10. やっと全て伝えられる
「居たぞ! 聖女だ!」
塔を出て暫く、城壁に沿うようにして忍び足で城の裏門へと向かっていたその時だった。
はっと息を飲んで後ろを振り返った。
一人、二人、三人。思わず体が強張る。衛兵だ。
松明を持った彼らが、必死の形相でこちらへ走ってくる。
「くそ」
王子様が舌打ちをし、私の手を握ったまま「アイリス、走れ!」と叫ぶ。
訳の分からないまま、手を引かれるままにひたすら走る、走る。
どうして衛兵が。やはりどこかで姿を見られていたのだろうか。まさか、先程の女性が衛兵に連絡したの?
「隊長、ジェイド王子に剣を向けるのですか!」
「聖女を連れ出そうとする者は、国の反逆者。捕らえてまいれとの大司祭様のお達しだ、最悪⋯⋯奴の生死は問わない。ただ聖女は傷付けるな」
背後で繰り広げられる会話に身の毛がよだつ。
そんな。王子様でさえ、生死を問わない?
大司祭はそれほどまでにこの国で力をつけているというの。
そんなの、おかしい。大司祭ファブリスには国へ安寧をもたらす力なんて何も無い筈なのに。
王子様は手を引いてくれるけれど、生まれてこの方全力で走ったことのない私はもう足が続かなくて。
「っ、あ!」
息が切れて足がもつれる。
そのまま地面に倒れ込んでしまう。
「アイリス!」と王子様が私の名を鋭く叫んだ。
私の体をすぐさま起こしてくれた時、「そこまでです、ジェイド王子」と王子様の前に剣先が突きつけられる。
衛兵に追いつかれた。悲鳴を上げる。王子様!
「残念だったな」
隊長、と他の衛兵に呼ばれていた男だった。
彼は剣先を王子様の鼻に突きつける。
やめて。王子様を傷付けないで。
そう思うのに一歩も動くことが出来ない。
王子様は顔色を変えずに衛兵隊長を見上げ、一瞬腰に差している剣に手で触れる。
衛兵隊長が表情を強ばらせたのが分かった。
「貴様⋯⋯!」
───けれど、王子様は何かに気が付いたかのように一瞬表情を歪め、すぐさま剣から手を離してしまう。
私は驚いた。どうして戦おうとしないの、王子様。
私の事はいい。けれどあなたが、傷付けられてしまうよ。
そんなの耐えられない。
「王子様! お願い、私のことはいいから早く逃げて」
思わず彼に抱かれたまま王子様の腕を掴む。
必死の思いで揺さぶった。
世界の外に出たいなんて望まなければ良かった。
こうなるくらいなら。王子様が国の敵になってしまうくらいなら、いっそのこと。
「ねえ、王子様!」
彼は私の言葉に答えない。
その代わり、ゆっくりと私に視線を定めて───ふっと目元を和らげる。
「安心しろ。お前を置いていくことなど、二度としない」
二度と? それって一体、どういう意味。
私の問いかけは言葉にならなかった。
その刹那。
向こうから聞こえてきた、私の耳を刺す声があった。
「───おいおい、これは一体どういうことだ!? 何を騒いでいる」
つかつかと衛兵の波をかき分けて現れた人物。
この辺りに立っている衛兵全員が「は?」と驚愕の表情を浮かべた。
私もぽかんと口を開けることしか出来ない。
「"どこの誰かも分からん奴"が、聖女を盗み出そうとしているなど、けしからん!
"この私"、ジェイドが命じる! 即刻そちらの盗人を捕らえよ!」
私たちの目の前に現れ、ふんぞり返った人物。
金糸の刺繍で縁取られている、体に纏う紺色の衣服。
肩からは重厚なマントが静かに流れ落ちていた。
胸元には金色の───ロワンテーヌ王家を象徴するブローチ。
どうして。空いた口が塞がらない。
彼が───ジェイド王子?
どういう、こと。
あまりにも突然のことに困惑することしか出来ない。
「はっ、ジェイド王子!」
衛兵たちが"ジェイド王子"に向かって敬礼する。
彼がジェイドなのは、間違いないの。
じゃあ、私の隣にいる王子様は、一体。
「おうじ、さま⋯⋯?」
途方にくれて、私を抱く彼の横顔を見上げる。
ゆっくりと、"王子様"は⋯⋯どこか困ったように口元に笑みを浮かべた。
その瞳に詳細な感情は見えない。
「───すまない、アイリス」
何を、謝って。
────風が、吹いた。
どこからともなく頬を掠めるような疾風が。
城壁を越えた森の遠くから狼の遠吠えが聞こえる。
まるで何かを祝福するかのように。
そして、目にする。
目の前の王子様が、一瞬にして風に包まれて───思わず目を閉じた。
目を開けていられないほどの強い風だった。
どうしてかひどく恐ろしくて、ぎゅっと瞼を瞑る。
────目を開けてくれ、アイリス
頭の中で優しい声がしたような気がした。
私は、目を開ける。
「な、っなんだ⋯⋯!?」
「盗人が⋯⋯! あ、」
ねえ、おうじさま。
私ね、あなたのことをずっと知っていたような気がしていたの。
最近になって初めて出会ったのに。変だよね、おかしいよね。そう思ってた。
でも、違った。
あなたはずっと、ずっと、そばにいてくれてたんだね。
「⋯⋯っ!」
私の視線は依然として高くなり、衛兵たちの頭を遥か遠く超え、彼らを上から見下ろしている。
私の体の下には、黒い毛並み。
神力を宿している生き物の如く、力を毛一本一本にまで行き届かせて、なみなみと揺れ動かしている。
体全体が凄まじい力を発してぼんやりと緑色に光っていた。
"彼"が、低く低く鳴く。どこまでも大地に声を轟かせるように。
または己を信仰する民たちへ怒りを伝えるかのように。
「なっ⋯⋯あ、あの狼のお姿は⋯⋯まさか」
「そんな⋯⋯あ、あああ⋯⋯⋯」
───ロワンテーヌ王国の神、グウィン様は、千の姿を持つ。
「グウィン⋯⋯様⋯⋯?」
彼の背中の上でぽつりと呟いた私の声に、彼が軽く体全体を震わせて笑ったような気がした。
(───お前を騙していてすまない、アイリス。
お前を助けるのにこの体では、少々難があったのでな)
心の中で、彼のいつもの優しい声がぐわんぐわんと木霊する。
思わずふふっと微笑んでしまった。
ああ、どうしよう。泣きたいくらいおかしくて、嬉しい。
「あなたは、王子様じゃなかったのね」
(ああ───そうだ。王子の方が良かったか)
「ううん。嬉しい」
(お前を助けるために、あの"ぼんくら"王子の名と姿を⋯⋯厳密には違うが、借りた。
アイリス。ずっと俺に祈りを捧げてくれてありがとう。語り掛けてくれてありがとう。
お前が自由になるのを⋯⋯お前がこの世界を歩く姿を見たかったんだ。
お前は、囚われたままいるべきじゃない)
涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
ずっとずっと、私は一人だと思ってた。
この祈りは届いていないと思ってた。
でも違う。私のことを唯一、ずっと見てくれていた。
私のかみさま。
「あ、ああ⋯⋯」
衛兵や本物のジェイド王子は狼の姿をした神に恐れ慄き、誰も一歩も動けない。地面に座り込んでしまった者もいる。
おうじさま、ううん、グウィン様はそんな彼らをひどく冷たい眼差しで一瞥し、くるりと方向転換する。
(行こう、アイリス)
うん、と私が喜びを抑えられない声で頷いたのを皮切りに。
グウィン様は前足でトンと地面を叩き、体を浮き上がらせる。
そして衛兵たちの頭を軽々と飛び越え、目にも止まらぬ速さで道を走り、城門を飛び越え──────
城から遠い遠い森の中へと、入っていった。




