第2話 はじめまして、大好きな人
8月3日。葵は建築学科の講義棟にいた。
本来、文学部の学生である葵がここにいる理由はひとつしかない。蓮に近づくためだ。潜り込んだ講義は「近代建築史」という科目で、幸い出席確認は緩く、聴講生として紛れ込んでも怪しまれることはなかった。
教室に足を踏み入れると、独特の匂いがした。図面用紙とインク、それに冷房で冷えたコンクリートの匂い。この匂いを、葵はよく知っている。かつて何度も、蓮に会うためにこの建物に通った記憶があるからだ。もっとも、それを覚えているのはこの世界で葵一人だけなのだけれど。
建築学科の校舎は、文学部の校舎とは違う独特の緊張感がある。壁には歴代の卒業制作の模型が飾られ、廊下にはいつも誰かの図面が広げられている。学生たちは皆どこか眠そうな顔をしながらも、目だけは真剣だった。夏休みだというのに、この校舎だけは休みなど関係ないとでも言うように活気づいている。それも当然だった。夏はコンペの締め切りが集中する季節であり、蓮のような特待生にとっては、もっとも忙しい時期でもあるのだから。
かつて葵は、この空気が少し苦手だった。恋人がいつも忙しくしていることに寂しさを覚えたこともある。けれど今は、その忙しさの中に彼が生きているという事実そのものが、何よりも尊いものに思えた。生きて、悩んで、忙しく駆け回っている蓮。それだけで、涙が出そうになるくらいに、ありがたいことだった。
教室の一番後ろの席に座り、葵はさりげなく前方を見渡す。蓮はいつも決まって窓際の中ほどの席に座る。一回目のループのときから変わらない、彼の癖だ。人の記憶は消えても、体に染みついた習慣までは消えないらしい。
講義が始まって十分ほど経った頃、葵は自分の斜め前の席に、わざと座り直した。偶然を装うための、計算された移動だった。教授の声が単調に響く中、葵はノートを取るふりをしながら、視界の端でずっと蓮の横顔を追い続けていた。
その横顔は、記憶を失う前と何一つ変わらない。真剣な表情でスケッチブックにメモを取る仕草も、時折ペンを止めて窓の外を見つめる癖も、すべてが葵の記憶にある「瀬尾蓮」そのものだった。ただ違うのは、その瞳がもう自分を映さないということだけ。
「あ」
講義が終わり、荷物をまとめていた蓮が、ふと振り返って葵に気づいて声を上げた。
「時枝さん。……えっと、この講義、取ってたんだ」
「うん。建築にちょっと興味があって」
「へえ、意外。文学部なのに」
蓮は屈託なく笑った。その笑顔は、記憶を失う前の彼と寸分違わない。眉を下げて、目を細めて、少し照れくさそうに笑う癖。何百回この笑顔を見てきただろうと、葵は胸の奥が疼くのを感じながら思う。付き合っていた頃、朝起きて最初に見るのがこの笑顔で、夜眠りにつく前に思い出すのもこの笑顔だった。それがどれほど幸福な日常だったか、失ってから初めて分かるものらしい。
「せっかくだし、お昼一緒にどう? 時枝さんに聞いてみたいこと、いろいろあるし」
「聞いてみたいこと?」
「うん。なんか、初対面な気がしないっていうか……変なこと言ってるのは分かってるんだけど」
蓮は頭をかきながら、困ったように笑った。その表情に、葵は小さく頷いて応じる。
「いいよ。私も瀬尾くんのこと、もっと知りたいし」
それは嘘ではなかった。知りたいのではなく、すでに知り尽くしている。四年間の記憶、彼の癖、好きな食べ物、苦手なもの、眠るときの寝相まで、葵はすべてを知っている。けれど「もう一度知る」という行為は、まったく違う質感を持っていた。まるで、知っているはずの物語を、初めて読むふりをして読み直すような、奇妙でいて切ない感覚だった。
学食の隅の席で、二人は向かい合って座った。
蓮はカレーを、葵は野菜サラダを注文した。葵の好みを知っている蓮が、以前ならきっと「またサラダだけ? ちゃんと食べなよ」とからかっていたはずのメニューだったが、今の彼はただ興味深そうに葵の食事を見ているだけだった。
「時枝さんって、普段何してるの? サークルとか」
「特に何も。図書館で本読んでるくらい」
「意外だな。もっとアクティブな感じかと思ってた」
「なんで?」
「わかんない。なんとなく、勘」
蓮は笑いながらそう答えたが、葵は内心で驚いていた。かつての葵は、確かにアクティブで、友人も多く、いつも誰かと予定を詰め込んでいるタイプの学生だった。今の落ち着いた雰囲気からは想像もつかないその過去を、記憶のない蓮が「勘」として感じ取っている。
これもまた、感情の記憶のなせる業なのだろうか。理屈では説明できない何かが、彼の中にまだ息づいている。それを確かめるたびに、葵の胸には希望と恐怖が同時に湧き上がった。希望は、いつかすべてを取り戻せるかもしれないという淡い期待。恐怖は、その期待にすがってまた運命に裏切られることへの怯えだった。
「瀬尾くんは? 建築、楽しい?」
「うん、めちゃくちゃ楽しい。将来設計する建物のイメージが頭に浮かぶと、寝る間も惜しくなるくらい」
蓮の目が輝いた。この情熱こそが、彼の本質だと葵は改めて思う。建築コンペで賞を総なめにするほどの才能。その才能に見合うだけの、まっすぐな熱意。誰かのためにより良い空間を作りたいという、飾らない優しさ。
「今、コンペに出す作品を考えてて。テーマは『誰かを待つ場所』なんだけど……なかなかイメージがまとまらなくて」
「誰かを待つ場所?」
「うん。駅とか、公園のベンチとか、そういう『待つ』ための空間を、もっと居心地よくデザインできないかなって。人を待つ時間って、無駄に思われがちだけど、本当はすごく大事な時間だと思うんだよね」
葵は思わず言葉を失った。それは、一回目のループのとき、蓮が実際に設計して大きな賞を獲った作品のコンセプトそのものだった。記憶を失っても、蓮の内側にある創造性の根っこは、まったく変わっていない。まるで魂そのものに刻まれた設計図のように、彼は同じ場所へとたどり着こうとしている。
「素敵だと思う。誰かを待つ時間って、寂しいけど、同時に幸せでもあるから」
気づけば、葵はそう口にしていた。それは自分自身の、この八回のループそのものへの想いでもあった。蓮を待ち続けることは、何よりも辛く、けれど同時に、葵にとって唯一の生きる意味でもあったのだから。
蓮は少し驚いたように葵を見つめ、それからふっと目を細めた。
「時枝さんって、なんか、すごく分かってくれる気がする」
その一言に、葵の心臓が跳ねた。
昼食のあと、二人はキャンパスの中庭を並んで歩いた。蟬の声が相変わらず賑やかに響いている。噴水の周りでは他の学生たちが涼を取り、夏の日差しが芝生の上に濃い影を落としていた。
「そういえば、時枝さんの下の名前って?」
「葵。時枝葵」
「葵さん、か」
蓮はその名前を口にした瞬間、ふと足を止めた。表情から笑みが消え、代わりに戸惑いの色が浮かぶ。
「……ごめん、また変なこと言うけど」
「うん」
「その名前、呼んだことがある気がする。すごく、大切に。まるで、何百回も呼んできたみたいな……そんな感覚」
蓮の声は、いつもの軽い調子とは違って、どこか真剣だった。彼自身、自分の発した言葉に戸惑っているようだった。右手が無意識に、腕の青いミサンガに触れているのを、葵は見逃さなかった。
葵は、喉の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。目の前が滲みそうになるのを、必死で堪える。今ここで泣いてしまったら、すべてが台無しになる。「赤の他人」であるはずの自分が、そんな反応を見せるわけにはいかない。
「……変なこと言ってごめん。忘れて」
蓮は照れ隠しのように笑い、また歩き出した。
葵はその背中を見つめながら、心の中で何度も繰り返した。
(忘れない。忘れないでいて。もう一度、私の名前を、ちゃんと思い出して)
声には出せない祈りだけが、夏の空気の中に溶けていった。
蓮と別れたあと、葵は歩きながら、ふと一回目のループの記憶を辿っていた。
あの頃、蓮と出会ったのはもっと単純なきっかけだった。学祭の実行委員でたまたま同じ班になり、資材を運ぶのを手伝ってもらったことから会話が始まった。彼はその日のうちに葵の名前を覚え、次に会ったときには「時枝さん、今日も元気?」と、まるで昔からの友人のように声をかけてきた。その距離の詰め方の早さに、当時の葵はずいぶん戸惑ったものだ。
今、目の前にいる蓮も、根本的なところは何ひとつ変わっていない。記憶をなくしてなお、彼は初対面の相手にすら自然と心を開き、まっすぐに向き合おうとする。その誠実さこそが、葵が七回のループを経てもなお、諦めきれなかった理由そのものだった。
「変わらないね、蓮は」
誰にともなく呟き、葵は少しだけ口元を緩めた。
それから、一人で大学の図書館に立ち寄った。人気の少ない自然科学のコーナーに紛れ込み、以前から気になっていた「感情記憶」に関する心理学の文献を探すためだった。タイムリープという現象自体には科学的な裏付けなどあるはずもないが、蓮の中に残る「違和感」の正体を、少しでも理論的に理解できないかと葵は考えていた。
何冊か本をめくってみると、意識には上らない記憶――手続き記憶や情動記憶と呼ばれるものが、理屈を超えて人の行動や感情に影響を与えることがあるという記述に行き当たった。もちろん、それがタイムリープの忘却の呪いと同じ原理だとは限らない。それでも葵は、そのページに何度も目を通し、まるで縋るようにその文字を追った。
「感情は、記憶よりも深いところにある……か」
小さくそう呟き、葵はノートの端にその一文を書き写した。根拠のない希望かもしれない。それでも、何もないよりはずっとましだった。
何冊か本をめくってみたものの、確実な答えらしきものは、結局最後まで見つからなかった。それでも、こうして何かを調べている間だけは、葵は自分の無力さから目を逸らすことができた。
窓の外が茜色に染まる頃、葵は本を閉じて席を立った。
その夜、葵は自室でノートを開き、今日の出来事を書き記していた。
「8月3日。近代建築史の講義で接触。昼食を共にする。蓮側、コンペ作品のコンセプトが一回目ループ時と一致。創造性の根源は不変と推測される。名前を口にした際、強い違和感の反応あり。右腕のミサンガに無意識に触れる仕草を確認」
淡々とした記述の最後に、葵はペンを止めた。しばらく迷ってから、いつもは書かない一文を書き加える。
「――名前を呼ばれたとき、大切そうな響きだった」
それは記録として必要な情報ではなかった。けれど、書かずにはいられなかった。
ノートを閉じ、葵はベッドに横たわる。天井を見つめながら、今日一日の出来事を、何度も何度も反芻する。
蓮の笑顔。カレーを食べる仕草。設計への情熱。そして、名前を呼んだときの、あの戸惑うような真剣な表情。
「はじめまして」から始まったはずの関係が、少しずつ、けれど確かに、何かを取り戻そうとしている。それは希望であると同時に、葵にとっては恐怖でもあった。
もし、また心を通わせてしまったら。もし、また恋に落ちてしまったら――そのすべてが、また奪われてしまうかもしれない。七回、そうやって何かを積み上げては、その都度すべてを失ってきた。積み上げることの痛みを、葵は誰よりも知っている。
それでも、と葵は思う。
それでも、蓮のいない世界には意味がない。奪われることを恐れて何もしないよりも、たとえ何度奪われても、この人のそばにいたい。
窓の外で、夏の虫の声が静かに響いていた。八回目の夏は、まだゆっくりと、けれど確実に動き始めている。
ふと、スマートフォンの待ち受け画面に目をやる。表示されているのは、何の変哲もない海の写真だった。以前――一回目のループの頃は、蓮と二人で撮った写真をずっと待ち受けにしていた。けれど、忘れられた蓮との思い出を、忘れられていない自分だけが眺め続けることに、いつからか耐えられなくなった。だから今は、あえて何の意味もない風景だけを選んでいる。
それでも今日は、その味気ない海の写真を見つめながら、葵は少しだけ違う感情を抱いていた。
かつての恋人の顔ではなく、「今日出会ったばかりの瀬尾蓮」という、新しい存在の輪郭が、少しずつ心の中に形作られていく感覚。それは奇妙なことに、七回分の記憶に上書きされることのない、まっさらな感触だった。
「新しい思い出、なのかな」
誰にともなく呟き、葵は小さく笑った。同じ人を、何度も何度も好きになる。その残酷さと愛おしさを、今夜もまた噛みしめながら。
葵は目を閉じ、明日もまた、この長い一日の続きが始まることを、静かに受け入れた。




