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第82話 春より先に来るもの

帝都の暖炉の火と、磨き上げられた床の光は遠い。

新大陸では、新年が明けても冬は遠慮なく居座っていた。


雪は毎日降るわけではない。

だが、一度積もった白はなかなか消えない。

朝は地面が固く締まり、昼でも日陰には霜が残る。

空気を吸えば肺が冷え、井戸の縁に手をかければ指先が痺れた。


それでも、村は止まらない。

新年の宴の余韻が薄れていくにつれ、皆またそれぞれの仕事へ戻っていた。


男たちは薪を割り、雪で傷んだ柵を見直し、冬の畑からビーツや豆を掘り出す。

女たちは鍋を回し、布を繕い、子供の袖を直す。

鍛冶場の炉は今日も鳴り、アトリエではイルゼが何かを煮詰める匂いがしていた。


そして、湯場裏の卵部屋。

そこだけは、村の中でも少し違う時間で動いている。



「またです」


新年が明けて数日後、アリスは記録板を抱えたまま小さく呟いた。


卵の前にしゃがみ込み、耳を澄ます。

火の魔石は安定している。

布も乾いている。

部屋の温度も悪くない。


その中で、小さな音。


前のような、もしかしてではない。

今はもう、はっきり分かる。


「今日は三回目です」

「朝二回、いま一回」


「ぴ」


とアカネが鳴く。

最近では完全に卵部屋の同居人だ。


「お前たち、分かってる顔をしますよね」


「ぴゅい」


「でも、誰より近くで見てますもんね」


「ぴぃ」


アリスはそう言いながら、記録板へ丁寧に書き込む。


反応あり。

前回より間隔短い。

音は明瞭、熱がわずかに上昇。


字は相変わらず少しだけ力が入りすぎている。

だが、前よりずっと読みやすくなった。

サラとガーネットに散々直された成果だ。


「たぶん、近いですね」


アリスは卵へ向かって言った。


「ぴ」


「そう、たぶんです」


「ぴゅい」


「お前たちと話してると、私が変になりそうです」


そこへ、入口の布を上げてレオが入ってきた。


「何してる」


「卵番です」


返答はするが、アリスの視線は卵に釘付けだ。


「それは知ってる」


「反応を見てました」


「どれくらいだ」


「前よりはっきりです」


レオは卵の前へ歩み寄り、じっとそれを見る。

見た目は、まだ大きな焦げ茶の卵だ。

だが、前とは確かに空気が違う。


「記録を見せてくれ」


アリスから板を受け取り、レオは目を走らせた。

時間帯、音の間隔、熱の変化。

完全に分かるわけではないが、近づいていることだけは伝わる。


「テオドールとイルゼにも見せてくる」


「分かりました」


「母飛竜の方は?」


「昨夜、森の端で見張りが気配を拾ったそうです」


「来てるな」


「心配なんでしょうね」


「だろうな」


レオは卵を見ながら、小さく息を吐いた。

雪の中、森のどこかで母飛竜がじっとこちらを見ている。

湯場裏では、その子が殻の内側から動き始めている。


冬の真ん中だというのに、妙に春の気配に似たものがあった。



その日のうちに、小さな会議が開かれた。


大げさなものではない。

レオ、ガレス、テオドール、イルゼ、エルマー、アリス。

卵と母飛竜に関わる顔ぶれだけだ。


テオドールが記録を見ながら、アリスへ確認する。


「つまり、反応の頻度が上がっている」


「前より明らかに」


「ひびは?」


「まだ見えません」


イルゼが腕を組む。


「卵ってのは大体、出る前に中でよく動くもんだ」


「飛竜でも?」


レオがイルゼを見る。


「知らないよ」

「でも、生き物の理屈ってのは、そこまで大きく外れないことが多い」


「雑だなぁ」


「錬金術師だからって、何でも知ってるとは思わないでおくれ」


エルマーは真面目な顔で記録板を見ていた。


「火の魔石の熱、少し上げるか?」


「止めな、孵化の直前で環境を変えないほうがいいよ」


イルゼが口を挟む。


「分かってる」


「あんたの場合は、言っとかないと危ない」


「失礼だな」


「魔法狂いだからね」


「くそ」


ガレスは、そこで少しだけ眉をひそめた。


「坊っちゃん、生まれるにしてもだ、最初に何をする」


「どういう意味だ」


「殻を割って出てきたのが、こっちを親と認識するか」

「あるいは暴れるか、そこを決めとけって話だ」


それは、もっともだった。


卵が孵る。

それ自体はめでたい。

だが、その後が一番大事だ。


「レオ様、人は絞るべきですね、孵化の場に立ち会う人数を限定しましょう」


記録を確認し終えたテオドールが顔を上げた。


「賛成だ、多いと騒ぎになる」


「子供は絶対近づけないようにしましょう」


「当然です!」


アリスが強く頷く。


「お前も興奮しすぎるなよ」


「努力します!」


「言い切れ」


「努力してから言います!」


「少し進歩したな」


イルゼがそこでぽつりと言った。


「領主様、最初の餌も考えときな」


「何を食わせればいいんだ?」


「肉だろうね」


「干し肉とかでいいのか」


「知らないよ」

「でも、草食の顔じゃないだろ」


「それはそうだ」


エルマーが面白がるように言った。


「火尾鶏の時は、勝手に親認識したから楽だったよな」


「比較対象がおかしいですね」


とテオドール。


「分かってる」


「だったら真顔で言わないでくれませんか」



それから数日、村の空気はまた少しだけ変わった。


大きくは騒がない。

だが、もうすぐらしいという気配が、あちこちへ染みていく。


女たちは炊事場で声を潜めて話す。


「まだ割れないのかい」


「でも動いてるらしいよ」


「なんだか、お産みたいだねえ」


「飛竜相手にその言い方もどうなんだい」


「でも近いだろうよ」


「まあ、分からんでもない」


男たちも、露骨には触れないが気にしていた。


「今日はどうだった」


「また動いたらしい」


「そのうち本当に出てくるのか」


「出てくるだろ、卵なんだから」


「理屈はそうだが、飛竜だからな」


「そこだよ」


子供たちに至っては、もっと単純だった。


「まだ生まれないの?」


「まだですよ」


子供達への対応は、アリスの役目だ。


「見たい!」


「駄目です!」


「なんでー!」


「危ないからです!」


「アリスばっかりずるい!」


「私は卵番だからいいんです!」


「ずるい!」


その理不尽なやり取りが、逆に村の緊張を少し和らげてもいた。


レオは、そうした村の空気を見ながらも、やはり完全には気を抜けなかった。


夜の見張りに立つと、森の方へ目がいく。

母飛竜の気配は今も消えていない。

雪の向こうで、こちらを見ている感じが時々ある。


「近いな」


ガレスがある夜に言った。


「卵が動き始めてから、向こうの気配も寄ってる」


「分かるか」


「空気でな」


「便利だな、それ」


「長生きすると、分かるようになる」


レオは森を見た。

白く、静かだ。

だが、その静けさの向こうに、巨大な母親がいる。


「春まで待て、って話だったんだがな」


「向こうも待ちきれねえんだろ」


「だろうな」


「それが親ってもんだ」



そして、ある朝。


空はよく晴れていた。

珍しく雪も降っていない。

その代わり冷え込みは強く、外へ出れば耳が痛い。


アリスはいつものように卵部屋へ入り、布の位置を直そうとして、そこで止まった。


「え…」


殻の表面。

焦げ茶の模様の間に、ほんの細い線が入っていた。


傷ではない。

昨日まではなかった。

爪を立てたみたいな浅い線でもない。


内側から押されて、殻の表面がごくわずかに張ったような。


「ひび…」


声が掠れる。

アリスはしゃがみ込み、目を凝らす。

間違いない。


内側からの小さな音と共に殻が震えた。

今度は線の少し横。


「き、来ました!」


次の瞬間、アリスは立ち上がっていた。


「み、みんなに知らせないと!」


そのまま、卵部屋を出て領主館まで全力で駆け出す。

アカネたちが一斉に立ち上がり、ぴゅいぴゅいと鳴き出す。

完全に何かが起きたと分かった顔だ。


卵は、また小さく鳴った。

今度は、待たせる音ではない。


出てくるための音だ。

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