09. あなたが世界に触れる日
ずっと見上げていた扉をくぐった時には足が震えた。
とん、とんと王子様に手を引かれながらゆっくりと階段を降りていく。
初めて降りる階段は途方もなく先が見えなくて、こわい。
すぐに息が切れてきた。当然だ、あの狭い部屋でしか生活していなかったのだから。
「⋯⋯大丈夫か」
彼が振り返って私にそう尋ねた。
うん、とやっとこさ頷くと、王子様は思案げに私を見下ろしてから、「辛いだろうがもう少しの辛抱だ」と私を励ます。
大丈夫。我慢することには慣れている。
とん、とん。無限にも思える階段を降りていく。
「っ!」
ふいに王子様が息を飲んだ音。
一瞬私の手を強く握り、立ち止まって緊迫した雰囲気を漂わせる。
一体なに。緊張した私もふと気が付く。
とん、とん、とん。下の方から足音がする。
私たちの他に、この塔に誰かいる。
どうしよう。こちらに上ってくる!
「おうじさま、」
「⋯⋯落ち着け、アイリス」
王子様の声が低くなる。
どんどんどんどん、足音が大きくなる。
そしてやがて、蝋燭の火によって、ぼんやりと人影が下から浮かび上がってきて────私が息を詰めた瞬間、"相手"は現れた。
「⋯⋯!? 貴方たちは」
薄暗くて人相までは分からない。
けれど華奢な体つきと声からして、恐らく女性。
両手で何かを持っている⋯⋯そして私は気が付いた。あっと声を上げそうになる。
それは、食事だった。お盆に乗った、いつも私が食べている食事。
思わず顔を上げて、目の前の────恐らくその瞳は驚愕に見開かれているだろう────女性を見た。
「⋯⋯⋯聖女、様⋯⋯?」
どうして気が付かなかったんだろう。二十二年間、ずっと扉越しに聞いてきた声なのに。
彼女は、聖女を世話する役目を代々担うブラン家の人間。
そして私に二十二年間食事だけを運び続けた、食事係の女性だった。
「⋯⋯ブラン家の者か。そこを退け」
王子様が静かに女性に命令し、女性は困惑したように後退りをする。
驚いて当然だ。外に出ることを禁じられている聖女を、この国の王子ともあろうひとが連れ出そうとしているのだから。
国家に反逆を企てていると捉えられてもおかしくない状況だった。
「⋯⋯貴方、一体どうして聖女様を!」
───彼女は、私の顔を知らない筈だ。
ブラン家の人間は聖女を世話すると言えども、聖女との接触を許されたわけではない。
彼女はいつだって私に扉越しに呼び掛けるだけ。
それなのにどうして、私が聖女だと分かったのだろう。
格好? 出で立ち? それとも⋯⋯二十二年間私に食事を運び続けていた、唯一のひとであったから、瞬時に見抜けたとでもいうの?
「もう一度命令する。二言は無い。そこを退け」
女性は震えたように「あ、」と小さく声を上げる。
そして⋯⋯私をじっと見つめたかのように思えた。
永遠のように思える沈黙。
やがて女性は、ゆっくりと足を動かし、立っている階段の隅に移動した。
そして道を譲るかのように深々と頭を下げる。
「⋯⋯行くぞアイリス」
王子様が彼女の姿を見留めた後、再び私を引っ張り、とんとんと素早く階段を降りていく。
私はぎゅっと彼の手を握りながら、そばに立っている女性を見ないようにして、ただ王子様のされるがままになっていた。
女性の横を通り過ぎる、ほんの一瞬。
祈るような、か細い声が聞こえたのは、私の幻聴だったかもしれない。
□
風が私の頬を撫でるように吹いた。
ざくりと地面を踏みしめる。
長い間、壁と天井しか知らなかった私の足は、ためらうようにゆっくりと外へ踏み出した。
初めて触れる地面は、思っていたよりも硬く、けれどどこか温かかった。
私はもう一歩、確かめるように足を踏みしめる。
その瞬間、世界が足元から広がっていくような、不思議な実感が胸に満ちていった。
「⋯⋯外はどうだ」
王子様が私に静かに問う。
胸がいっぱいになって、すぐに言葉を返すことは叶わなかった。
呼吸をする。澄んだ夜の空気が私の喉を通る。
生きている、と思った。
「王子様」
「ああ」
「外って⋯⋯こんなにも、空が遠いんだね」
頭上には瞬く星と、壮大な夜の闇。
手が届かない。窓から見る景色とは全然違う。
これからも、この世界の景色をこんな風に知っていけるかな。もっと私の知らない世界があるのかな。
「知っていけるよ。これからお前はたくさん国を渡り歩いて、どこまでも世界をなぞっていくんだ」
微笑んだ彼の横顔を見上げた。
ねえ、そんな私の隣には。あなたはいてくれますか。
「急ごう。衛兵に見つかる前に」




