第81話 新しい年、新しい鼓動
そんな冬の日常の中で、それは本当に何の前触れもなく起きた。
雪はその日も静かに降っていた。
吹雪くほどではない。
けれど、止む様子もない。
空は白く低く、村の音を少しだけ遠ざけている。
アリスは、いつものように卵部屋にいた。
朝の確認はもう済ませた。
火の魔石の熱も見て、布の位置も直した。
記録板にも、いつも通りの文字を書き込んである。
「今日も、まだですね」
卵の前にしゃがみ込み、アリスは小さくそう言った。
最近はもう、こうして話しかけるのも半ば日課になっている。
意味があるかは分からない。
でも、何となくそうしていたかった。
部屋の隅にはアカネがいる。
今日はスミとヒイロも最初から来ていて、三匹そろって妙に静かだった。
「お前たちまで静かだと、逆に落ち着きませんね」
「ぴ」
「分かるんですか?」
「ぴぃ」
「たぶん分かってませんね」
「ぴゅい」
そんな、いつも通りのよく分からない会話をしていた時だった。
小さな音が聞こえた。
「…?」
アリスの手が止まる。
今のは、何だ。
木が鳴ったのか。
外で雪が滑ったのか。
それとも、また自分の気のせいか。
「違う…ですよね」
返事はない、当然だ。
アリスは、そっと卵へ近づいた。
触れないように、でも近くへ。
しんと部屋が静まる。
外の雪の音も、湯場の気配も、今は全部遠い。
その中で、また小さな音。
「っ!」
今度は、はっきりした。
内側から何かが当たった。
殻の向こうから。
「いた」
思わず声が漏れる。
アリスは、目を見開いたまま卵を見つめた。
そして。
今度は、誰が聞いても中からだった。
「う、うそ!」
アリスが立ち上がりかけて、でもまたしゃがみ込む。
目を離したくない。
でも誰かを呼ばなきゃいけない。
でも、今この瞬間を一人で見ていたい気もする。
「だめです、呼ばないと」
卵部屋を出て、思いきり声を張った。
外で何かを運んでいたリーナの返事が、すぐ飛んでくる。
「は、はい?」
「来てください!」
「どうしました?」
「たぶんじゃなくて、たぶんなんですけど!」
「落ち着いてください!」
リーナが近づいてくる。
アリスは卵の前へ戻る。
その時、アカネがぴゅいと鳴いた。
今度はいつもの気楽な声ではない。
どこか確信のある声だった。
「やっぱり分かるんですね?」
「ぴ」
「ずるいです」
そこへリーナが飛び込んでくる。
「卵が動きました!」
「え?」
リーナが固まる。
「ほ、本当に?」
「たぶんじゃなくて、本当にです!」
「分かりました、静かに見ましょう」
「はい!」
二人で息を潜める。
卵は、しばらく静かだった。
アリスの顔が少しだけ曇りかける。
やはり気のせいだったのか、と。
でも、違うと確信している。
そして、次の瞬間に小さな音。
「い、今のですか!」
「今のです!」
リーナの顔が、ぶわっと明るくなった。
「レオ様、呼びます!」
「お願いします!」
ほどなくして、レオが外套を羽織ったまま、足早に入ってくる。
後ろにテオドール。
少し遅れてガーネット。
さらにエルマーまで来る。
「何があった」
「卵が動きました!」
「本当か」
「本当です!」
レオは卵の前へ近づきながら、アリスの顔を見る。
興奮している。
だが、浮ついてはいない。
本当に何かを見た顔だ。
「どんな感じだった」
「最初は、内側から少しだけ」
「分かった」
部屋が静かになる。
火の魔石の熱と雪の日の薄い光。
その中で、全員が卵を見つめた。
そして…また小さな音。
エルマーが息を呑む。
「おい…」
「聞こえましたね」
とテオドール。
さらに、少し間を置いて。
殻の表面が、ほんのわずかに内側から押されたように見えた。
「いた」
アリスが、さっきと同じ言葉を小さく言う。
「生きてます、この子生きてます」
アリスは、そこでようやく少し笑った。
泣きそうな顔で、でも嬉しそうに。
「よかった」
「そうだな」
レオも、少しだけ口元を緩めた。
知らせは、すぐに広がった。
もちろん大騒ぎにはしない。
だが、館の中、湯場、炊事場、鍛冶場へはあっという間に伝わる。
「本当に動いたのかい」
「動いたらしい」
イルゼも、薬箱を抱えたまま卵部屋へ来た。
「まだ割れそうではない?」
「そこまでは」
ガーネットが答える。
「でも、中はかなりしっかりしてきてる感じです」
「なるほどね」
そしてアリスは、ますます卵番へ入れ込むようになった。
冬の真ん中。
雪に閉ざされた村の中で、飛竜の子は確かにこちらへ近づいてきている。
それだけで、この冬はもう、ただ寒いだけの季節ではなくなっていた。
そして、冬も深まり、ついに年が明けた。
その日は珍しく雪がなかった。
空は薄く曇ってはいたが、風は弱い。
刺すような寒さは相変わらずでも、今日は少しだけましだと誰もが思える程度には穏やかだった。
だから、レオは決めた。
領主館の大広間を開放して、新年の宴を開くと。
宴といっても、帝都のそれとは違う。
あるのは、冬にしては少しばかり上等な飯と酒。
それだけだ。
新しい年を迎えた。
生き延びることができた。
そして今の村には、冬の真ん中でこうして宴を張れるくらいの余裕がある。
それを祝う。
それだけで、この宴には十分な意味があった。
昼のうちから、大広間は少しずつ賑やかになっていった。
長机が並べられ、板を渡して即席の台が作られ、皿と木杯が置かれていく。
ガーネットは最初こそ、館の中で油断しすぎないようにと厳しい顔をしていたが、さすがに今日は完全には止めなかった。
その代わり、リーナとサラへきっちり指示を出す。
料理も、この季節にしては十分に宴だった。
鹿肉の煮込み。
塩漬け肉を使った温かい汁。
焼きたてのパン。
芋を潰して焼いたもの。
カブやキャベツの煮合わせ。
そして、卵を使った少し贅沢な料理まである。
酒も出る。
量は多くないが、ちゃんとある。
久しぶりに樽が開けられる音に、男衆の目が露骨に光った。
「今年も生きてりゃ酒が飲める」
「名言っぽく言うな」
「でも間違ってないだろ」
「まあな」
「冬に宴で酒が出るとか、去年までじゃ考えられん」
「それは本当にそうだな」
日が落ちるころには、大広間はもう人で満ちていた。
男同士で杯を回し、女たちは料理を持ち寄って並べ、子供たちは最初こそ大人しくしていたが、すぐに落ち着きを失う。
アリスは卵部屋を一度確認してから広間へ戻り、そのまま子供たちの相手へ引っ張られ、さらにマルタに皿運びも頼まれ、完全に大忙しだった。
その姿に、レオは少し笑う。
卵番であり、子供番であり、宴の雑用係でもある。
妙に収まりがいいのが、またアリスらしかった。
宴の最初に、レオは一度だけ前へ出た。
広間が少し静かになる。
別に気の利いた演説をするつもりはない。
帝都の貴族みたいな、飾り立てた言葉もいらない。
だから、短く言った。
「新しい年だ」
「とりあえず、ここまで全員よく生き延びた」
「去年までの村なら、冬の真ん中にこうして集まる余裕もなかったと思う」
「家があり、飯があり、湯があり、酒も少しある」
「だから今日は食え」
「飲みすぎるな」
どこかで笑いが起きる。
「でも、少しは飲め」
「新しい年を祝おう」
「おおっ!」
その返事は、思っていたよりずっと大きかった。
村人たちの顔には、本当に安堵があった。
冬の中で祝えることへの安堵だ。
そしてレオは、そうした広間の空気を見ながらも、時々ふっと別のことを考えていた。
ハルトの言った悪い話。
春から来るかもしれない人波。
帝都の火種、本家の動き。
そして、飛竜の卵。
宴の明かりの向こうに、そういうものがちらつく。
笑い声がある。
酒もある。
でも、その次の季節には、また別の面倒がきっと来る。
「また考えてる」
と不意に横から声がした。
見ると、いつの間にかアリスがそこにいた。
手に皿を持ったまま、少しだけ眉を寄せている。
「顔に出てたか」
「ちょっとだけです」
「ちょっとか」
「半分くらいは」
「便利だな、その数字」
「嫌いじゃないでしょう?」
「そうかもな」
アリスは少しだけ笑う。
「今日は、少しくらい忘れてもいい日です」
「全部なくなるわけじゃないですけど」
「でも、今日くらいは」
レオは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「卵番のくせに、たまに生意気だな」
「たまにじゃなくて、わりといつもです」
「それは知ってる」
「ならよかったです」
アリスはそう言って、またすぐ仕事へ戻っていった。
忙しい。
でも、どこか嬉しそうだ。
その背中を見ながら、レオは少しだけ肩の力を抜いた。
視線が、自然とそちらを追っていた。
子供に捕まり、皿を運び、マルタに呼ばれ、それでも合間に卵部屋の方を気にしている。
本当に、忙しなくて。
本当に、目が離せない。
自分があいつを見ているのは、危なっかしいからだと、前ならそれで済ませていた。
けれど、今はそれだけでは説明しきれない気がする。
笑っていれば、少し安心する。
無茶をすれば、腹が立つ。
疲れていそうだと気になる。
今みたいに、ふとした顔でこちらを見透かしたようなことを言われると、妙に胸に残る。
面倒な女だな、とレオは思う。
でも、その面倒さが嫌ではない自分にも気づいていた。
新年の宴は、派手ではなかった。
だが、温かかった。
酒が回り、笑い声が増え、子供たちは途中で眠くなり始める。
アカネたちまで、広間の端で丸くなって目を細めていた。
冬の真ん中、雪の季節。
それでも、この村は今、ちゃんと新しい年を迎えている。
その事実が、何より大きかった。
レオは木杯を手に、もう一度だけ広間を見渡した。
ここまで来た。
まだ途中だ。
だが、確かにここまで来た。
なら、次も越えられる。
本家の理屈も。
飛竜の卵の先にある未来も。
そう思えるくらいには、村は強くなっていた。
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