第1話 8回目の8月1日
全10話で完結予定です。
目を開けた瞬間、葵はまず、天井の木目の数を数えた。
一、二、三――見慣れた染みの位置、見慣れたひび割れの形。何度確認しても同じその天井は、彼女に残酷な事実を突きつけてくる。またここに戻ってきてしまった、という事実を。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ夏の朝特有の白っぽさを残していて、壁にかけたカレンダーは迷うことなく「8月1日」を示していた。スマートフォンの画面をつけると、そこにも同じ日付が浮かんでいる。
「……八回目」
声に出してみると、その言葉は思っていたよりもずっと乾いて、軽かった。まるで誰かの人生を数えているみたいに。いや――実際、これは葵自身の人生であり、同時に蓮の人生でもあった。八回、繰り返してきた夏。八回、失敗してきた夏。
昨日――正確には「昨日だったはずの、七回目の8月31日」――の記憶が、まだ生々しく体に残っている。午後五時、交差点の白い光。ブレーキ音。蓮の名前を叫んだ自分の声。そのすべてが、指先の震えとなって今もまだ消えていない。
葵はベッドの上で膝を抱え、しばらく動けずにいた。
泣くことは、もうとっくにやめていた。一回目のループで泣き喚き、二回目で神に祈り、三回目で自分の無力さに絶望した。あのときの葵はもういない。今の葵にあるのは、涙の代わりに積み上げてきた、七冊分の「記録」だけだ。
机の上、いつもの位置に置かれたそれに、葵は視線を向けた。表紙がすり切れ、角という角がすべて丸くなった大学ノート。中には、七回分の事故の状況、蓮の行動パターン、出会った人物、交わした会話――そのすべてが、狂気じみた筆致でびっしりと書き込まれている。
それは葵の執念そのものだった。
起き上がり、洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、二十一歳という年齢よりもずっと大人びて見えた。もう何年も前――いや、本当はまだ一度も迎えていない未来から、何度も心だけが年を取っているような、そんな奇妙な老いを瞳の奥に感じる。
一回目の葵は、もっとよく笑う女の子だった。流行りのメイクをして、蓮をからかっては拗ねられて、それが楽しくてまた笑って。そんな「普通の女子大生」だった自分を、葵はもうほとんど思い出せない。
「今度こそ」
鏡に向かって、葵はそうつぶやいた。
「今度こそ、あなたを死なせない」
それは祈りではなく、決意だった。七回、届かなかった祈りに、もう意味はない。あるとすれば、それはただ淡々と、正確に、運命の歯車を狂わせるための「作戦」だけだ。
大学へ向かう道のりを、葵は目を閉じていても歩けるくらいによく知っていた。何度も何度も、同じ夏の同じ道を歩いてきたのだから当然だ。
蟬の声が降るように鳴り響くキャンパスの中庭を抜け、工学部の建物へと近づいていく。八月の講義はほとんどないが、蓮は建築学科の特待生として、夏でも研究室に顔を出していることを葵は知っている。知っているというより、覚えている――七回分、繰り返し見てきた光景として。
案の定、蓮は建物の外階段のところにいた。設計図らしき紙の束を抱え、片手でスマートフォンを操作しながら誰かと待ち合わせをしているようだった。少し癖のある柔らかな茶色の髪が、夏の日差しに透けている。
その姿を見た瞬間、葵の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
何度見ても、何度会っても、この痛みだけは薄れることがない。むしろループを重ねるごとに、鋭さを増しているようにさえ感じる。
葵は深呼吸をひとつして、足を踏み出した。
「あの、瀬尾くん……ですよね」
声をかけると、蓮はスマートフォンから顔を上げ、少し驚いたようにこちらを見た。その目に浮かんでいるのは、紛れもない「初対面の人を見る目」だった。
かつて何百回、何千回とその瞳の奥に自分だけを映してもらった記憶がある。恋人として名前を呼ばれ、抱きしめられ、笑いかけられたあの温度を、葵はまだはっきりと覚えている。
けれど今、蓮の瞳に映っているのは「見知らぬ女子学生」でしかない。
「え、あ……はい、瀬尾ですけど。えっと」
蓮は記憶をたどるように軽く首をかしげ、それから申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめん、どこかで会ったっけ……?」
その一言が、想定していたはずなのに、それでも刃物のように胸を刺した。八回目ともなれば、こんなやり取りには慣れているはずだった。慣れているはずなのに、まったく慣れない。人間の心とは、こんなにも学習してくれないものなのかと、葵は自分自身に少しだけ苛立った。
「あ、ごめんなさい。瀬尾くん、だよね? 建築学科の……。ちょっとノートのことで聞きたいことがあって」
用意していた台詞を、なるべく自然に、なるべくよそよそしく口にする。「赤の他人」を演じることには、もう七回分の経験がある。
「ノート? ああ、講義の……ごめん、俺、名前聞いてなかったよね」
「時枝です。時枝葵」
「時枝さん、か」
蓮は名前を口の中で転がすように繰り返した。その瞬間、彼の眉間にほんの一瞬、小さな皺が寄ったのを葵は見逃さなかった。まるで、何かを思い出しかけて、けれどその輪郭をつかめずに戸惑っているような表情。
「……なんか、変な感じ」
「え?」
「いや、ごめん。気にしないで。なんか時枝さんの名前、初めて聞いた気がしないっていうか……前にも呼んだことがあるような、変な感覚がして」
蓮はそう言って、照れくさそうに頭をかいた。
その瞬間、葵は喉の奥に何かが込み上げてくるのを、必死で飲み込んだ。
覚えていない。何もかも忘れている。それなのに、心の奥のどこかに、まだ「時枝葵」という名前の形をした痕跡が残っている。それがどれほど葵を苦しめ、同時にどれほど葵を救うか、蓮自身は知る由もないだろう。
「変なこと言ってごめん。えっと、ノートって何のこと?」
「あ、ううん。ごめんなさい、人違いだったかも」
葵はとっさに、用意していた口実を放棄した。今はまだ、深く踏み込むべきタイミングではない。今日という一日は、ただ「初めまして」を成立させるためだけの日でいい。焦って、また何かを壊してしまうわけにはいかなかった。
「そっか。……あ、でも」
立ち去ろうとした葵を、蓮の声が引き止めた。
「もしよかったら、今度ちゃんと自己紹介させて。なんか、こういう出会い方、もったいない気がして」
その言葉に、葵は思わず彼の顔を見つめてしまった。人懐っこく笑うその表情は、一回目のループで恋に落ちたときの蓮と、何一つ変わっていない。記憶を失っても、性根の優しさだけは失われていないのだと、葵は改めて思い知らされる。
「……うん。また」
短くそう答えて、葵は蓮に背を向けた。
建物の陰まで歩き、誰にも見られない場所に来てから、葵はようやく詰めていた息を吐き出した。
手のひらに、じんわりと汗がにじんでいる。心臓はまだ早鐘のように打っていた。
大丈夫。今日は成功だ。名前を交換できた。接点ができた。これは「赤の他人」からのスタートとしては、悪くない滑り出しのはずだった。
それなのに、目の奥が熱い。
「バカ」
誰にともなく、葵はそうつぶやいた。
「そんな優しい顔、しないでよ……」
忘れられていることには、もう慣れたつもりだった。けれど、忘れられてもなお変わらない優しさを向けられることには、いつまで経っても慣れることができない。それが、時枝葵という人間の、一番弱いところだった。
蓮と別れたあと、葵はキャンパス内のベンチに座り込み、しばらくぼんやりと空を見上げていた。入道雲が、夏の象徴のように白く膨らんでいる。
「あれ、時枝さんじゃない?」
声をかけられて振り向くと、そこにいたのは蓮の友人である橋本と、もう一人、名前は覚えていないが何度かループの中で見かけた顔の男子学生だった。一回目のループのとき、葵は蓮を通じてこの二人とも親しくなっていた。もっとも、今の彼らにとって葵はただの「見覚えのない顔」でしかないはずだったが。
「あ……こんにちは」
「時枝さんも建築学科? いや、なんか見たことある気がして」
橋本にそう言われて、葵は内心で苦笑した。何百回、彼らと言葉を交わしてきたか分からない。けれど彼らの記憶には、その痕跡は一切残っていない。忘れられているのは蓮だけではなく、彼を取り巻く世界すべてが、葵のことをまっさらな状態で見ているのだ。
「ううん、文学部です。ちょっと知り合いに用があって」
「そっか。……あのさ、時枝さんってさっき蓮と話してたよね?」
橋本の口調が、ふと真剣なものに変わった。
「実は最近、蓮の様子がちょっと変でさ。なんか、ずっと誰かを探してるみたいにぼーっとしてることが多いんだよ。講義中も上の空だし、飯食ってても心ここにあらずっていうか」
「……そう、なんですか」
「本人に聞いても『別に』としか言わないんだけど。もしかしたら、失恋でもしたのかなって俺らは噂してて」
葵の胸に、鋭い痛みと、それに反する小さな温もりが同時に広がった。
蓮は覚えていない。名前も、顔も、二人で過ごした四年間の記憶も、すべて消えてしまっている。それでも彼の心の深いところには、まだ「誰か」を探し続けている感覚だけが残っているのだ。
感情の記憶。理屈では説明のつかない、けれど確かに存在する、二人を結ぶ最後の糸。
「なんか、変なこと言っちゃったな。ごめん、忘れて」
橋本は照れたように笑って、そのまま友人と連れ立って去っていった。
一人残された葵は、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「探してるんだね、蓮」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやく。
「私も、ここにいるよ。ずっと、探してるよ」
それは、八回目にしてようやく手にした確信だった。記憶を失っても、蓮は葵を完全に見失ってはいない。ならば、まだ間に合う。まだ、この呪われた運命を変えるチャンスは残されている。
その日の夕方、葵は大学近くの喫茶店で、七冊目のノートを開いていた。
「瀬尾蓮、8月1日、13時40分、工学部棟前で接触成功。反応、良好。デジャブらしき違和感、微弱に発生」
ペンを走らせながら、葵は今日の出来事を淡々と記録していく。感情を挟めば、また心が壊れてしまう。だから、これは「作業」でなければならない。恋する乙女の日記ではなく、命を救うための調査記録――そう自分に言い聞かせながら。
ふと、ノートのページをめくる手が止まる。
過去七回分、蓮が命を落としたシチュエーションを書き出したページだった。場所も時間もわずかに異なるが、そこには一つだけ共通点がある。
蓮はいつも、誰かからの電話を受けた直後、あるいは誰かを追いかけている最中に、事故に遭っている。
「……偶然、じゃない」
葵はペンの先で、その一文に何度も丸をつけた。もし本当に何者かが、意図的に蓮を交差点へと誘導しているのだとしたら――これはもう、避けられない運命の悪戯などではなく、人為的な「事件」だ。
八回目の今回、葵がすべきことは、蓮の心を取り戻すことだけではない。この呪われたループの、本当の元凶を突き止めることだ。
窓の外では、夕方五時を知らせるチャイムが街に響き渡っていた。
葵の肩が、びくりと震える。
あの音を聞くたびに、思い出す光景がある。交差点、白い光、そして――蓮の体が宙に浮く、あの一瞬。何度経験しても、体はその記憶を忘れてくれない。むしろ日を追うごとに、あの瞬間の質感だけが鮮明になっていくようで、葵はときどき、自分の心がすでに壊れかけているのではないかと怖くなる。
「大丈夫」
葵は自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「今度こそ、絶対に」
ノートのページを一枚めくり、真新しい一行を書き加える。
「8月1日、初接触完了。反応良好。感情の記憶、残存を確認。橋本の証言により、蓮側にも探索行動の痕跡あり」
客観的な言葉で綴りながらも、葵の手はかすかに震えていた。淡々とした記録の裏側には、誰にも見せられない祈りが隠れている。
ふと、ノートの最後のページに挟んでおいた小さな紙切れが目に入った。一回目のループのとき、まだ普通の恋人同士だった頃、蓮が図面の余白に描いてくれた落書きだった。下手くそな似顔絵の葵と、その隣に立つ自分自身。「一生一緒にいよう」という、少し照れくさい字の文字。
あのときの蓮は、こんな未来が待っているとは知る由もなかっただろう。まさか自分が恋人の記憶を七回も失い、それでも尚、彼女に恋をし続けることになるとは。
「馬鹿だね、私たち」
葵は紙切れをそっと指でなぞり、それから静かに笑った。泣きたいのか笑いたいのか、自分でもよく分からない表情だった。
喫茶店を出ると、外はすでに橙色に染まり始めていた。夕暮れの匂いを乗せた風が、葵の黒髪を静かに揺らす。
三十日後に控えた8月31日まで、猶予はもうそれほど残されていない。けれど今日、蓮と初めて言葉を交わせたこと、そして彼の腕にまだ「青いミサンガ」が残っていたこと――そのどちらもが、葵にとっては小さな、けれど確かな希望だった。
記憶は消えても、絆までは、まだ消えていない。
蓮の中に残る違和感、友人たちが語った「誰かを探している」という証言、そしてあの腕のミサンガ。すべてが、まだ間に合うということを示しているように、葵には思えた。
空を見上げると、一番星がひとつ、静かに瞬き始めていた。
「見ててね、蓮」
葵は誰にともなく呟いた。
「今度こそ、あなたを――ちゃんと、笑って生きさせてあげるから」
決意を胸に、葵はすり切れたノートを鞄にしまい、夕暮れの道を歩き出した。八回目の夏は、まだ始まったばかりだった。そしてこの夏の終わりに待っている運命を、今度こそ変えるために、葵の長い一日はこれからも続いていく。




