、二人の距離はさらに近づいていく。ふとした瞬間、葵は人波にぶつかられ、体勢を崩しかけた。
「危ない」
蓮がとっさに葵の手を掴んで支えた。そのまま、二人の手は自然と繋がったままになった。
「あ、ごめん、大丈夫?」
「うん……ありがとう」
蓮は照れくさそうに笑いながらも、繋いだ手を離そうとはしなかった。むしろ、はぐれないようにするためだと言い訳するように、指をしっかりと絡めてくる。周囲を埋め尽くす見物客の熱気と喧騒の中、繋いだ手のひらだけが、二人だけの静かな世界を作り出しているようだった。
その瞬間だった。
蓮の表情が、ふいに変わった。何かに強く衝撃を受けたような、そんな表情。花火の光が瞬く間に彼の顔を照らし、また闇に戻る。その一瞬の表情の変化を、葵は見逃さなかった。
「蓮くん?」
「……なんだろう、今」
蓮は自分の手を見つめながら、呆然と呟いた。
「一瞬、すごく鮮明に見えたんだ。花火の下で、誰かと手を繋いでる自分の姿が」
葵の心臓が、強く跳ねた。
「その人、誰だったか分かる?」
「分からない……でも、顔は見えなかったのに、なぜか分かるんだ。すごく、大切な人だったってことが」
蓮はそう言いながら、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。夜空に次々と打ち上がる花火の光が、二人の手の中に小さな影を落としては消えていく。その光景は、まるで時間そのものが、二人の再会を静かに祝福しているかのようだった。
「時枝さん」
「うん」
「俺、たぶん、時枝さんのことが好きだ」
その言葉に、葵の目から、堪えきれない涙が溢れ出した。
花火の轟音にかき消されながらも、蓮の声ははっきりと葵の耳に届いていた。
「変だよな、まだ出会って一ヶ月も経ってないのに。でも、なんでかずっと前から知ってたような気がするんだ。時枝さんのことが好きだって、もうずっと前から決まってたみたいな……そんな感覚」
葵は言葉が出てこなかった。ただ、涙を流しながら、繋いだ手を強く握り返すことしかできなかった。
頭上では次々と大輪の花火が咲き誇り、その光の残像が、二人の輪郭を淡く縁取っていた。周囲の歓声も、屋台の喧騒も、今の葵にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。世界に存在するのは、ただ繋いだ手のぬくもりと、隣で自分を見つめる蓮のまなざしだけだった。
花火大会が終わり、人混みが徐々に引いていく中、二人は河川敷のベンチに並んで座っていた。
「泣いてる?」
蓮が心配そうに葵の顔を覗き込んだ。
「……ごめん。なんか、感情が抑えられなくて」
「謝らなくていいよ」
蓮はそっと葵の頭を撫でた。その手つきの優しさに、葵はさらに涙が止まらなくなった。
「時枝さんは、俺のこと、どう思ってる?」
蓮の問いかけに、葵は必死で言葉を探した。本当のことは言えない。けれど、嘘をつくこともできなかった。
「私も……瀬尾くんのことが、大好き」
その一言だけは、嘘偽りのない本心だった。
「本当に?」
「うん。でも……」
「でも?」
「8月31日が終わるまで、待っていてほしいの。理由は、まだ言えないけど」
花火の合間の静けさの中、川のせせらぎと遠くの喧騒だけが、二人の間に流れていた。蓮は少し困惑した表情を浮かべたが、それでも真剣な眼差しで葵を見つめた。
「分かった。何か事情があるんだよね。詳しくは聞かないけど、ひとつだけ約束してほしい」
「なに?」
「もし、時枝さんが何か辛いことを抱えてるなら、一人で抱え込まないでほしい。俺、まだ出会って一ヶ月だけど……時枝さんの力になりたいんだ。本気で」
蓮の声には、からかいや軽さは一切なかった。ただまっすぐに、葵の目を見つめて紡がれる言葉だった。その真剣さに、葵はこれまで七回分積み重ねてきた孤独が、少しずつ溶かされていくような感覚を覚えた。誰にも打ち明けられなかった秘密を、一人きりで抱え続けてきた日々。それがどれほど心を蝕んでいたか、今この瞬間になって初めて気づかされたような気がした。
その言葉に、葵はもう我慢できなかった。蓮の胸に飛び込むように、顔を埋めて泣いた。
蓮は驚きながらも、そっと葵を抱きしめた。腕の中に伝わる葵の震えを感じ取ったのか、蓮はゆっくりと、宥めるように背中を撫でるように手を動かした。
「大丈夫。何があっても、俺がそばにいるから」
その腕の中は、記憶を失う前の蓮に抱かれていたときと、何も変わらない温かさだった。
「何があっても君を守る」
蓮のその言葉は、記憶を超えた本能からの誓いだった。理屈でも、記憶でもなく、ただ魂の奥底から紡がれた約束。葵はその言葉を、一生忘れないだろうと確信した。
その夜、葵は自室に戻ってからも、しばらく蓮に抱きしめられた感触が消えなかった。頬に触れていた彼の胸の温もり、優しく背中を撫でてくれた手のひら、そのすべてが、葵の心を柔らかく満たしていた。
部屋の灯りをつけず、浴衣姿のまま、葵はしばらくベッドの端に座り込んでいた。窓越しに、遠くでまだ余韻を残す打ち上げ花火の音が、かすかに聞こえてくる。その音を聞くたびに、蓮に抱きしめられた瞬間の記憶が、鮮明に蘇ってきた。
ノートを開いても、葵はしばらくペンを持つ手を動かすことができなかった。今夜の出来事を、記録として淡々と書き記すことが、なぜか無性に躊躇われた。
「今夜だけは、ただの思い出として、心にしまっておきたい」
そう呟き、葵はノートを閉じたまま、ベッドに横たわった。今日という一日を、誰かに分析され、記録され、戦略として消費されるものにはしたくなかった。ただ純粋に、一人の女の子として恋をした、その事実だけを、静かに味わっていたかった。
窓の外には、花火の余韻を残した夜空が広がっている。星々が瞬く中、葵は静かに目を閉じた。
残された日数は、あと六日。中沢という不安要素、コンペという動機、そして迫りくる運命の日――すべてが、この夏の終わりに向かって収束していく。
けれど不思議なことに、今夜だけは、その恐怖が少しだけ遠のいていた。蓮の腕に抱きしめられた温もりが、まるで小さな灯火のように、葵の心の奥に残り続けていたからかもしれない。八回もの絶望を味わってきた葵にとって、この温もりこそが、何よりの支えだった。
それでも今夜だけは、ただ蓮に愛されたという事実だけを、胸いっぱいに抱きしめていたかった。
「今度こそ、絶対に」
眠りに落ちる直前、葵はもう一度、その言葉を心の中で繰り返した。星空の下で交わされた誓いを胸に、八回目の夏は、いよいよ最終局面へと向かっていく。中沢という影、コンペという動機、そして刻一刻と近づく8月31日。すべての伏線が、この夏の終わりに向けて、静かに、しかし確実に収束していこうとしていた。




