第4話 8月31日のパズル
8月20日。葵の部屋の壁には、七冊分のノートから書き写した情報を整理した大きな模造紙が貼られていた。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、デスクライトの明かりだけが、その模造紙をぼんやりと照らしている。まるで刑事の捜査本部さながらの光景を、他人が見たらきっと異様に思うだろう。それでも葵にとっては、これが命を懸けた戦いの最前線だった。
事故の日時、場所、状況、そして直前に蓮と接触していた人物のリスト。まるで刑事ドラマの捜査本部のような光景に、葵は自嘲気味に笑うことがあった。恋愛のはずが、いつの間にか命がけの推理ゲームになっている。けれど、笑っている場合ではないことも、誰よりも分かっていた。
「共通点は、電話……あるいは、呼び出し」
葵はペンで、七つの事故すべてに丸をつけた。一回目から七回目まで、細部は違えど、蓮は必ず「誰かに呼ばれる」形で事故現場へと向かっていた。
問題は、その「誰か」が誰なのかということだった。
葵はこれまで、事故そのものの「回避」にばかり意識を向けていた。デートの予定をずらす、蓮を家から出さない、時には強引に旅行に連れ出す――そのすべてが、結果的には無意味だった。世界はまるで意志を持っているかのように、形を変えて蓮の命を奪ってきた。
だが、今回は違う。葵は初めて、事故という「結果」ではなく、それを引き起こしている「原因」そのものに目を向けようとしていた。運命という抽象的な敵ではなく、具体的な、生身の人間が糸を引いているのだとしたら。その糸を断ち切ることさえできれば、この呪われたループから抜け出せるかもしれない。
その考えに至ったとき、葵は自分の中で何かが変わったのを感じた。恐怖に怯えるだけの被害者ではなく、運命に立ち向かう当事者として、初めて主体的に動き出せる気がしたのだ。
その日の午後、葵は蓮と大学の中庭で待ち合わせていた。話題は自然と、蓮が進めているコンペ作品のことに移っていった。
「実は、最終選考に残ったんだ」
蓮は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに報告した。
「本当に? すごいじゃない!」
「うん。でも、実はちょっと嫌な予感もあってさ」
蓮の表情が、ふと曇った。
「嫌な予感?」
「同じ選考に、大学時代からの幼馴染――中沢って奴がいるんだけど、そいつの作品が、俺のコンセプトとやたら似てるんだよね。パクられたとまでは言わないけど、なんか、モヤモヤする」
葵は、その名前に反応せざるを得なかった。中沢――過去のループの記録には、確かにその名前が何度か登場していた。蓮の幼馴染であり、同じ建築学科の同期でもある人物。事故直前の証言の中に、彼の名前がちらほらと出てきていたことを、葵は思い出した。
「中沢くんって、瀬尾くんと仲良いの?」
「うん、幼馴染だから。昔からずっと一緒にいたし、正直、実力も俺と同じくらいだと思ってた。だから、コンペで最終選考まで残れなかったって聞いたときは、ちょっと意外だったんだ」
「え、中沢くんは最終選考に残ってないの?」
「うん。俺だけ残って、あいつは落ちた」
「中沢くんとは、どれくらい昔から?」
「小学校からだから、もう十五年くらいかな。家も近所だったし、部活も一緒で。あいつが建築の道に進んだのも、実は俺の影響なんだ。俺が高校の時に模型作りにハマってたのを見て、あいつも同じ道を選んだって、前に言ってた」
蓮は懐かしそうに目を細めながら、そう話した。その表情には、幼馴染への確かな信頼と愛情が滲んでいた。
「そっか。仲良かったんだね」
「うん。だから余計に、モヤモヤするんだよな。あいつがそんなことするような奴じゃないってことは、俺が一番よく分かってるつもりなんだけど」
蓮はそう言いながらも、どこか自分に言い聞かせているような口調だった。長年の友情と、拭いきれない違和感。その狭間で揺れる蓮の心情が、葵にも痛いほど伝わってきた。
その一言に、葵の中で何かがカチリと音を立てて繋がった気がした。
その夜、葵は改めてノートを開き、「中沢」という名前を中心に、これまでの記録を整理し直した。
一回目のループ――中沢は、蓮の親友として何度も登場していた。二回目、三回目も同様。だが、四回目以降のループでは、なぜか中沢と蓮の関係がぎくしゃくし始めていたことに、葵は気づいた。おそらく、コンペでの実力差が、回を追うごとに開いていったからだろう。
そして、四回目以降の事故直前には、必ずと言っていいほど、中沢からの連絡が蓮のスマートフォンに残っていた。
「もしかして……」
葵の手が、震え始めた。
もし中沢が、蓮のコンペ作品を盗作しようとしていて、それが発覚することを恐れているのだとしたら。蓮を事故に巻き込むことで、真実を闇に葬ろうとしているのだとしたら――。
想像しただけで、葵の背筋が凍りついた。信じたくない仮説だった。蓮にとって、中沢は大切な幼馴染であり、親友のはずだ。その人物が、蓮の死に関わっているかもしれないなど、とても信じられることではなかった。
けれど、七回分の記録が示すパターンは、あまりにも一致しすぎていた。
数日後、葵は思い切って、中沢という人物について直接調べてみることにした。大学の名簿から彼の学年やゼミを確認し、共通の知人を辿ることで、なんとかSNSのアカウントを特定する。心臓が緊張で締めつけられるのを感じながら、葵はその投稿を一つひとつ遡っていった。
コンペの結果発表が近づくにつれ、中沢の投稿は次第に攻撃的な色合いを帯びていった。「実力なんて所詮、運と人脈」「本当に評価されるべき人間が評価されない世界」といった、蓮への嫉妬とも取れる言葉が、行間から滲み出ていた。
そして、最も葵の目を引いたのは、事故のあった過去のループの日付と重なる時期に投稿された、意味深な一文だった。
「すべてが、あるべき場所に収まる日が近い」
その言葉の意味を、葵は何度も読み返した。偶然とは思えなかった。
過去の投稿を遡れば遡るほど、中沢という人物の輪郭が、葵の中で少しずつ変わっていった。表向きは蓮を慕う優しい幼馴染。けれどその内側には、蓮の才能に対する、抑えきれない劣等感と焦燥が渦巻いているように見えた。同じ場所からスタートしたはずの二人が、時間の経過とともに開いていく実力差。それを間近で見続けることの苦しさは、葵にも想像がついた。
だからといって、それが命を奪う理由になっていいはずがない。けれど人の心の闇は、時に理屈では測れない領域にまで踏み込んでしまうものなのかもしれない。葵はそう考えながら、画面をスクロールする手を止められずにいた。
葵は、その情報を蓮に伝えるべきかどうか、何日も悩み続けた。証拠と呼べるほどのものは、まだ何もない。憶測だけで親友を疑うような真似をすれば、蓮を深く傷つけることになるかもしれない。それでも、黙っていることが、いつか取り返しのつかない結果を招くかもしれないという恐怖の方が、日に日に大きくなっていった。
8月24日、葵はついに、蓮に打ち明けることを決意した。
「蓮くん、ちょっと話したいことがあるの」
大学の屋上、人気のない時間帯を選んで、葵は切り出した。
「なに、改まって」
「中沢くんのこと、なんだけど」
蓮の表情が、一瞬強張った。
「……中沢が、どうかした?」
「あの、信じてもらえないかもしれないけど……聞いてほしいの」
葵は深呼吸をひとつして、これまで調べたことを、順を追って話し始めた。過去の「予感」という体で――本当のことをすべて話すには、まだ早すぎる。けれど、危険が迫っているという事実だけは、どうしても伝えなければならなかった。
「中沢くんが、瀬尾くんのコンペ作品のことで、何か思い詰めてるんじゃないかって。もし何か連絡が来ても、しばらくは会わない方がいいと思う」
蓮は黙って葵の話を聞いていたが、その表情には明らかな困惑と、それ以上に深い動揺が浮かんでいた。
「……なんで、そんなことまで分かるの? 時枝さん、探偵かなんかなの?」
冗談めかしてそう言った蓮だったが、その声には笑いが伴っていなかった。
「それは……」
言葉に詰まる葵を、蓮はじっと見つめていた。
「時枝さんって、なんか、俺の知らないことをたくさん知ってる気がする。それも、ずっと前から」
その視線に、葵は心臓が凍りつくような感覚を覚えた。すべてを見透かされているような、そんな錯覚。
「ごめん、変なこと聞いた。……でも、忠告はありがたく受け取っておくよ」
蓮はそう言って、いつもの優しい笑みを浮かべた。だがその笑顔の奥に、何か言い知れない翳りが差しているのを、葵は見逃さなかった。
屋上での会話のあと、二人はしばらく無言のまま、夕暮れの街並みを見下ろしていた。オレンジ色に染まった空に、鳥の群れが帰路を急ぐように飛んでいく。
「なんか、俺の知らないところで、時枝さんがいろいろ考えてくれてるんだなって思うと……嬉しいような、申し訳ないような、変な気持ちになるよ」
蓮がぽつりと呟いた。
「申し訳ない?」
「うん。俺のために、そんなに一生懸命になってくれる理由が、俺にはまだよく分からないから」
その言葉に、葵は胸が締めつけられる思いがした。理由など、とっくの昔から決まっている。ただそれを、今の蓮に伝えることができないだけだ。
「理由なんて、なくてもいいじゃない。誰かのことを大切に思うのに、理由がいるとは限らないでしょ」
葵がそう答えると、蓮は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「……そうだね。時枝さんの言う通りだ」
その日の別れ際、蓮は少し緊張した面持ちで、葵に向き直った。
「時枝さん」
「うん?」
蓮は一度、深く息を吸い込んだ。その仕草だけで、これから紡がれる言葉の重さが伝わってくるようだった。夕焼けの残光が、彼の輪郭をオレンジ色に縁取っている。葵は心臓が早鐘のように打つのを感じながら、その先の言葉を待った。
「俺と、付き合ってほしい」
突然の告白に、葵は言葉を失った。
「変な流れだって分かってる。でも、ちゃんと言っておきたかったんだ。時枝さんと一緒にいると、なんか、心の底から安心できる。それが恋なのかどうか、正直まだよく分からないけど……確かめてみたいんだ」
蓮の瞳は真剣そのものだった。この言葉を、葵はどれほど待ち望んでいたことだろう。けれど同時に、応えることの恐ろしさもまた、葵の心を締めつけていた。
「……ごめんなさい、今すぐには」
葵は、震える声を必死で抑えながら答えた。
「8月31日が終わるまで、返事を待ってほしいの」
「8月31日?」
「うん。理由は、今は言えないけど……その日を無事に迎えられたら、ちゃんと答えを伝えるから」
蓮は不思議そうな顔をしながらも、深くは追及せず、ただ静かに頷いた。
「分かった。待つよ、いつまでも」
その言葉の温かさに、葵の目にはまた涙が滲んだ。八回目にしてようやく、蓮の口から改めて紡がれた愛の言葉。それを素直に喜べない自分の運命が、たまらなく歯痒かった。
家路につきながら、葵はノートを胸に抱きしめた。夜風が頬を撫で、遠くの街灯がぼんやりと道を照らしている。返事を待つと言ってくれた蓮の声が、まだ耳の奥に残っていた。その優しさに応えるためにも、何としてもこの八回目を、最後の夏にしなければならない。葵はそう強く心に刻みながら、夜道を歩き続けた。
パズルのピースは、少しずつ揃い始めている。中沢という存在、コンペという動機、そして迫りくる8月31日という期限。すべてが繋がる日が、確実に近づいていた。
部屋に戻り、葵は模造紙に新たな矢印を書き加えた。「中沢」の文字から「コンペ最終選考」へ、そして「8月31日」へと続く線。まだ確証のない、仮説に過ぎない相関関係。それでも、こうして可視化することで、葵は自分の中の恐怖を、わずかながらでも整理することができた。
窓の外はすでに夜の帳が下りている。残された日数は、あと七日。葵はカレンダーの「31」という数字を、赤いペンでそっと囲んだ。
「今度こそ、パズルを完成させる」
その決意だけを胸に、葵は長い夜をまた一人で越えていった。残された時間は少ない。けれど、これまでの七回とは違う。今回は、ただ運命に翻弄されるだけの自分ではない。真実に向き合い、戦う覚悟を、葵は確かに固めていた。八回目の夏は、ようやくその本当の姿を、少しずつ現し始めていた。




