02. どこまでも行けるのに
「聖女様、今年は不作だったので豊穣の祈りを」
「聖女様、最近は国が乱れているので安寧の祈りを」
「聖女様」
大司祭が扉越しに私にそう命じる度に、思っていた。
私には何の力もないのにと。
□
「⋯⋯、アイリス?」
口を開いても、空っ風のような呼吸音しか喉の奥からは出てこない。
なんせここ十年は大司祭の命令に頷くだけで声を出す必要もなく、全く言葉を喋ってこなかったから。
声の出し方を忘れてしまった。
無理やり「あ、」と発声しようとして、思わずひどく咳き込んでしまう。
目の前の男はぴくりと眉を動かした。
きっと目の前の聖女が声も出せないのでひどく驚いて呆れているに違いない。
どうしよう。嫌われるのは、こわい。
「声を出せないのか」
ジェイド、と名乗ったひとは淡々とそう話した。
戸惑うままに取り敢えず頷くと、彼の口からため息が吐かれてびくりと震えてしまう。
「⋯⋯全く、城の連中は一体何をして⋯⋯」
小さく呟かれた言葉。思わずきょとんと彼を見上げる。
⋯⋯私に呆れているんじゃないの? と訝しんでいたとき、彼がぎろりと眼光鋭く私を見下ろすので「う」と床に尻をつけたまま後退する。
「⋯⋯⋯、怯えるな。別に俺はお前に怒っているんじゃない」
怒って、ない⋯⋯?
彼はなぜか視線を彷徨わせながら、ゆっくりと私に近付いた。
体の大きな彼が恐ろしくて更に後退する私。
すると何故なんだろう、彼が一瞬ぴくりと固まって、どこか⋯⋯傷付いたような表情をした。
きっと見間違い。
「⋯⋯おう、じ、さま」
やっと声が出た。
途切れ途切れの空気に溶けていってしまいそうな小さな声を、王子様はきちんと耳に入れてくださったようだった。
床に座り込んだ私と視線を合わすように姿勢を落として屈む。
距離は、保たれたままだった。
「じぇ、いど、さま」
「⋯⋯ああ」
「あなたのこと、きいたこと、ない、です」
「生まれてから二十二年もここに幽閉されていたんだから当然だろう」
随分、私のことに詳しいのだなと思った。
私の視線に気付いたのか、一瞬王子様は言葉を止めて、「⋯⋯お前に関する文献を読んだ」と話してくださった。
ジェイド様。本当に聞いたことがない。
私の外界に関する知識といえば、この部屋にある少ない本の数々と、あと大司祭が教えてくれる国の様子だけ。
この国には王様と、その息子の第一王子であるジェイド様がいらっしゃるとは昔に聞いていたけれど。
「お前が生まれてから、確かに国は安定している。
お前が祈れば畑の実りが増え、国内の治安は良くなる。だからこそお前は聖女としてこの城に連れてこられ、二十年間⋯⋯人々のためにその身を捧げてきた」
私が生まれてから。本当に、私に聖女の力があると思われていたんだ。
そんな事ないのに。この国が安定しているのは、人々が汗水垂らして働いて、幸福を得ているからであって、私の力なんかじゃない。
「⋯⋯」
思わず黙り込むと、「アイリス?」と王子様が不思議そうに私の名を呼んだ。
このひとは、私の名を呼んでくれるんだ。
「⋯⋯わたし、の、ちからじゃ、ない」
驚かれるかな。怒られるかな。
民を騙したと、憤るだろうか。
「⋯⋯お前は実際に神へと祈り、民を幸福へと導いている」
けれどそんなことはなかった。
王子様は静かに私にそう告げた。まるで言い聞かすみたいに。
貴方も、大司祭と同じことを言うのね。
反論はしなかった。反論すれば、きっと私は城から追い出されてしまうから。
今まで民を騙してきた、偽りの聖女であると。
「⋯⋯」
再度、王子様を見上げた。
このひとは一体どうして、ここへ来たんだろう。
どうして私に会いに来たの?
今までだって、王様も王子様も、私に会いに来たことはなかったのに。
不思議に思ってじっと見つめていると、ふいに王子様は厳かに口を開いた。
「⋯⋯もうすぐ俺が父上から王の位を譲られ、戴冠することは知っているか」
ロワンテーヌ王国第一王子、ジェイド。
⋯⋯そうなんだ。私は部屋の外のことは大司祭から与えられる情報以外、何も知らない。
王子様が王になるという知らせは、未だ大司祭から伝えられていなかった。
知る必要がない、ということなのかもしれない。
「俺が王座に就くとき、正式に聖女の所有権が俺の手に渡る。
俺は、その前にこの非人道的な悪習について調べたかった。ずっと気に掛かっていた、この塔に幽閉され、力を搾取されているお前のことを。
俺はお前を解放したい」
王子様はひどく真っ直ぐな視線を私に向けて言った。
聖女の所有権が王子様の手に渡る。
それなのに、このひとは、どうしてか、私のことを解放したいらしい。
「⋯⋯どうして?」
どうして解放される必要があるの?
私はこの狭い部屋の中でしか生きられない。
王国に飼われて、一生王国のために尽くさなきゃ。
そうでないと私、きっと外に出た瞬間に死んでしまうんだもの。
祈ればいいんでしょう?
いるかも分からない神に向けて祈って、祈っていたら、私はご飯をもらえるの。
「わたしは、このままが、いい」
王子様は何を考えているのか分からない表情で、じっと私を見下ろしていた。
微かにその美しい緑の瞳の奥で、ちらちらとなにかが見え隠れしたような気もした。
「⋯⋯そうか」
彼のため息の音。
「また、来る」
王子様は私に背を向けた。私は答えなかった。
重い扉が音を立てて閉まる。私はまた、この部屋でただ一人だった。




