第3話 デジャブの足音
8月中旬に差し掛かる頃には、葵と蓮はほとんど毎日のように顔を合わせるようになっていた。
夏の日差しは日に日に強さを増し、街全体が陽炎に揺らめいて見える季節になっていた。大学のキャンパスも、夏休みらしい緩やかな空気に包まれ、行き交う学生の数もめっきり減っている。それでも建築学科の校舎だけは、コンペの締め切りに向けて相変わらず活気づいていた。
講義のあとに図書館で待ち合わせたり、学食で昼食を共にしたり、時には大学近くのカフェで長々と話し込んだりする。傍から見れば、それはただの「仲の良い友人同士」の距離感だったが、葵にとってこの毎日は、綱渡りの連続だった。
近づきすぎれば、恋に落ちる。恋に落ちれば、また奪われる。その恐怖と隣り合わせで、それでも葵は蓮のそばを離れることができなかった。
ある日は、蓮が設計課題で徹夜明けだと聞いて、栄養ドリンクを差し入れに行った。またある日は、蓮が課題のためにスケッチした街の風景を見せてもらい、その観察眼の鋭さに素直に感心した。何気ない日常のやり取りひとつひとつが、葵にとっては七回分の記憶と重なりながらも、まったく新しい手触りを持って積み重なっていく。
不思議なことに、蓮との会話は驚くほど自然に弾んだ。初対面のはずなのに、間の取り方も、笑いのツボも、まるで最初から息が合っているかのようだった。周囲の友人たちからも「時枝さんと瀬尾、なんか付き合ってるみたいだよね」と冗談交じりにからかわれることが増えていた。
そのたびに葵は「そんなんじゃないよ」と笑って誤魔化していたが、内心では、その言葉が持つ痛みに気づかないふりをするだけで精一杯だった。付き合っているのかと聞かれるたびに、心のどこかで「本当はもう何年も付き合っている」と叫びたくなる衝動を、葵はいつも静かに飲み込んでいた。
それでも、葵は忘れていなかった。この穏やかな毎日の裏側で、事故の予兆はすでに動き始めているということを。過去七回のループにおいて、8月中旬というこの時期は、決まって静かな嵐の前の凪だった。何かが少しずつ狂い始め、それが8月31日という一点に向かって、確実に収束していく。だからこそ、葵はこの平穏な時間を、ただ手放しに喜ぶことができずにいた。
ノートには、日々の記録と並行して、事故の兆候になりそうな出来事も細かく書き留めるようにしていた。誰と話したか、誰から連絡が来たか、そのすべてが、いつか運命を変えるための手がかりになるかもしれないからだ。
「今日、天気いいし、ちょっと遠出しない?」
ある日の午後、蓮がそう提案してきた。
「遠出?」
「うん。最近、なんかいい景色が見たい気分でさ。時枝さんとなら、なんか楽しそうだし」
その提案に、葵の心臓が跳ねた。彼が指す「いい景色」とは、おそらく大学から少し離れた場所にある、街を見下ろせる高台の公園のことだろう。葵にはすぐに分かった。なぜなら、そこは――一回目のループで、二人が初めて「恋人」として言葉を交わした、思い出の場所だったからだ。
断るべきか、と一瞬迷った。あの場所には、あまりにも多くの感情が染み付いている。けれど同時に、葵はある予感めいたものも感じていた。もしかしたら、あの場所こそが、蓮の中に眠る記憶を呼び起こす鍵になるのではないかと。
「うん。行こう」
葵は静かに頷いた。
バスに揺られる三十分の間、蓮は窓の外を眺めながら、大学の課題のことや、幼い頃に住んでいた街のことなど、とりとめのない話を続けていた。葵はその横顔をこっそり盗み見ながら、この時間がいつまでも続けばいいのにと思わずにはいられなかった。
バスが山道に差し掛かると、車窓には青々とした木々が流れていく。蟬時雨がバスの中にまで響いてくるようだった。蓮はふと会話を止め、窓に映る景色をじっと見つめていた。その表情には、どこか懐かしそうな色が浮かんでいるように、葵には見えた。
高台の公園に着く頃には、夏の日差しが少し傾き始めていた。眼下には街並みが一望でき、遠くには海のきらめきも見える。この景色を見るのは、葵にとって八回目だった。何度目でも、その美しさは色褪せることがない。ただ、そこに込められた感情の重さだけが、回を重ねるごとに増していく。
「うわ、すごい景色」
蓮は展望台の柵に手をかけ、目を輝かせながら街を見渡した。
「なんか……ここ、来たことがある気がする」
その一言に、葵の息が止まった。
「そう、なの?」
なるべく平静を装って、葵は尋ねる。
「うん。すごく変な感覚なんだけど……ここで、誰かと笑ってた気がするんだ。楽しくて、幸せで……なのに、なんでか胸が痛い」
蓮はそう言いながら、片手でこめかみを押さえた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ただ、ちょっと頭が……」
言い終わらないうちに、蓮はその場に片膝をついた。額に脂汗がにじみ、呼吸が浅くなっている。
「蓮くん!」
葵は思わず、彼の下の名前を呼んでいた。八回目にして初めて、公の場で口にしてしまった呼び名。それに気づく余裕もないほど、葵は動揺していた。
蓮は苦しそうに顔を歪めながらも、なんとか小さく笑ってみせた。
「大丈夫……ちょっと、頭痛が。すぐ収まるから」
葵は彼の背中をさすりながら、ただそばに寄り添うことしかできなかった。心の中では、過去の記憶がフラッシュバックしていた。何度も、何度も、こうして彼の苦しみに寄り添ってきた。そのたびに、無力さを噛みしめてきた。
どれくらいそうしていただろうか。近くを通りかかった老夫婦が心配そうに声をかけてきたが、葵は「大丈夫です、少し休めば」と気丈に答えた。内心は、決して大丈夫などではなかった。過去のループでも、蓮がこうして苦しむ場面には何度も立ち会ってきたが、その痛みに慣れることなど、どうしてもできなかった。
数分後、蓮の呼吸は落ち着きを取り戻した。
「ごめん、心配かけて」
「ううん……。大丈夫? 病院、行く?」
「平気平気。なんか、変な夢を見てるみたいな感覚が続いてるだけだから」
蓮はベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「夢?」
「うん。誰かと、ここで笑ってる夢。その人の顔は思い出せないんだけど……なんでか、すごく大切な人だったってことだけは分かるんだ」
その言葉に、葵の目に涙が滲んだ。堪えきれず、そっと顔を背ける。
「時枝さん?」
「あ、ごめん。なんか、目にゴミが」
苦しい言い訳だと分かっていながら、葵はそう言うしかなかった。
二人はそのままベンチに座り、しばらく無言で景色を眺めていた。
夕暮れの風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。遠くの空には、夏の入道雲が茜色に染まりながらゆっくりと形を変えていく。
「時枝さんってさ」
沈黙を破ったのは、蓮だった。
「なんか、俺のこと、すごく大事にしてくれてる気がする。まだ出会って二週間なのに」
「……そう、かな」
「うん。心配してくれる顔とか、話を聞いてくれる時の距離感とか。まるで、ずっと前から知り合いだったみたいに」
蓮は柵の外に広がる景色に視線を移しながら、独り言のように呟いた。
「変なこと言ってるって分かってるんだけどさ。時枝さんに会う前から、俺、誰かをずっと探してた気がするんだ。その誰かに、また会えたときのことを、ずっと想像しながら生きてたような……そんな感覚」
「それで……時枝さんに出会って、なんか、探し物が見つかったような気がしてる。うまく言えないけど」
葵は、何も言えなかった。言葉にすれば、涙が溢れてしまいそうだった。代わりに、彼の手をそっと握った。
蓮は驚いたように葵を見たが、振り払うことはしなかった。むしろ、その手を握り返すように、指を絡めた。
二人の手が重なった瞬間、周囲の音がすべて遠のいていくような感覚を、葵は覚えた。蟬の声も、遠くを走る車の音も、風が木々を揺らす音も、すべてが後景に退き、ただ蓮の手のひらの温度だけが、鮮明に感じられた。かつて何百回と繋いできたはずの手が、まるで初めて触れるもののように、葵の胸を締めつける。
「……あったかいね」
蓮がぽつりと呟いた。
「うん」
「時枝さんの手、なんか、握ったことがある気がする」
蓮のその言葉に、葵はもう堪えることができなかった。頬を伝う涙を、隠すこともせずに流した。
「時枝さん……?」
「ごめん、なんでもない。ちょっと、感傷的になっちゃっただけ」
葵はそう言いながら、繋いだ手にそっと力を込めた。この温もりを、二度と手放したくないと、心の底から思った。
その夜、葵は自室のノートに、今日の出来事を書き留めていた。
「8月14日。高台の公園にて。蓮、頭痛とデジャブを訴える。『誰かと笑っていた』という感情記憶を明確に自覚し始めている。頭痛の強度、これまでで最大。感情記憶の顕在化に伴い、身体的負荷が増している可能性あり」
記録を書き終えたあと、葵はしばらくペンを止めたまま、窓の外を見つめていた。
蓮の記憶が戻り始めている――その事実は、喜ぶべきことのはずだった。けれど同時に、葵の心には新たな不安が芽生えていた。もし、記憶が戻る過程が、蓮の心や体に過剰な負荷をかけているのだとしたら。もし、忘却の呪いを無理に解こうとすることが、逆に彼を傷つける結果になるのだとしたら。
「私は、どうすればいいんだろう」
誰にも答えてもらえない問いを、葵は静かにノートに書き加えた。
過去の事故データを記したページを開き、葵はもう一度、七回分の記録に目を通す。事故の直前、蓮はいつも誰かからの電話を受けていた。今回もまた、同じパターンが繰り返されるのだろうか。だとすれば、その「誰か」の正体を突き止めることこそが、この呪いを断ち切る唯一の道なのかもしれない。
一回目のループでは、蓮は「急に呼び出されて」と言い残して家を出て行き、そのまま事故に遭った。二回目、三回目も似たような状況だった。四回目以降は、葵が蓮を家に閉じ込めようとしたが、それでも彼は「大事な用事がある」と言い張って外に出てしまい、結局は違う形で命を落とした。まるで、運命そのものが蓮を外へと連れ出そうとしているかのようだった。
その「用事」の正体を、葵はまだ突き止められていない。蓮自身も、事故の直前の記憶については曖昧にしか語らなかった。あるいは、彼自身も何者かに操られるようにして、無意識のうちに動かされているのかもしれない。そう考えると、背筋が冷たくなるのを感じた。
葵はページをめくり、これまでの七回の事故に共通するもう一つの要素を書き出していく。事故が起きる直前、蓮の様子がいつもと違って見えたという、周囲の証言。誰かに呼び出されているような、落ち着かない素振り。そして、事故のあと必ず、その「誰か」の存在が現場から消えていること。
かつて葵は、事故そのものを「防ぐ」ことばかりに気を取られていた。デートの予定を変え、蓮を家に閉じ込め、時には強引に旅行に連れ出したこともある。けれどそのたびに、運命はまるで意思を持っているかのように、形を変えて牙を剥いてきた。だからこそ今回は、事故を「避ける」のではなく、事故を引き起こしている「原因」そのものを断つ必要があると、葵は考えていた。
「もし本当に、誰かが意図的に事故を起こしているのだとしたら」
葵はペンを走らせながら、低く呟いた。
「相手は、蓮の近くにいる人物のはず。友人か、同期か、あるいは……」
そこまで書いて、葵は手を止めた。まだ確証はない。憶測で誰かを疑うことは、この呪われた運命に立ち向かう上で、もっとも危険な行為でもある。だが、残された時間はあと二週間ほどしかない。悠長に構えている余裕は、もうどこにもなかった。
ノートを閉じ、葵はベッドに横たわった。繋いだ手の温もりの記憶が、まだ手のひらに残っている気がした。
窓の外には、満天の星が広がっていた。葵はその星空を見上げながら、繋いだ手の温もりを、まだ確かに感じていた。
デジャブの足音は、少しずつ、けれど確実に、二人の距離を縮めている。それが希望なのか、それとも新たな悲劇の予兆なのか、今の葵にはまだ、分からなかった。ただひとつ確かなのは、この足音が近づくたびに、事故の刻まれた8月31日という日付もまた、確実に近づいてきているということだった。
葵は繋いだ手の感触を思い出しながら、静かに目を閉じた。明日もまた、蓮に会いに行く。何度目でも、その一歩を踏み出すことだけは、絶対にやめない。そう心に誓いながら、葵は八回目の夏の夜に、静かに身を委ねた。




